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3話. 消えない痕跡

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-09 11:35:12

紗月は指を握り込んだ。

「昨日の化粧がついたのかもしれません」

怜司の視線が、爪の先から指の脇へ移った。

「これは?」

「たこです」

「それがわからなくて聞いてるわけじゃない」

紗月はガウンの袖を引いた。手を引こうとすると、彼は放してくれた。けれど、もう遅い。見られたくないものは、すべて見られていた。

「ずいぶん手を使うらしいな」

「手を使わずに暮らせる人なんて、いますか」

怜司がヘッドボードにもたれた。寝起きの顔で笑われると、かえって落ち着かない。昨夜、近くで触れ合った。それだけで疑われなくなるとは思っていなかった。それでも――朝がこんなに早く来るなんて。

インターホンが鳴った。

「社長、神崎流通の神崎会長がお電話をお待ちです。2度目のご連絡になります」

「つないでください」

紗月が振り返ると、怜司が電話を取った。紗月にも聞こえるよう、スピーカーに切り替えた。

「おはようございます、神崎会長」

父の声は、一晩中娘を心配していたかのように切迫していた。

「昨夜は何事もございませんでしたか。紗良はまだまだ子どもでして、ご機嫌を損ねるようなことをしていなければいいのですが……」

「不愉快なことは何もありませんでした」

紗月はソファに置いたバッグを持ち上げた。今すぐにでも浴室に入りたかった。だが、父が何を言うのか聞かずに立ち去ることもできなかった。

「では、お約束いただいた融資も本日中に――」

「会社のお話は、担当者を通してお願いします」

「ああ、ええ。もちろんです。ご様子を伺おうと思って、お電話しただけですので」

怜司は紗月の手を一度見てから尋ねた。

「お嬢さんは最近、何か習っているんですか」

短い沈黙があった。

「習う、と申しますと?」

「手にたこがあったもので」

紗月はバッグの持ち手を握りしめた。父は毎日のように修復室へ入ってきていたのに、自分がどちらの手で筆を持つのかさえ知らなさそうだった。

「ああ、ゴルフです。最近ずいぶん熱心でして。夢中になると、朝も夜もお構いなしな娘ですから」

怜司はすぐには答えなかった。紗月の耳に、ますます明るくなる父の声が届いた。

「社長とご一緒したいと、レッスンまで受けたんですよ。よく思われたい一心で、それはもう――」

「ええ、よくわかりました」

怜司は話を遮り、電話を切った。紗月は背後の浴室のドアに手を当てた。

「ゴルフか」

彼が低くつぶやいた。

「ずいぶん励んだらしいな」

「父は、もともと大げさに言う人なので」

「じゃあ、うまくはない?」

紗月は向き直った。嘘を重ねれば、それだけ聞かれることが増える。父は適当な言葉で切り抜ければいい。あとに残って、つじつまを合わせるのは自分なのだ。

「できません」

「レッスンまで受けたのに」

「教える人が、全員教え上手とは限りませんから」

今度は、怜司も笑わなかった。紗月の手からも視線を外した。

「次は、自分で答えろ」

「え?」

「隣で全部聞いていただろう。神崎会長が違うことを言ったら、違うと言っていい」

紗月はドアノブを見下ろした。父の話を遮るのは、この人にとってはそんなに簡単なことらしい。

「家では、そうすると余計に面倒になったんです」

思ったよりも正直な言葉が出た。怜司がベッドから立ち上がった。紗月が身を引くと、彼は近づく代わりにバッグの脇の電話を指した。

「ここは、その家じゃない」

紗月は何も言わず、浴室に入った。

冷たい水で手を洗い、鏡を見た。化粧で覆っていた頬は、まだ腫れていた。手の甲を当ててみると、昨日ほど熱くはなかった。バッグから妹の化粧品を取り出しかけて、底に押し込まれた母の匂い袋を見つけた。

布を一度指で押してから、戻した。見知らぬ浴室に香りが残りそうで、長く出してはおけなかった。

出ていくと、怜司はシャツのボタンを留めていた。紗月は首の後ろの紐を整えかけて、手を止めた。昨日塗ったコンシーラーを洗い流してしまったことに、そこで気づいた。

彼が先に口を開いた。

「首の後ろ」

紗月は髪を下ろした。

「何ですか」

「痛む?」

「いいえ。もともとあるものです」

生まれつきの赤いあざだった。傷でも、落とせる化粧でもない。答えてからようやく、妹の首の後ろには何もないと思い出した。

怜司がもう一度、そこを見た。

「昼は見えなかったけど」

「式場では、花嫁の首の後ろばかり見ていたんですか」

「宝石がずいぶん重そうだったから」

紗月は妹がどんなネックレスをしていたのか知らなかった。式には来るなと言われ、離れにいたのだから。怜司は襟を整える手を止め、彼女の答えを待った。

紗月は答えず、髪を前に寄せた。

彼のほうが先に視線を外した。

「朝食にしよう」

食卓には、2人分の食事が用意されていた。

紗月は怜司と向かい合って座った。スタッフがコーヒーを注ごうとしたので、手のひらでカップを覆った。

「私はお水をお願いします」

「かしこまりました、奥様」

奥様。

その呼び方に、手がこわばった。母屋で話しかけてくる者は、名前さえ呼ばないことが多かったのに。ここでは初めて会う人まで、揃って頭を下げる。

怜司がパンの皿を寄せた。

「食べないの?」

「食べます」

最初の一口を口に運ぶ前に、相馬が予定表を持って入ってきた。紗月は反射的に椅子を引いた。実家では、会社の人が来たら席を外すのが当然だった。

「どこへ?」

怜司が尋ねた。

「お仕事でしょう」

「先に食べて」

彼は相馬のほうへ顔を向けた。

「急ぎですか」

「ご本家のご予定の確認です。正午の昼食会は、予定どおりとのことです」

紗月のスプーンが止まった。昨夜、父が説明した計画には、朝以降の予定などなかった。

「今日もですか」

2人の視線がこちらへ向いた。紗月はスプーンを置き、慌てて言い直した。

「昨日、式のあとにご挨拶したばかりなのに」

怜司が少しの間、彼女を見た。

「長居はしない」

相馬が続けた。

「お召し物は、まもなく届きます。サイズの合わない物がありましたら、すぐ交換いたします」

空のカップを下げていたスタッフが尋ねた。

「コーヒーは、いつもどおり濃いめにいたしましょうか」

紗月は答えられなかった。この人が、自分の普段の好みを知っているはずがない。

スタッフの持つメモの上部に、神崎紗良と書かれていた。父の側から送られた生活習慣の一覧だった。

怜司はそのメモを見ると、コーヒーポットの前からカップを外した。

「水をお願いしたはずですが」

「申し訳ございません」

スタッフが去ったあとも、紗月はメモのあった場所を見ていた。好きな食べ物、服のサイズ、香水。妹はいなくなったのに、残された紙1枚が、今も自分に何を食べ、何を着ろと指図している。

「違うものを食べてもいい」

怜司が言った。

「毎日、同じものが欲しいわけじゃないだろう」

紗月は水のグラスを持った。礼を言ったら、また紗良らしくなくなる気がして言えなかった。代わりにパンを半分に割り、片方を食べた。ほんの小さなことなのに、少し息がしやすくなった。

朝食のあと、ドレッシングルームに衣装ケースが届いた。明るい色のワンピースが3着と、靴、宝石箱が並ぶ。紗月はまず、首の後ろを隠せる服を選んだ。濃い化粧を重ねる代わりに、薄いスカーフを巻いた。

着替えて出ると、怜司は玄関で待っていた。

「それに決めたか」

「変ですか」

「いや」

彼の視線が靴へ落ちた。紗月は用意されていたヒールの低い靴を履いていた。

「それは合うみたいだな」

そこでようやく気づいた。怜司は昨夜から、顔ばかりを見ていたのではない。痛みを隠そうと、靴の中でもぞもぞ動かしていた足先まで、見ていたのだ。

そんな人が、首の後ろのあざと手のたこを、簡単に忘れるはずがなかった。

エレベーターの前で、相馬が予定表を渡してくれた。紗月の分もあった。田園調布の住所と出発時刻、帰宅予定時刻が書かれている。

「私の分もあるんですか」

「ご一緒にお出かけですので」

紗月は紙をきちんと折り、バッグに入れた。どこへ行き、いつ戻るのか。先に知っているだけで、少し気持ちが落ち着いた。

怜司が開いた扉を押さえた。

「聞きたいことは聞けばいい。そんな顔をしていないで」

紗月は一拍遅れて口を開いた。

「美沙子様には……何をいちばん気をつければいいですか」

扉の脇にあった彼の手が止まった。

「どうしてそんなことを?」

昨夜までは、知っている相手のふりをすればよかった。けれど今日は、誰がどれほど自分を知っているのかさえわからない。

紗月はバッグのストラップを持ち直した。

「気に入っていただける自信はないので。せめて、余計な失敗はしないようにと」

怜司は答える代わりに、エレベーターに入った。扉が閉まり、階数表示が下がり始めてから言った。

「知らない話が出たら、俺を見ろ」

「黒瀬さんを見たら、答えがわかるんですか」

「少なくとも、誰に聞けばいいかはわかるだろう」

紗月はうなずいた。信じていいのか考えているうちに、エレベーターは地下に着いた。

* * *

田園調布の屋敷のダイニングには、すでに人が集まっていた。

紗月は怜司の隣で歩調を合わせた。真っ先に目に入ったのは、テーブルの席札だった。神崎紗良。深い墨色で書かれている。

上座近くの女がティーカップを置いた。写真で見た、美沙子夫人だ。口元には笑みがある。けれどその目は、紗月の襟元からなかなか離れなかった。

「昨日はネックレスを自慢していたのに、今日はずいぶん隠してきたのね」

紗月は、スカーフの結び目に触れそうになる手をこらえた。

「首元が少し寒くて」

「花嫁さん、すっかりおとなしくなったこと」

美沙子夫人が脇の執事に合図した。紗月の席の前に、小さなクリスタルのグラスが置かれた。

「それなら、まず体を温めてもらわないと」

強い酒の匂いがテーブルに広がった。紗月はグラスを取らず、怜司を見た。

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