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選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ
選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ
Auteur: 中岡 始

1.同じ景色を見ない旅

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-09-01 14:28:56

午前十一時過ぎ、新幹線の車内で食べきれなかった駅弁の残りを包んだビニール袋を手に、東條瑛司は宿の送迎バスに乗り込んだ。白地に朱色のロゴが入った小さなバスは、もう十年以上変わらないデザインなのだろう。運転手の挨拶も、窓の外に広がる山並みも、どこか無機質に思えた。

隣に座る妻、美月は同じ景色を見ながら、スマートフォンを操作していた。静かな車内に、時折タッチパネルを叩く指の音が響く。

「ねえ、午後のチェックインまで、どこ回ろうか。インスタで見たこの庭園、紅葉が始まっててすごく綺麗みたい」

「そうだね」

そう返しながらも、瑛司の目は車窓に釘づけだった。色づき始めた山の斜面、所々に煙を上げる温泉街。自然が織りなす風景の中に、人の手が加わった温泉旅館の屋根が点々と続いている。けれどそのどれも、彼の心を動かすには至らなかった。

三十二歳。広告代理店のクリエイティブ部門で係長を務めている。年齢より若く見られることが多いが、最近は目の下のクマが抜けない。妻と結婚して三年目。交際期間を含めれば七年近くの関係だ。決して嫌いではないし、穏やかに過ごせる相手だとも思っている。ただ、それ以上が、ない。

宿に到着したのは昼を少し回った頃だった。ロビーに入ると、木の香りが鼻をくすぐった。新しい畳の縁が僅かに日に焼けていて、長く営まれてきた旅館の空気をまとっている。

「この感じ、すごく癒されるよね」

美月はにこやかに言ったが、その笑顔に対して、瑛司は「うん」とだけ頷いた。

チェックインの時間まで少しあると言われ、宿が用意してくれた喫茶室に案内された。ガラス越しに見える庭には、まだ青い葉の間に真っ赤なモミジがちらほら混じっていた。

「やっぱり、妊活のことちゃんと考えないとね。今月こそ、って気持ちで来てるんだし」

カップに注がれた焙じ茶から立ち上る香ばしい湯気の向こうで、美月がそう言った。

「うん…そうだね」

「タイミング法、病院で言われた通りにやれば、きっといけるって先生も言ってたし。ね?」

瑛司は曖昧に頷きながらも、焙じ茶の苦味ばかりが舌に残った。

それから午後は、予定通り庭園へと足を運んだ。地元の名士がかつて私邸として構えたという広大な日本庭園。池の中心には中島があり、その周囲をゆるやかな小径が囲んでいる。秋風に揺れる枝の音と、時折水面に落ちる葉の音が、静かに耳をくすぐった。

「ね、あの赤いの見て。きっとこっちのほうが綺麗に撮れるよ」

美月は嬉しそうにスマートフォンのカメラを向けていた。瑛司は少し離れた位置で、池に浮かぶ落ち葉をぼんやりと眺めていた。

カメラのシャッター音。遠くから聞こえる観光客の笑い声。どれもが、彼の鼓膜をすべるように通り抜けていく。なぜだろう、こういう場所に来ると、心が静まるどころかざわつく気がする。何かが足りない。ずっとそう感じていた。仕事でもない、愛でもない、漠然とした空白。

夕刻、宿に戻る頃には空が薄曇りになっていた。部屋に入ると、すでに布団が敷かれていて、窓の外には街灯の明かりがぽつぽつと灯っていた。川のせせらぎが微かに聞こえ、遠くで鳥が鳴いた。

「ちょっと、今日疲れたね」

浴衣に着替えながら美月が言うと、瑛司も形式的に「うん、歩いたからね」と返した。

「夕飯、楽しみ。この宿、料理がすごく評判いいんだって」

「そうなんだ」

その後の食事は、品数も多く、確かに美味しかった。出された前菜の盛り合わせには季節の山菜が添えられていたし、メインの地鶏の陶板焼きは香ばしく、舌にしっかりと味が残った。

それでも、瑛司の中には何も残らなかった。美月は料理ごとに「美味しいね」「この味、真似できないかも」などと感想を述べていたが、彼は適当に相槌を打つだけだった。美味いかまずいかではなく、そもそも「味わう」という行為そのものに、自分の感覚が繋がっていない気がした。

食後、美月は風呂に入ると言って浴場へ向かった。瑛司は部屋に一人残され、窓際の座椅子に腰を下ろした。机の上には茶菓子と緑茶が用意されていたが、手を伸ばす気にはなれなかった。

ガラス越しに外を眺める。月は出ておらず、雲が厚く流れていた。川のせせらぎは相変わらず、単調なリズムで続いている。

「何してるんだろうな…」

呟いてから、瑛司はその言葉が自分の本音に思えて驚いた。

美月と旅行に来ているのに、どこか他人のように感じる。いや、もしかすると、それはもっと前からだったのかもしれない。子どもを作るための旅行。義務としてのセックス。体温が通い合わない布団の中。

三年前の結婚式の日。誓いのキスをしたとき、自分は本当にこの人と未来を歩んでいけると思っていたのか。少なくとも、あの時は信じようとしていた。信じることが、結婚だと、思っていた。

美月が風呂から戻ったのは、それから三十分ほど経ってからだった。頬が火照っていて、浴衣の襟元からまだ湯気の残り香が漂っていた。

「お風呂、すごく気持ちよかった。貸切状態で贅沢だったよ」

「そうなんだ」

「瑛司も、あとで行ってきたら?」

「うん、そうする」

それだけのやり取りで、二人の間には再び沈黙が落ちた。美月はテレビを点け、ニュースを流し見しながら、髪を乾かしていた。

瑛司はベッドに横になり、目を閉じた。けれど、眠気はどこにもなかった。頭の奥が鈍く響いている。

彼は、何かから逃げ出したいと思っていた。それが何なのか、はっきりとはわからない。ただ、この静かな空間が、彼には堪らなく窮屈に思えた。

自分は、何をしているのか。何をしたいのか。問いかけるたび、答えのない空白が、瑛司の中で静かに広がっていった。

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  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   62.再び、仕事の顔

    都内某所、ガラス張りの高層ビルの中層階。午前十時を回ったばかりの会議室には、緊張とも期待ともつかない空気が漂っていた。壁際のモニターに映し出された資料には、来月から始動する新プロジェクトのロゴ。長方形のテーブルには五人が着席しており、そのうちの二人──瑛司と蓮──は、互いの対角線上に座っていた。形式ばった自己紹介や名刺交換がひととおり済み、企画責任者の進行に合わせて会議は粛々と進行していた。ペンの走る音、キーボードのタイピング音、スライドをめくるリモコンの微かなクリック。全員が仕事の顔をしている。もちろん、瑛司も、蓮も。けれど、ふとした瞬間。誰かの発言に応じて視線を巡らせた蓮と、資料のページをめくりながら周囲を見渡していた瑛司の目が、会議卓の上で交錯した。その一瞬だけ、時間がゆるやかに揺れる。蓮は、表情を変えないまま視線をほんの一秒だけ留めた。以前ならすぐ逸らしていた。けれど今は、少しだけ“残す”ことができる。それは主張ではなく、共有だった。静かな、だが確かな合図。瑛司もまた、無言のまま小さく頷き返した。唇は動かさず、目だけで、ひとことを伝えてくるように──「大丈夫だ」「ここでも、おまえの味方でいる」その仕草を知っているのは、きっと蓮だけだ。会議室の他のメンバーは、誰も気づいていない。でも、それでよかった。もう隠す必要はないが、見せびらかす必要もない。二人の関係は、“誰にも知られない”ことよりも、“自分たちが知っている”ことの方が重要だった。「…以上が、ビジュアル案の第一案です。全体の世界観に対して、ご意見いただければと」進行を担当するクリエイティブディレクターの声に、蓮が自然に応じた。「色味と構図は概ね問題ないと思います。ただ、ブランド側の要望としては、もう少し余白のニュアンスを大事にしたいとのことだったので──」淡々と説明する

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    雨の匂いが、まだ部屋のどこかに残っていた。外はもう止んでいたはずなのに、窓ガラスにはまだ水滴がひとつ、またひとつと這うように残っている。蓮はそれを見つめたまま、背中をソファに預けていた。部屋の空気は重たかった。沈黙が二人を包んでいる。だが、それはもう恐怖のせいではなかった。少し前までなら、この静けさは喉を締めつけるように苦しく、逃げ出したくなるようなものだった。それが今は…ただ、深く沈むような静けさに変わっていた。瑛司は蓮の横に座っていた。言葉はないが、その距離が、今の蓮にはちょうどよかった。近すぎず、遠すぎず、逃げ場を与えながらも、確かに“ここにいる”と伝えてくる。やがて、蓮がぽつりと口を開いた。「…好きって、言うのが怖かったんだ」瑛司は顔を動かさずに、わずかに視線だけを向けた。「言ったら、壊れる気がしてさ。全部。あの人のときみたいに」蓮の声は落ち着いていた。感情に溺れているわけではなく、ようやく自分の言葉を紡げる場所にたどり着いたかのようだった。「俺さ、いつも“好きになるほう”だったんだ。好きになって、尽くして、傷つけられて、それでも縋って…ほんと、バカみたいだよな」乾いた笑いが短くこぼれた。だが、すぐにその笑いは消えた。「もう誰も信じたくなかった。信じたら、また…」言葉が途切れた。代わりに、肩がわずかに震える。瑛司は黙っていた。その沈黙が、蓮を否定しない。「でもさ、おまえだけは…なんか、違った」小さな声だった。「違ってほしかった」それが、蓮の本音だった。どんなに身体だけだと思い込もうとしても、心が先に奪われていた。そんな自分が情けなくて、でも、どうしようもなかった。「…壊れるのが怖いなら、俺が一緒に壊れてやる」瑛司の声は、低く、真っ直ぐだった。蓮は、はっとして顔を向けた。「え…?」

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   51.見えない影

    午後九時過ぎ、蓮は傘をささずに駅からマンションへと歩いた。小雨は降ったり止んだりで、顔に当たる水滴の感触はむしろ気持ちよかった。生暖かい空気が肌にまとわりつき、コンクリートに反射した夜の湿気が、都会の匂いに苦味を混ぜていた。自分の足音が、濡れたアスファルトの上でやけに大きく響く。背後に人影はない。振り返るほどの不安はなかった。けれど、何かがざわつく。数秒遅れて聞こえてくるような音。あるいは、自分の心拍がズレて聞こえているだけかもしれない。マンションのエントランスに差し掛かると、オートロックの横に並ぶ郵便受

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   44.名前の呪い

    グラスの底に残った琥珀色のウイスキーが、光を吸い込みながら静かに揺れていた。カウンターの端、夜更けのバーは客足もまばらになり、さきほどまでの賑やかさが嘘のように落ち着いていた。蓮とハルカの前には、氷の溶けた水滴だけが残る。ジャズの音色も遠く、バーテンダーの動きも緩慢になるこの時間帯――灯りが柔らかく二人の表情を照らしていた。ハルカがふと、空になったグラスを指先で転がした。しばらく蓮の横顔を眺めてから、ふと、ため息交じりに尋ねる。「ねえ、蓮。…前の男、まだ引きずってんの?」

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   43.素顔の夜

    ビル街の路地に溶け込むように、その店はあった。看板も目立たず、夜の闇のなかに小さな灯りだけがにじむ。ドアを押し開けると、ベルがかすかに鳴った。中は静かで、グラスのぶつかる音や低く流れるジャズ、バーテンダーの低い声が遠くで交じり合っている。カウンターの端に蓮とハルカは並んで座った。昼の喧騒とは別世界の、緩やかにほどける空気がそこにはあった。「とりあえず、おつかれ」ハルカがジントニックを掲げる。蓮はロックグラスの水滴を親指で拭い、軽くグラスを合わせた。氷が音を立て、グラスの表面

  • 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ   40.鏡の裏側

    窓の外には、雨が降り始めていた。昼間の熱を洗い流すような細い雨脚が、時おりベランダの手すりを叩いている。部屋の中は暗いままで、天井の明かりはつけず、手元のスタンドランプだけが机の上をぼんやりと照らしていた。蓮はパソコンを開いたまま、スクリーンセーバーが淡く揺れる光景を、ただ黙って眺めていた。静けさが、壁の隅々まで沁みている。耳を澄ませば、雨の音と、部屋の奥で時折鳴る冷蔵庫の微かな唸りだけが聞こえてきた。時間の感覚はぼやけ、目の前に映る自分の指が現実なのかさえ曖昧になる。この静寂のなかで、蓮の心はど

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