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第2話

Author: コミュ障・小野
夏織が自宅に戻った頃には、すでに夜も更けていた。

ソファに腰を下ろすと、無意識のうちに拓海との数々の思い出が頭をよぎる。

大学卒業後、家族に内緒で帰国したのも、数年は自由に過ごしたいと思っただけだった。まさか拓海と出会うことになるとは思いもしなかった。

医師としての職業意識から、夏織は彼を放っておくことができなかった。

気づけば、五年の月日が流れていた。

その間、両親から何度も帰ってくるよう電話があったが、夏織はすべて断り続けてきた。

一か月前、自分が白石家の令嬢であることを明かし、拓海との婚約を申し出た。

あの日、拓海はたくさんお酒を飲み、何度も何度も「ごめん」と言いながら夏織を抱きしめた。

夏織は、彼にサプライズを用意していたつもりだった。

まさか、彼のほうから予想外の「衝撃」を受けることになるとは――

「夏織……」

玄関のドアが開き、酒臭い体で拓海がふらふらと入ってきた。

彼の肩を抱えている女の子は、夏織の知らない顔だった。

女の子は顔を上げ、あどけなく澄んだ表情を見せる。

「橘さん、新堂さんは今日お酒を飲みすぎてしまって……家までお送りしました」

額には汗が滲み、拓海をそっとソファに寝かせる。

顔は真っ赤で、口の中では何度も「夏織…夏織…」と呟いている。

女の子はほっと息をつき、笑顔で言った。

「橘さんと新堂さん、仲が良いんですね」

夏織は冷ややかな視線で拓海を見つめ、心の中で自嘲した。

――そうだ、誰もが知っている。拓海は夏織を溺愛していると。

彼の病状が安定してから唯一怒って手を出したのも、夏織のためだった。

バーで男にしつこく絡まれた夏織を見て、拓海は相手を床に叩きつけて殴りつけた。

目は血走り、拳は血だらけ、まるで理性を失った猛獣のようだった。

誰が止めようとしても、彼の怒りは収まらない。

けれど、夏織の声だけが彼を落ち着かせることができた。

まるで叱られた子供のように、拓海は怯えて泣きそうな顔をしていた。

「ごめん、夏織……わざとじゃないんだ……」

「悔しかったんだ、あいつが君に……」

あのとき彼の目に浮かんだ焦りが本物だったのかどうか、夏織はもう考えたくもなかった。

女の子は拓海を部屋に送り届けると、そのまま帰っていった。

以前だったら、夏織は拓海をベッドまで運び、着替えさせ、顔を拭いてあげただろう。

慌てて酔い覚ましのスープを作り、彼が目覚めた時に少しでも楽になるよう気を配ってきた。

けれど今回ばかりは、夏織は黙って自分の部屋へと戻った。

もう二度と、彼の世話を焼くつもりはない。たとえ一度も、もうしない。

翌朝、夏織は自分の体に重みを感じて目を覚ました。

目を開けると、そこには自分の上に覆いかぶさる拓海の姿。

「夏織、昨日、俺をソファに置きっぱなしだったよね?」

「頭が痛い……体も痛い……夏織、助けてよ……」

その顔はひどく拗ねていて、誰かが見たら驚くだろう。

外では横柄な「御曹司」の拓海が、夏織の前ではまるで甘えん坊の犬のよう。

夏織は昔、そんな彼に何度も心を動かされた。

でも、今の彼のその態度が、ただただ虚しい。

「重いから、どいて」

夏織は冷たく言った。

「夏織、怒ってるの?昨日送ってきたのはバーの店員さんだけで、俺、本当に何もしてないよ」

拓海は首を埋めて、夏織の首筋にすり寄ってくる。

だが、夏織が答える前に、拓海の友人から電話がかかってきた。

「拓海、今日は約束したレースの日だろ。まだ来ないのか?」

「昨日飲みすぎちゃって。すぐ行くよ」

拓海は急いで夏織の上から離れ、出て行こうとしつつ、手を取った。

「夏織、一緒に来てくれない?君がいないと不安なんだ」

すでに新堂夫人からお金を受け取ってしまった夏織は、残り六日間は約束を守るつもりだった。

少し迷ったが、夏織は頷いた。

まさか昨日、拓海を送ってきたあの女の子もいるとは思わなかった。

「こちら、白石綾乃(しらいし あやの)。真面目そうだし、連れてきちゃったけど、気にしないよね?」

友人が拓海の肩を叩き、綾乃の方に目配せする。

綾乃はシャツの裾を握り、はにかんだ笑顔を見せる。

「好きにして」

拓海は冷ややかにそう言い、綾乃に一瞥もくれない。

友人は夏織を一度見やると、拓海の耳元でささやいた。

「なあ、昨日の夜、俺聞いちゃったんだぜ。綾乃が電話しててさ、『見た』『婚約』『悪くない』って……」

拓海は一瞬ぎょっとして、横にいる人たちを見渡した。

友人がひそかに目配せを送り、拓海はじっと考え込む。

まさか……白石家の令嬢が身分を隠して、彼を試していたのではないか?

そうこうしているうちに、レースが始まることになった。

「拓海、お前が一番運転上手いんだから、綾乃も一緒に乗せてやれば?」

夏織は思わず眉をひそめ、拓海を見つめた。

でも、拓海の意識は夏織ではなく、綾乃に向けられていた。

「いいよ」

「夏織はレース嫌いだろうし、ここで待ってて」

実際、夏織はレースが嫌いなわけではない。

むしろ、刺激的なことは好きだった。

ただ、拓海には病気があるため、この手のアクティビティは治療に良くない。

それでも、彼の甘えに弱かった夏織は、ずっと我慢してきたのだ。

なのに、今はまるで彼女がレース嫌いな人間扱いされている。

夏織は拓海と綾乃の間をじっと見つめ、やがて静かにうなずいた。

「……わかった」

砂埃が舞い上がり、数台の車が夏織の目の前を勢いよく駆け抜けていった。

一周、二周、いつも拓海がトップだった。

しかし、三周目になっても車が戻ってこない。

夏織の胸に不吉な予感が広がる。

「大変だ!!拓海の車が横転した!早く誰か呼んで!」

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