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2.眠れない夜の音

مؤلف: 中岡 始
last update تاريخ النشر: 2025-09-01 14:29:59

壁掛け時計の短針が、日付を跨ぐ手前で止まったように動かない。夜の空気はどこか湿っていて、窓を閉めていても、部屋の中にじわじわと雨の匂いが染み込んでくる。

照明はすでに落としてあり、間接灯だけがベッドサイドを柔らかく照らしていた。旅館特有の少し古びた木の香りが、湯上がりの身体に染みる。シーツの皺を手のひらでなぞりながら、瑛司は浅い呼吸を繰り返していた。

隣のベッドでは、美月が静かに寝息を立てている。目元に掛けたタオル地のアイマスクが、旅先での気遣いを物語っていた。彼女はどこまでも優しく、どこまでも正しい。そして、その正しさが、夜の静寂を鋭利な刃物のように感じさせるのだった。

身体を横たえてから、すでに一時間以上が経っていた。目を閉じても意識の底がざわつき、時計の音ばかりが耳につく。

スマートフォンを手に取ってみても、通知は何もない。SNSを開けば、誰かが食べたランチや、他愛ない風景が並んでいる。けれど、それをスクロールする指に力が入らない。何を見たところで、自分の輪郭が曖昧になっていくだけだ。

ゆっくりと身体を起こす。寝返りを打った拍子に、ベッドの軋む音が美月を起こさぬよう注意を払った。浴衣の帯を取り、足元に揃えていたスリッパに足を入れる。

テーブルの上に置かれた旅館の案内パンフレットに、露天風呂の使用時間が書かれていた。午前一時まで。あと四十分はある。理由はない。ただ、息が詰まりそうだった。

引き戸を静かに開け、廊下に足を踏み出す。敷き詰められた絨毯が足音を吸い込み、軋む床の音すら遠ざける。

館内は静まり返っていた。誰もいない廊下に、微かに香る檜と雨のにおい。頭上の非常灯だけが、緑がかった光を細く落としている。まるで自分が、誰かの夢の中に迷い込んでしまったようだった。

階段を降り、渡り廊下を抜けた先に、露天風呂ののれんが揺れている。風が出てきたのか、竹の柵がかすかに軋んだ。

瑛司は手ぬぐいを握りしめたまま、のれんをくぐる。男湯の札を確認し、ガラリと扉を開けた。

中は誰もいなかった。脱衣所の天井には、白熱灯が一つ灯っている。棚に畳まれたタオル、竹の籠、磨かれた床板。どこか懐かしい光景だったが、それもまた、彼の中の感情に結びつくことはなかった。

浴衣を脱ぎ、静かに畳む。鏡に映った自分の裸の上半身は、思った以上に痩せていた。胸郭が浮き出ていて、腕もどこか細い。日々のストレスや睡眠不足が、こうして身体の端々に影を落とすのだろう。

ガラス戸を開けると、冷たい夜気が肌に触れた。雨はまだ細く降り続いている。空は見えず、黒々とした雲に覆われていた。

木のデッキに敷かれた滑り止めのマットを踏みしめながら、ゆっくりと湯船へ向かう。肩まで浸かった瞬間、思わず息が漏れた。熱い湯が肌に絡みつき、緩やかに全身をほぐしていく。

雨音が、葉を打つ音と重なって響く。時折、遠くの山から風が降りてくるのか、木の葉がざわめき、湯面に細かな波が立つ。

「ひとりになりたい」なんて、口に出したことはなかった。けれど今、誰もいないこの空間が、何よりも彼の呼吸を楽にしていた。

結婚生活。仕事。両親の期待。周囲の視線。すべてが綺麗に整っていた。表面だけ見れば、何も問題はない。

けれど、その完璧さに、いつからか自分が閉じ込められているような感覚があった。

美月は望んでいる。子どもを。家庭を。そして、彼の“夫”としての役割を。

けれど、瑛司はそのどれもに、心の底から応えられていない気がしていた。夜、肌を重ねようとしても、指先が凍る。目を閉じれば、暗闇が怖くなる。彼女の体温が、どこか遠い場所のもののように感じられてならなかった。

湯に浸かりながら、瑛司は頭を後ろに預けた。濡れた髪が首筋に貼りつく。

意識が浮かび上がっては沈み、時折、雨音の向こうに人の気配を感じる。けれど、それは錯覚だった。こんな時間に風呂に来る物好きなど、自分くらいだろう。

ふと、脳裏に問いが浮かぶ。

自分は、何を求めているのか。何を、手に入れたら満たされるのか。

その問いに、明確な答えはなかった。ただ、こうして“何も語らなくていい時間”が欲しかった。誰かの期待にも、役割にも縛られず、ただ湯に揺られていられる場所。

もしかすると、自分はどこかで、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。

名も知らぬ誰かでいい。ただ、一瞬だけでも、この虚しさを覗いてくれる人が。

雨が強くなった。竹垣を叩く音が、少しずつ大きくなる。湯面に打ち付ける雫が、まるで音符のように規則的に広がっていく。

視界の端に、人影が揺れた気がした。

けれど瑛司は、すぐには顔を向けなかった。現実であっても幻であっても、今はその曖昧さに浸っていたかった。

湯に浸かる自分の指先が、白くふやけていく。雨はやまない。夜はまだ深く、何も語らないまま続いていく。

音だけが、世界を満たしていた。雨の音、風の音、時折混じる葉擦れの音。どれもが、彼を包み込み、名前のない感情をなだめていく。

抑えていたものが、少しずつ剥がれていく感覚。

それは恐ろしくもあり、どこか心地よくもあった。

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  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   51.見えない影

    午後九時過ぎ、蓮は傘をささずに駅からマンションへと歩いた。小雨は降ったり止んだりで、顔に当たる水滴の感触はむしろ気持ちよかった。生暖かい空気が肌にまとわりつき、コンクリートに反射した夜の湿気が、都会の匂いに苦味を混ぜていた。自分の足音が、濡れたアスファルトの上でやけに大きく響く。背後に人影はない。振り返るほどの不安はなかった。けれど、何かがざわつく。数秒遅れて聞こえてくるような音。あるいは、自分の心拍がズレて聞こえているだけかもしれない。マンションのエントランスに差し掛かると、オートロックの横に並ぶ郵便受

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   44.名前の呪い

    グラスの底に残った琥珀色のウイスキーが、光を吸い込みながら静かに揺れていた。カウンターの端、夜更けのバーは客足もまばらになり、さきほどまでの賑やかさが嘘のように落ち着いていた。蓮とハルカの前には、氷の溶けた水滴だけが残る。ジャズの音色も遠く、バーテンダーの動きも緩慢になるこの時間帯――灯りが柔らかく二人の表情を照らしていた。ハルカがふと、空になったグラスを指先で転がした。しばらく蓮の横顔を眺めてから、ふと、ため息交じりに尋ねる。「ねえ、蓮。…前の男、まだ引きずってんの?」

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   43.素顔の夜

    ビル街の路地に溶け込むように、その店はあった。看板も目立たず、夜の闇のなかに小さな灯りだけがにじむ。ドアを押し開けると、ベルがかすかに鳴った。中は静かで、グラスのぶつかる音や低く流れるジャズ、バーテンダーの低い声が遠くで交じり合っている。カウンターの端に蓮とハルカは並んで座った。昼の喧騒とは別世界の、緩やかにほどける空気がそこにはあった。「とりあえず、おつかれ」ハルカがジントニックを掲げる。蓮はロックグラスの水滴を親指で拭い、軽くグラスを合わせた。氷が音を立て、グラスの表面

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   40.鏡の裏側

    窓の外には、雨が降り始めていた。昼間の熱を洗い流すような細い雨脚が、時おりベランダの手すりを叩いている。部屋の中は暗いままで、天井の明かりはつけず、手元のスタンドランプだけが机の上をぼんやりと照らしていた。蓮はパソコンを開いたまま、スクリーンセーバーが淡く揺れる光景を、ただ黙って眺めていた。静けさが、壁の隅々まで沁みている。耳を澄ませば、雨の音と、部屋の奥で時折鳴る冷蔵庫の微かな唸りだけが聞こえてきた。時間の感覚はぼやけ、目の前に映る自分の指が現実なのかさえ曖昧になる。この静寂のなかで、蓮の心はど

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