「紗良の代わりに、お前が行け」紗月(さつき)は筆を持ったまま、父を見た。離れの戸を開けて入ってきた神崎宗一郎は、昼間の結婚式と同じスーツ姿だった。胸に挿していた花だけが、なくなっている。「どこへですか」「黒瀬怜司の部屋だ」筆先から、墨が一滴落ちた。とっさに手を伸ばしたものの、古書の縁にはもう黒い染みが広がっていた。3日かけて貼り合わせた紙へ、じわじわと墨が染み込んでいく。「紗良が逃げた。あの男と一緒にな」今日、式を挙げたばかりの花嫁が。その日の夜に、別の男と逃げたという。紗月は筆を置き、手についた墨を拭った。ハンカチを2度折り畳んでから、ようやく口を開いた。「式まで挙げたんですよね」「だからお前が行くんだ。新郎は急用で先に出て、紗良は疲れたから実家で休んでいるとごまかした。夜には送り届けると言ってある」机にスマートフォンが投げ出された。神崎紗良(かんざき・さら)が残したメッセージが表示されている。【パパ、やっぱり無理。あの人の目を見て暮らすなんて、できない。何日かは捜さないで】その下には、宗一郎が送りつけた罵りの言葉と不在着信が並んでいた。紗月は画面を見つめた。謝罪の言葉は、どこにもなかった。「連れ戻してください。まだ遠くには行っていないでしょう」「横浜港のほうへ逃げた。宝飾品まで根こそぎ持ってな」「だったら黒瀬さんに説明しないと」「説明して納得するような男に、俺が娘を嫁がせたと思うか?」宗一郎が机を叩いた。水を張った器が揺れ、紗月は紙にかかる前にそれを移した。父はその手を不満げに見下ろした。「こんなときまで、そんな紙切れが大事か」「人からお預かりした物です。明日お返ししないといけません」「明日にはうちの会社が潰れるかもしれんのだぞ!」神崎流通が倒産寸前なのは、紗月も知っていた。何日も前から正門の前に見慣れない車が停まり、厨房には仕入れ代金の支払いを催促する電話が絶えなかった。そのたびに宗一郎が口にするのは、同じ名前だった。煌和(こうわ)キャピタルの黒瀬怜司(くろせ・れいじ)。金を貸す条件よりも、その取り立て方で名を知られる男だ。宗一郎は彼に会社の株と娘との縁談をまとめて差し出した。その娘とは、いつものように紗良のことだった。紗月に伝えられたのは、結婚式には来るなという言葉だけ。「今夜さえ乗り切ればいい。紗良が戻る
Última actualización : 2026-10-09 Leer más