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降りしきる雨に、君の心を問わず

降りしきる雨に、君の心を問わず

By:  ホット兎Completed
Language: Japanese
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椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。 再び、彼女は別荘の暗室に身を潜めた。ここは二人が初めて出会った場所であり、ここにいるときだけ、少しだけ息をつけるのだ。 「司くん、いつ帰ってくるの?来月には結婚式なのに……」 扉の隙間から嬌声が忍び込んできた。その声は、まるで毒を仕込んだ針のように、予期せぬ瞬間に耳を刺した。 汐梨は全身が硬直し、血の気が一瞬で凍りついたかのような感覚に襲われた。 彼女は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。暗室の細い隙間から、外の様子を覗き込む。 家政婦の娘、青木美雪(あおき みゆき)がソファにもたれかかりながら電話をしている。指先で電話のコードをくるくると巻き取り、笑顔を隠そうとしても、楽しげな表情が自然と浮かんでしまう。 「結婚式、本当にCホテルでやるの?もし汐梨に知られたら、怒鳴り込まれたらどうしよう……」 電話の向こうが一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、十三年もの間、骨の髄まで刻み込まれたあの声が響いた。 「大丈夫、『記憶喪失になった』って言うから」

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Chapter 1

第1話

椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。

再び、彼女は別荘の暗室に身を潜めた。ここは二人が初めて出会った場所。

ここにいるときだけ、三年間ずっと続いていた胸の締め付けるような痛みを、和らげることができる。

汐梨が手のひらのプロポーズ指輪をこすって輝かせ、涙が情けなくもまたあふれてきた。

「司くん、いつ帰ってくるの?来月には結婚式なのに……」

扉の隙間から嬌声が忍び込んできた。その声は、まるで毒を仕込んだ針のように、予期せぬ瞬間に耳を刺した。

汐梨は全身が硬直し、血の気が一瞬で凍りついたかのような感覚に襲われた。

彼女は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。暗室の細い隙間から、外の様子を覗き込む。

家政婦の娘、青木美雪(あおき みゆき)がソファにもたれかかりながら電話をしている。指先で電話のコードをくるくると巻き取り、笑顔を隠そうとしても、楽しげな表情が自然と浮かんでしまう。

「結婚式、本当にCホテルでやるの?もし汐梨に知られたら、怒鳴り込まれたらどうしよう……」

電話の向こうが一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、その声が響き始めた。

低くかすれた、少し無頓着な優しさを帯びた声は、汐梨が十三年間も聞き続け、骨の髄まで刻み込んだものだった。

「大丈夫、『記憶喪失になった』って言うから」

――バタッ。

汐梨の視界が一気に暗転し、背中が壁に強くぶつかった。

胸の奥は痛くて、見えない手が心臓を掴んで激しく捻り潰すようで、彼女は口を大きく開けても、空気を一口も吸い込むことができない。

壁について長い時間をかけて呼吸を整えたが、指先は震え、扉を掴むことすらままならない。

再び隙間から覗くと、美雪が受話器に向かって甘え声を洩らしている。

「でも私、堂々とあなたのお嫁さんになりたいの……」

「なるさ」男の声は甘やかで絡みつき、細かな針のように耳を刺した。彼女の瞳が潤み始める。「お前は俺が一番愛する女だから、当然最高のものを与える」

一番愛する女?

汐梨はふっと笑った。けれど、涙の方が先に頬を伝った。

十歳のあの日の光景が、唐突に脳裏に押し寄せる。

彼女がこの暗室に飛び込んだとき、司は背を向けて荒い息をつき、手にしたナイフからはまだ血が滴っていた。

汐梨は刃についた血を見ず、ただ彼の腕の傷口に目を奪われ、ポケットからピンクの絆創膏を取り出して、そこに貼りつけた。

「おじさん、これならもう痛くないよ」

――その後、殺しをためらわぬこの男は、彼女のボディーガードとなった。

十八歳の誕生日パーティーの夜、汐梨はわざと他の男の腕を取って歩いた。司の拳がきつく握られ、血管が浮き出たのが見えた。

司はその男を叩きのめして地面に倒し、自分の額から血を流しながらも、汐梨の顔を両手で大切そうに包み込み、荒々しく、必死に唇を重ねた。

「汐梨、俺を追い詰めるな」

その夜、彼は彼女を抱きしめ、顎を彼女の頭に押し当てて震えながら囁いた。

「汐梨……もしお前を裏切ったら、俺に天罰が下ってもいい」

――彼女は信じていた。

だからこそ、彼がプロポーズした翌日、仇敵に殺され、海に投げ捨てられたと聞いた瞬間、彼女はリビングで気を失ったのだ。

K町の人々は口々に言った。彼女は薄幸で、愛する人の墓さえも空っぽだと。

その通りだ。彼女は確かに不幸だった。

彼の「死」を知らされてから最初の一年間で、彼女は六回も海に飛び込み命を絶とうとした。救い上げられたときには、半ば息も絶えかけていた。

やがて、神仏を信じていなかった彼女が、町中の神社を巡り歩き、ただ夢の中で一度でも彼に会えるよう祈り続けた。

けれど今――

彼女が日々思い焦がれた人は、「記憶喪失」を言い訳に、別の女と結婚しようとしているのだ。

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Comments

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さぶさぶ
父親との関係が悪かったから年上で自分を守ってくれるボディーガードにひかれちゃったのかな。
2025-09-14 20:50:59
0
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蘇枋美郷
幼い頃って、少し悪っぽい人に惹かれる時期があるよね。コイツは心底クズだったけど。一途に想い続けてくれていた寿樹がいた事が全ての救い。
2025-09-14 16:20:23
1
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mogo
年齢のことを言われるとブチ切れるおっさん……そもそもボディーガードと令嬢が付き合ったり結婚することをなぜ誰も止めないんだろう。不思議…… 寿樹はとても良い奴なので、そこが良い。
2025-09-14 15:32:06
2
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松坂 美枝
お嬢様とボディーガード(元暗殺者)の恋というおいしいシチュだったのに男がお嬢様に飽きて偽装死して女遊び三昧してお嬢様の異母妹とイチャつきながら三年後に戻って来るという悪夢のシナリオ 自分は好き放題しといてお嬢様が婚約者と仲良くなると嫉妬全開でクルーズ船にて修羅場というわけのわからなさ それを全ての男がする過ちとは一体 最後は収まって良かった
2025-09-14 14:12:49
1
28 Chapters
第1話
椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。再び、彼女は別荘の暗室に身を潜めた。ここは二人が初めて出会った場所。ここにいるときだけ、三年間ずっと続いていた胸の締め付けるような痛みを、和らげることができる。汐梨が手のひらのプロポーズ指輪をこすって輝かせ、涙が情けなくもまたあふれてきた。「司くん、いつ帰ってくるの?来月には結婚式なのに……」扉の隙間から嬌声が忍び込んできた。その声は、まるで毒を仕込んだ針のように、予期せぬ瞬間に耳を刺した。汐梨は全身が硬直し、血の気が一瞬で凍りついたかのような感覚に襲われた。彼女は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。暗室の細い隙間から、外の様子を覗き込む。家政婦の娘、青木美雪(あおき みゆき)がソファにもたれかかりながら電話をしている。指先で電話のコードをくるくると巻き取り、笑顔を隠そうとしても、楽しげな表情が自然と浮かんでしまう。「結婚式、本当にCホテルでやるの?もし汐梨に知られたら、怒鳴り込まれたらどうしよう……」電話の向こうが一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、その声が響き始めた。低くかすれた、少し無頓着な優しさを帯びた声は、汐梨が十三年間も聞き続け、骨の髄まで刻み込んだものだった。「大丈夫、『記憶喪失になった』って言うから」――バタッ。汐梨の視界が一気に暗転し、背中が壁に強くぶつかった。胸の奥は痛くて、見えない手が心臓を掴んで激しく捻り潰すようで、彼女は口を大きく開けても、空気を一口も吸い込むことができない。壁について長い時間をかけて呼吸を整えたが、指先は震え、扉を掴むことすらままならない。再び隙間から覗くと、美雪が受話器に向かって甘え声を洩らしている。「でも私、堂々とあなたのお嫁さんになりたいの……」「なるさ」男の声は甘やかで絡みつき、細かな針のように耳を刺した。彼女の瞳が潤み始める。「お前は俺が一番愛する女だから、当然最高のものを与える」一番愛する女?汐梨はふっと笑った。けれど、涙の方が先に頬を伝った。十歳のあの日の光景が、唐突に脳裏に押し寄せる。彼女がこの暗室に飛び込んだとき、司は背を向けて荒い息をつき、手にしたナイフからはまだ血が滴っていた。汐梨は刃につ
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第2話
美雪の声が、まだ暗室の中に差し込んできた。「それでダイヤの指輪は?汐梨のより大きくなきゃダメよ」「彼女のは偽物だ。大した価値もない」男の軽い笑い声と、気にも留めないような口ぶりが、汐梨が三年間大切に守ってきた最後の拠り所を、無惨に踏み砕いた。汐梨は俯き、掌の中の指輪を見つめた。「世の中に二つとない」と言われたこのダイヤの指輪。彼女は毎晩それを握りしめて眠り、彼が残した最後の想いだと信じてきた。眠れぬ夜の数々も、それに縋って、かろうじて崩れ落ちずにいられた。けれど、ああ――結局は彼自身と同じ、全部偽物だったのだ。外から、美雪が遠ざかっていく足音が聞こえる。汐梨はゆっくりと立ち上がり、一歩一歩、洗面所へと向かった。――ガチャン。彼女は指輪を便器に叩きつけた。水流に巻かれ、きらりと光るそれが何度も渦を描き、消えていく瞬間を見届けると、今にも溢れそうだった涙は、不意にすっと引いていった。冷たい水を顔に浴びせ、鏡の中に映る青ざめた自分を見つめながら、汐梨は宿敵である高江寿樹(たかえ ひさき)に電話をかけた。「汐梨……今スイスは深夜の三時だ」向こうの声は眠気を含み、苛立ちすら滲んでいる。「よほどの用じゃなきゃ許さねえぞ?信じないなら今すぐK町に飛んで、お前を絞め殺してやろうか?」汐梨は深く息を吸い込み、泣き声を必死で抑えて言った。「お願いがあるの」寿樹は彼女の声の異変に気づき、語気が一気に和らぐ。「どうした?またあのジジイのことで死にたいのか?俺が戻ろうか?」「いいえ」汐梨は即座に否定した。「記憶喪失の診断書を手に入れてほしいの」「……はあ?」寿樹は聞き違えたように声を上げた。「そんなもん何に使うんだ?」「余計なことは聞かないで」彼女は唇を噛みしめた。「できるかどうかだけ答えて」寿樹は二秒ほど黙り、きっぱりと答えた。「できる」「それと……」汐梨は一拍置き、深く息を吸った。「私たち、付き合おう。電撃結婚しよう」「……はあ?!」相手が驚きから立ち直る間も与えず、汐梨は強い調子で言葉を継いだ。「一か月後、私がスイスに行く」そう言い切ると、彼女はそのまま電話を切った。三日後、記憶喪失の診断書が汐梨の手に届けられた。彼女が宅配便を開けている時、父・瀬戸俊夫(せと としお)から電話がかか
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第3話
汐梨は気怠そうに寝椅子に身を沈め、ゆっくりとした口調で言った。「母さんが家を去ったときは、財産を一切持たずに出ていったわ。いま再婚するというのなら、私もこの家にはもういられない。だから、瀬戸家の財産の半分――総額で二百億円。一円たりとも欠けてはダメよ。お金を渡してくれるなら、すぐにでも荷物をまとめて海外に行くわ。一生、あなたの目の前に現れることはない」空気が一瞬止まり、俊夫は衝撃でしばらく言葉を失った。美雪が慌てて立ち上がり、叫ぶ。「お姉ちゃん、そんな無茶なこと言っちゃダメ!」汐梨はまぶたを上げ、ヒールを鳴らして立ち上がり、見下ろすように睨みつけた。「私が何を要求しようと、日陰者の私生児に口を出す権利はないでしょう?」彼女はもともと美雪よりすこし背が高い。そのうえ顎をわずかに上げた姿は、床に落ちる影にまで威圧感を帯びている。美雪は目を赤くして、突然、予兆もなく床に崩れ落ちた。頭が「ゴン」と机の角に当たり、額を押さえて悲鳴を上げる。「お姉ちゃん、どうして私を突き飛ばしたの?」汐梨はまぶたすら動かさず、淡々と口を開いた。「私は指一本触れてないわ。どうしても芝居を打ちたいなら、監視カメラを確認しましょう。この個室のカメラは、360度撮影できるよ」俊夫が身をかがめて、美雪を助け起こそうとしたそのとき――「バン!」と勢いよく個室の扉が開き、大きな人影が飛び込んできた。男は美雪を抱き起こし、声が溢れんばかりの焦りを帯びている。「美雪、大丈夫か?」その姿を、汐梨は生涯忘れることはない。――司。彼女が三年もの間、思い焦がれ、海に身を投げてまであとを追おうとした男。生きていると知ってはいた。けれど今こうして目の前に立ち、抱いているのは他の女だという現実に、汐梨の全身の血は一気に冷えきった。体が崩れそうになった彼女を、俊夫が素早く支え、早口で言った。「汐梨!落ち着いて聞け。ずっと黙っていたが……司は死んでいない。ただ記憶喪失になっただけなんだ!美雪に偶然救われて……二人はもう結婚の準備をしている。だから落ち着け、どうか取り乱すな!」その言葉のあいだに、汐梨が目を上げ、司の視線とぶつかった。顔はあの頃のまま。だが、その瞳には、かつての愛情の欠片すらなく、ただ冷たく、よそよそしい光だけが宿っている。司は
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第4話
俊夫は記憶喪失の診断書を握りしめ、指先が震え、しばらくしてからようやくかすれた声で言った。「……それでいい。過去のことは……過去のままにしておこう。お前の言った条件は、ちゃんと考える」汐梨の唇には、かすかな笑みが浮かんだ。「じゃあ、私はもう行くわ。みんな、どうぞごゆっくり」彼女の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、司の心はふと揺れ動いた。三年ぶりに会った彼女は、ずいぶん痩せて、背も一層すらりと伸び、眉目にはいっそう冷ややかな美しさが加わっている。彼は何度も再会の場面を思い描いてきた。きっと彼女は泣き叫びながら飛びついてきて、どんなにみっともなくても決してやめようとはしないだろうと。だが彼女は忘れていた。あまりにも徹底的に。さきほどの瞳が自分を見たとき、その静けさはまるで見知らぬ人を見るかのようだった。胸の奥が急に締めつけられ、鋭い痛みが血管を伝って広がった。どうしてそんなことがあり得る?十三年の付き合い、十歳から二十三歳まで。汐梨が、どうして忘れるなんてことができる?彼はふいに、やるせない思いを覚えた。「司……」腕の中の女は泣き声を含んで、肩を小さく震わせた。「私、すごく悔しい。どうして汐梨があんなふうに好き勝手に私をいじめられるの?」司は冷たい声で言った。「大丈夫、俺がちゃんとお前のために取り返してやる」この三年間、彼が姿を消していた間、美雪とずっと裏で関係を続けていた。汐梨が泣きすぎて息ができない夜、彼はその頃、一階の使用人部屋で美雪を抱きしめながら眠っていた。彼は顔を下げ、美雪の背中を撫でながら慰めた。「安心しろ。これからはお前こそが瀬戸家の正真正銘のお嬢様だ。あいつなんて、ただの頼るものもない私生児にすぎない」彼の言ったとおり、俊夫の再婚以来、瀬戸家は確かに天と地がひっくり返ったように変わった。美雪は名前を瀬戸美雪に変え、使用人部屋から三階の主寝室に移り、雅美は瀬戸夫人となり、汐梨の母・敦美がかつて住んでいた部屋に入り込んだ。誰もが汐梨の笑いものになる姿を待っている。だが彼女は何事もなかったように、家の変化を淡々と見ている。どうせもうすぐ出ていくのだ。今の彼女にとって唯一気にかけるのは、金だけだ。深夜。汐梨はベッドの上で身を丸め、しくしく痛む胃を押さえている。これは三年
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第5話
汐梨は痛みに耐えきれず床にうずくまり、額には冷や汗が滲んでいる。司は眉をひそめ、この光景を見つめながら、感情の読めない声で言った。「美雪、これは少しやりすぎじゃないか」美雪の顔色は一瞬で冷たくなり、「どうしたの、あなた……まさか心配してるの?」司は首を振った。「ただ……瀬戸社長に知られたら、あまり良くないと思って」それを聞いた美雪はようやく口を尖らせ、軽い調子で言った。「わかったわよ、部屋に戻しておけばいいでしょ。大したことないじゃない、少し水を飲んで休めば済むことよ」汐梨が今にも気を失いそうなほど苦しんでいる姿を見て、司は美雪に向き直り、声にいくらか「諭すような」響きを加えた。「余計なことはしない方がいい。美雪、瀬戸社長にいい印象を残さないと。病院に送ろう。ただし、持病が再発したことにして」結局、彼は救急車を呼び、汐梨を病院へ運んだ。汐梨が再び目を開けた時には、すでに病院のベッドに横たわっている。看護師が検査結果を手に入ってきて、少し責めるような口調で言った。「あなたの胃の病気はもうかなり悪化しています。このまま薬をきちんと使わず放置すれば、胃穿孔になりかねませんよ。ご家族は?どうしてこんなに無関心なんですか?」その言葉を聞いて、汐梨は一瞬呆然とした。家族……?彼女にはもう、とっくに家族などいなかった。入院から退院し、薬を受け取って家へ戻るまで、瀬戸家からは誰一人として気にかける者はいなかった。扉を開けると、家族は食卓を囲んで夕飯を楽しんでいるところだ。司は手慣れた様子で美雪のためにエビの殻を剥き、その眼差しは溢れんばかりの慈しみに満ちていて、美雪は幸せそうに目を細めている。汐梨の姿に、食卓の空気は一瞬止まった。だがすぐに、誰もが何事もなかったかのように黙って食事を続けた。まるで彼女など、ただの空気のようだ。汐梨は真っ先に沈黙を破り、淡々とした声で言った。「約束の二百億円、用意はできている?」俊夫は箸を置き、曖昧に答えた。「もう少し時間が必要だ」「いいわ」汐梨はそう返事をし、無意識にじんわりと疼く腹部へ手を添えた。「私がスイスへ行く前に、必ず準備して」そう言って部屋へ戻ろうとした時、俊夫が背後から声をかけた。「お前……スイスへ行くのは、高江寿樹を探すためか?」汐梨は
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第6話
「触らないで!」汐梨は冷たく鼻で笑いながら言った、「自分の婚約者をちゃんと見張りなさい。あなたたち二人とも、私から離れて」そして彼女はくるりと背を向け、そのまま立ち去った。連日の疲労が一気に押し寄せ、倒れ込むように眠りにつき、次に目を開けたときにはもう翌日の午後になっている。スマホの画面が光り、寿樹から六時間前に送られたメッセージが表示されている。【どうもお前の様子がおかしい。今夜八時に空港に着く、迎えに来てくれ】時計を見上げると、すでに六時を過ぎていた。汐梨は慌てて身支度を整え、家を出るときには瀬戸家は空っぽで、誰一人いない。車を走らせて空港へ向かう途中、突然、別の交差点から黒い車が飛び出してきて、彼女の車に激しく衝突した。すべてはあまりに一瞬のことだった。汐梨は天地がひっくり返るように感じ、車ごと何メートルも吹き飛ばされた。飛び散るガラスの破片が彼女の腕を切り裂き、血が指先から滴り落ちた。彼女は歯を食いしばってドアを押し開け、顔を上げた瞬間――司の陰鬱な瞳とぶつかった。「あなた……」汐梨は胸が締め付けられるのを感じ、その場で悟った。これは事故なんかじゃない。司は冷ややかに言い放った。「連れて行け!」数人の黒服のボディーガードがすぐさま駆け寄り、彼女を力強く押さえつけ、太い縄でがっちりと縛り上げ、そのまま司の車に放り込んだ。どれほど時間が経ったのかも分からないまま、汐梨は廃工場へ連れて来られた。彼女は椅子に縛り付けられ、身動きがまったく取れない。司は手に持った革の鞭を弄びながら、ゆっくりと彼女の前に歩み寄った。「言え。美雪をどこに隠した?」根拠のない問いかけに、汐梨はただ呆れた。「私が彼女に何をできるっていうの?さっき起きたばかりで、一日中顔も見てないわ」司は冷たく鼻を鳴らし、鞭を地面に叩きつけた。耳をつんざくような音が響く。「じゃあなぜ彼女が誘拐された?K町中で、あれほど強い恨みを抱いているのはお前以外に誰がいる?」汐梨は思わず笑った。「彼女が誘拐されたのなら、犯人を探しに行くべきじゃないの?私を捕まえてどうするつもり?」「まだ嘘をつくか!」 司の首に青筋を立て、怒声が響いた。「瀬戸汐梨、お前の言うことを俺がまだ信じると思うか?」「ないものはないって言ってるの!」
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第7話
「義弟さん――」その呼び方は、まるで毒針のように司の心臓を深く刺した。彼は突然、汐梨の顎を掴み、無理やり顔を上げて自分と視線を合わせさせた。目の奥には、抑えきれない怒りが渦巻いている。「汐梨、もう一度言ってみろ。俺に関して、全く記憶がないだと?信じられない!」汐梨の下顎は痛みに耐えかねて震え、声も止まらず震えている。「義弟さん……あなたと知り合ってから、まだ三日も経ってない……」そう言いながらも、頭の中にはまるで再生ボタンが押されたかのように、十三年分の記憶の断片が洪水のように押し寄せた。十歳の時、汐梨をいじめた子を追い払った際に見せた、彼の不器用な笑顔。十五歳の時、雨に濡れて熱を出した汐梨の傍で、目を赤くして「バカ!」と叱った彼の姿。二十歳の大晦日、彼は花火の下で汐梨を抱き、真剣に願い事をした様子……ほとんど汐梨の人生の三分の二にあたる時間だった。司は、彼女がまだ油断しない態度を崩さないのを見て、手をゆるめることにした。「いいだろう、好きに装え」彼は冷く鼻を鳴らしたが、声の端には少しだけ柔らかさが混じる。「だが、美雪はどこにいるのか、必ず教えろ」汐梨は彼を横目で睨みつけた。「美雪がどこにいるかなんて知らないわ。ここで時間を無駄にするより、通報した方が早いんじゃない?」司は拳を握り締め、指の関節が鳴った。「俺にどうしろって命令する資格が、お前にあんのか?」彼は体を前に倒し、汐梨の顔の前で息を吹きかける。力強い圧迫感が伝わる。「もう一度聞く。夜遅くに空港へ行くのは、寿樹に会いに行くためじゃないのか?そんなに急いでスイスに行くのは、やましいことでもなければあり得ないだろうが」「私が何をしようが、あんたに関係ない!」汐梨は負けじと視線を上げ、目には強い意志が宿っている。司は突然笑みを浮かべた。その笑みには軽蔑の色が混じる。「やはりな、逃げる力なんてお前にはない」彼の心の中では、十年以上の共に過ごした日々が骨身に刻まれており、汐梨が離れたら生きていけないと確信している。「だが今のその強情な態度、少しも服従する気配がないな」そう言い、彼は隣の部下に合図を送った。数人がすぐに前に出て、汐梨を椅子から降ろし、再び車の中に縛り付けようとした。その時、司のスマホが鳴った。彼は画面を確認
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第8話
再び目を開けると、汐梨は自分が別荘の寝室に横たわっていることに気づいた。背中の傷は簡単に処置されていたが、それでも骨に染みるような痛みが走る。喉はカラカラに渇き、水を求めて起き上がろうとするが、扉までたどり着いた瞬間、扉が施錠されていることに気づく。汐梨は心臓が一瞬止まったようになり、スマホを取り出すも、すでに電源は切れていた。この瞬間、彼女は自分が軟禁されていることを悟った。「司!司!私を出して!」彼女が必死に扉を叩く。力尽きそうになったそのとき、ようやく扉が開かれた。だが、そこに立っていたのは美雪で、十二月の寒気のように冷たい目をして、一歩一歩彼女に近づいてきた。「おや、起きた?」美雪は嗤い、突然手を伸ばして汐梨の長い髪を掴む。「さっき、扉に向かって誰を呼んでたの?司?どうしたの、忘れたの?彼、今は私の婚約者なんだよ?」頭皮を引っ張られ、痛みに耐えながらも汐梨は歯を食いしばり、声を出さず目を見開いて睨み返した。「あなたの婚約者にこんなことされて、閉じ込められているのに、私が叫んだら何が悪いの?」「閉じ込められてる?」美雪はさらに得意げに笑い、力を増す。「お嬢様の口は本当に辛辣ね。ここは瀬戸家の別荘、あなたの寝室、閉じ込められたなんて言えないでしょ?」言い終わるや否や、美雪は汐梨の髪を強く引っ張り、汐梨は不意を突かれて床に倒れ込む。冷たい床が背中の傷に食い込み、痛みで目の前が暗くなる。「記憶喪失なんて、演技でしょ?」美雪は高みから睨みつけ、その目はまるで毒に塗れたようだ。「どうしてわざわざ司がいる時を狙うの?汐梨、まだ彼のこと気にしてるんじゃないの?」「誰が気にしてるって言った!」汐梨は首を伸ばして叫ぶ。「彼が勝手に手を出したんだ!美雪、あんた自分の男を見守れないくせに、何で私を苛めるの?」その言葉は美雪の急所を直撃した。彼女の顔は真っ赤になり、目の中の憎悪が溢れ出そうとしている。「今なんて言った?もう一度言ってみろ!」司はもともと汐梨の手から奪ったものだ。これは美雪が心の奥に隠していた最も痛い傷で、誰が触れようものなら、決して許さない。怒りに任せ、美雪は汐梨の髪を引きずって机の方へ移動させ、ついでに棚からハサミを取り出す。冷たい刃先が汐梨の顔に向けられる。「お嬢様、この長い髪を一番大
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第9話
スーツケースを引きずりながらコンビニに入った汐梨は、スマホを充電できるコンセントを探した。画面が点くや否や、寿樹からの電話が、まるで命を追うかのように鳴り響いた。「汐梨!」スマホの向こうの男の声は怨念に満ちている。「空港で一日一晩、待ってたんだぞ!一日一晩ってわかってるのか?俺をからかってるんじゃないだろうな?口では結婚すると言っておきながら、結局俺を弄ぶつもり?」「違う、私は……」汐梨は痛む背中に手を当て、力なく答えた。「こっちでちょっとしたトラブルがあって、手間取って……遅れたの」「嘘だ!」寿樹の声は急に柔らかくなり、少し泣きそうな響きさえ混ざる。「会いたくなかったんだろう!あのジジイとまたやり直したんだろ?汐梨、俺のこと何だと思ってるんだ?恋愛の暇つぶしか?」汐梨は二秒ほど沈黙した後、淡々と口を開く。「司は結婚するの。美雪と」スマホの向こうが一瞬沈黙し、三秒ほど経ってから寿樹の驚きの声が聞こえる。「な、何て?ちょっと意味がわからない……」汐梨は彼の驚きには構わず、淡々と続けた。自分に確認するようでもあり、彼に宣言するようでもある。「だから、私と彼はもう二度と一緒にはなれないの」「……すまない」寿樹の声は低くなり、少し悔しそうだ。「疑うべきじゃなかった」「来てくれる?」汐梨が彼の言葉を遮り、気づかぬうちに弱さを含んだ声で言う。「体調があまり良くないの」「住所を送れ!」寿樹の声が急に緊張する。「すぐ行く!」電話を切った汐梨は、寿樹に現在地を送信した。縁というものだろうか、彼とは生まれたときからの知り合いだった。両家の付き合いが長くて、二人は向かい合って住み、同じ服を着ながら一緒に育った、誰もが認める幼なじみ。その後、汐梨の両親が離婚し、寿樹も引っ越して、幼なじみの関係は途切れた。ところが中学の始業日、彼女が新しいクラスの名簿で「高江寿樹」の文字を見つけた。彼は教壇の上で自己紹介していた。背は伸びていたが、眉目は昔のままだった。学生時代を通じて、寿樹は最も息の合う友達だった。彼女は暗闇を怖がると知っていたから、部活の後にこっそり後ろをついて家まで送ってあげた。彼女の胃の調子が悪いことも知っていて、かばんにはいつも温かい水と胃薬を忍ばせていた。十八歳のとき、汐梨が司の手を取
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第10話
高江家はK町の西辺にあり、瀬戸家からは車で二時間ほどかかる。車が緑に囲まれた別荘地に入ると、汐梨は窓の外を流れる赤レンガの塀や薔薇の絡まるフェンスを眺め、張り詰めていた体がふっとほぐれるのを感じた。車が停まるや否や、寿樹の母・高江百合子(たかえ ゆりこ)がスリッパで駆け寄ってきた。汐梨の顔を見た瞬間、目が赤く潤んでいる。「汐梨、久しぶりね、どうしてこんなに痩せちゃったの?早く入って、おばさんが美味しいもの作ったから、しっかり栄養つけなさい」寿樹は後ろからスーツケースを持ち、わざと不満そうな表情で言った。「母さん、俺のこと、スイスから帰ってきた息子だって覚えてる?」汐梨は彼の冗談に思わず口元が緩み、この数日間で初めて心から笑った。百合子は手際よく、1時間も経たないうちに,豪華料理や汁物など、ごちそうを並べた。衣はサクサク、中はふっくらの天ぷらエビ。新鮮で美味しい刺身。──どれも汐梨が幼い頃から好きだった味だ。空腹が限界だった彼女はご飯を二膳平らげ、久しぶりに胃の中に温かさを感じた。食後、百合子がリンゴの皮を剥きながら、彼女の青白い顔を見て、ためらいながら口を開く。「汐梨、まだ……あの事故で亡くなった元彼のことを悲しんでいるの?」かつて寿樹が留学した後、高江家は彼女に交際相手がいることしか知らず、その相手は後に事故で亡くなり、汐梨も心を痛めたと聞いた。汐梨はカップを握る手に力を込め、寿樹の方を見上げた。彼は彼女に小さく頷き、目には励ましがあふれている。汐梨が深呼吸し、三年前の離れから司の裏切り、美雪の意地悪まで、一字一句漏らさず話した。リビングには掛け時計のカチカチという音だけが響き、百合子の手から果物ナイフが「カタン」と皿に落ち、寿樹の拳は白くなるほど握りしめられている。「見ろよ、これが計算高いあの男のやり方だ!俺、全然わかんねぇよ、なんであの時好きだったんだ!」「寿樹!」百合子が厳しい声で止め、すぐに汐梨の手を優しく握った。「よしよし、気にしなくていいのよ。あんないい加減な奴、いずれ報いを受ける。これからはおばさんがいるから、誰もあなたをいじめられない」汐梨はうつむき、目が少し熱くなり、静かに「うん」と答えた。百合子は突然笑い、肘で寿樹を軽くつつく。「そういえば、うちの寿樹も悪く
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