午前十一時過ぎ、新幹線の車内で食べきれなかった駅弁の残りを包んだビニール袋を手に、東條瑛司は宿の送迎バスに乗り込んだ。白地に朱色のロゴが入った小さなバスは、もう十年以上変わらないデザインなのだろう。運転手の挨拶も、窓の外に広がる山並みも、どこか無機質に思えた。隣に座る妻、美月は同じ景色を見ながら、スマートフォンを操作していた。静かな車内に、時折タッチパネルを叩く指の音が響く。「ねえ、午後のチェックインまで、どこ回ろうか。インスタで見たこの庭園、紅葉が始まっててすごく綺麗みたい」「そうだね」そう返しながらも、瑛司の目は車窓に釘づけだった。色づき始めた山の斜面、所々に煙を上げる温泉街。自然が織りなす風景の中に、人の手が加わった温泉旅館の屋根が点々と続いている。けれどそのどれも、彼の心を動かすには至らなかった。三十二歳。広告代理店のクリエイティブ部門で係長を務めている。年齢より若く見られることが多いが、最近は目の下のクマが抜けない。妻と結婚して三年目。交際期間を含めれば七年近くの関係だ。決して嫌いではないし、穏やかに過ごせる相手だとも思っている。ただ、それ以上が、ない。宿に到着したのは昼を少し回った頃だった。ロビーに入ると、木の香りが鼻をくすぐった。新しい畳の縁が僅かに日に焼けていて、長く営まれてきた旅館の空気をまとっている。「この感じ、すごく癒されるよね」美月はにこやかに言ったが、その笑顔に対して、瑛司は「うん」とだけ頷いた。チェックインの時間まで少しあると言われ、宿が用意してくれた喫茶室に案内された。ガラス越しに見える庭には、まだ青い葉の間に真っ赤なモミジがちらほら混じっていた。「やっぱり、妊活のことちゃんと考えないとね。今月こそ、って気持ちで来てるんだし」カップに注がれた焙じ茶から立ち上る香ばしい湯気の向こうで、美月がそう言った。「うん…そうだね」「タイミング法、病院で言われた通りにやれば、きっといけるって先生も言ってたし。ね?」瑛司は曖昧に頷きながらも、焙じ茶の苦味ばかりが舌に残った。それから午後は、予定通り
Last Updated : 2025-09-01 Read more