All Chapters of 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

1.同じ景色を見ない旅

午前十一時過ぎ、新幹線の車内で食べきれなかった駅弁の残りを包んだビニール袋を手に、東條瑛司は宿の送迎バスに乗り込んだ。白地に朱色のロゴが入った小さなバスは、もう十年以上変わらないデザインなのだろう。運転手の挨拶も、窓の外に広がる山並みも、どこか無機質に思えた。隣に座る妻、美月は同じ景色を見ながら、スマートフォンを操作していた。静かな車内に、時折タッチパネルを叩く指の音が響く。「ねえ、午後のチェックインまで、どこ回ろうか。インスタで見たこの庭園、紅葉が始まっててすごく綺麗みたい」「そうだね」そう返しながらも、瑛司の目は車窓に釘づけだった。色づき始めた山の斜面、所々に煙を上げる温泉街。自然が織りなす風景の中に、人の手が加わった温泉旅館の屋根が点々と続いている。けれどそのどれも、彼の心を動かすには至らなかった。三十二歳。広告代理店のクリエイティブ部門で係長を務めている。年齢より若く見られることが多いが、最近は目の下のクマが抜けない。妻と結婚して三年目。交際期間を含めれば七年近くの関係だ。決して嫌いではないし、穏やかに過ごせる相手だとも思っている。ただ、それ以上が、ない。宿に到着したのは昼を少し回った頃だった。ロビーに入ると、木の香りが鼻をくすぐった。新しい畳の縁が僅かに日に焼けていて、長く営まれてきた旅館の空気をまとっている。「この感じ、すごく癒されるよね」美月はにこやかに言ったが、その笑顔に対して、瑛司は「うん」とだけ頷いた。チェックインの時間まで少しあると言われ、宿が用意してくれた喫茶室に案内された。ガラス越しに見える庭には、まだ青い葉の間に真っ赤なモミジがちらほら混じっていた。「やっぱり、妊活のことちゃんと考えないとね。今月こそ、って気持ちで来てるんだし」カップに注がれた焙じ茶から立ち上る香ばしい湯気の向こうで、美月がそう言った。「うん…そうだね」「タイミング法、病院で言われた通りにやれば、きっといけるって先生も言ってたし。ね?」瑛司は曖昧に頷きながらも、焙じ茶の苦味ばかりが舌に残った。それから午後は、予定通り
last updateLast Updated : 2025-09-01
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2.眠れない夜の音

壁掛け時計の短針が、日付を跨ぐ手前で止まったように動かない。夜の空気はどこか湿っていて、窓を閉めていても、部屋の中にじわじわと雨の匂いが染み込んでくる。照明はすでに落としてあり、間接灯だけがベッドサイドを柔らかく照らしていた。旅館特有の少し古びた木の香りが、湯上がりの身体に染みる。シーツの皺を手のひらでなぞりながら、瑛司は浅い呼吸を繰り返していた。隣のベッドでは、美月が静かに寝息を立てている。目元に掛けたタオル地のアイマスクが、旅先での気遣いを物語っていた。彼女はどこまでも優しく、どこまでも正しい。そして、その正しさが、夜の静寂を鋭利な刃物のように感じさせるのだった。身体を横たえてから、すでに一時間以上が経っていた。目を閉じても意識の底がざわつき、時計の音ばかりが耳につく。スマートフォンを手に取ってみても、通知は何もない。SNSを開けば、誰かが食べたランチや、他愛ない風景が並んでいる。けれど、それをスクロールする指に力が入らない。何を見たところで、自分の輪郭が曖昧になっていくだけだ。ゆっくりと身体を起こす。寝返りを打った拍子に、ベッドの軋む音が美月を起こさぬよう注意を払った。浴衣の帯を取り、足元に揃えていたスリッパに足を入れる。テーブルの上に置かれた旅館の案内パンフレットに、露天風呂の使用時間が書かれていた。午前一時まで。あと四十分はある。理由はない。ただ、息が詰まりそうだった。引き戸を静かに開け、廊下に足を踏み出す。敷き詰められた絨毯が足音を吸い込み、軋む床の音すら遠ざける。館内は静まり返っていた。誰もいない廊下に、微かに香る檜と雨のにおい。頭上の非常灯だけが、緑がかった光を細く落としている。まるで自分が、誰かの夢の中に迷い込んでしまったようだった。階段を降り、渡り廊下を抜けた先に、露天風呂ののれんが揺れている。風が出てきたのか、竹の柵がかすかに軋んだ。瑛司は手ぬぐいを握りしめたまま、のれんをくぐる。男湯の札を確認し、ガラリと扉を開けた。中は誰もいなかった。脱衣所の天井には、白熱灯が一つ灯っている。棚に畳まれたタオル、竹の籠、磨かれた床板。どこか懐かしい光景だったが、それもまた、彼の中
last updateLast Updated : 2025-09-01
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3.湯気の向こうに

扉を押し開けた瞬間、微かに立ちのぼる硫黄の香りが鼻先をかすめた。蒸気に包まれた空間は、思った以上に明るく、月も星も見えない夜の闇とは別の世界のようだった。足元の石畳はぬるりと濡れていて、天井からは間接照明が柔らかく湯船を照らしている。瑛司はふと足を止めた。視線の先、湯気の向こうに誰かの肩が見えた。湯船の縁に背を預けるようにして、もう一人の客が、深く湯に浸かっている。貸切のはずでは、なかったのか。数秒間、無言のまま立ち尽くした。その背中は動かず、ただ湯の揺らぎとともに淡く揺れていた。視線がこちらに気づいたのか、肩越しにゆっくりと顔が向く。「ああ、ごめん。時間、かぶった?」落ち着いた声だった。男の声だと気づいたのは、声の低さではなく、その抑揚の少なさだった。かすかに笑っているような、されど感情の起伏のないその口調が、瑛司の体温を一瞬下げた。「いや…こちらこそ。もう誰もいないかと思ってたので」とっさにそう返しながらも、どこか間の抜けた自分の声が耳に残る。男は肩をすくめた。「どうせ貸切っていっても時間制で区切ってるだけだし。構わないよ。…気にしないなら、だけど」そう言って、再び前を向いた。まるでこちらを見ていたのは、ほんの偶然だったかのように。瑛司は数歩、石畳を進み、湯船の縁に手をかけた。湯の温度はほどよく熱い。ごく自然な動作で、ゆっくりと身体を沈めた。男との距離は三メートルほど。向かい合うには遠く、無視するには近い。どちらからも会話を始めるわけでもなく、ただ雨の音と湯のさざ波だけが耳に届いていた。空を仰ぐ。厚い雲に覆われて、月の光すら届かない。露天の天井には、枝葉が影のように揺れていた。「今日、天気予報では晴れって言ってたのにね」不意に、男が呟いた。話しかけたというよりは、独り言に近いトーンだった。「そうですね。…たぶん、山だからですかね。急に変わるって」「うん、そういうの、嫌いじゃない」「天気の変わりやすさが、ですか?」男は
last updateLast Updated : 2025-09-01
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4.名前の代わりに

「一杯、どう?」湯船から上がった蓮が、バスタオルを頭に巻きながら振り返った。すでに脱衣所の扉を半開きにした状態で、背中越しに軽く問うような声だった。視線も投げやりで、誘っているというよりは、ただ言葉を置いただけのような軽さ。瑛司は湯に浸かったまま、数秒間その背中を見つめていた。身体を拭くでもなく、足元の水滴を拭いもせず、その姿勢のまま返事を迷った。「……いいんですか」蓮は少しだけ振り返って、右肩を小さくすくめた。「どうせ、部屋隣でしょ」「え?」「浴衣、同じ柄だったし。男湯から同じ方角に出てったの、見てた」言い終えると、蓮は何も言わずに脱衣所へと消えた。数分後、濡れた髪を適当に拭き、旅館の使い捨て櫛で整えた瑛司は、館内の静けさを背にして、隣の部屋の前に立っていた。扉をノックすることはせず、そっと引き戸に手をかける。鍵はかかっていなかった。静かに開くと、明かりの落ちた空間の奥に、灯籠のようにほのかな照明が灯っていた。部屋の中央に置かれたローテーブルの向こうに、蓮が座っていた。浴衣の帯はゆるく結ばれ、襟元がやや開いている。肌の白さが、黄味がかった明かりの中で際立っていた。テーブルの上には、すでに瓶ビールとグラスが二つ用意されていた。冷蔵庫の音がかすかに唸っていて、窓の外からは雨の音が混じっていた。壁に設えられた掛け軸と、生けられた秋の草花。そのすべてが、この部屋を一時的な避難場所のように見せていた。「座って」そう言われるままに、瑛司はテーブルの向かいに腰を下ろした。畳がまだほんのり湿っているようで、体温が吸い取られる。「はい」瑛司が差し出したグラスに、蓮は無言でビールを注いだ。泡が静かに膨らみ、縁まで達した頃、ようやく蓮が口を開いた。「乾杯、とは言わないけど、飲もう」「…うん」グラスの縁に口をつけた。苦味が舌に広がる。微炭酸が喉をくすぐり、冷たさだけがはっきりと身体に残った。蓮も口をつけたが、一口だけでグラスを置いた。そのまま
last updateLast Updated : 2025-09-01
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5.触れてはいけないところ

雨音が、まだ止まなかった。静けさに染み込むような音が、部屋の空気を冷やすはずなのに、肌の表面はどこか火照っていた。照明はすでに落とされ、ぼんやりと灯る常夜灯が、ベッドルームを輪郭だけにしてしまっていた。瑛司は、蓮の視線から目を逸らせずにいた。立ち上がった蓮は、カーテンを閉めもせず、窓の外を一度だけ眺めてから、静かにベッドの端に腰を下ろした。何も言わず、ただそこにいる。その存在が、空間の密度を変えていた。「まだ、帰らないでしょ?」さっきそう言った蓮の声が、まだ耳の奥に残っていた。選択肢を与えたようでいて、選ばせない言い方だった。否定の余地を、最初から潰されていた。だが、それでも瑛司は立ち上がらなかった。部屋を出ようとしなかった。手のひらが、膝の上でじっとしていられない。温度がこもって、微かに汗ばんでいる。何かを握り返したい衝動と、動けずにいる理性の間を、神経が行ったり来たりしていた。蓮が振り返る。その目は、相変わらず眠たげで、けれどどこか深く濁っていた。誘うでも、拒むでもない、ただ瑛司を映して揺れるだけの目。「東條さん、さ」声が落ちてくる。柔らかく、耳の近くにだけ響くような小ささで。「奥さんと、キス…してる?」唐突すぎる問いに、瑛司は言葉を失った。「…キス、は…する、けど」「今も?」「……最近は、あまり」蓮は頷いた。その頷きに、感情の色はなかった。だが、それ以上の言葉を待つように、微かに目尻が緩んでいる。「そういうのってさ、どこから途切れるんだろうね。身体に触れること。触れられること」「……」「触れたいと思ってないのか、それとも、触れちゃいけない気がしてるのか。どっちだと思う?」「……わからない。たぶん、もう…習慣になってしまってる。そういうのを、避けることも、選ばないことも」言い終えたあと、自分でもなぜそんなに素直に口にした
last updateLast Updated : 2025-09-02
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6.初めての感覚

蓮は、ほとんど音を立てずにベッドの脇へ身体を滑らせた。枕元の小さな鞄から、慣れた手つきで何かを取り出す。薄闇のなか、銀色のパッケージがかすかに光を跳ね返した。蓮は言葉を発しない。無言のまま、封を切る。その手つきには迷いも照れもなく、指先がごく自然に動いている。ベッドの上で裸になった瑛司は、シーツの皺を握りしめていた。背中に汗がじわりと滲む。冷たい空気が肌に触れるたび、感覚が研ぎ澄まされていく。蓮の膝が、瑛司の腿の外側にそっと重なる。視線が絡む。瑛司は、蓮の表情から感情を読み取ろうとしたが、そこにはやはり波のない静けさしかなかった。蓮は手のひらにローションを垂らした。かすかな、人工的な甘い香りが空気に混ざる。滑るような音と共に、自分の指で身体の奥を慣らしていく。瑛司は息を呑み、その様子を見つめた。蓮の細い指が、ためらいなく自らを開いていく。その手つきに羞恥も恥じらいも見えない。ただ、必要な手順をなぞるだけの、淡々とした行為だった。「見てて」蓮が低く囁いた。その声は、明かりの陰から落ちてきて、瑛司の耳の奥に染みた。命令でもなく、懇願でもなく、ただそこに“意思”がある。瑛司はうなずくこともできず、ただ、瞬きを忘れたように見つめていた。蓮の指が二本、音を立てて中に沈む。そのたびに眉がわずかに寄り、唇が濡れた息を零す。白い腿がシーツに擦れる音が、静かな部屋に微かに響く。瑛司は自分の鼓動がひどく速くなっていることを自覚しながら、何もできずにいた。「…もう、いい」蓮がそう言うと、指を引き抜き、ローションの残りを手に取って、今度は瑛司のものに触れた。ひやりとした感触とともに、滑りのよいローションが熱を伝えていく。手のひらがゆっくりと包み、指が根元をなぞる。思わず腰が跳ねそうになる。恥ずかしいくらい、もう限界だった。「リラックスして」蓮の声は、どこまでも平坦で、どこまでも優しかった。冷たい指先が、コンドームのパッケージを開き、濡れた先端にそっと被せていく。ゴムの感触が皮膚に密着し、息が詰まる。「大丈夫?」瑛司は喉を震わせてうなずいた。蓮
last updateLast Updated : 2025-09-02
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7.名前を呼ばない夜

静寂が、肌の上に降りてきていた。雨音はもう遠く、ベッドの周囲には、ふたりの荒い呼吸の余韻だけが残っている。窓の外、薄明るくなりかけた空に、夜の終わりが近づいていることを知らせる青白い光が滲んでいた。蓮の部屋のベッドの上、瑛司は裸のまま、天井を見上げていた。隣に横たわる蓮もまた、肩で息をしながら視線を天井へ向けている。まだ汗の湿り気が肌に残っていて、シーツがぴたりと張りつく。生々しい熱気と、急速に戻ってくる冷気。その落差が、現実の世界へと意識を引き戻す。しばらく、ふたりは黙っていた。言葉にできることも、言うべきことも、何もなかった。指先が、偶然触れ合う。拒むでも、求めるでもなく、ただそこにある温度が、かすかに心臓を揺らす。瑛司は、まだ自分の身体が完全には現実に戻ってきていないのを感じていた。絶頂の痕跡が内側に残り、心のどこかでまだ熱を手放せずにいる。けれど、それ以上に、どうしようもなく静かな虚無が胸を占め始めていた。何か、言葉を探す。伝えたいことがあるわけではない。ただ、このまま沈黙だけを残して夜が明けていくのが、どうしようもなく怖かった。「……ありがとう」口をついて出たのは、それだけだった。蓮はゆっくりと目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落とす。「礼なんて、いらない」瑛司は体を横にして、蓮の顔を覗き込むようにした。薄暗い部屋の中で、蓮の肌だけが白く浮かんで見える。「……名前、呼んでいい?」蓮はかすかに眉を動かし、視線だけを瑛司に向けた。その目に、何も映っていないような深い夜が沈んでいた。「名前は、呼ばなくていいよ」低く、小さな声だった。遮るようでも、許すようでもない。ただ、ひとつの事実を差し出すみたいに。瑛司は、その言葉を胸の奥で反芻した。蓮は、もう一度、目を閉じる。「そのほうが、楽でしょ」「……」「名前があると、いろいろ面倒くさくなる。俺は、それが苦手だから」蓮の指先が、そっとシーツの皺をなぞる。
last updateLast Updated : 2025-09-03
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8.夜明けのすれ違い

シャワーの水音が止んだあとも、しばらく浴室に湯気がこもっていた。瑛司はタオルで髪を拭きながら鏡に映る自分を見つめる。昨夜、何度も蓮に口づけられた首筋に、赤く滲む痕跡がうっすらと残っていた。爪の痕も、見せかけの無表情も、熱に溶けて消えていったはずなのに、まだ肌の奥で疼いている。浴衣を羽織り直す指先がわずかに震える。肌の温度と外気の冷たさが混じり合い、しっとりとした違和感が手のひらから身体中に広がっていく。旅館の壁掛け時計は五時を少し回ったところだった。窓の外は深い群青から徐々に薄明るくなりつつあり、廊下の向こうに差し込む微かな光が、夜の名残を切り取っていた。部屋にはもう戻らないと決めていた夜が、いまは終わろうとしている。蓮はベッドの上でシーツにくるまって眠っていた。長い睫毛がまぶたの上に影を作り、細い指先が枕の端に絡んでいる。裸の肩と肩甲骨の美しい線に、もう二度と触れることはないのだろうと思うと、胸の奥に空白が広がった。このまま名前を呼んだら、何が壊れるのだろう。そう考えて唇を噛む。それでも蓮は静かに眠ったままだった。瑛司はそっと引き戸に手をかけ、音を立てないように蓮の部屋を出た。廊下に出ると、夜の空気がまだ冷たく、濡れた足裏に畳の感触がじんわり伝わる。誰もいない静寂の中を、ゆっくり歩いた。歩くごとに、昨夜の熱が薄れていく。自分の部屋までのほんの数メートルが、果てしなく遠い。隣の部屋の前で一度だけ深く息をついた。心臓の鼓動が大きくなり、身体が日常へと引き戻されるような圧迫感を覚える。手のひらに残る熱は、もう蓮のものではなく、自分を責めるための熱に変わっていく。そっと引き戸を開けた。中はまだ暗い。カーテン越しに朝の青白い光が淡く差し込んでいる。美月は布団の中で小さく寝息を立てていた。膝を軽く曲げ、髪を乱したまま眠っている姿が、妙に幼く感じられた。この数日のうちに、美月の存在が何も変わらないことと、瑛司自身がもう“どこにも戻れない”ことを同時に痛感する。隣の空気に自分の匂いがしない。ここに戻
last updateLast Updated : 2025-09-03
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9.目を合わせない朝食

朝の光が、障子を透かして部屋の畳に柔らかな影を落としていた。瑛司が目を開けたとき、美月はすでに布団から出て、鏡台の前で髪を整えていた。寝起きのふわりとした雰囲気のまま、白い浴衣の襟元がわずかにずれていて、それがなぜか生々しく感じられた。まるで、自分の行為を無言で責められているような気がした。美月は鏡越しに軽く笑いながら言った。「起きた?…ごめん、ドライヤー使ってもいい?」瑛司は、喉が乾いていたのに声を出すのが遅れて、わずかに息を呑んだ。「ああ、うん。いいよ」ドライヤーの低い音が部屋に満ちる。その間、瑛司は起き上がって浴衣の帯を結び直しながら、どうしても視線を美月の背中から逸らしてしまう。彼女の髪が揺れるたび、昨夜、自分の指にまとわりついた蓮の髪の感触がよみがえる。それは柔らかく、湿って、香りの奥に熱を含んでいた。朝食の時間になり、ふたりは客室を出て食堂へ向かう。廊下にはすでに数組の宿泊客が歩いていて、旅館特有の柔らかな空気が漂っていた。すれ違う客の挨拶、美しい盛り付けの料理の話題、湯上がりの笑い声…どれもが平和で、穏やかだった。その和やかさが、瑛司には苦しかった。食堂では、窓側の席に案内された。川のせせらぎがガラス越しに聴こえ、朝の陽光が小鉢の縁を照らす。美月は料理を見てうれしそうに笑う。「すごいね、朝からこんなに…全部食べきれるかな」「そうだな…」言葉は口から出たが、実感はどこにもなかった。配膳された焼き魚も、白米も、だし巻き卵も、すべて丁寧に味付けされているのがわかるのに、舌には味が届かない。口に含むたび、どこかで別の記憶が立ち上がってしまう。昨夜、蓮と交わしたキスの感触。肌に触れるたびに走った、微細な震え。あの部屋の湿気、シーツの皺、重なった体温。「ねえ、これ美味しいよ。食べてみる?」美月が箸で切った卵焼きを差し出してくる。目が合いそうになって、咄嗟
last updateLast Updated : 2025-09-04
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10.曇った窓の向こうへ

旅館のフロントは、朝の光が柔らかく差し込み、昨日までの喧騒を残しながらもどこか静けさを帯びていた。美月がチェックアウトの手続きをしている間、瑛司はロビーの隅でスーツケースの取っ手を握っていた。掌に吸い付く革の感触、荷物の重み、近くの土産物コーナーから漂う甘い干し柿や煎餅の香り…すべてが現実の証拠として、皮膚に貼りついていた。「お待たせ」美月の声に振り向くと、彼女は明細とお釣りを財布にしまいながら歩み寄ってきた。何も変わらない穏やかな表情。その穏やかさが、今の自分とは別の世界の人間のように遠かった。旅館の玄関を出ると、朝露に濡れた石畳が鈍く光っていた。街道沿いのバス停へ向かう途中、すれ違う観光客たちの楽しげな声が耳をかすめる。みんな手に手に小さな紙袋を提げて、家族や恋人同士で笑い合っていた。瑛司は時折、手の甲に残る熱を自分で確かめるように握りしめる。蓮の指の感触も、夜の湿度も、こうして朝の光の下では現実味を失い、幻のように薄れていく。それでも身体の奥、誰にも見せない場所だけが、静かに熱を宿していた。駅までの道は、前夜の雨でまだ湿り気を帯びていた。美月が小さなスーツケースを引きながら並んで歩く。足元を見ているふりをして、何度も彼女の顔を盗み見る。それでも、視線が交わるたびに、まるで無意識に目を逸らしてしまう。「電車、もうすぐ来るみたい」駅舎の壁に貼られた時刻表を確認する美月の声に、瑛司は「うん」とだけ応える。ベンチに座り、ホームに響くアナウンスをぼんやりと聞いていた。線路の向こう、朝霧にぼやける山並みが淡く浮かんでいる。旅の終わりと、現実の始まり。その境界線のあいまいさが、心のどこかを鈍く痛めていた。電車に乗り込むと、指定された席は二人並びだった。美月が窓側、瑛司が通路側。発車のベルが鳴ると同時に、車窓の景色が静かに動き始めた。初めのうちは、観光地特有の古い町並みや田畑、遠くの山並みが流れていく。美月は時折、窓の外を眺めて「きれいだね」と呟く。瑛司も頷
last updateLast Updated : 2025-09-04
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