LOGIN「紫弦様、おはようございます。今日は街に視察に行かれるのですか?」「あぁ。父上が元気なうちに、できることをやっておこうと思って」街は活気を取り戻しつつある。身体の弱い者、貧しい者に幼い子ども。誰もが安心して生活ができるように、紫弦は新しい施設や職業を模索していた。異国で経済を学んだ弟が帰ってきてくれたこともあり、二人で国をよりよくする為に奮闘している。発展というより改善に近い。ただ今まで目を向けられなかった部分に着目している。強い者が快適に暮らせる国ではなく、弱い者が楽しく暮らせる国づくりを。自分達に与えられた時間は有限だから、この命が続く限り続けたい。迷った時や辛い時は首飾りに触れて心を落ち着ける。いつか帰ってくる彼の為に……。「紫弦様、護衛をつけてください!」「ああ、すまんつい……。でも武器を持った奴らをぞろぞろ連れていく方が目立つからな」短剣だけ腰に添えて、紫弦は城の門を抜けた。未だに皇子の自覚が足りないと董梅達から怒られるが、城の中でふんぞり返るだけの王なら街へ出て、畑仕事のひとつでも手伝った方がマシだと思う。耕した野菜や果物が誰かの糧になり、新たな命へ繋いでいく。今まで何百、何千年と続いてきたことなのだ。祖先が泥だらけになって頑張ってくれたから、今の自分達がある。「これ面白い!」商店が建ち並ぶ大通りでは、子ども達が玩具を持って走り回っていた。その姿を遠目で見て、思わず相好がくずれる。自分も幼い時はこっそり玩具を買って、あんな風に遊び回ったものだ。子どもは純粋で、何よりも弱い存在。誰かが守って、伸び伸び育つ環境を用意してやらないといけない。学校へ行けない子どもがいなくなったらいいのに、と彼も言っていた。今は少しでも変えられるように、子ども達を支援する為の法律も考えている。彼らは、命は国の宝だ。……昔のお前もそう思ったんだろ。空を仰いで、世界を照らす太陽を見つめる。どこにいても決して見失うことのない光。どれだけ心が冷えきっても、変わらない温もりを与えてくれる。今日も世界は平和だ。腰に手を当て、城の前の高台から街を見下ろした。見た目は何も変わらないけど、中身は着実に変化を遂げている。街と山の稜線を宙でなぞり、目を眇める。国を立て直すことができたら、いつかあの向こうへ行こう。そう奮い立ったとき、「うわっ! 駄目駄目、
指に力が込められる。苦しいほどの抱擁だ。でも、肩に掛かる髪や花の香り。これは間違いなく千華だ。千華がいる。ずっと待ち続けた彼が、……今、この腕の中に。「俺も……会いたかった。ずっと、待ってたんだ」彼の背中を抱き留め、三年ぶりの温もりを噛み締める。夢じゃない。今なら幸せで死ねる気がした。神様に感謝して、笑顔であの世へ逝けただろう。でも死ぬには惜しい。むしろ今生き返ったような感覚だったからだ。全身に電流が走り、つま先まで温かい血が巡った気がした。命の息吹だ。こうして触れている間も、自分と彼の心音が聞こえるようで……生きてるのだと実感する。身体を離し、何とか彼と一緒に立ち上がった。「ごめんな。大丈夫?」「平気。一応お前がいない間も鍛えてたから」土埃を落とし、心配そうな千華に微笑んだ。「それにしても、本当に突然だったな。何かこう、先に文書とか送ってくるのかと思った」「あはは、できたら良かったんだけど。とりあえず天界の修行が終わったから、今度は人界で修行するように、って送り出されたんだよ」千華も手の汚れを払い落とし、袖から金色の筆を取り出した。「父上の仕事を引き継ぐ為の前段階って言うか……要は、天界だけでなく、人界の事情や常識も学んでくるように言われたんだ。二つの世界の連絡役になれたら、今度は自分の意思でいつでも行き来できる。だから頑張るよ」「そうか……!」「何だ。泣いてんの?」「な、泣いてないっ」視線を外して言い返す。千華は疑わしげにじっと見ていたが、「そっか」と言って息をついた。「ところで、お願いなんだけど……人界で修行する間は、紫弦のところで世話になってもいいかな? お金は持ってないんだよね……」恥ずかしそうに笑う千華に、紫弦は吹き出す。「当たり前だろ! っていうか、そのまま嫁入りさせるつもりだから」「嫁? ……え、嫁!?」「そ。次に帰って来た時には絶対婚姻を結ぶつもりだった。父上と母上もお前に会いたがってたから、喜んですぐに準備するぞ! さぁ城に戻ろう!」「ちょちょちょ、紫弦! いくらなんでも早すぎ……!」慌てふためく千華を引っ張って、紫弦は城門へと急ぐ。自分でも驚くほど足が軽かった。早く、とにかく早く。身体よりも心が先に走り出している。これ以上は待てない。だって、自分達はもう充分待ったのだから。これからは同
人と人を結ぶ縁は聞いたことがあるが、地上の者と天上のものを結ぶ縁は聞いたことがない。もしかしたら縁などではなく、もっと強い力を持った何かが働いたのでは、と思った。「千華の師父は本当にお優しい人だから、彼が無事だと知って安心されている。私も彼も千華がいつ修行から逃げ出すのか坐視していたから、大して驚いてはいないんだ。でも、まさか下界へ行くとは思わなかったけど」甲高い鳴き声と疾風と共に、二羽の霊鳥が現れた。「私は天界と人界の両方を見守る連絡役を担っている。いずれは千華にこの役目を与えるつもりで、十四年前彼をここに連れてきた。……天界へ帰る時、千華が面白い子どもがいたと言っていたことを覚えてるよ」「子ども……」「話していてとても疲れたけど、とても楽しかったと言っていた」紫弦の横を風が吹き、周りの木の葉が舞い散る。紅天は立ち尽くす彼にこっと微笑んで、未だ揉めている二人に向かって手を鳴らした。「そこまでだ、お前達。これ以上騒ぐつもりなら吊るすぞ」「もっ……申し訳ございませんでした!」二人の声が重なる。一度にたくさんの嵐が来たような感覚から中々抜け出せず、紫弦は何度も目を擦った。「紫弦、大丈夫か?」それでも彼の目を見ると、心から安心する。「……もちろん!」その後は二人で一羽の霊鳥に乗り、再び鹿台へ戻った。千華は紅天と天界へ戻る運びとなった。悲しいけど、それは仕方ない。彼が元気でいられるなら、それだけで充分だった。さらになにか願えばバチが当たる。紅天は国王と皇后に事情を説明した。彼らも一安心したようで、千華と別れの挨拶を交わした。このまま時間が止まってほしいなんて、まだ未練がましく思っている。けどそんなこと、千華には既に見抜かれていそうだから黙っていた。紅天が霊鳥に跨る。ところが、千華の兄弟弟子の夕禅は当然のように紫弦の隣に立っていた。どうしたのか不思議に思っていると、紅天が思い出したようにこちらを向いた。「そうそう、さっき陛下とお話していたんだ。この先妖魔が現れても、千華はもうこの国を守ることはできない。だから夕禅を派遣することにした」「え?」紫弦と千華は呆気にとられて夕禅を見返す。すると彼は凄いだろうと言わんばかりに腕を組んだ。「彼の師から頼まれたんだ。夕禅も出来の悪い弟子だから、責任のある仕事を任せて成長させてほしいと」「師叔
池の周りにある茂みから出てきたのは、千華と同じく道士服を着た青年だ。彼は千華と紫弦の間に割り込むようにして現れた。そして地面を指さし、青ざめながら叫ぶ。「ななな、何だあれ!?」「ん? ……蛙か?」青年に抱きつかれた紫弦は横にずれて、彼が指差す先を確認した。そこにはとても小さな蛙が、元気よく跳ねている。「そんな驚くもんじゃないだろ。ていうか、お前は誰だ」力ずくで青年を引き剥がし、紫弦は距離をとった。暗がりでよく分からなかったが、ようやく顔が見える。千華は彼に近付いて目を凝らした。「……夕禅!? どうしてここに?」何だか聞き覚えのある声だと思ったら、そこにいたのは天界の道場で一緒だった兄弟弟子、夕禅だった。「よっ、久しぶりだな千華。あれが本物の蛙なのか。へー、おそろし……」「千華、知り合いか?」紫弦は千華の隣へ移動し、夕禅を警戒する。しかし彼を宥め、すぐに説明した。「俺と一緒に修行していたんだ。なあ夕禅、お前何で人界に来ることができたんだ?」「ふふふ、驚いただろ。紅天様に連れられてきたんだ。まあ人界へ行くように言ったのは公雅翔様なんだけど」「公雅翔?」紫弦は眉を寄せる。「俺達の師だ」千華は力なく呟く。恐らく彼は師に命じられてやってきたのだろう。 天界に戻ったら一番に彼の元へ行って、罪を償わなければならない。密かに奥歯を噛み締めた。「千華、紅天様に縛られてたな。俺も影で見てたぞ」「見てたのか……」「愉快痛快って感じだった。何よりお前、俺が酒で酔い潰れてる間に道場から逃げやがっただろ! ふざけんなよ!」夕禅はとても露骨に憤激している。しかしやはり、これが当然の反応だ。紫弦も困ったように眺めている。「あの後俺は公雅翔様に呼ばれて、何っ……時間も説教されたんだ。お前の行先を尋問されてさぁ! 俺も騙されたのに、何も知らないのに、だぞ! 剥かれたりしばかれたり、本当に酷い目に合った! わかるか?」剥かれるの意味が分からなかったが、彼も自分が苦しめたひとりだ。千華は深く頭を下げた。「謝っても許されることじゃないけど……本当にすまない、夕禅」「ああ、絶対許さん。これから帰って師叔から罰を受けるんだな。命があると思うなよ」「い、命って……」紫弦は駆け出し、夕禅の腕を掴む。「罰って、一体何なんだ?」「うん? この国の皇子様だっけ。
紅天は振り返り、近くの柱に背を預けた。霊鳥も一旦地に下りて羽をたたむ。「さっきの……息子の紫弦は城の中で育てたせいか、国外へ学びに行かせた弟よりずっと世間知らずに思う。だが人を見る目は鍛え上げたつもりだ。あいつが大きな信用を寄せる千華殿は、誠実な青年だと信じております」「……ありがとうございます。陛下にそのように言っていただいて、私も嬉しく思います。あの馬鹿は怠惰で、怖がりで、嫌なことからすぐ逃げようとする奴でした。王子の言う通り、そんな彼奴を一人前にしたくて、私が修行に送り出したんです」腕を組み、夜空を見上げる。空にはまだ星が瞬いていた。皇后も彼と同じ空に視線を向ける。こんな夜更けに鹿台へ来たのは初めてだった為、驚いた。ここは星がよく見える。今度息子達にも教えてあげようと密かに思った。「神道の鍛練が目的でしたが、千華に上級の術は使えないと思っていました。……いや、本音を言うともっと早くに逃げ出すと思っていた」「え? それは、どういう……」国王が目を見開いて尋ねると、紅天は立ち上がって笑った。「時に陛下。この国でお困りのことがありましたよね?」満月は太陽より大きく見える。そう思うようになったのは一体いつからか……千華は思い出せずにいた。どちらにしても美しい、この世界では不変の存在。月と太陽があるから、昼も夜も好きになった。大好きな世界を、人を照らしてくれる。息を切らして石畳の上を走り、ひたすら空を見上げていた。いっそこのまま誰もいないところまで行ってしまいたい。だが願いは風に攫われ、大切な想いは時が経つごとに色褪せていく。きっとこの温もりも奪われてしまう。そう思ったら、上を見ずにはいられなかった。俯いたら頭がおかしくなってしまう。「千華。……千華! もういいだろ、苦しい……っ」後ろに手を引かれ、千華は足を止めた。無意識のうちに、紅天達がいる鹿台からずいぶん走ってきてしまったようだ。手を引っ張っていた紫弦が近くの壁に手をついて息を切らしている。「ご、ごめんごめん」「ふぅ……一体どこまで行くのかと思ったよ。情けないけど、俺はお前ほど体力ないからな」額を伝う汗を腕でぬぐい、紫弦は仰け反る。「久しぶりに良い運動した。……お、今夜は月が綺麗だな」偶然見上げた先に満月を見つけ、紫弦は嬉しそうに背伸びした。千華も息を切らしていた。だ
それもこれも全ては自分のせいだ。巻き込んでしまった彼らには申し訳が立たず、言葉が見つからなかった。鹿台には客人を歓迎する為の席が設けられ、父は促されて着座した。一方で自分は、そのすぐ近くの柱に無理やり括り付けられた。神器の縄はそのまま、逃げられないように強い力が込められている。「千華、大人しくしてろ。抵抗は許さない」低く、抑揚のない声が降り掛かる。千華は静かに頷いた。紫弦は席につくよう国王に言われたが、千華の隣に立っている。「お久しぶりです、陛下。十四年前にお会いしているのですが、ご記憶にごさいますでしょうか」「もちろん。紅天殿ですよね。あの時は祝福の言葉と礼物をいただき感謝しております。……しかしまさか、千華殿があの時一緒にいた方だったとは……。紅天殿に気を取られて、記憶していなかったようです。申し訳ない」陛下は苦笑している。千華はいよいよ罪悪感で潰されそうだった。十四年前のことも黙っていたから、陛下は二重で隠し事をされた、と感じてるはずである。「……俺の父上もそうだが、千華の父上も本当に若いな。むしろ俺達と同じに見えるぞ」「あぁ。歳はとらないから……」紫弦が驚きながらこそこそ話してきたので、声を潜めて答える。会うのは何年ぶりだろう。だがいつ見ても変わらない、端麗で優雅な出で立ちの父。いつも鉄面皮だが、今回初めて怒りの表情を見た。何事も動じない彼を怒らせたのは、きっと自分だけだ。「此度のことがなければ、次代の戴冠式で来訪するつもりでした。お騒がせして本当に申し訳ない」全てはこの愚息のことで、と紅天は千華を一瞥した。千華は身体を震わせて俯く。既に紫弦からも国王に話していたが、紅天の来意は修行から逃げ出した千華を連れ戻しに来たことだと告げた。「この馬鹿息子は修行に耐えかね、奸計をめぐらし神門から逃げ出したのです。しかも霊鳥を盗み、天界と人界を結ぶ門番も騙して」「で、でも……水を差して申し訳ありません。千華は、自分の意志で神門に入ったわけじゃないんですよね?」すかさず紫弦が尋ねた。「千華が自分の意志で修行に入ったのなら、途中で逃げ出したことは完全に罪だと思います。でも彼は元々自信もなくて、ひとりでずっと悩んでいたそうなんです。たくさんの方に迷惑をおかけしたことは償わないといけませんが、その……彼を悪と決めつけるのはあまりにも乱暴かと