私が事故に遭った日は、まさに大混乱だった。
明央には何度電話をかけても、まったくつながらなかった。
夏美が病院に駆けつけたとき、私はすでに手術室へ運ばれていた。
病院から危篤を告げられたとき、夏美は座っていることすらできないほど力が抜けていた。
その声も震えていた。
「何としてでも偲を助けてください。生きてさえいてくれれば……」
医師は詳しく説明している時間もなく、できるだけ早く家族に連絡して、同意書にサインしてもらうよう彼女に告げた。
私には両親がいない。明央が唯一の身内だ。
夏美は明央に電話をかけたが、電話に出たのは汐梨だった。
事情を聞いた汐梨は「ああ」と短く声を漏らした。
「明央は会議中なの。今はたぶん、時間が取れないと思う」
夏美は何も言わず、そのまま会社へ駆けつけた。
明央は彼女を見ると、ほんの一瞬だけ黙った。
「こっちにもまだ用事がある。終わったら行く」
汐梨も夏美を止めに入った。
会社全体がこの契約のために1ヶ月以上も残業続きだったのだから、最後の最後でこれまでの努力を無駄にするわけにはいかないという。
「この契約は会社にとって、とても重要なの。
こんなときに余計な問題を起こしたら、社員全員にとって不公平だわ。
偲さんだって、社長のことを分かってくれるはずよ」
明央も反論しなかった。
「何かあったら、病院から俺に連絡してくれ。
金のことは心配しなくていい」
二人は示し合わせたように口をそろえた。
結局、病院へ行く時間はないということだ。
夏美は泣きながら会社を後にした。
私が手術室から出てきたのは、翌日のことだった。
そのまま集中治療室へ移された。
明央が病院にやって来たのは、5日目になってからだった。
書類にいくつも署名をすると、彼はそのまま立ち去ろうとした。
しかし、夏美は彼を引き止めた。
「中に入って様子を見ないの?」
集中治療室には、家族なら入ることができた。
明央は一瞬ためらった。
すると、隣にいた汐梨が小声で声をかけた。
「明央、木村社長がまだ私たちを待ってるよ」
明央は時計を確認し、それから集中治療室へ目を向けた。
「先に会社へ行って、仕事を片づけてくる。
終わったら、偲に会いに来る」
そう言い残すと、汐梨を連れて振り返ることもなく立ち去っていった。
けれど、私が一般病棟に移されるまで、彼は一度も姿を見せなかった。
夏美は一人で病院に残り、私のそばについていてくれた。
幸い、私は目を覚ました。
私は力を振り絞って周囲を見回した。広い病室には、夏美だけがいる。
夏美は泣きながら、私を慰めてくれた。
「無事でよかった。ほかのことは考えなくていいから、今は体を治すことだけ考えて」
夜になって、私は夏美が廊下に出て、隠れるように電話をかけているのを聞いた。
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「明央!いったい誰があなたの妻なのよ!」
電話の向こうから何を言われたのかは分からない。
やがて、夏美の声が少しずつ弱くなり、懇願するような響きに変わった。
「たった10分でいい。10分の時間もないの?
偲には、もうあなたしかいないのよ」
私は彼女を呼び戻したかった。明央には会いたくなかった。
けれど、声を出す力もなく、涙さえ流すことができなかった。
ようやく、私がなんとか自力で立って歩けるようになった頃、明央は病院へやって来た。
夏美は医師のところへ行っていた。
私は壁に手をつきながら、ちょうどトイレから出てきたところだった。
明央は本能的に手を伸ばし、私を支えようとした。
だが、汐梨のほうが素早かった。
「私がやるわ!明央は男だから、何かと不便でしょ」
私は眉をひそめ、彼女を避けようとした。けれど、まだ体はひどく弱っていて、反応も遅い。振りほどくこともできなかった。
汐梨は私を支え、ベッドへ戻すと、優しい口調で説明を始めた。このところ、彼女と明央はずっと海外にいたのだという。
「私も明央も、会社のことで忙しくしていて、今になってやっと帰ってきたの」
電話をかけなかったのは、私が余計なことを考えないようにするためだった。
「偲さんが事故に遭ったばかりだから、これ以上刺激しないほうがいいと思って」
今の私は、まだ体力が戻っていない。
たった数歩歩いただけで、すべての力を使い果たしてしまうほどだった。
だから、彼女の言葉に込められた挑発に構っている余裕など、まったくなかった。
私が何の反応も示さないのを見ると、汐梨はスマホを取り出した。
「私たち、いろんなところへ行ったの。景色もすごくきれいで、写真をたくさん撮ったわ。
明央がね、偲さんが元気になったら、一緒に気晴らしに旅行へ連れていくって」
写真の中では、二人が海辺に並んで立ち、夕日に照らされながら、互いに顔を見合わせて笑っていた。
暖かな黄色い光が、二人の体を包んでいる。
そこには、温もりが半分、静けさが半分あった。
景色はとても美しかった。
二人は誰が見てもお似合いに見えた。
その瞬間、私はふいに途方に暮れた。
泣けばいいのか、それとも怒ればいいのか。自分でも分からなかった。
私がずっと何の反応も示さないので、汐梨は戸惑ったようだった。
「明央、私、何か変なこと言った?」
明央は彼女の隣に立ったまま、目を伏せて私を見た。
「汐梨はただ、君の気分を少しでも良くしてあげたかっただけだ」
私は胸の奥に広がったざわめきが収まるのを待ってから、少し弱々しい声で言った。
「じゃあ、彼女は私にどんな反応をしてほしかったの?」
彼は一瞬、言葉に詰まった。
私は口元を引き上げ、薄く笑った。
「私があばずれみたいに、あなたたちに向かって怒鳴り散らすこと?
そうしたら、彼女はあなたの胸に飛び込んで、『私はただ親切心でやっただけなの』って言う。
で、あなたはそのまま彼女を抱きしめて慰めて、それから私のことを恩知らずだと責める」
その光景を想像すると、思わず笑い声が漏れた。
「ごめんなさいね。今日はあなたたちの芝居に付き合ってあげられないわ。
私、やっと一命を取り留めたばかりなの。
そんなことをする力なんて、とても残ってないから」
汐梨はそれを聞くと、すぐに涙をこぼした。そして泣きながら、誤解だと訴えた。
「偲さん、誤解しないで。今回のことで、きっとすごく怖い思いをしただろうと思って……
この写真を見たら、少しは気分が晴れるんじゃないかと思ったの。
本当に、他意はなかったのよ」
彼女は次々と涙をこぼした。
その横で、明央が優しくなだめる。
「分かってる。君のせいじゃない」
そして、今度は私に向き直った。
「偲、今回君が事故に遭ったのは、君自身があまりにもわがままだったからだ。
このことまで彼女のせいにする必要はないだろ」
わがまま。
それが、明央の私に対する評価だ。
私が妊娠したことが分かった頃、汐梨はちょうど会社に入ったばかりだった。
彼女は明央に、私には安心して妊娠生活を送ってもらうべきだと言った。
そして、私が抱えていたすべてのプロジェクトを、さりげなく引き取っていった。
私は明央のもとへ説明を求めに行った。
けれど、彼は顔すら上げなかった。
「汐梨も君のためを思ってやってるんだ。わがままを言うな」
それらのプロジェクトは、どれもすでに最終段階に入っていた。
汐梨はほとんど何もしなくても、すべての功績を簡単に手にすることができた。
その功績を足掛かりに、汐梨はあっという間に明央の右腕ともいえる存在になった。
私は苛立ちを募らせ、つわりもひどく、わずか4ヶ月で10キロも痩せた。
すると汐梨が、環境を変えれば少しは良くなるかもしれないと提案した。
山の中は静かで、療養するには一番いい場所だという。
私は何があっても嫌だと拒み、明央と激しく言い争った。
当時の明央は、ひどく苛立っていた。
「これは俺たちの子供だ。わがままを言ってる場合じゃない」
翌日、彼は自ら私を山奥にある療養施設へ送り届けた。
山には車もなく、スマホの電波も届かなかった。
妊娠している私が逃げても、遠くまで行く前に見つかってしまう。
そして最後に逃げ出したとき、私は山から転げ落ちた。腕と脛を骨折し、お腹の子まで失ってしまった。
明央が駆けつけたとき、表情はひどく険しかった。
「偲、お前はいったいいつまでわがままを続けるつもりなんだ?」
その隣で、汐梨が優しくなだめた。
「偲さんを責めないで。きっとわざとじゃないんだから」
明央は頭に血が上っていた。
「偲が君の半分でも慎重だったら、子供だって失わずに済んだだろうに」
彼の口から、私を気遣う言葉は一つもなかった。
そこにあったのは、子供を守れなかった私への責め言葉ばかりだった。
子供を失ったあと、私は仕事に戻ろうとした。
すると汐梨が私を止めた。
「今一番大切なのは、体をしっかり休めることよ。会社のことは私がやるから、心配しないで。
これも全部、偲さんのためだから」
明央も反対しなかった。
「汐梨の言うとおりにして、ゆっくり体を休めろ。今度こそ、もうわがままを言うな」
二人は私の前に立ちはだかっていた。
私の居場所を少しずつ奪い、私の意思を踏みにじり、私をまるで狂った女のように、取り乱させていった。
私は彼に尋ねた。「柳井が何を言っても、私は全部その言うことを聞かなきゃいけないの?」
明央はしばらく黙っていた。
「偲、俺と汐梨はもうとっくに過去のことだ。
俺たちはもうとっくに吹っ切れてる。君が気にしすぎなんだ。
もし俺と彼女に本当に何かあったなら、そもそも俺は君と出会っていない」
その瞬間、私はようやく分かった。
彼が一度も口にしなかった過去は、ずっと彼の心の中に残っていたのだ。
二人は高校時代の青く初々しい恋心から、大学時代の熱烈でまばゆい恋へと進んでいった。
5年間という時間の中で、最も純粋な愛情を、二人はすべて互いに捧げていた。
そんな瞬間は、時が流れたからといって薄れていくものではない。
明央自身が言ったように――もし汐梨が突然去っていなかったら、いま彼の隣に立っているのは、きっと私ではない。
それでも、私は納得できなかった。
どうして彼らが過去を弔うために、私が生贄にならなきゃいけないの?
怒りと悲しみで、全身が震えた。
それでも私は、明央にまだわずかな希望を抱いていた。
「彼女を会社から追い出して。そうしたら、私たちはもう一度、ちゃんと暮らそう。
もう二度と騒ぎ立てたりしない。私たちは、また子供を作れる」
明央は私を見つめた。その瞳には、何の揺らぎもなかった。
「彼女の仕事ぶりは誰もが認めてる。彼女を辞めさせる理由なんてない。
それに、実際、彼女のほうが君より仕事ができる」
私はその場に立ち尽くした。
そして、ゆっくりと胸の中に溜まった息を吐き出した。
「明央、あなたたちは本当にお似合いね。
あなたは欲深くて恥知らず。彼女は恥というものを知らない」
明央の表情が曇った。
「いい加減にしろ!」
その夜、私たちはこれまでで一番激しい口論を繰り広げた。
私は後先考えず、思いつくまま言葉をぶつけた。彼も負けじと言い返してきた。
互いに相手の心の一番弱いところを狙って、言葉で傷つけようとした。
そして最後には、私は彼の眉間に残る傷跡を指差して嘲笑った。
「だから、お母さんに捨てられたのね。
惨めにすがりついて、『行かないでくれ』って頼んでも、お母さんは振り返りもしなかったんでしょう?
あなたのお母さん、本当に先見の明があったのね。あなたが恩知らずで、ろくでもない人間だって、ちゃんと分かってたんだから」
明央の母親が彼のもとを去ったのは、彼が8歳のときだった。
父親はギャンブルに明け暮れていた。
母親はある深夜、家を出ていった。
当時の彼は、母親の服の裾を必死につかんでいた。
どうか残ってほしい、自分も一緒に連れていってほしいと、泣きながら懇願した。
けれど、母親は冷たく彼の手を振りほどいた。
「いずれにせよ、あなたはあの人の血を引いている。そんな賭けには出られない」
母親が去ったあとも、父親は改心することなどなかった。
明央の幼少期には、何の希望もなかった。
そんな彼が、後に汐梨と出会った。
彼は、それが自分にとっての救いだと思っていた。
だが、汐梨は明央の父親のことを知ると、迷うことなく別れを選んだ。
その頃の彼は生気を失い、まるで抜け殻のようになっていた。
そしてある日、歩道橋の上で命を絶とうとしていた彼を、私は助けた。
その後、私たちは付き合うようになった。
彼が自分の父親のことを話してくれたとき、私は彼に言った。
「私は怖くない。あの人が来たら、絶対追い返してやるわ」
明央は突然笑った。すると私を抱きしめながら、目を赤くした。
「偲は怖くない。俺も怖くない。
偲はやっぱり一番強いから」
私たちは婚姻届を出した。
だが、結婚式はなかった。祝福してくれる人もいなかった。
私の両親は高校時代に相次いで亡くなっていた。
私と彼には、お互いしかいなかった。
私たちは何もないところから一緒に事業を始め、少しずつ力をつけ、ようやく今の地位までたどり着いた。
私は、このままずっと二人で歩いていけると思っていた。
けれど、汐梨が突然戻ってきた。
彼女は何も言わなかった。それなのに、明央は彼女のためにすべてを整えてやった。
彼は言った。「彼女だって、あのときはどうしようもなかったんだ」
私が一から築き上げてきた道は、いつの間にか汐梨が踏み台にするためのものになっていた。
そして、私と明央の間にも、少しずつ亀裂が入っていった。
私も腹を立てた勢いで、離婚という言葉を口にしたことがある。
けれど明央は、いつも冷めた目で私を見るだけだった。
「君は今、頭に血が上ってるだけだ。冷静になってから、また話そう」
怒りが収まると、彼は何事もなかったかのように振る舞った。
一束の花と一本のネックレス、そして彼が自ら腕を振るった夕食だけで、この一件はあっさりと水に流された。
けれど私は、一人、幾度となく迎えた深夜に、そのたびに積もり積もった悔しさや悲しみを噛みしめていた。
そして、溜め込んできた感情が、あの夜ついに爆発した。
私は何もかもかなぐり捨てるように、思っていたことをすべて口にした。
すると、明央は突然、静かになった。
重い眼差しで、じっと私を見つめている。
しばらくして、彼は静かに言った。
「偲、俺たち、離婚しよう」
その瞬間、私は急に不安になった。
これまで、どれだけ激しく言い争っても、明央が自分から離婚を口にしたことは一度もなかった。
私が離婚届を彼の顔に叩きつけたことさえあった。
それでも彼は、ただそれを拾い上げ、ごみ箱に捨てるだけだった。
けれど今回は、彼のほうから離婚を切り出した。
私は彼の目を見ることができず、車のキーを手に取って家を出た。
外は土砂降りの雨だった。
車がスリップし、道路から外れてしまった。
次に目を覚ましたとき、私は病院にいた。
夏美が泣きながら、私が意識を失っている間に起きたことを話してくれた。
私は全身に力が入らず、頭の中までぐちゃぐちゃだった。
悲しむ余裕など、まったくなかった。
ただ、心の奥を一筋のため息がよぎった。
この結婚は、とうとう終わりを迎えた。