All Chapters of 鏡花水月に咲く愛: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

世間では、新堂家の御曹司・新堂拓海(しんどう たくみ)は気難しく、気分屋で、誰に対しても冷淡だと言われている。だが、橘夏織(たちばな かおり)がそばにいるときだけは、まるで従順な猫のように穏やかになるのだった。五年の歳月をかけて、カウンセラーと患者から始まったふたりの関係は、やがてお互いにとってかけがえのない存在となり、その愛は業界でも有名な美談となっていた。父の遺影の前で、拓海は母親に無理やり三本の肋骨を折られた。母は涙を流しながら手に持っていた棒を床に落とし、「出ていきなさい。もう新堂の家には戻らないで」と、彼を家から追い出した。それでも拓海が最初にしたことは、病院へ行くことではなかった。傷だらけの体で、土砂降りの雨の中、彼はただ一人、夏織の家の前まで歩いて行ったのだった。その後五年、彼はほとんど母親と顔を合わせることはなく、ただ夏織のためだけに生きていた。だが、パーティーで夏織の出自を嘲笑する者が現れると、拓海はまるで狂犬のようにその相手を殴り倒してしまう。けれど、夏織が彼の名前を呼ぶと、その狂犬は首輪をつけられたかのように大人しく膝をつくのだった。血まみれのまま夏織の前に跪き、泣きながら「自分を捨てないでくれ」と懇願し、挙句の果てには自ら胸にナイフを突き立てて謝罪するほど。その愛は激しく、ロマンティックで、夏織自身も夢のような運命だと感じていた。――だが、ある日のこと。レストランを出ようとした夏織は、偶然、拓海の会話を耳にしてしまう。「本気で橘夏織と一生一緒にいるつもりか?お前、白石家の令嬢とは許嫁だろ」「忘れてないよ」「母さんが彼女を俺の治療のために呼んだだけだ。今まで白石家の令嬢が海外にいたから、付き合ってただけ。そろそろ終わりにするつもりだ」拓海の声から、かつての優しさや思いやりは一切消えていた。そこにあったのは、ただ冷ややかな嘲笑だけ。まるで王様が足元で滑稽に跳ねる道化を見下ろすような、残酷な響きだった。夏織の身体はその場で固まった。「いいじゃん拓海、外で遊んでも家にはお嬢様が待ってるんだしさ」「でもさ、夏織ちゃん、本気でお前のこと好きみたいだよ?もし付きまとわれたらどうすんの?」「その時は外に囲っとけばいいだけ。うちみたいな家なら、家に一人、外にも一人、そん
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第2話

夏織が自宅に戻った頃には、すでに夜も更けていた。ソファに腰を下ろすと、無意識のうちに拓海との数々の思い出が頭をよぎる。大学卒業後、家族に内緒で帰国したのも、数年は自由に過ごしたいと思っただけだった。まさか拓海と出会うことになるとは思いもしなかった。医師としての職業意識から、夏織は彼を放っておくことができなかった。気づけば、五年の月日が流れていた。その間、両親から何度も帰ってくるよう電話があったが、夏織はすべて断り続けてきた。一か月前、自分が白石家の令嬢であることを明かし、拓海との婚約を申し出た。あの日、拓海はたくさんお酒を飲み、何度も何度も「ごめん」と言いながら夏織を抱きしめた。夏織は、彼にサプライズを用意していたつもりだった。まさか、彼のほうから予想外の「衝撃」を受けることになるとは――「夏織……」玄関のドアが開き、酒臭い体で拓海がふらふらと入ってきた。彼の肩を抱えている女の子は、夏織の知らない顔だった。女の子は顔を上げ、あどけなく澄んだ表情を見せる。「橘さん、新堂さんは今日お酒を飲みすぎてしまって……家までお送りしました」額には汗が滲み、拓海をそっとソファに寝かせる。顔は真っ赤で、口の中では何度も「夏織…夏織…」と呟いている。女の子はほっと息をつき、笑顔で言った。「橘さんと新堂さん、仲が良いんですね」夏織は冷ややかな視線で拓海を見つめ、心の中で自嘲した。――そうだ、誰もが知っている。拓海は夏織を溺愛していると。彼の病状が安定してから唯一怒って手を出したのも、夏織のためだった。バーで男にしつこく絡まれた夏織を見て、拓海は相手を床に叩きつけて殴りつけた。目は血走り、拳は血だらけ、まるで理性を失った猛獣のようだった。誰が止めようとしても、彼の怒りは収まらない。けれど、夏織の声だけが彼を落ち着かせることができた。まるで叱られた子供のように、拓海は怯えて泣きそうな顔をしていた。「ごめん、夏織……わざとじゃないんだ……」「悔しかったんだ、あいつが君に……」あのとき彼の目に浮かんだ焦りが本物だったのかどうか、夏織はもう考えたくもなかった。女の子は拓海を部屋に送り届けると、そのまま帰っていった。以前だったら、夏織は拓海をベッドまで運び、着替えさせ、顔を拭い
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第3話

夏織の体は、思考よりも先に動いていた。人が集まる方へと駆け出す。果てしなく長いサーキットを走るうち、心臓が胸から飛び出しそうになり、肺まで痛みが襲う。拓海の笑顔、怒った顔、悲しそうな顔、ふざけて彼女を笑わせてくれた時の顔――そのすべてが、夏織の脳裏をよぎる。「患者を愛してはいけない」医者として、絶対に破ってはいけない掟。それでも夏織は、気持ちを止めることができなかった。あの日、夏織が強盗に襲われたとき、命を顧みず自分の前に立ちはだかったのは拓海だった。「絶対にケンカしちゃダメ」と言われていたから、頭から血を流しても、拓海は一度も手を出さなかった。最後には真っ青な顔で、夏織の腕の中に倒れ込んだ。唇には、微笑みさえ浮かんでいた。「夏織、怖がらなくていい。俺がいるから」自分の命さえ惜しまず、守ってくれた彼。どうして、そんな彼を好きにならずにいられようか。――拓海さえ生きていてくれれば、それだけでよかった。けれど、夏織がやっとの思いで事故現場にたどり着いた時、目にしたのは――綾乃の膝枕で目を閉じる拓海の姿だった。拓海の足には枝が貫通し、顔にも傷跡がある。一方の綾乃は、腕にかすり傷がある程度。綾乃は泣き叫び、取り乱していた。「お医者さん!早く新堂さんを助けてください!」「私を守ってくれなかったら、こんなにひどい怪我にならなかったのに……」――時が巻き戻ったような感覚に襲われる。命を懸けて守る相手が、もう自分ではないことを痛感させられる瞬間だった。夏織は呆然と立ち尽くし、無表情で拓海が救急車に運ばれるのを見ていた。その後を、泣きじゃくる綾乃が追いかけていく。すべてが自分とはもう無関係になったようだった。それでも一応「恋人」として、夏織も病院に向かった。手術室の前で、綾乃は椅子に座って泣き続け、夏織は隣で無表情のまま静かに座っていた。知らない人が見たら、綾乃こそが拓海の恋人だと思うかもしれない。新堂夫人が駆けつけてきたとき、彼女が目にしたのは冷淡な夏織の姿だった。怒りで震えながら、夫人は夏織に近づき、いきなり頬を平手打ちした。乾いた音がその場の空気を切り裂いた。夏織は顔をそらし、白い頬にはくっきりと手形が残る。「夏織!私がしっかり拓海を見ててくれ
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第4話

拓海は足を怪我し、しばらく車椅子で生活することになった。綾乃は「私が看病します」と自ら申し出て、そのまま新堂家に住み着くことに。初日、綾乃はおどおどとした目で、ためらいがちに言う。「橘さん、新堂さんは私のせいで怪我したんです。本当に、新堂さんの体が治ったら、すぐ出ていきますから!」夏織が何も返さないうちに、拓海が先に口を挟んだ。「出ていく必要なんてないよ。君のご両親はもういないんだろ?若い女の子が一人で暮らすなんて危ないし、うちは部屋がたくさんある。気にせずここにいなよ」綾乃の目が一瞬ぱっと明るくなり、しかし無意識に夏織の表情をうかがう。冷淡な顔のままの彼女を見て、やっと微笑みを浮かべた。「そ、それじゃあ、お言葉に甘えます……ありがとうございます、新堂さん!」綾乃はそのまま拓海の車椅子を押して部屋を出ていった。最初から最後まで、拓海は夏織に一度も目を向けなかった。すでに心はボロボロなのに、また新たな痛みが突き刺さった。綾乃が新堂家で暮らし始めて、もう二日が経つ。婚約パーティーまで、あと五日。朝から二人の姿が見えず、夏織は綾乃のSNSでようやく拓海が彼女をショッピングに連れていったことを知った。九枚の写真、どれにも拓海が写っていて、その目は綾乃にだけ向けられている。日が沈む頃、二人が帰宅したとき、綾乃は頭からつま先まで「新しい自分」に変身していた。地味だったTシャツとジーンズは姿を消し、身につけているのはシャネルの新作ワンピースとエルメスのバッグ。運転手の手には紙袋がいくつもぶら下がっている。「きゃっ、橘さん、まだご飯食べてませんよね?すみません、私、久しぶりの買い物でつい夢中になっちゃって……今すぐ何か作ります!」そう言いながらも、まったく動こうとしない。予想どおり、拓海が口を挟む。「放っておけばいいよ。お腹が空いたら自分でデリバリー頼むでしょ」綾乃の目に、ほくそ笑むような光が浮かんだ。その夜、拓海が夏織の部屋をノックした。綾乃が家に来て以来、拓海は別の部屋で寝るようになっていた。無表情な夏織に、彼は柔らかく笑いかける。「どうしたの、夏織。そんな怖い顔して……もしかして怒ってる?」拓海が手を伸ばして夏織の頬に触れようとしたが、彼女は一歩下がって避けた。彼は
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第5話

綾乃の立場は、もう以前とはまるで違う。さっきまで夏織を追い詰めていた女たちも、顔を見合わせてため息をつき、何も言わずにその場を離れていった。綾乃の後ろ姿を見つめながら、夏織の胸の中には複雑な気持ちが渦巻く。彼女に対する思いは簡単に言い切れないが、浮気したのは拓海であって、綾乃じゃなくても、きっと他の誰かだったのかもしれない。「ありがとう」少し迷ってから、夏織は自分からそう口にした。綾乃はくるりと振り返り、にっこり微笑む。「橘さん、そんなに気にしないでください。私が誤解されているのは分かってますけど、私はあなたの敵になりたいわけじゃありません」そう言って、綾乃は手を差し出してくる。そのまっすぐな笑顔に、夏織は思わず深呼吸して、ゆっくりと手を伸ばし、綾乃の手を握り返す――だが、その瞬間。綾乃の笑顔が急に変わった。無垢さは消え、侮蔑の色が浮かぶ。綾乃はぐっと夏織の手を引き寄せ、顔を近づけて耳元でささやく。「ふふ、橘さん、ほんとにお人好しね」夏織が驚いている間に、綾乃の体は後ろへと大きく傾いた。背後に広がるのは、どこまでも続く海。綾乃の顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。気づいた時には、すでに手遅れだった。「きゃーっ!誰か海に落ちた!」「早く助けて!」夏織はその場に呆然と立ち尽くす。すぐ脇を走り抜けていった影――それは、拓海だった。夜の冷たい海に、迷いなく飛び込んでいく。現場は一気に混乱する。夏織の脳裏に焼きついているのは、落ちる直前、綾乃が見せたあの蔑みの笑みだけ。どれくらいの時間が経ったか分からない。やっとのことで、拓海と綾乃は海から救い上げられた。綾乃は拓海の腕に抱かれたまま気を失い、顔色は真っ青だ。人ごみを抜けて、夏織はそっと前に出る。「拓海、私……」この誤解は自分じゃないことを言いたかった。全部、綾乃の仕掛けた罠だと説明したかった。五年も一緒に過ごしたのだから、拓海なら自分のことを分かってくれると信じていた――けれど、その思いは、最後まで言葉にならない。拓海がきつく睨みつけてきた。その目に浮かぶのは、愛情ではなく、ただ苛立ちと怒り。冷たい視線だけで、夏織の喉は塞がれ、何も言えなくなる。拓海は慎重に綾乃を地面に横
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第6話

病院の廊下、拓海は眉間に深い皺を寄せ、抑えきれない不安をその目に滲ませていた。ベッドの上で、綾乃はまるで壊れた人形のように青白い顔で横たわっている。拓海はゆっくりと振り返り、夏織の方へ手を伸ばす。「まだ痛むか?」夏織は一歩下がり、その手を避けた。だが、拓海は気まずがる様子もなく、大きくため息をつく。「夏織、俺を責めないでくれ」「綾乃の家柄を考えれば、俺が君に手をあげなければ、きっと白石家が何をしてくるか分からなかった」「全部、君を守るためなんだ」どれほど情熱的に聞こえても、その言葉は夏織にとって、世界一滑稽な嘘にしか思えなかった。彼女は口元を歪め、皮肉めいた笑みを浮かべる。「そう……じゃあ私、あなたに感謝しなきゃいけないってこと?」その冷ややかな声に気づくことなく、拓海は淡々と続けた。「分かってくれればいい」「綾乃の熱が下がるまで、ずっとここで跪いてろ」まるで当然のような命令に、夏織は思わず声を出して笑ってしまった。拓海の顔色が変わる。「何を笑ってるんだ?」「お前、俺のそばにいたいんだろ?これくらい我慢できるよな?」「我慢できない」夏織はじっと拓海を見据え、低い声で言った。その真剣な瞳に、拓海の胸にかすかな不安が湧く。まるで今にも、自分の手から彼女がこぼれ落ちてしまいそうな――そんな予感。けれど、その不安を彼自身がすぐに否定した。夏織が自分を離れるはずがない。あれほど自分を愛してくれたのだから。母親に公衆の面前で侮辱されても、必死に堪えてくれた――あの姿を、今でも覚えている。ワインを頭からかけられても、目に涙を浮かべながら、ただ立ち尽くしていた。すべては新堂夫人に、ふたりの愛を認めてもらうためだった。そんな思い出をよぎらせながら、拓海の苛立ちは徐々に薄れていく。「夏織……俺を困らせないでくれ」「心配しないで、拓海。あなたはもう悩む必要なんてない」「今日から、私はあなたと何の関係もない。二度とあなたの前に現れることもない」「これで、あなたも悩まずに済むわ」本当はもっと淡々と伝えたかった。けれど、どうしても涙が滲んでしまう。夏織は必死に目を見開き、拓海の前で泣かないよう堪える。背を向け、歩き出した瞬間――溢れ出した涙が頬を濡
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第7話

夏織の頭の中で、耳鳴りのような轟音が響いていた。誘拐犯たちの声が、ぐるぐると夏織の耳にまとわりつく。――「婚約者にひどいことをしたから、たっぷりお仕置きだとよ」……何を言っているの?「婚約者に害を与えた?」「懲らしめてやれ?」意味が頭の中でぐちゃぐちゃになりながらも、拓海の顔がふと浮かぶ。どうしても、それが現実だとは信じたくなかった――五年も一緒に過ごしてきたのに、彼が自分にそんな仕打ちをするなんて。胸に重たい石が沈み込んだようで、息さえ苦しくなる。その時、一人の男が異変に気づき、夏織の頭から麻袋を乱暴に外した。突然、目が合う。男はしばらく黙っていたが、ニヤリと笑って言う。「お、起きてたのか。まあ、心配すんな。俺たちは金で動く。言うこと聞いてれば、三日で解放してやる」「そうそう、下手な真似したら……どうなるか分かってるよな」もう一人が、手にしたバットをゆっくり振ってみせる。脅迫めいた雰囲気がその場に広がる。夏織は顔面蒼白で、唇の血の気もすっかり失せていた。ここで抵抗しても勝ち目はない。三日間だけ、耐えればいい――そう自分に言い聞かせる。「分かった……」大人しく従う素振りを見せると、男たちは露骨に機嫌を良くした。バットを持った男が近づき、夏織の顎を無理やり掴む。「へぇ、なかなかの美人さんだ。こんなふうに大事にしてくれる奴がいないのは、世の中ってやつだよな」「なぁ、俺たち兄弟についてこないか?金持ちにはなれなくても、うちは人数だけは多いぜ。好きなだけ抱いてやるよ」下卑た笑いとともに、男の視線が夏織の体をなめ回す。夏織は恐怖で歯がガチガチと鳴っていたが、身体は微動だにできなかった。「依頼した人は、あなたたちに私に手を出すなって言ってるはずよ」「あとで面倒にならないの?」「ふっ、お前、本気であの男が自分を大事に思ってるとでも?」そう言いながら、男はバットで夏織の背中を叩いた。「『たっぷり懲らしめてやれ』って言われたから、何しても文句はねぇんだ」「兄貴、どうする?俺、女に飢えて仕方ねぇんだよ」もう一人は、呆れたように肩をすくめて笑った。「好きにしろよ。殺さなきゃ、何してもいいってさ」恐怖が一気に全身を包み込み、夏織は必死に床から身体を起こした。縛
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第8話

その夜、拓海は何度もスマートフォンを手に取り、画面を見つめてはため息をついていた。自分で夏織を誘拐させたにもかかわらず、心の奥底では彼女のことが気がかりで仕方がない。――すべては夏織が「分をわきまえなかった」せい。そうでなければ、こんな決断をすることなんてなかったはずだ。結局、悪いのは夏織だと、拓海はすぐに自分を納得させた。婚約パーティーが終わったら、彼女を旅行にでも連れていき、埋め合わせをしよう――そう決めていた。「拓海、私、本当にもう大丈夫だから……」綾乃の声が、拓海の思考を現実へと引き戻す。彼はスマホをポケットにしまい、ベッドに横たわる綾乃に優しく声をかける。「まだ無理はしないで。やっぱり体が一番大切だから。それに、あと三日で婚約パーティーだし、君のご両親にも、ちゃんと大事にしているって思ってもらいたいからね」綾乃は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。「はい……」従順で素直な綾乃の様子に、拓海の胸には一抹の違和感がよぎる。――聞くところによれば、白石家のお嬢様は明るくて、気が強く大胆な性格のはず。けれど目の前の綾乃は、まるで別人のように大人しく、控えめだった。だが、拓海はすぐに「自分を好きすぎるからだろう」と納得してしまう。そうでなければ、ウェイトレスに化けてまで自分に近づこうとするはずがない。彼の表情はさらに優しくなり、そっと綾乃の頭を撫でた。この三日間、拓海は一度も誘拐犯に連絡を取って夏織の様子を確かめようとしなかった。ただ綾乃のそばを離れず、周囲からは理想のカップルとして羨望の視線を向けられるばかりだった。婚約パーティー当日、拓海は特注のオートクチュールドレスを綾乃に贈る。綾乃の目が一瞬輝き、そのドレスを大切そうに撫でる。「すごく素敵……ありがとう、拓海。本当に嬉しい」「気に入ってもらえてよかった。君はたくさんドレスを見てるだろうから、普通だと物足りないかと思ってた」綾乃はそっと俯き、ぎこちない笑みを隠す。白石家と新堂家の婚約パーティーには多くの招待客が集まっていた。拓海が綾乃をエスコートして現れると、会場の視線が二人に集中する。「えっ……今日は新堂さんの婚約式なのに、その隣の方は……?」拓海は綾乃を見つめ、はっきりとした声で宣
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第9話

拓海はその場で呆然と立ち尽くしていた。会場のざわめきさえ、今は完全に消え去っている。彼の目の前で、夏織はゆっくりと白石当主夫妻のもとへ歩み寄る。いつもはTシャツとジーンズ姿だった彼女は、今夜はハイブランドの特注ドレスを纏い、誰よりも鮮やかに輝いていた。拓海のすぐそばを通り過ぎるとき、夏織は一度も彼に視線を向けなかった。彼女は舞台のスポットライトの中に立ち、静かに一本の録音ペンを取り出す。そのまま、拓海を冷たく見下すような視線を投げかけ、皮肉な笑みを浮かべる。「皆さん、今日は私と新堂さんの婚約パーティーですけど、その前に、ひとつだけお聞かせしたい録音があります」次の瞬間、会場全体に新堂夫人の声が響き渡った。「ふん、心配いらないわ。あの夏織なんて親もいない子が、五年も拓海のそばにいられたのは奇跡よ。自分の身の程ってものを知ってほしいわ。うちの拓海がどれだけ『素晴らしい子』かもわからないのよ」下手に顔色を隠しきれない拓海は、唇をかみしめていた。夏織は会場の方を見渡し、「皆さんが聞いた通りです。新堂家は私を認めていないみたいですから、この婚約パーティーは、これで終わりにします」そう言い終わると、無表情で録音ペンを床に投げ捨て、白石当主夫妻とともに会場をあとにした。夏織の背中が扉の向こうに消えるまで、拓海は一歩も動けなかった。やっと我に返った瞬間、彼は急いでそのあとを追いかけようとした。だが、その腕を綾乃が必死に掴む。「拓海、わたし……!」「どけ!」さっきまでの甘い言葉はどこへやら、拓海は綾乃を乱暴に突き飛ばし、振り返ることもなく夏織の後を追いかける。「夏織!夏織!」その呼びかけにも、夏織は一度も振り返らなかった。やがて、拓海は廊下で夏織の手首を掴むことができた。「新堂さん、何かご用ですか?」夏織は冷たく振り返る。その目には、一片の情も残っていない。「夏織、どうして自分が白石家の娘だって、もっと早く言ってくれなかったんだ!?俺を騙して、楽しいか?」あまりにも身勝手な言葉に、夏織は思わず笑ってしまう。「浮気したのはあなたでしょ。人を責める資格なんて、あなたにある?」「俺はてっきり、綾乃こそが白石家のお嬢様だと……!」自分の非を一切認めようとしない拓海に、夏織はついに全
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第10話

手術室の明かりが深夜になってようやく消えた。拓海は廊下で立ち尽くし、何度も夏織に電話をかけていたが、相手は一向に出なかった。唇を強く噛み、眉間にしわを寄せ、壁を思いきり殴る。「夏織……よくも俺を騙してくれたな……」怒りと苦しみ、そして消えない後悔が、彼の心の中を何度も押し寄せてきた。その時、手術室のドアが開き、医師が意識を失った綾乃をベッドで押し出してきた。「新堂さん、手術は無事に終わりました」「ただ……綾乃さんの両脚のダメージが大きすぎて、命は助かりましたが、もう二度と自分の足で立つのは難しいでしょう」拓海はその場で固まったまま、意識のない綾乃を見つめた。「分かりました」その声には、一切の動揺も、罪悪感もなかった。医師でさえ、思わず彼を二度見する。なにせ、綾乃がこうなったのは拓海のためだったのだから。その夜、綾乃は高熱を出し、拓海は夏織を探しに行きたくても、結局病院に残るしかなかった。表情はますます暗くなるばかり。そんな時、駆けつけた新堂夫人が、病室でうつむく息子を見つけた。「拓海」彼が顔を上げると、その瞳はひときわ強い光を宿していた。「母さん!夏織は……」「事情は全部聞いたわ」新堂夫人は低い声で、呟くように言った。「まさか、彼女こそが本当の白石家の娘だったなんて……見事な演技だったわね」「で、これからどうするつもり?」拓海はベッドの綾乃を見やり、明らかな嫌悪の色をその目に浮かべた。「最初に嘘をついたのは彼女だ。だから俺は勘違いしただけだ」「でも、一度命を救われた恩もある。金を渡して、終わりにするつもりだ」新堂夫人はその答えに満足し、うなずく。――拓海の嫁になるのは、こんな家の出身の女ではありえない。「お金なんていらない……」ベッドで横になっていた綾乃が、いつの間にか目を覚ましていた。彼らの会話をすべて聞いていたのだ。声は弱々しいが、意志だけは強かった。綾乃は拓海を見つめ、服の端を掴もうと手を伸ばす。だが、拓海は無情にもその手をはねのけた。綾乃の手は宙を切り、目には深い悲しみが浮かぶ。「拓海……私は本当にあなたが好きなの。お金なんていらない。ただ、そばにいたいだけ……」大粒の涙が、血の気のない顔に一層の哀れさを加える。だが、拓
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