LOGIN壁掛け時計の短針が、日付を跨ぐ手前で止まったように動かない。夜の空気はどこか湿っていて、窓を閉めていても、部屋の中にじわじわと雨の匂いが染み込んでくる。
照明はすでに落としてあり、間接灯だけがベッドサイドを柔らかく照らしていた。旅館特有の少し古びた木の香りが、湯上がりの身体に染みる。シーツの皺を手のひらでなぞりながら、瑛司は浅い呼吸を繰り返していた。
隣のベッドでは、美月が静かに寝息を立てている。目元に掛けたタオル地のアイマスクが、旅先での気遣いを物語っていた。彼女はどこまでも優しく、どこまでも正しい。そして、その正しさが、夜の静寂を鋭利な刃物のように感じさせるのだった。
身体を横たえてから、すでに一時間以上が経っていた。目を閉じても意識の底がざわつき、時計の音ばかりが耳につく。
スマートフォンを手に取ってみても、通知は何もない。SNSを開けば、誰かが食べたランチや、他愛ない風景が並んでいる。けれど、それをスクロールする指に力が入らない。何を見たところで、自分の輪郭が曖昧になっていくだけだ。
ゆっくりと身体を起こす。寝返りを打った拍子に、ベッドの軋む音が美月を起こさぬよう注意を払った。浴衣の帯を取り、足元に揃えていたスリッパに足を入れる。
テーブルの上に置かれた旅館の案内パンフレットに、露天風呂の使用時間が書かれていた。午前一時まで。あと四十分はある。理由はない。ただ、息が詰まりそうだった。
引き戸を静かに開け、廊下に足を踏み出す。敷き詰められた絨毯が足音を吸い込み、軋む床の音すら遠ざける。
館内は静まり返っていた。誰もいない廊下に、微かに香る檜と雨のにおい。頭上の非常灯だけが、緑がかった光を細く落としている。まるで自分が、誰かの夢の中に迷い込んでしまったようだった。
階段を降り、渡り廊下を抜けた先に、露天風呂ののれんが揺れている。風が出てきたのか、竹の柵がかすかに軋んだ。
瑛司は手ぬぐいを握りしめたまま、のれんをくぐる。男湯の札を確認し、ガラリと扉を開けた。
中は誰もいなかった。脱衣所の天井には、白熱灯が一つ灯っている。棚に畳まれたタオル、竹の籠、磨かれた床板。どこか懐かしい光景だったが、それもまた、彼の中の感情に結びつくことはなかった。
浴衣を脱ぎ、静かに畳む。鏡に映った自分の裸の上半身は、思った以上に痩せていた。胸郭が浮き出ていて、腕もどこか細い。日々のストレスや睡眠不足が、こうして身体の端々に影を落とすのだろう。
ガラス戸を開けると、冷たい夜気が肌に触れた。雨はまだ細く降り続いている。空は見えず、黒々とした雲に覆われていた。
木のデッキに敷かれた滑り止めのマットを踏みしめながら、ゆっくりと湯船へ向かう。肩まで浸かった瞬間、思わず息が漏れた。熱い湯が肌に絡みつき、緩やかに全身をほぐしていく。
雨音が、葉を打つ音と重なって響く。時折、遠くの山から風が降りてくるのか、木の葉がざわめき、湯面に細かな波が立つ。
「ひとりになりたい」なんて、口に出したことはなかった。けれど今、誰もいないこの空間が、何よりも彼の呼吸を楽にしていた。
結婚生活。仕事。両親の期待。周囲の視線。すべてが綺麗に整っていた。表面だけ見れば、何も問題はない。
けれど、その完璧さに、いつからか自分が閉じ込められているような感覚があった。
美月は望んでいる。子どもを。家庭を。そして、彼の“夫”としての役割を。
けれど、瑛司はそのどれもに、心の底から応えられていない気がしていた。夜、肌を重ねようとしても、指先が凍る。目を閉じれば、暗闇が怖くなる。彼女の体温が、どこか遠い場所のもののように感じられてならなかった。
湯に浸かりながら、瑛司は頭を後ろに預けた。濡れた髪が首筋に貼りつく。
意識が浮かび上がっては沈み、時折、雨音の向こうに人の気配を感じる。けれど、それは錯覚だった。こんな時間に風呂に来る物好きなど、自分くらいだろう。
ふと、脳裏に問いが浮かぶ。
自分は、何を求めているのか。何を、手に入れたら満たされるのか。
その問いに、明確な答えはなかった。ただ、こうして“何も語らなくていい時間”が欲しかった。誰かの期待にも、役割にも縛られず、ただ湯に揺られていられる場所。
もしかすると、自分はどこかで、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。
名も知らぬ誰かでいい。ただ、一瞬だけでも、この虚しさを覗いてくれる人が。
雨が強くなった。竹垣を叩く音が、少しずつ大きくなる。湯面に打ち付ける雫が、まるで音符のように規則的に広がっていく。
視界の端に、人影が揺れた気がした。
けれど瑛司は、すぐには顔を向けなかった。現実であっても幻であっても、今はその曖昧さに浸っていたかった。
湯に浸かる自分の指先が、白くふやけていく。雨はやまない。夜はまだ深く、何も語らないまま続いていく。
音だけが、世界を満たしていた。雨の音、風の音、時折混じる葉擦れの音。どれもが、彼を包み込み、名前のない感情をなだめていく。
抑えていたものが、少しずつ剥がれていく感覚。
それは恐ろしくもあり、どこか心地よくもあった。
都内某所、ガラス張りの高層ビルの中層階。午前十時を回ったばかりの会議室には、緊張とも期待ともつかない空気が漂っていた。壁際のモニターに映し出された資料には、来月から始動する新プロジェクトのロゴ。長方形のテーブルには五人が着席しており、そのうちの二人──瑛司と蓮──は、互いの対角線上に座っていた。形式ばった自己紹介や名刺交換がひととおり済み、企画責任者の進行に合わせて会議は粛々と進行していた。ペンの走る音、キーボードのタイピング音、スライドをめくるリモコンの微かなクリック。全員が仕事の顔をしている。もちろん、瑛司も、蓮も。けれど、ふとした瞬間。誰かの発言に応じて視線を巡らせた蓮と、資料のページをめくりながら周囲を見渡していた瑛司の目が、会議卓の上で交錯した。その一瞬だけ、時間がゆるやかに揺れる。蓮は、表情を変えないまま視線をほんの一秒だけ留めた。以前ならすぐ逸らしていた。けれど今は、少しだけ“残す”ことができる。それは主張ではなく、共有だった。静かな、だが確かな合図。瑛司もまた、無言のまま小さく頷き返した。唇は動かさず、目だけで、ひとことを伝えてくるように──「大丈夫だ」「ここでも、おまえの味方でいる」その仕草を知っているのは、きっと蓮だけだ。会議室の他のメンバーは、誰も気づいていない。でも、それでよかった。もう隠す必要はないが、見せびらかす必要もない。二人の関係は、“誰にも知られない”ことよりも、“自分たちが知っている”ことの方が重要だった。「…以上が、ビジュアル案の第一案です。全体の世界観に対して、ご意見いただければと」進行を担当するクリエイティブディレクターの声に、蓮が自然に応じた。「色味と構図は概ね問題ないと思います。ただ、ブランド側の要望としては、もう少し余白のニュアンスを大事にしたいとのことだったので──」淡々と説明する
蓮の部屋の窓辺に、午前の光が静かに差し込み始めていた。カーテン越しの光は、優しくも確かに夜が終わったことを告げている。ベッドのシーツは少し乱れ、昨夜の熱と眠気の名残がまだそこに漂っていた。蓮はキッチンでコップ一杯の水を飲み干し、深く呼吸を吐いた。背後では、瑛司が静かにシャツのボタンを留めていた。泊まったとはいえ、彼は今日も仕事へ向かう。まだ離れた場所にある日常へ。ふたりの間に、焦るような気配はなかった。代わりに、昨夜抱きしめ合ったときと同じ温度が、まだどこかに残っていた。皮膚の表面ではなく、もっと深い場所に。蓮は背中越しにその気配を感じながら、振り向かずに尋ねた。「ホテル、戻るの?」「うん。今日はちょっと資料の整理がある」「ああ、そっか」ほんの数日前までは、こうして何気なく言葉を交わすことすら、怖くて仕方がなかった。言葉の向こう側に何かが潜んでいる気がして、目を合わせるのも避けていた。だけど今は、ふとした言葉の間が、ただの“呼吸の間”に変わっている。シャツの袖を整えた瑛司が、荷物をひとまとめにして立ち上がる。蓮の部屋の玄関は、出入りするには少し窮屈な間取りだったが、今は妙に居心地がいい。ふたりが近づくには、ちょうどいい狭さだった。「行くね」瑛司がドアノブに手をかける。その声に、蓮がゆっくりと振り返った。靴を履こうとする瑛司の背中を見ながら、蓮は言葉を探した。何か、ただの「いってらっしゃい」じゃない、確かな言葉を。けれど、その先に出たのは、瑛司の方だった。「これからは」靴を履いたまま、彼は背中越しに言った。「もう、嘘はつかない。何があっても」蓮は思わず息を呑んだ。その言葉は、優しさよりも重かった。誓いのようで、赦しのようでもあった。瑛司が振り返る。目が合う。その視線に、もう逃げ場
キッチンに立つ蓮の背中に、朝の光が柔らかく差していた。床に反射した窓の形が、タイルの上でゆっくりと伸びていく。瑛司はダイニングチェアに座り、その様子を黙って見ていた。Tシャツ一枚の背中がまだ少し細く見えるのは、夜の名残がそこにあるからかもしれない。それとも、ずっと気づかないふりをしてきた、その人本来の脆さに、ようやく触れたばかりだからか。蓮が鍋に残してあったスープを小鍋に移して温め始める。コンロの火が点き、音もなく炎が灯ると、蓮はカップを二つ取り出して、ドリップの準備にかかった。「…あのさ」「ん?」「コーヒーって、ちゃんと入れようとすると案外難しいよね」「そう?」「前さ、カフェでバイトしてた時に教わったんだけど。豆の挽き方も、お湯の温度も、抽出時間も…全部で味変わるんだって」「へえ」会話はぎこちなくはないが、どこか呼吸を計るような間がある。けれど、それは昨日までのような「心を閉ざすための間」ではなかった。むしろ、自分の感情をどう差し出せばいいのか、不器用に試しているような、温度を探る沈黙だった。ドリッパーから湯を細く落としていく蓮の手元からは、コーヒーの香ばしい匂いが立ち上ってくる。ゆっくりと膨らむ粉の山。その香りに、瑛司は肩の力が抜けていくのを感じた。「…昨日の夜さ」蓮が言った。ドリップを終え、ポットの蓋を閉じながら振り返る。「なんか、夢だったんじゃないかって思った」「うん」「朝起きたらさ、たとえば…瑛司さんが、もういなかったらどうしようとか」「いるよ」瑛司の返事は短く、でもまっすぐだった。それだけで蓮の表情は、少しほどける。コーヒーをテーブルに置き、次に温めたスープと、軽く焼いたトースト、トマトを添えた簡単な朝食が並ぶ。二人で向かい合って座り、しばらくは食器の音だけが空間に響いた。フォークが皿の端
カーテンの隙間から漏れた朝の光が、シーツの皺をなぞるように伸びていた。外の空は薄く晴れていて、夜の雨の名残だけが窓の端に、水滴となって静かに残っている。ベッドの上、瑛司は仰向けになったまま天井を見つめていた。身体の右側には、寄り添うように蓮が眠っている。蓮の額にはかすかに汗が浮いていた。寝息は浅く、でもどこか子どものように無防備で、静かだった。その頬に、瑛司の右手がそっと触れる。指の腹が触れた部分だけ、呼吸の熱が残っていた。「…まだ夢を見てるみたいだな」声はほとんど呟きのようだったが、蓮のまぶたがゆっくりと震えるように動いた。光がまつ毛の影を落とし、長い睫毛の奥で瞳がこちらを探しているのがわかる。「…瑛司、さん…」その言葉がこぼれた瞬間、瑛司はかすかに目を見開いた。いつもなら名前を呼ばれることはなかった。どんなに抱き合っても、触れても、決して呼ばれることのなかった名前。「ようやく、呼んでくれたな」目を伏せながら微笑むと、蓮は反射的に顔を背けた。恥ずかしさに頬が熱を帯びるのがわかった。「…なんか、今さら言うの…照れる」「いいよ。今さらでも、すごく嬉しい」瑛司の声には、にじむような安心があった。言葉ではなく、空気と目線と触れた指の熱が、ふたりのあいだをそっと満たしていく。蓮はゆっくりと体を起こしかけたが、瑛司の肩に顔をうずめるようにして、また横になる。その仕草があまりに自然で、まるで最初からそうしてきたかのように思えた。「…ねえ」「ん?」「昨日の夜…っていうか、明け方の、あれ…」蓮はそこで言葉を止めた。明確に名をつけるには、まだ少し恥ずかしさが勝っていた。でも瑛司は、その続きを待たずに答えた。「大丈夫。全部、大事だった」「…うん」「蓮が、蓮のままでいてくれたこ
蓮の指先が、そっと瑛司のシャツの胸元に触れた。ほんのわずかな接触。だが、その震えはあまりにもはっきりと伝わってきて、瑛司はそれ以上、何も動かずにいた。静寂のなか、時の流れだけが部屋を満たしている。蓮の目は赤く滲んでいた。さっきまであれほどこらえていた涙が、もうこぼれかけている。それでも、自分の意思で手を伸ばした。誰に強いられたのでもない、誰かを喜ばせるためでもない、自分から…瑛司に触れた。「……瑛司さん」かすれた声が、静けさのなかで震えた。瑛司の瞳が、そっと細められる。呼ばれただけだった。それでも、蓮にとってはそれが全てだった。今までどれほどその名前を呼ぶのを怖がっていたか、どれほどその一言に自分の心を縛られていたか。それを口にしてしまった今、逃げ場はもうなかった。蓮は胸元を掴んでいた指に少しだけ力を込め、そのまま瑛司の胸に額を預けた。「俺……もう、どうしていいか、わからないんだ」涙が瑛司のシャツに染みる。けれど、瑛司は何も言わず、ただその背に腕を回した。ゆっくりと、ふたりの身体が近づいていく。瑛司は蓮の頬に手を添え、指先で涙をなぞった。蓮の瞳が、わずかに潤んだままこちらを見上げる。「やめたいなら、やめる。何も、無理はしない」「……違う」蓮は首を横に振った。「違うんだ、やめたいんじゃない。怖いけど……それでも、今は、ちゃんと触れたい」その一言に、瑛司の心がじんと熱くなった。蓮の唇が、瑛司の唇にそっと重なる。それは、儀式のようなキスだった。欲望のためではなく、確認のような、赦しのようなキス。何度も、何度も、短く唇を重ねるたびに、ふたりの間にあった壁が崩れていく。蓮が瑛司のシャツのボタンを一つずつ外していく。焦りも急き立てもない。シャツが脱がされる
雨の匂いが、まだ部屋のどこかに残っていた。外はもう止んでいたはずなのに、窓ガラスにはまだ水滴がひとつ、またひとつと這うように残っている。蓮はそれを見つめたまま、背中をソファに預けていた。部屋の空気は重たかった。沈黙が二人を包んでいる。だが、それはもう恐怖のせいではなかった。少し前までなら、この静けさは喉を締めつけるように苦しく、逃げ出したくなるようなものだった。それが今は…ただ、深く沈むような静けさに変わっていた。瑛司は蓮の横に座っていた。言葉はないが、その距離が、今の蓮にはちょうどよかった。近すぎず、遠すぎず、逃げ場を与えながらも、確かに“ここにいる”と伝えてくる。やがて、蓮がぽつりと口を開いた。「…好きって、言うのが怖かったんだ」瑛司は顔を動かさずに、わずかに視線だけを向けた。「言ったら、壊れる気がしてさ。全部。あの人のときみたいに」蓮の声は落ち着いていた。感情に溺れているわけではなく、ようやく自分の言葉を紡げる場所にたどり着いたかのようだった。「俺さ、いつも“好きになるほう”だったんだ。好きになって、尽くして、傷つけられて、それでも縋って…ほんと、バカみたいだよな」乾いた笑いが短くこぼれた。だが、すぐにその笑いは消えた。「もう誰も信じたくなかった。信じたら、また…」言葉が途切れた。代わりに、肩がわずかに震える。瑛司は黙っていた。その沈黙が、蓮を否定しない。「でもさ、おまえだけは…なんか、違った」小さな声だった。「違ってほしかった」それが、蓮の本音だった。どんなに身体だけだと思い込もうとしても、心が先に奪われていた。そんな自分が情けなくて、でも、どうしようもなかった。「…壊れるのが怖いなら、俺が一緒に壊れてやる」瑛司の声は、低く、真っ直ぐだった。蓮は、はっとして顔を向けた。「え…?」