تسجيل الدخول紗月は指を握り込んだ。
「昨日の化粧がついたのかもしれません」
怜司の視線が、爪の先から指の脇へ移った。
「これは?」
「たこです」
「それがわからなくて聞いてるわけじゃない」
紗月はガウンの袖を引いた。手を引こうとすると、彼は放してくれた。けれど、もう遅い。見られたくないものは、すべて見られていた。
「ずいぶん手を使うらしいな」
「手を使わずに暮らせる人なんて、いますか」
怜司がヘッドボードにもたれた。寝起きの顔で笑われると、かえって落ち着かない。昨夜、近くで触れ合った。それだけで疑われなくなるとは思っていなかった。それでも――朝がこんなに早く来るなんて。
インターホンが鳴った。
「社長、神崎流通の神崎会長がお電話をお待ちです。2度目のご連絡になります」
「つないでください」
紗月が振り返ると、怜司が電話を取った。紗月にも聞こえるよう、スピーカーに切り替えた。
「おはようございます、神崎会長」
父の声は、一晩中娘を心配していたかのように切迫していた。
「昨夜は何事もございませんでしたか。紗良はまだまだ子どもでして、ご機嫌を損ねるようなことをしていなければいいのですが……」
「不愉快なことは何もありませんでした」
紗月はソファに置いたバッグを持ち上げた。今すぐにでも浴室に入りたかった。だが、父が何を言うのか聞かずに立ち去ることもできなかった。
「では、お約束いただいた融資も本日中に――」
「会社のお話は、担当者を通してお願いします」
「ああ、ええ。もちろんです。ご様子を伺おうと思って、お電話しただけですので」
怜司は紗月の手を一度見てから尋ねた。
「お嬢さんは最近、何か習っているんですか」
短い沈黙があった。
「習う、と申しますと?」
「手にたこがあったもので」
紗月はバッグの持ち手を握りしめた。父は毎日のように修復室へ入ってきていたのに、自分がどちらの手で筆を持つのかさえ知らなさそうだった。
「ああ、ゴルフです。最近ずいぶん熱心でして。夢中になると、朝も夜もお構いなしな娘ですから」
怜司はすぐには答えなかった。紗月の耳に、ますます明るくなる父の声が届いた。
「社長とご一緒したいと、レッスンまで受けたんですよ。よく思われたい一心で、それはもう――」
「ええ、よくわかりました」
怜司は話を遮り、電話を切った。紗月は背後の浴室のドアに手を当てた。
「ゴルフか」
彼が低くつぶやいた。
「ずいぶん励んだらしいな」
「父は、もともと大げさに言う人なので」
「じゃあ、うまくはない?」
紗月は向き直った。嘘を重ねれば、それだけ聞かれることが増える。父は適当な言葉で切り抜ければいい。あとに残って、つじつまを合わせるのは自分なのだ。
「できません」
「レッスンまで受けたのに」
「教える人が、全員教え上手とは限りませんから」
今度は、怜司も笑わなかった。紗月の手からも視線を外した。
「次は、自分で答えろ」
「え?」
「隣で全部聞いていただろう。神崎会長が違うことを言ったら、違うと言っていい」
紗月はドアノブを見下ろした。父の話を遮るのは、この人にとってはそんなに簡単なことらしい。
「家では、そうすると余計に面倒になったんです」
思ったよりも正直な言葉が出た。怜司がベッドから立ち上がった。紗月が身を引くと、彼は近づく代わりにバッグの脇の電話を指した。
「ここは、その家じゃない」
紗月は何も言わず、浴室に入った。
冷たい水で手を洗い、鏡を見た。化粧で覆っていた頬は、まだ腫れていた。手の甲を当ててみると、昨日ほど熱くはなかった。バッグから妹の化粧品を取り出しかけて、底に押し込まれた母の匂い袋を見つけた。
布を一度指で押してから、戻した。見知らぬ浴室に香りが残りそうで、長く出してはおけなかった。
出ていくと、怜司はシャツのボタンを留めていた。紗月は首の後ろの紐を整えかけて、手を止めた。昨日塗ったコンシーラーを洗い流してしまったことに、そこで気づいた。
彼が先に口を開いた。
「首の後ろ」
紗月は髪を下ろした。
「何ですか」
「痛む?」
「いいえ。もともとあるものです」
生まれつきの赤いあざだった。傷でも、落とせる化粧でもない。答えてからようやく、妹の首の後ろには何もないと思い出した。
怜司がもう一度、そこを見た。
「昼は見えなかったけど」
「式場では、花嫁の首の後ろばかり見ていたんですか」
「宝石がずいぶん重そうだったから」
紗月は妹がどんなネックレスをしていたのか知らなかった。式には来るなと言われ、離れにいたのだから。怜司は襟を整える手を止め、彼女の答えを待った。
紗月は答えず、髪を前に寄せた。
彼のほうが先に視線を外した。
「朝食にしよう」
食卓には、2人分の食事が用意されていた。
紗月は怜司と向かい合って座った。スタッフがコーヒーを注ごうとしたので、手のひらでカップを覆った。
「私はお水をお願いします」
「かしこまりました、奥様」
奥様。
その呼び方に、手がこわばった。母屋で話しかけてくる者は、名前さえ呼ばないことが多かったのに。ここでは初めて会う人まで、揃って頭を下げる。
怜司がパンの皿を寄せた。
「食べないの?」
「食べます」
最初の一口を口に運ぶ前に、相馬が予定表を持って入ってきた。紗月は反射的に椅子を引いた。実家では、会社の人が来たら席を外すのが当然だった。
「どこへ?」
怜司が尋ねた。
「お仕事でしょう」
「先に食べて」
彼は相馬のほうへ顔を向けた。
「急ぎですか」
「ご本家のご予定の確認です。正午の昼食会は、予定どおりとのことです」
紗月のスプーンが止まった。昨夜、父が説明した計画には、朝以降の予定などなかった。
「今日もですか」
2人の視線がこちらへ向いた。紗月はスプーンを置き、慌てて言い直した。
「昨日、式のあとにご挨拶したばかりなのに」
怜司が少しの間、彼女を見た。
「長居はしない」
相馬が続けた。
「お召し物は、まもなく届きます。サイズの合わない物がありましたら、すぐ交換いたします」
空のカップを下げていたスタッフが尋ねた。
「コーヒーは、いつもどおり濃いめにいたしましょうか」
紗月は答えられなかった。この人が、自分の普段の好みを知っているはずがない。
スタッフの持つメモの上部に、神崎紗良と書かれていた。父の側から送られた生活習慣の一覧だった。
怜司はそのメモを見ると、コーヒーポットの前からカップを外した。
「水をお願いしたはずですが」
「申し訳ございません」
スタッフが去ったあとも、紗月はメモのあった場所を見ていた。好きな食べ物、服のサイズ、香水。妹はいなくなったのに、残された紙1枚が、今も自分に何を食べ、何を着ろと指図している。
「違うものを食べてもいい」
怜司が言った。
「毎日、同じものが欲しいわけじゃないだろう」
紗月は水のグラスを持った。礼を言ったら、また紗良らしくなくなる気がして言えなかった。代わりにパンを半分に割り、片方を食べた。ほんの小さなことなのに、少し息がしやすくなった。
朝食のあと、ドレッシングルームに衣装ケースが届いた。明るい色のワンピースが3着と、靴、宝石箱が並ぶ。紗月はまず、首の後ろを隠せる服を選んだ。濃い化粧を重ねる代わりに、薄いスカーフを巻いた。
着替えて出ると、怜司は玄関で待っていた。
「それに決めたか」
「変ですか」
「いや」
彼の視線が靴へ落ちた。紗月は用意されていたヒールの低い靴を履いていた。
「それは合うみたいだな」
そこでようやく気づいた。怜司は昨夜から、顔ばかりを見ていたのではない。痛みを隠そうと、靴の中でもぞもぞ動かしていた足先まで、見ていたのだ。
そんな人が、首の後ろのあざと手のたこを、簡単に忘れるはずがなかった。
エレベーターの前で、相馬が予定表を渡してくれた。紗月の分もあった。田園調布の住所と出発時刻、帰宅予定時刻が書かれている。
「私の分もあるんですか」
「ご一緒にお出かけですので」
紗月は紙をきちんと折り、バッグに入れた。どこへ行き、いつ戻るのか。先に知っているだけで、少し気持ちが落ち着いた。
怜司が開いた扉を押さえた。
「聞きたいことは聞けばいい。そんな顔をしていないで」
紗月は一拍遅れて口を開いた。
「美沙子様には……何をいちばん気をつければいいですか」
扉の脇にあった彼の手が止まった。
「どうしてそんなことを?」
昨夜までは、知っている相手のふりをすればよかった。けれど今日は、誰がどれほど自分を知っているのかさえわからない。
紗月はバッグのストラップを持ち直した。
「気に入っていただける自信はないので。せめて、余計な失敗はしないようにと」
怜司は答える代わりに、エレベーターに入った。扉が閉まり、階数表示が下がり始めてから言った。
「知らない話が出たら、俺を見ろ」
「黒瀬さんを見たら、答えがわかるんですか」
「少なくとも、誰に聞けばいいかはわかるだろう」
紗月はうなずいた。信じていいのか考えているうちに、エレベーターは地下に着いた。
* * *
田園調布の屋敷のダイニングには、すでに人が集まっていた。
紗月は怜司の隣で歩調を合わせた。真っ先に目に入ったのは、テーブルの席札だった。神崎紗良。深い墨色で書かれている。
上座近くの女がティーカップを置いた。写真で見た、美沙子夫人だ。口元には笑みがある。けれどその目は、紗月の襟元からなかなか離れなかった。
「昨日はネックレスを自慢していたのに、今日はずいぶん隠してきたのね」
紗月は、スカーフの結び目に触れそうになる手をこらえた。
「首元が少し寒くて」
「花嫁さん、すっかりおとなしくなったこと」
美沙子夫人が脇の執事に合図した。紗月の席の前に、小さなクリスタルのグラスが置かれた。
「それなら、まず体を温めてもらわないと」
強い酒の匂いがテーブルに広がった。紗月はグラスを取らず、怜司を見た。
ガラまであと3日となった午後、紗月は藤堂に送った比較写真を開き直した。最初の疑問を送ってから、2週間が経っていた。出品者は補修前後の違いにすぎないと答えたが、それを説明する作業記録は、まだ揃っていない。保証書の発行元が送ってきた元の写真では、むしろ別の違いまで見つかった。紗月は2枚の写真の、同じ文字の脇に印をつけた。怜司は向かいから、その場所を見た。「写真だけで、違うと言い切れる?」「だから、実物を見ないといけないんです。撮影角度のせいかもしれませんから」「なのに、なぜいつまでも返事を引き延ばす」「そこは、私にもわかりません」紗月は届いた返信を読み上げた。作品は別の場所で保管されており、会場へ搬入したあと、指定の時間にだけ確認できるという。所蔵者が決めた日程だそうだ。怜司の表情が硬くなった。「取引の前に確認するべきだろう。客を集めてから見せるなんて、順序が逆だ」「藤堂室長も、そうおっしゃっていました。確認が済むまで、落札を確定させないようにと」その夜、財団から電話があった。実物確認はガラ当日に決まり、鑑定チームの検討が終わらなければ取引を確定しないという条件がついた。紗月は確認のメールを受け取り、フォルダーに入れた。当日持っていく資料が増えた。きれいなドレスを選ぶ前に、用意すべき物だった。「発言を求められたら、どこまで話すつもり?」怜司が尋ねた。「自分が見た違いだけです。誰かが偽物を作ったとは言えません」「美沙子夫人は、それだけで舞台から下ろしてくれる人じゃない」紗月は招待状を見た。あの人は酒を一杯断っただけでも、家の礼儀の問題にすり替えた。今度どんな話を持ち出すかは、十分想像できた。「それなら、出席しないほうがいいでしょうか」「嫌なのは、君が恥をかかされることだ。出席することじゃない」怜司がファイルを閉じた。「自分の判断で話す席なら、行けばいい。神崎流通の娘役をしに行くのなら、行かなくていい」同じドレスを着て、同じ人たちの前に立つ。それなのに、役目は違うと言う。紗月は、その2つを本当に分けられるのか、すぐには答えが出なかった。彼女が黙っていると、怜司はそれ以上迫らなかった。代わりに予定表を寄せてくれた。鑑定チームの事前確認、来賓入場、オークション開始。紗月が実際にする仕事と、挨拶や来賓対応の予定は別の行に書かれていた
「修理されていますね」紗月が掛軸の下部を指した。藤堂は答えず、彼女が持つ状態調査票を見た。「では、贋作ですか」「まだ、わかりません」紗月は新たに補強された部分と、描かれた部分を分けて示した。裏に当てた紙が新しいからといって、表の文字まで偽物とは言えない。自分が手を入れた本も、以前より新しい紙を貼って返していた。「ここが直されているのは確かですが、いつ、何のために直したのかを先に知りたいです」岡田が、所蔵者の送った来歴表を差し出した。補修を行ったという記録はあった。ただ、添付写真が小さすぎた。紗月はルーペを置き、青磁のほうへ移った。口縁の小さな欠けと、底の写真を見比べた。金銅仏も、資料に印のある箇所から順に確かめた。初めて見る物を前に、自分の腕をひけらかしたくはなかった。わからないことがあると、調査票に疑問符を書いた。「金属は、私が判断できる分野ではありません。この跡が修理なのか、制作時のものなのか、見分けられません」藤堂がうなずいた。「そこは専門の担当者に意見を求めます。紗月さんは、気になる部分だけ残してください」紗月はもう一度、掛軸の前に立った。他の2点を見ている間も、2行目の筆線が気になっていた。字が下手だからではない。うまく書こうとして止まった箇所が、不思議なくらい似た場所に集中していた。彼女は同じ書き手の、別の書帖資料を頼んだ。藤堂が画面を開いてくれると、今度は座って、時間をかけて見た。比較資料では勢いよく流れる線が、この掛軸では途中でいちいち止まっている。紙のせいかもしれない。筆の状態が違ったのかもしれない。紗月は1文字で判断せず、同じような跡をさらに3か所探し、印をつけた。「ここは、手が迷ったように見えます」岡田が近づいた。「なぜ、そう思いますか」「前の画から次へ進む方向が、ここで折れています。ただ、他の字にも同じように止まった場所があるんです。もともと、こういう書き方をする方なのか、先に確かめる必要はありますが」紗月は自分の手で空中に線を描き、恥ずかしくなって下ろした。岡田は笑わず、印をつけた部分を拡大した。「筆線だけで結論は出せませんよ」「はい。なので、材料の調査記録も見たいんです。修理部分ではなく、文字の残る元の部分の」藤堂は以前の鑑定資料を取り出し直した。新しい裏打ちのために見解が割れていたが、紗月が
道具を取り戻して1週間後、紗月は初めて財団の事務所を訪ねた。受付のスタッフは、彼女を理事長室へ案内しようとした。「保存修復室の方と、お約束しています」紗月が伝えると、スタッフは来訪者名簿を見直した。「奥様がお見えになると伺っておりましたので。少々お待ちください」隣で相馬が口を挟みかけたのを、紗月は小さな手振りで止めた。受付の人が悪いわけではない。そう伝えられていたのだろう。「藤堂修一室長にご連絡いただけますか。資料を送った者だとお伝えください」紗月は胸元に抱えていた封筒を少し下げた。何日もかけて選んだ作業写真と記録が入っている。昨夜も順番を入れ替えていて、怜司に少しは寝るよう言われた。この封筒がなかったら、今は、なぜここへ来たのかさえうまく説明できなかったかもしれない。財団の建物は、宗一郎の家より明るかった。けれど廊下の案内板には知らない部署の名前が並び、職員たちは誰に言われなくても、自分の行き先へ歩いていく。紗月はその後ろ姿を追い、どのドアに入ればいいのか見ていた。ほどなく、藤堂が下りてきた。「お待たせしてすみません。こちらです」彼は相馬に別の報告をせず、紗月を作業室へ案内した。セキュリティードアを通るとき、入館証を受け取った。名前欄には、事前に伝えた神崎紗月とあった。「送っていただいたお名前で用意しました。外部への公表範囲は、まだ調整中だと伺っています」紗月はうなずいた。「必要なところには、自分で説明します」午後に迎えに来ると言い、相馬はドアの外で引き返した。その背を見送り、紗月は襟元に入館証を留める。ここから先は、初めから終わりまで、自分の口で答えなければならない。作業室には藤堂の他に、職員が2人いた。岡田主任は、紗月が送った写真を画面に表示していた。挨拶が済むと、すぐに質問が来た。「この作業で、ご自分が担当したのはどこまでですか」紗月は画面の横に立った。家で説明を練習したときには出てきた言葉が、人前では喉につかえた。「ここの裂けた部分と、下部の補強までです。上のほうは、預かったときにはすでに修理されていました」「作業前の写真には写っていませんね」「上部全体の写真は残せなかったんです。お預かりしたときから撮っていたわけではなくて」岡田のペンが止まった。紗月は言い訳を足しかけ、やめた。ない写真を、あるとは言えない。
母の写真は、そのままそこにあった。紗月は納骨堂のガラスの前に立ち、しばらく花瓶だけを見つめた。前に供えた花は、先のほうからしおれていた。新しい花を挿すため持ってきた袋が、手の中でかさりと鳴った。隣で怜司が尋ねた。「ここ?」紗月はうなずいた。父と店で別れた翌朝だった。契約名義の確認が終わるまで待つつもりでいたのに、眠っても、空になったガラスケースが浮かんでは目が覚めた。朝一番に来たいと、結局そう頼んだ。怜司は車を用意し、一緒に行っていいかと尋ねた。紗月は少し迷ってからうなずいた。父が一度も一緒に来たことのない場所だった。新しい花の包装を解く手が、何度も滑った。怜司が袋を受け取った。「これだけ持っておく」枯れかけた花を下げ、水を替える。花の向きを整えようと目を落とすと、隣で待つ男の靴が見えた。母に何から話そう。そう考えるばかりで、紗月の指は花びらから離れなかった。「お母さん、来たよ」思ったより、小さな声だった。「しばらく来られないかと思ったけど……来ちゃった」怜司は写真の前で頭を下げた。自分が誰かを長々と説明せず、娘を一生守るとも約束しなかった。彼が一歩退いてくれて、紗月はガラスに近づくことができた。写真の中で、母が笑っていた。父に逆らったせいで、この顔まで取り上げられる気がして怖かった。実際に何ができるのか調べる前から、父の言葉を信じていた。「次は、全部自分で用意して来るね。他の人に任せないで」紗月はガラスに手を当て、下ろした。振り向くと、怜司は廊下の端で空の花袋を畳んでいた。管理事務所では、事前に連絡を受けた職員が契約書の写しを用意していた。法務担当者が、既存の契約と親族関係を示す資料を併せて確認することになっている。紗月はその場で自分の名を伝え、どの連絡を誰へ送るのか、一つずつ尋ねた。これまでに変更があったかと聞くと、ないという返事だった。それだけで、椅子にもたれ込みたくなった。父なら何でもできてしまう。そう信じて、まだ起きてもいないことを1人で思い描き、消耗していたのだ。「これから私が連絡を受けるには、あと何を用意すればいいですか」職員が必要な項目に印をつけてくれた。名義の変更には確認すべき手続きが残っていたが、今できることと、待つ必要のあることが分かれた。相談が終わると、怜司が尋ねた。「先に出ていようか」紗月は
「誰として、いればいいんですか」紗月が尋ねた。怜司は彼女から目をそらさなかった。「神崎紗月として」「ドアの外へ出たら、違う名前で呼ばれます」テーブルの端の予約札には、まだ神崎紗良と書かれていた。怜司もそれを見た。一度本当の名前で呼んだだけでは、済まないことだった。「そこは整理する。書類も、人に説明することも」「それまでは、知らないふりをしろということですか」怜司はすぐに答えられなかった。紗月はその沈黙を受け、バッグを膝から下ろした。握っていると、今すぐ出ていくと言ってしまいそうだった。「黒瀬さんにも、考える時間が必要でしょう。私にも必要です」「わかった。今日ここで、全部決めろとは言わない」ドアの外から、食事を運んでもいいかとスタッフが尋ねた。怜司は少し待ってほしいと答え、紗月を見た。「食べられそう?」「食欲はありませんけど」「昨日もなかったはずだ」紗月は言い返しかけ、やめた。一日中追い立てられるように過ごし、空腹かどうかまで見失っていた。怜司は酒や刺身ではなく、温かい物から出してほしいと頼んだ。紗月が断るより先に料理を決めたが、新しく置かれた皿を無理に押しつけることはしなかった。紗月は汁物を少し飲んだ。2口目のあと、先に話し始めた。「あの夜、名前を呼ばないでほしいと言ったのも、そのためでした」怜司の手が止まった。「紗良と呼ばれたら、ずっと紗良のふりをしなくてはいけないから」「最後まで隠すつもりだった?」「どう終わらせるかなんて、考えられませんでした。父に今夜さえ乗り切ればいいと言われて……本当に、その夜のことしか考えていなかったんです」怜司は、自分の言葉を思い返しているようだった。ドアを開け、隣の部屋を使えばいいと言ってくれた。花嫁を実家へ追い返したりはしないとも。その約束の中に、神崎紗月もいるのか。あのとき、聞かなくてはいけなかった。「だまして、すみませんでした」紗月はスプーンを置き、彼を見た。「出ていかなくてもいいと言ってくださって、ほっとしたんです。それで、余計に言えなくなりました。本当のことを話したら、その言葉も取り消される気がして」「俺がそうすると思った?」「わかりません。黒瀬さんのことを、知らなかったので」怜司が背もたれに体を預けた。間違っているとは言えない答えだった。昼に初めて会う女を花嫁として
宗一郎の手が、メニューの上で止まった。「赤いあざ、ですか」「はい。首の後ろにある」怜司はそれ以上言わなかった。紗月は父の顔を見た。母が髪を結ぶたびに触れたあざだ。同じ家で24年過ごした父は、一度でもきちんと見たことがあるだろうか。宗一郎が無理に笑った。「子どもの頃の傷跡ですよ。どうにも不注意な娘でして」「どこで怪我を?」「家の庭です。田園調布に住んでいた頃ですね。5、6歳だったでしょうか。木の枝で引っかいて、私が病院にも連れていきました」話が長くなるほど、紗月の胸の内は静まっていった。記憶をたどるような表情まで、嘘だ。母ではなく、自分が病院へ連れていったという父の言葉を聞き、紗月は水のグラスをゆっくり置いた。怜司が書類を1枚開いた。「いただいた資料には、3歳から小学校入学前までアメリカにいたとあります。その間、日本へは一度も戻っていないと」宗一郎は紙を受け取らなかった。「年齢を勘違いしたようですね。成人した娘の幼い頃のことを、何もかも覚えてはいられませんから」「では、挙式当日のことを」怜司の声が低くなった。「式のあと、お嬢さんを連れてどちらへ?」「自宅です。お伝えしたでしょう。少し休ませて、夜に――」「式場から横浜へ向かった車があります。花嫁自身が手配しています。会長付きの運転手は、ご一緒に帰宅していないと言っていますが」個室の外で、皿の触れ合う音がした。すぐ近くの席から、笑い声も聞こえる。それらが一つずつ聞き取れるほど、部屋の中は静まり返っていた。宗一郎が紗月を見た。なぜ先に知らせなかった、と言いたげな目だった。怜司は宗一郎の前へ書類を押し出した。「夜、連れてこられた方は、離れで着替えたそうですね」「社長」「神崎会長。他にも娘さんがいるんですか」紗月はスカートをつかんでいた手を開いた。父が口を開く瞬間を逃さないよう、その顔をまっすぐ見た。宗一郎は水を飲みかけ、グラスを置いた。「いるにはおります。ただ、あの子は……家族に何かと心配をかける娘でして」「ここにいる方ですか」父がうつむいた。自分を否定するとき、こんな顔をするのかと紗月は思った。申し訳ないから頭を下げるのではない。今も、言い逃れるための言葉を探しているのだ。「私も、こんなことになるとは思っていませんでした。紗良がいなくなったと言ったら、この子が勝







