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8.変化

Auteur: 酔夫人
last update Dernière mise à jour: 2025-11-25 19:00:53

蒼がマンションを出ていった日から私には監視がつけられた。

蒼が勝手にしていることだから好きに行動してもよかったが、仕事をしているとはいえ誰かをあちこちに連れ回す趣味はない。

結局、毎朝マンションから真っ直ぐ会社に向かって、仕事が終われば会社から真っ直ぐマンションに返ってくるような生活を送っていた。

何でも自宅に届く便利な時代。

どこかによって買い物をする必要はない。

日用品も食事もネットで注文した。

私の食べたいものだけを頼み、必要なものだけを注文した。

二人分のゴミが出るからと蒼が買った大きなゴミ箱は、私一人分のゴミではなかなか埋まることはなかった。

結婚とは何か。

夫婦とは何か。

答えの出ない疑問がいつも頭の中でぐるぐる回っていたし、何なら今もまわっている。

 *

再び登場した白川茉莉は、今度は子どもを連れて会社にくるようになった。

白川茉莉のいない間に恋人として公の場に出ていた私はいつの間にか『捨てられた女』になっていて、しばらくすると『蒼を誘惑して白川茉莉との仲を壊した悪女』になっていた。

こんな状況だから、会社を辞めてもよかったかもしれない。

でも仕事をせずに、ただ一人あのマンションに閉じこもっていたら発狂しただろう。

毎日決められた時間に起きて、決められた時間に家を出て、決められたルートで会社にいき、定時になったら会社を出て、決められたルートでマンションに変える。

何一つ変わらない生活の中で唯一変化するのが仕事内容で、それに縋る気持ちで仕事に集中していた。

 

定時まではろくに休憩せず、昼の休憩も最低限に、必要のない仕事まで引き受けて我武者羅に働いていた私を神様が見ていてくれたに違いない。

『初めまして、ミズ・アサギリ。キャメロット・アーキテクツの李凱と申します』

英国に拠点をおく世界的に有名な建築事務所キャメロット・アーキテクツの、日本支社長である凱が私を指名して仕事を依頼してきた。

あのとき、私は真剣に神様にお礼を言った。

藤嶋建設は名のある企業だが日本国内が主で、世界規模で見ればキャメロット・アーキテクツの足元にも及ばない。

そんな企業からの指名に気後れはしたが、それ以上に「藤嶋」より強い者の存在に血が騒めいた。

自分を押さえつけるように支配する蒼を見返したいと思った、それなのに――。

「キャメロットとの仕事は別のものに担当させる」

凱との初めての顔合わせの日、その夜に青山のマンションにきた蒼の第一声はこれだった。

何週間ぶりかの帰宅だというのに「ただいま」もなく、あのときすでに青山のマンションは蒼にとって「ただいま」の場所ではなかったのだろう。

それでも私はまだどこかで蒼に期待していて、別の担当を立てるのは経営的な判断だと思った。

私が受け持つのはいつも小さなプロジェクトだったし、大規模プロジェクトのリーダーを務めたのは失敗に終わったあの一回きりでリーダースキルのブラッシュアップはできていなかった。

経験値が足りないと言われたらそれまでの話。

多分、そう言ってくれたら諦めただろう。

過去のことを、“たら・れば”で考えたらきりがないけれど。

「李凱は女性との噂が絶えない」

でも蒼はそう言った。

経営的な判断でも、私の能力を不安視したのでもなく、私の浮気の可能性を疑っていた。

「あなたがそれを言うの?」

あなたも白河茉莉との噂が絶えないじゃないかと、言外に込めた皮肉はきちんと蒼に伝わり、私の言葉は思惑通り蒼を怯ませたが、怯んだ蒼の姿が歪んで見えた。

「違う、ごめん、そんなことを言いたいわけじゃなくて……ごめん、悪かった、だから……泣かないでくれ」

浮気を疑われた憤りから生まれたなら、信じてもらえないことへの悲しみから生まれた涙ならそれで止まったかもしれないけれど、そのとき私にあったのは虚しさだけ。

虚しさから零れた涙は止まらなかった。

「陽菜を疑ったわけじゃない。でも、ただ、陽菜が心配で……」

「心配?」

おかしな言葉だった。

「その割には随分と久しぶりのご帰宅じゃない。私はずっと一人だったわ。そうよね、ここはもう私だけの家だもの」

「……陽菜?」

「だって、あなたは“ただいま”さえも言わないじゃない」

あの部屋は私を閉じ込めておくだけの籠だった。

蒼が帰ってくる場所ではなくなっていた。

蒼は私を籠に閉じ込めて満足していた。

餌を運ぶのも他人任せ、それどころか生存確認も他人任せ。

それでも、いつか蒼もくるからと籠の中で待っていた。

昨日はその“いつか”ではなかったけれど、今日がその“いつか”かもしれないと期待し続けていた。

そんな毎日を繰り返していて、唯一蒼に期待しないですむ“仕事”に私は救われていた。

「仕事くらい自由にさせてよ」

このとき、私の中で蒼が夫でなくなりつつあることを感じたけれど、このときはまだ蒼と夫婦でありたいと思っていた。

だから――。

「どうして私と結婚したの?」

そんな莫迦なことを聞いた。

「陽菜を愛しているから」

それは欲しい言葉のはずなのに、「愛している」と蒼の声で聴きたかったはずなのに、蒼の「愛している」がそれまでとは違って聞こえて、蒼のこれはもう私の欲しいものではなくなってしまったのだと感じた。

あの日から、私の中にはぽっかり空いたうろがある。

いつも私の中にはぽっかり空いた虚がある。

前にあった虚は、蒼への恋心を自覚したとき、寂しいという気持ちに気づいたとき、私の中に自分では決して埋められない空虚な空間があることに気づいたけれど、蒼に初めて抱かれた日、私の体の最奥を満たした蒼の熱と、同じくらい熱い蒼の「愛している」という言葉がその虚を埋めてくれた。

蒼は私の初恋ではない。

初めての彼氏ではない。

初めての男でもない。

だからきっと、あの虚を埋めるのは蒼でなくてもよかった。

運命的に出会ったなんて設定は私たちにはない。

ただそのタイミングに蒼がいただけだったに違いない。

蒼以上の男なんていないという気はない。

でも、蒼の「愛している」を失った日にできたこの虚は永遠にぽっかりと空いたままだろう。

「蒼しかダメ」みたいな乙女な理由じゃない。

「蒼以上の男なんていない」なんて世間知らずのお嬢さんみたいなことを言う気はない。

ただ懲りただけの話。

心を預けた誰かに裏切られるのはもうこりごりだ。

もう二度と、誰にもこの虚には近づけさせる気はない。

ただそれだけの理由。

心に虚を抱えたままでも生きていくのは問題はない。

私もいい大人、ひと肌が恋しくなれば誰かと体を重ねて性欲を満たせば寂しさも忘れられる。

それを教えてくれたのは、ほかならぬ蒼自身。

あの夜、あまりの虚しさに私はひと肌を蒼に求めた。

愛してほしかったわけではないし、ましてや白川茉莉から蒼を取り戻そうなんてアグレッシブな思いでもなかった。

無性に寂しいと思ったとき、丁度よくそこに蒼がいただけ。

ある意味、あのとき蒼がいてくれてよかった。

違う方法、他の誰かで虚しさを産めずにすんだ。

いまもだけど私は蒼と結婚していて、結婚するときに私は夫への貞節を誓った。

だから私が体を許すのは蒼だけ。

蒼が私を裏切ったことと、私が蒼を裏切ることは別の問題。

「抱いてほしい」

そう縋った私を、蒼は苦し気な顔で抱きしめた。

「ごめんね」

謝ったのは、私がもう今迄みたいに蒼を愛せていないことに蒼が気づいているのに気づいたから。

先に裏切ったのは蒼かもしれない。

でも、私たちの関係に先に終止符を打ったのは私。

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