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60.コーヒーと日常

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-09-29 14:55:55

キッチンに立つ蓮の背中に、朝の光が柔らかく差していた。

床に反射した窓の形が、タイルの上でゆっくりと伸びていく。

瑛司はダイニングチェアに座り、その様子を黙って見ていた。

Tシャツ一枚の背中がまだ少し細く見えるのは、夜の名残がそこにあるからかもしれない。

それとも、ずっと気づかないふりをしてきた、その人本来の脆さに、ようやく触れたばかりだからか。

蓮が鍋に残してあったスープを小鍋に移して温め始める。

コンロの火が点き、音もなく炎が灯ると、蓮はカップを二つ取り出して、ドリップの準備にかかった。

「…あのさ」

「ん?」

「コーヒーって、ちゃんと入れようとすると案外難しいよね」

「そう?」

「前さ、カフェでバイトしてた時に教わったんだけど。豆の挽き方も、お湯の温度も、抽出時間も…全部で味変わるんだって」

「へえ」

会話はぎこちなくはないが、どこか呼吸を計るような間がある。

けれど、それ
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  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   62.再び、仕事の顔

    都内某所、ガラス張りの高層ビルの中層階。午前十時を回ったばかりの会議室には、緊張とも期待ともつかない空気が漂っていた。壁際のモニターに映し出された資料には、来月から始動する新プロジェクトのロゴ。長方形のテーブルには五人が着席しており、そのうちの二人──瑛司と蓮──は、互いの対角線上に座っていた。形式ばった自己紹介や名刺交換がひととおり済み、企画責任者の進行に合わせて会議は粛々と進行していた。ペンの走る音、キーボードのタイピング音、スライドをめくるリモコンの微かなクリック。全員が仕事の顔をしている。もちろん、瑛司も、蓮も。けれど、ふとした瞬間。誰かの発言に応じて視線を巡らせた蓮と、資料のページをめくりながら周囲を見渡していた瑛司の目が、会議卓の上で交錯した。その一瞬だけ、時間がゆるやかに揺れる。蓮は、表情を変えないまま視線をほんの一秒だけ留めた。以前ならすぐ逸らしていた。けれど今は、少しだけ“残す”ことができる。それは主張ではなく、共有だった。静かな、だが確かな合図。瑛司もまた、無言のまま小さく頷き返した。唇は動かさず、目だけで、ひとことを伝えてくるように──「大丈夫だ」「ここでも、おまえの味方でいる」その仕草を知っているのは、きっと蓮だけだ。会議室の他のメンバーは、誰も気づいていない。でも、それでよかった。もう隠す必要はないが、見せびらかす必要もない。二人の関係は、“誰にも知られない”ことよりも、“自分たちが知っている”ことの方が重要だった。「…以上が、ビジュアル案の第一案です。全体の世界観に対して、ご意見いただければと」進行を担当するクリエイティブディレクターの声に、蓮が自然に応じた。「色味と構図は概ね問題ないと思います。ただ、ブランド側の要望としては、もう少し余白のニュアンスを大事にしたいとのことだったので──」淡々と説明する

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   61.もう隠さない

    蓮の部屋の窓辺に、午前の光が静かに差し込み始めていた。カーテン越しの光は、優しくも確かに夜が終わったことを告げている。ベッドのシーツは少し乱れ、昨夜の熱と眠気の名残がまだそこに漂っていた。蓮はキッチンでコップ一杯の水を飲み干し、深く呼吸を吐いた。背後では、瑛司が静かにシャツのボタンを留めていた。泊まったとはいえ、彼は今日も仕事へ向かう。まだ離れた場所にある日常へ。ふたりの間に、焦るような気配はなかった。代わりに、昨夜抱きしめ合ったときと同じ温度が、まだどこかに残っていた。皮膚の表面ではなく、もっと深い場所に。蓮は背中越しにその気配を感じながら、振り向かずに尋ねた。「ホテル、戻るの?」「うん。今日はちょっと資料の整理がある」「ああ、そっか」ほんの数日前までは、こうして何気なく言葉を交わすことすら、怖くて仕方がなかった。言葉の向こう側に何かが潜んでいる気がして、目を合わせるのも避けていた。だけど今は、ふとした言葉の間が、ただの“呼吸の間”に変わっている。シャツの袖を整えた瑛司が、荷物をひとまとめにして立ち上がる。蓮の部屋の玄関は、出入りするには少し窮屈な間取りだったが、今は妙に居心地がいい。ふたりが近づくには、ちょうどいい狭さだった。「行くね」瑛司がドアノブに手をかける。その声に、蓮がゆっくりと振り返った。靴を履こうとする瑛司の背中を見ながら、蓮は言葉を探した。何か、ただの「いってらっしゃい」じゃない、確かな言葉を。けれど、その先に出たのは、瑛司の方だった。「これからは」靴を履いたまま、彼は背中越しに言った。「もう、嘘はつかない。何があっても」蓮は思わず息を呑んだ。その言葉は、優しさよりも重かった。誓いのようで、赦しのようでもあった。瑛司が振り返る。目が合う。その視線に、もう逃げ場

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   60.コーヒーと日常

    キッチンに立つ蓮の背中に、朝の光が柔らかく差していた。床に反射した窓の形が、タイルの上でゆっくりと伸びていく。瑛司はダイニングチェアに座り、その様子を黙って見ていた。Tシャツ一枚の背中がまだ少し細く見えるのは、夜の名残がそこにあるからかもしれない。それとも、ずっと気づかないふりをしてきた、その人本来の脆さに、ようやく触れたばかりだからか。蓮が鍋に残してあったスープを小鍋に移して温め始める。コンロの火が点き、音もなく炎が灯ると、蓮はカップを二つ取り出して、ドリップの準備にかかった。「…あのさ」「ん?」「コーヒーって、ちゃんと入れようとすると案外難しいよね」「そう?」「前さ、カフェでバイトしてた時に教わったんだけど。豆の挽き方も、お湯の温度も、抽出時間も…全部で味変わるんだって」「へえ」会話はぎこちなくはないが、どこか呼吸を計るような間がある。けれど、それは昨日までのような「心を閉ざすための間」ではなかった。むしろ、自分の感情をどう差し出せばいいのか、不器用に試しているような、温度を探る沈黙だった。ドリッパーから湯を細く落としていく蓮の手元からは、コーヒーの香ばしい匂いが立ち上ってくる。ゆっくりと膨らむ粉の山。その香りに、瑛司は肩の力が抜けていくのを感じた。「…昨日の夜さ」蓮が言った。ドリップを終え、ポットの蓋を閉じながら振り返る。「なんか、夢だったんじゃないかって思った」「うん」「朝起きたらさ、たとえば…瑛司さんが、もういなかったらどうしようとか」「いるよ」瑛司の返事は短く、でもまっすぐだった。それだけで蓮の表情は、少しほどける。コーヒーをテーブルに置き、次に温めたスープと、軽く焼いたトースト、トマトを添えた簡単な朝食が並ぶ。二人で向かい合って座り、しばらくは食器の音だけが空間に響いた。フォークが皿の端

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   59.朝、光の中で

    カーテンの隙間から漏れた朝の光が、シーツの皺をなぞるように伸びていた。外の空は薄く晴れていて、夜の雨の名残だけが窓の端に、水滴となって静かに残っている。ベッドの上、瑛司は仰向けになったまま天井を見つめていた。身体の右側には、寄り添うように蓮が眠っている。蓮の額にはかすかに汗が浮いていた。寝息は浅く、でもどこか子どものように無防備で、静かだった。その頬に、瑛司の右手がそっと触れる。指の腹が触れた部分だけ、呼吸の熱が残っていた。「…まだ夢を見てるみたいだな」声はほとんど呟きのようだったが、蓮のまぶたがゆっくりと震えるように動いた。光がまつ毛の影を落とし、長い睫毛の奥で瞳がこちらを探しているのがわかる。「…瑛司、さん…」その言葉がこぼれた瞬間、瑛司はかすかに目を見開いた。いつもなら名前を呼ばれることはなかった。どんなに抱き合っても、触れても、決して呼ばれることのなかった名前。「ようやく、呼んでくれたな」目を伏せながら微笑むと、蓮は反射的に顔を背けた。恥ずかしさに頬が熱を帯びるのがわかった。「…なんか、今さら言うの…照れる」「いいよ。今さらでも、すごく嬉しい」瑛司の声には、にじむような安心があった。言葉ではなく、空気と目線と触れた指の熱が、ふたりのあいだをそっと満たしていく。蓮はゆっくりと体を起こしかけたが、瑛司の肩に顔をうずめるようにして、また横になる。その仕草があまりに自然で、まるで最初からそうしてきたかのように思えた。「…ねえ」「ん?」「昨日の夜…っていうか、明け方の、あれ…」蓮はそこで言葉を止めた。明確に名をつけるには、まだ少し恥ずかしさが勝っていた。でも瑛司は、その続きを待たずに答えた。「大丈夫。全部、大事だった」「…うん」「蓮が、蓮のままでいてくれたこ

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   58.再生の夜

    蓮の指先が、そっと瑛司のシャツの胸元に触れた。ほんのわずかな接触。だが、その震えはあまりにもはっきりと伝わってきて、瑛司はそれ以上、何も動かずにいた。静寂のなか、時の流れだけが部屋を満たしている。蓮の目は赤く滲んでいた。さっきまであれほどこらえていた涙が、もうこぼれかけている。それでも、自分の意思で手を伸ばした。誰に強いられたのでもない、誰かを喜ばせるためでもない、自分から…瑛司に触れた。「……瑛司さん」かすれた声が、静けさのなかで震えた。瑛司の瞳が、そっと細められる。呼ばれただけだった。それでも、蓮にとってはそれが全てだった。今までどれほどその名前を呼ぶのを怖がっていたか、どれほどその一言に自分の心を縛られていたか。それを口にしてしまった今、逃げ場はもうなかった。蓮は胸元を掴んでいた指に少しだけ力を込め、そのまま瑛司の胸に額を預けた。「俺……もう、どうしていいか、わからないんだ」涙が瑛司のシャツに染みる。けれど、瑛司は何も言わず、ただその背に腕を回した。ゆっくりと、ふたりの身体が近づいていく。瑛司は蓮の頬に手を添え、指先で涙をなぞった。蓮の瞳が、わずかに潤んだままこちらを見上げる。「やめたいなら、やめる。何も、無理はしない」「……違う」蓮は首を横に振った。「違うんだ、やめたいんじゃない。怖いけど……それでも、今は、ちゃんと触れたい」その一言に、瑛司の心がじんと熱くなった。蓮の唇が、瑛司の唇にそっと重なる。それは、儀式のようなキスだった。欲望のためではなく、確認のような、赦しのようなキス。何度も、何度も、短く唇を重ねるたびに、ふたりの間にあった壁が崩れていく。蓮が瑛司のシャツのボタンを一つずつ外していく。焦りも急き立てもない。シャツが脱がされる

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   57.壊れるなら、一緒に

    雨の匂いが、まだ部屋のどこかに残っていた。外はもう止んでいたはずなのに、窓ガラスにはまだ水滴がひとつ、またひとつと這うように残っている。蓮はそれを見つめたまま、背中をソファに預けていた。部屋の空気は重たかった。沈黙が二人を包んでいる。だが、それはもう恐怖のせいではなかった。少し前までなら、この静けさは喉を締めつけるように苦しく、逃げ出したくなるようなものだった。それが今は…ただ、深く沈むような静けさに変わっていた。瑛司は蓮の横に座っていた。言葉はないが、その距離が、今の蓮にはちょうどよかった。近すぎず、遠すぎず、逃げ場を与えながらも、確かに“ここにいる”と伝えてくる。やがて、蓮がぽつりと口を開いた。「…好きって、言うのが怖かったんだ」瑛司は顔を動かさずに、わずかに視線だけを向けた。「言ったら、壊れる気がしてさ。全部。あの人のときみたいに」蓮の声は落ち着いていた。感情に溺れているわけではなく、ようやく自分の言葉を紡げる場所にたどり着いたかのようだった。「俺さ、いつも“好きになるほう”だったんだ。好きになって、尽くして、傷つけられて、それでも縋って…ほんと、バカみたいだよな」乾いた笑いが短くこぼれた。だが、すぐにその笑いは消えた。「もう誰も信じたくなかった。信じたら、また…」言葉が途切れた。代わりに、肩がわずかに震える。瑛司は黙っていた。その沈黙が、蓮を否定しない。「でもさ、おまえだけは…なんか、違った」小さな声だった。「違ってほしかった」それが、蓮の本音だった。どんなに身体だけだと思い込もうとしても、心が先に奪われていた。そんな自分が情けなくて、でも、どうしようもなかった。「…壊れるのが怖いなら、俺が一緒に壊れてやる」瑛司の声は、低く、真っ直ぐだった。蓮は、はっとして顔を向けた。「え…?」

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   3.湯気の向こうに

    扉を押し開けた瞬間、微かに立ちのぼる硫黄の香りが鼻先をかすめた。蒸気に包まれた空間は、思った以上に明るく、月も星も見えない夜の闇とは別の世界のようだった。足元の石畳はぬるりと濡れていて、天井からは間接照明が柔らかく湯船を照らしている。瑛司はふと足を止めた。視線の先、湯気の向こうに誰かの肩が見えた。湯船の縁に背を預けるようにして、もう一人の客が、深く湯に浸かっている。貸切のはずでは、なかったのか。数秒間、無言のまま立ち尽くした。その背中は動かず、ただ湯の揺らぎとともに淡く揺れていた。視線がこちらに気づいたのか、肩越しにゆっくりと顔が向く。

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   2.眠れない夜の音

    壁掛け時計の短針が、日付を跨ぐ手前で止まったように動かない。夜の空気はどこか湿っていて、窓を閉めていても、部屋の中にじわじわと雨の匂いが染み込んでくる。照明はすでに落としてあり、間接灯だけがベッドサイドを柔らかく照らしていた。旅館特有の少し古びた木の香りが、湯上がりの身体に染みる。シーツの皺を手のひらでなぞりながら、瑛司は浅い呼吸を繰り返していた。隣のベッドでは、美月が静かに寝息を立てている。目元に掛けたタオル地のアイマスクが、旅先での気遣いを物語っていた。彼女はどこまでも優しく、どこまでも正しい。そして、その正しさが、夜の静寂を鋭利な刃物のように感じさせ

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   1.同じ景色を見ない旅

    午前十一時過ぎ、新幹線の車内で食べきれなかった駅弁の残りを包んだビニール袋を手に、東條瑛司は宿の送迎バスに乗り込んだ。白地に朱色のロゴが入った小さなバスは、もう十年以上変わらないデザインなのだろう。運転手の挨拶も、窓の外に広がる山並みも、どこか無機質に思えた。隣に座る妻、美月は同じ景色を見ながら、スマートフォンを操作していた。静かな車内に、時折タッチパネルを叩く指の音が響く。「ねえ、午後のチェックインまで、どこ回ろうか。インスタで見たこの庭園、紅葉が始まっててすごく綺麗みたい」「そうだね」そう返しながらも、瑛司の目は車窓に釘

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   51.見えない影

    午後九時過ぎ、蓮は傘をささずに駅からマンションへと歩いた。小雨は降ったり止んだりで、顔に当たる水滴の感触はむしろ気持ちよかった。生暖かい空気が肌にまとわりつき、コンクリートに反射した夜の湿気が、都会の匂いに苦味を混ぜていた。自分の足音が、濡れたアスファルトの上でやけに大きく響く。背後に人影はない。振り返るほどの不安はなかった。けれど、何かがざわつく。数秒遅れて聞こえてくるような音。あるいは、自分の心拍がズレて聞こえているだけかもしれない。マンションのエントランスに差し掛かると、オートロックの横に並ぶ郵便受

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