LOGIN結婚3年目。妻と訪れた温泉旅館―― その露天風呂で、瑛司は年下の男・蓮と出会う。 夜の湯けむりの中、名前も知らないまま、 心の隙間を埋め合うように身体を重ねた一夜。 それきりのはずだった。 けれど運命は、ふたりを再び“仕事相手”として再会させる。 家庭を捨て、蓮を選んだ瑛司。 愛されることに怯え、拒絶しながらも惹かれていく蓮。 何度もすれ違い、傷つけ合い、 それでも触れるたび、心が溶けていく。 ――これは、 壊れたままの心と身体が、 愛によって再び重なっていく物語。
View More午前十一時過ぎ、新幹線の車内で食べきれなかった駅弁の残りを包んだビニール袋を手に、東條瑛司は宿の送迎バスに乗り込んだ。白地に朱色のロゴが入った小さなバスは、もう十年以上変わらないデザインなのだろう。運転手の挨拶も、窓の外に広がる山並みも、どこか無機質に思えた。
隣に座る妻、美月は同じ景色を見ながら、スマートフォンを操作していた。静かな車内に、時折タッチパネルを叩く指の音が響く。
「ねえ、午後のチェックインまで、どこ回ろうか。インスタで見たこの庭園、紅葉が始まっててすごく綺麗みたい」
「そうだね」
そう返しながらも、瑛司の目は車窓に釘づけだった。色づき始めた山の斜面、所々に煙を上げる温泉街。自然が織りなす風景の中に、人の手が加わった温泉旅館の屋根が点々と続いている。けれどそのどれも、彼の心を動かすには至らなかった。
三十二歳。広告代理店のクリエイティブ部門で係長を務めている。年齢より若く見られることが多いが、最近は目の下のクマが抜けない。妻と結婚して三年目。交際期間を含めれば七年近くの関係だ。決して嫌いではないし、穏やかに過ごせる相手だとも思っている。ただ、それ以上が、ない。
宿に到着したのは昼を少し回った頃だった。ロビーに入ると、木の香りが鼻をくすぐった。新しい畳の縁が僅かに日に焼けていて、長く営まれてきた旅館の空気をまとっている。
「この感じ、すごく癒されるよね」
美月はにこやかに言ったが、その笑顔に対して、瑛司は「うん」とだけ頷いた。
チェックインの時間まで少しあると言われ、宿が用意してくれた喫茶室に案内された。ガラス越しに見える庭には、まだ青い葉の間に真っ赤なモミジがちらほら混じっていた。
「やっぱり、妊活のことちゃんと考えないとね。今月こそ、って気持ちで来てるんだし」
カップに注がれた焙じ茶から立ち上る香ばしい湯気の向こうで、美月がそう言った。
「うん…そうだね」
「タイミング法、病院で言われた通りにやれば、きっといけるって先生も言ってたし。ね?」
瑛司は曖昧に頷きながらも、焙じ茶の苦味ばかりが舌に残った。
それから午後は、予定通り庭園へと足を運んだ。地元の名士がかつて私邸として構えたという広大な日本庭園。池の中心には中島があり、その周囲をゆるやかな小径が囲んでいる。秋風に揺れる枝の音と、時折水面に落ちる葉の音が、静かに耳をくすぐった。
「ね、あの赤いの見て。きっとこっちのほうが綺麗に撮れるよ」
美月は嬉しそうにスマートフォンのカメラを向けていた。瑛司は少し離れた位置で、池に浮かぶ落ち葉をぼんやりと眺めていた。
カメラのシャッター音。遠くから聞こえる観光客の笑い声。どれもが、彼の鼓膜をすべるように通り抜けていく。なぜだろう、こういう場所に来ると、心が静まるどころかざわつく気がする。何かが足りない。ずっとそう感じていた。仕事でもない、愛でもない、漠然とした空白。
夕刻、宿に戻る頃には空が薄曇りになっていた。部屋に入ると、すでに布団が敷かれていて、窓の外には街灯の明かりがぽつぽつと灯っていた。川のせせらぎが微かに聞こえ、遠くで鳥が鳴いた。
「ちょっと、今日疲れたね」
浴衣に着替えながら美月が言うと、瑛司も形式的に「うん、歩いたからね」と返した。
「夕飯、楽しみ。この宿、料理がすごく評判いいんだって」
「そうなんだ」
その後の食事は、品数も多く、確かに美味しかった。出された前菜の盛り合わせには季節の山菜が添えられていたし、メインの地鶏の陶板焼きは香ばしく、舌にしっかりと味が残った。
それでも、瑛司の中には何も残らなかった。美月は料理ごとに「美味しいね」「この味、真似できないかも」などと感想を述べていたが、彼は適当に相槌を打つだけだった。美味いかまずいかではなく、そもそも「味わう」という行為そのものに、自分の感覚が繋がっていない気がした。
食後、美月は風呂に入ると言って浴場へ向かった。瑛司は部屋に一人残され、窓際の座椅子に腰を下ろした。机の上には茶菓子と緑茶が用意されていたが、手を伸ばす気にはなれなかった。
ガラス越しに外を眺める。月は出ておらず、雲が厚く流れていた。川のせせらぎは相変わらず、単調なリズムで続いている。
「何してるんだろうな…」
呟いてから、瑛司はその言葉が自分の本音に思えて驚いた。
美月と旅行に来ているのに、どこか他人のように感じる。いや、もしかすると、それはもっと前からだったのかもしれない。子どもを作るための旅行。義務としてのセックス。体温が通い合わない布団の中。
三年前の結婚式の日。誓いのキスをしたとき、自分は本当にこの人と未来を歩んでいけると思っていたのか。少なくとも、あの時は信じようとしていた。信じることが、結婚だと、思っていた。
美月が風呂から戻ったのは、それから三十分ほど経ってからだった。頬が火照っていて、浴衣の襟元からまだ湯気の残り香が漂っていた。
「お風呂、すごく気持ちよかった。貸切状態で贅沢だったよ」
「そうなんだ」
「瑛司も、あとで行ってきたら?」
「うん、そうする」
それだけのやり取りで、二人の間には再び沈黙が落ちた。美月はテレビを点け、ニュースを流し見しながら、髪を乾かしていた。
瑛司はベッドに横になり、目を閉じた。けれど、眠気はどこにもなかった。頭の奥が鈍く響いている。
彼は、何かから逃げ出したいと思っていた。それが何なのか、はっきりとはわからない。ただ、この静かな空間が、彼には堪らなく窮屈に思えた。
自分は、何をしているのか。何をしたいのか。問いかけるたび、答えのない空白が、瑛司の中で静かに広がっていった。
都内某所、ガラス張りの高層ビルの中層階。午前十時を回ったばかりの会議室には、緊張とも期待ともつかない空気が漂っていた。壁際のモニターに映し出された資料には、来月から始動する新プロジェクトのロゴ。長方形のテーブルには五人が着席しており、そのうちの二人──瑛司と蓮──は、互いの対角線上に座っていた。形式ばった自己紹介や名刺交換がひととおり済み、企画責任者の進行に合わせて会議は粛々と進行していた。ペンの走る音、キーボードのタイピング音、スライドをめくるリモコンの微かなクリック。全員が仕事の顔をしている。もちろん、瑛司も、蓮も。けれど、ふとした瞬間。誰かの発言に応じて視線を巡らせた蓮と、資料のページをめくりながら周囲を見渡していた瑛司の目が、会議卓の上で交錯した。その一瞬だけ、時間がゆるやかに揺れる。蓮は、表情を変えないまま視線をほんの一秒だけ留めた。以前ならすぐ逸らしていた。けれど今は、少しだけ“残す”ことができる。それは主張ではなく、共有だった。静かな、だが確かな合図。瑛司もまた、無言のまま小さく頷き返した。唇は動かさず、目だけで、ひとことを伝えてくるように──「大丈夫だ」「ここでも、おまえの味方でいる」その仕草を知っているのは、きっと蓮だけだ。会議室の他のメンバーは、誰も気づいていない。でも、それでよかった。もう隠す必要はないが、見せびらかす必要もない。二人の関係は、“誰にも知られない”ことよりも、“自分たちが知っている”ことの方が重要だった。「…以上が、ビジュアル案の第一案です。全体の世界観に対して、ご意見いただければと」進行を担当するクリエイティブディレクターの声に、蓮が自然に応じた。「色味と構図は概ね問題ないと思います。ただ、ブランド側の要望としては、もう少し余白のニュアンスを大事にしたいとのことだったので──」淡々と説明する
蓮の部屋の窓辺に、午前の光が静かに差し込み始めていた。カーテン越しの光は、優しくも確かに夜が終わったことを告げている。ベッドのシーツは少し乱れ、昨夜の熱と眠気の名残がまだそこに漂っていた。蓮はキッチンでコップ一杯の水を飲み干し、深く呼吸を吐いた。背後では、瑛司が静かにシャツのボタンを留めていた。泊まったとはいえ、彼は今日も仕事へ向かう。まだ離れた場所にある日常へ。ふたりの間に、焦るような気配はなかった。代わりに、昨夜抱きしめ合ったときと同じ温度が、まだどこかに残っていた。皮膚の表面ではなく、もっと深い場所に。蓮は背中越しにその気配を感じながら、振り向かずに尋ねた。「ホテル、戻るの?」「うん。今日はちょっと資料の整理がある」「ああ、そっか」ほんの数日前までは、こうして何気なく言葉を交わすことすら、怖くて仕方がなかった。言葉の向こう側に何かが潜んでいる気がして、目を合わせるのも避けていた。だけど今は、ふとした言葉の間が、ただの“呼吸の間”に変わっている。シャツの袖を整えた瑛司が、荷物をひとまとめにして立ち上がる。蓮の部屋の玄関は、出入りするには少し窮屈な間取りだったが、今は妙に居心地がいい。ふたりが近づくには、ちょうどいい狭さだった。「行くね」瑛司がドアノブに手をかける。その声に、蓮がゆっくりと振り返った。靴を履こうとする瑛司の背中を見ながら、蓮は言葉を探した。何か、ただの「いってらっしゃい」じゃない、確かな言葉を。けれど、その先に出たのは、瑛司の方だった。「これからは」靴を履いたまま、彼は背中越しに言った。「もう、嘘はつかない。何があっても」蓮は思わず息を呑んだ。その言葉は、優しさよりも重かった。誓いのようで、赦しのようでもあった。瑛司が振り返る。目が合う。その視線に、もう逃げ場
キッチンに立つ蓮の背中に、朝の光が柔らかく差していた。床に反射した窓の形が、タイルの上でゆっくりと伸びていく。瑛司はダイニングチェアに座り、その様子を黙って見ていた。Tシャツ一枚の背中がまだ少し細く見えるのは、夜の名残がそこにあるからかもしれない。それとも、ずっと気づかないふりをしてきた、その人本来の脆さに、ようやく触れたばかりだからか。蓮が鍋に残してあったスープを小鍋に移して温め始める。コンロの火が点き、音もなく炎が灯ると、蓮はカップを二つ取り出して、ドリップの準備にかかった。「…あのさ」「ん?」「コーヒーって、ちゃんと入れようとすると案外難しいよね」「そう?」「前さ、カフェでバイトしてた時に教わったんだけど。豆の挽き方も、お湯の温度も、抽出時間も…全部で味変わるんだって」「へえ」会話はぎこちなくはないが、どこか呼吸を計るような間がある。けれど、それは昨日までのような「心を閉ざすための間」ではなかった。むしろ、自分の感情をどう差し出せばいいのか、不器用に試しているような、温度を探る沈黙だった。ドリッパーから湯を細く落としていく蓮の手元からは、コーヒーの香ばしい匂いが立ち上ってくる。ゆっくりと膨らむ粉の山。その香りに、瑛司は肩の力が抜けていくのを感じた。「…昨日の夜さ」蓮が言った。ドリップを終え、ポットの蓋を閉じながら振り返る。「なんか、夢だったんじゃないかって思った」「うん」「朝起きたらさ、たとえば…瑛司さんが、もういなかったらどうしようとか」「いるよ」瑛司の返事は短く、でもまっすぐだった。それだけで蓮の表情は、少しほどける。コーヒーをテーブルに置き、次に温めたスープと、軽く焼いたトースト、トマトを添えた簡単な朝食が並ぶ。二人で向かい合って座り、しばらくは食器の音だけが空間に響いた。フォークが皿の端
カーテンの隙間から漏れた朝の光が、シーツの皺をなぞるように伸びていた。外の空は薄く晴れていて、夜の雨の名残だけが窓の端に、水滴となって静かに残っている。ベッドの上、瑛司は仰向けになったまま天井を見つめていた。身体の右側には、寄り添うように蓮が眠っている。蓮の額にはかすかに汗が浮いていた。寝息は浅く、でもどこか子どものように無防備で、静かだった。その頬に、瑛司の右手がそっと触れる。指の腹が触れた部分だけ、呼吸の熱が残っていた。「…まだ夢を見てるみたいだな」声はほとんど呟きのようだったが、蓮のまぶたがゆっくりと震えるように動いた。光がまつ毛の影を落とし、長い睫毛の奥で瞳がこちらを探しているのがわかる。「…瑛司、さん…」その言葉がこぼれた瞬間、瑛司はかすかに目を見開いた。いつもなら名前を呼ばれることはなかった。どんなに抱き合っても、触れても、決して呼ばれることのなかった名前。「ようやく、呼んでくれたな」目を伏せながら微笑むと、蓮は反射的に顔を背けた。恥ずかしさに頬が熱を帯びるのがわかった。「…なんか、今さら言うの…照れる」「いいよ。今さらでも、すごく嬉しい」瑛司の声には、にじむような安心があった。言葉ではなく、空気と目線と触れた指の熱が、ふたりのあいだをそっと満たしていく。蓮はゆっくりと体を起こしかけたが、瑛司の肩に顔をうずめるようにして、また横になる。その仕草があまりに自然で、まるで最初からそうしてきたかのように思えた。「…ねえ」「ん?」「昨日の夜…っていうか、明け方の、あれ…」蓮はそこで言葉を止めた。明確に名をつけるには、まだ少し恥ずかしさが勝っていた。でも瑛司は、その続きを待たずに答えた。「大丈夫。全部、大事だった」「…うん」「蓮が、蓮のままでいてくれたこ
蓮の指先が、そっと瑛司のシャツの胸元に触れた。ほんのわずかな接触。だが、その震えはあまりにもはっきりと伝わってきて、瑛司はそれ以上、何も動かずにいた。静寂のなか、時の流れだけが部屋を満たしている。蓮の目は赤く滲んでいた。さっきまであれほどこらえていた涙が、もうこぼれかけている。それでも、自分の意思で手を伸ばした。誰に強いられたのでもない、誰かを喜ばせるためでもない、自分から…瑛司に触れた。「……瑛司さん」かすれた声が、静けさのなかで震えた。瑛司の瞳が、そっと細められる。呼ばれただけだった。それでも、蓮にとってはそれが全てだった。今までどれほどその名前を呼ぶのを怖がっていたか、どれほどその一言に自分の心を縛られていたか。それを口にしてしまった今、逃げ場はもうなかった。蓮は胸元を掴んでいた指に少しだけ力を込め、そのまま瑛司の胸に額を預けた。「俺……もう、どうしていいか、わからないんだ」涙が瑛司のシャツに染みる。けれど、瑛司は何も言わず、ただその背に腕を回した。ゆっくりと、ふたりの身体が近づいていく。瑛司は蓮の頬に手を添え、指先で涙をなぞった。蓮の瞳が、わずかに潤んだままこちらを見上げる。「やめたいなら、やめる。何も、無理はしない」「……違う」蓮は首を横に振った。「違うんだ、やめたいんじゃない。怖いけど……それでも、今は、ちゃんと触れたい」その一言に、瑛司の心がじんと熱くなった。蓮の唇が、瑛司の唇にそっと重なる。それは、儀式のようなキスだった。欲望のためではなく、確認のような、赦しのようなキス。何度も、何度も、短く唇を重ねるたびに、ふたりの間にあった壁が崩れていく。蓮が瑛司のシャツのボタンを一つずつ外していく。焦りも急き立てもない。シャツが脱がされる
雨の匂いが、まだ部屋のどこかに残っていた。外はもう止んでいたはずなのに、窓ガラスにはまだ水滴がひとつ、またひとつと這うように残っている。蓮はそれを見つめたまま、背中をソファに預けていた。部屋の空気は重たかった。沈黙が二人を包んでいる。だが、それはもう恐怖のせいではなかった。少し前までなら、この静けさは喉を締めつけるように苦しく、逃げ出したくなるようなものだった。それが今は…ただ、深く沈むような静けさに変わっていた。瑛司は蓮の横に座っていた。言葉はないが、その距離が、今の蓮にはちょうどよかった。近すぎず、遠すぎず、逃げ場を与えながらも、確かに“ここにいる”と伝えてくる。やがて、蓮がぽつりと口を開いた。「…好きって、言うのが怖かったんだ」瑛司は顔を動かさずに、わずかに視線だけを向けた。「言ったら、壊れる気がしてさ。全部。あの人のときみたいに」蓮の声は落ち着いていた。感情に溺れているわけではなく、ようやく自分の言葉を紡げる場所にたどり着いたかのようだった。「俺さ、いつも“好きになるほう”だったんだ。好きになって、尽くして、傷つけられて、それでも縋って…ほんと、バカみたいだよな」乾いた笑いが短くこぼれた。だが、すぐにその笑いは消えた。「もう誰も信じたくなかった。信じたら、また…」言葉が途切れた。代わりに、肩がわずかに震える。瑛司は黙っていた。その沈黙が、蓮を否定しない。「でもさ、おまえだけは…なんか、違った」小さな声だった。「違ってほしかった」それが、蓮の本音だった。どんなに身体だけだと思い込もうとしても、心が先に奪われていた。そんな自分が情けなくて、でも、どうしようもなかった。「…壊れるのが怖いなら、俺が一緒に壊れてやる」瑛司の声は、低く、真っ直ぐだった。蓮は、はっとして顔を向けた。「え…?」
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