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第2話

Author: ホット兎
美雪の声が、まだ暗室の中に差し込んできた。

「それでダイヤの指輪は?汐梨のより大きくなきゃダメよ」

「彼女のは偽物だ。大した価値もない」

男の軽い笑い声と、気にも留めないような口ぶりが、汐梨が三年間大切に守ってきた最後の拠り所を、無惨に踏み砕いた。

汐梨は俯き、掌の中の指輪を見つめた。

「世の中に二つとない」と言われたこのダイヤの指輪。彼女は毎晩それを握りしめて眠り、彼が残した最後の想いだと信じてきた。

眠れぬ夜の数々も、それに縋って、かろうじて崩れ落ちずにいられた。

けれど、ああ――結局は彼自身と同じ、全部偽物だったのだ。

外から、美雪が遠ざかっていく足音が聞こえる。汐梨はゆっくりと立ち上がり、一歩一歩、洗面所へと向かった。

――ガチャン。

彼女は指輪を便器に叩きつけた。

水流に巻かれ、きらりと光るそれが何度も渦を描き、消えていく瞬間を見届けると、今にも溢れそうだった涙は、不意にすっと引いていった。

冷たい水を顔に浴びせ、鏡の中に映る青ざめた自分を見つめながら、汐梨は宿敵である高江寿樹(たかえ ひさき)に電話をかけた。

「汐梨……今スイスは深夜の三時だ」

向こうの声は眠気を含み、苛立ちすら滲んでいる。「よほどの用じゃなきゃ許さねえぞ?信じないなら今すぐK町に飛んで、お前を絞め殺してやろうか?」

汐梨は深く息を吸い込み、泣き声を必死で抑えて言った。「お願いがあるの」

寿樹は彼女の声の異変に気づき、語気が一気に和らぐ。「どうした?またあのジジイのことで死にたいのか?俺が戻ろうか?」

「いいえ」汐梨は即座に否定した。「記憶喪失の診断書を手に入れてほしいの」

「……はあ?」寿樹は聞き違えたように声を上げた。「そんなもん何に使うんだ?」

「余計なことは聞かないで」彼女は唇を噛みしめた。「できるかどうかだけ答えて」

寿樹は二秒ほど黙り、きっぱりと答えた。「できる」

「それと……」

汐梨は一拍置き、深く息を吸った。「私たち、付き合おう。電撃結婚しよう」

「……はあ?!」

相手が驚きから立ち直る間も与えず、汐梨は強い調子で言葉を継いだ。「一か月後、私がスイスに行く」

そう言い切ると、彼女はそのまま電話を切った。

三日後、記憶喪失の診断書が汐梨の手に届けられた。彼女が宅配便を開けている時、父・瀬戸俊夫(せと としお)から電話がかかってきた。

「汐梨、Cホテルに来なさい。大事な話がある」

汐梨の胸がどんと沈み、得体の知れぬ不安が広がる。

彼女はホテルへ向かい、個室の扉を押し開けた。そこには俊夫と、家政婦の青木雅美(あおき まさみ)、そして美雪がいる。

室内の空気は重苦しく、胸を圧迫する。汐梨は直截に切り出した。「何の用?」

俊夫はシガーをくゆらせ、煙の向こうでしばらく沈黙し、それからようやく口を開いた。

「汐梨、お前ももう大きくなった。そろそろ話しておかねばならないことがある。

実は、美雪は俺と雅美の間に生まれた子なんだ。お前の異母妹だ」

汐梨の目が見開かれ、拳が瞬時に握り締められた。冷たい視線が真っ直ぐ美雪に突き刺さる。

どうりで母・瀬戸敦美(せと あつみ)が、彼女が十歳のときに俊夫と離婚し、あれほど決然と家を去ったのだ。

裏にはこんな汚らしい事情が隠されていたとは。

胸の奥で火の玉のような怒りが燃え上がり、指先まで震えた。

美雪は全身を震わせ、怯えたように声を出した。「お姉ちゃん、私のこと……嫌いにならないよね?」

汐梨は口角を引きつらせ、冷たく笑った。「くだらないこと言わないで。嫌いにならない?そんなの聖人でもあるまいし、ありえないでしょ?」

美雪の目がぱちぱちと瞬き、次の瞬間、涙が糸の切れた珠のようにぽろぽろとこぼれ落ちた。

「私は本当にお姉ちゃんが大好きなの。だから、嫌いにならないで……」

汐梨は少し前へ踏み出し、雅美と美雪に鋭い視線を走らせたのち、俊夫に向き直った。

「どういうつもり?雅美さんと結婚するってこと?」

俊夫は隠すことなく、うなずいた。「そうだ。年も取ったし、やはり女房は必要だ」

汐梨は冷笑を浮かべた。「いいわよ。でも条件があるわ。もし呑まないなら、あなたの不倫をマスコミにばらしてやる」

「お前……」俊夫は想定していなかったのだ。これまで素直で従順だった汐梨が、こんな反抗的な言葉を口にするとは。手にしたシガーを、危うく取り落としそうになった。

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