Masukその日の始まりは、いつもと同じだった。
私は有給消化で休みをとっていて、いつも通り出社する蒼を玄関先でいつも通り見送っていた。
「いってくるよ」といつも通り出勤した蒼が、昼のニュースの映像の中で彼に瓜二つの少年を抱いて白川茉莉と並んでいた。
これはない。
あのとき、一番最初に感じたことはそれだった。
私はテレビの前にへたり込み、テレビが別のニュースを報道しはじめてもそこを動くことができなかった。
スマホが鳴って、私はのろのろと動いた。
スマホの音はメッセージの着信を報せるもので、届いたメッセージは【今夜、必ず説明する】という蒼からのものだった。
それからはもう何もする気にならなかった。
ソファに座り、膝を抱えて時が過ぎるのを待っていた。
体が全ての機能を止めたようだった。
食事をしていないのに空腹を感じることもなかった。
点けっぱなしのテレビに映る映像が変わることが、時間の経過を私に教えてくれた。
夜の九時を超え、十二時を過ぎて日付が変わって、放送終了の画面になっても蒼は帰ってこなかった。
蒼が帰ってきたのは翌朝、六時を過ぎていた。
このときの私はシャワーを浴びて着替えをすませ、食事を終えて、いつもより念入りに化粧をしていた。
寝ずに蒼を待ち続けていたことはもちろん、ショックを受けていることも感じさせたくなかった。
「昨夜は……「昨夜はどこにいたの?」」
蒼に最後まで言わせず、蒼に投げた言葉は実に妻らしい台詞だった。そんな台詞を吐けた自分が心底おかしかった。
その質問の回答に蒼は困っていた。
答えとしてはそれで十分だった。
「彼女たちと一緒だったんでしょう? 楽しかった?」
「そうだけど、そうじゃない」
「何、それ」
不作法だけど、鼻で哂ってしまうような無様な回答だった。
「ねえ、あの子どもはなに? 白川茉莉とは『何でもない』じゃなかったの?」
「それは……理由が、あるんだ」
「理由……その『理由』ってやつを教えてよ」
「それは……説明する、必ず。でも……もう少し待ってほしい」
蒼の答えはいつだって「もう少し」。
それを受け入れて、我慢した結果があれだった。
限界だった。
私はテーブルの上に置いてあったスマホの画面を蒼に見せた。
朝の四時を過ぎてテレビのニュースは止まっても、ネットの情報は二十四時間休みなく更新され続けている。
「二人とも、あなた所有のお台場のマンションにいるんですってね。あれは結婚前の資産だからあなたの隙にすればいいとは思うけど、『何でもない』相手にしてはずいぶんと太っ腹なプレゼントね」
私の言葉に蒼が怯んだ。
怯んだことで、蒼はバレないと思っていたのだと知って、思わず笑いたくなった。
「うちに扶養家族が二人も増えること、教えてくれるつもりはあったの? それとも、言わなければバレないと思った?」
嘲笑いながらの問い掛けに、蒼は目を逸らした。
「ねえ、いつもみたいに言い訳しないの?」
白川茉莉とその子どもが蒼が所有しているマンションにいると知ったとき、それは蒼が二人を受け入れたということで、最初はショックだったけれど、ショックはすぐに怒りに変わった。
その怒りを原動力に行動し、身支度を整えて蒼を舞っていた痕跡を徹底的に隠した。
治まらない怒りに任せて蒼を攻撃した。
「結局、あなたにとって私は妻ではなかったのよ」
私の言葉に蒼は何度も口を開閉させた。
まるで答えを探すように。そして出てきた答えは――。
「理由があるんだ、必ず説明する……でも……」
「“でも”?」
「あの子どもは俺が育てる」
蒼のその言葉に愕然とした。
ショックを受けて、まだショックを受けられるほど蒼に対して期待が残っていたことにも気づいた。
そんなことはないと蒼が否定してくれる期待していたなど知られるのは屈辱だった。
「そう」
それしか言えなかった。
蒼のあの言葉は私の期待を、私が蒼の妻であるという自信を、蒼に対する信頼と思いを、見事に全て木っ端微塵に吹き飛ばしてくれた。
蒼は私が妻であることを否定した。
私たちは、面に出してもくれない形だけの妻だったけれど夫婦で、夫婦のことなのに、蒼は一人で決めてしまった。
他の誰でもなく、夫婦なのに、夫の蒼が私を妻と認めていなかった。
私と蒼の間にあったのは男女の情だけ。
その情だって、私ひとりのものではない。
蒼によく似たあの子ども。
私と結婚したあとにできたあの子が何よりもその証拠だった。
「俺にはあの子どもを育てる責任があるんだ」
私の「そう」をどう解釈したのかは知らないが、蒼は弁明のようなことを始めた。
蒼の声は決意をにじませていたけれど、何を言っているんだろう。
親が子どもを育てるのは当たり前のこと。
やることやって楽しんだのだから、その結果の責任をとらなきゃいけないでしょう?
それをまあ、よくも「責任」なんて美化した言葉で表現したものだと思う。
それは責任なんかではない、蒼の義務だ。
「離婚しましょう」
私の離縁の申し出に蒼は驚いていた。
よくあの状況で驚けたなと今でも感心してしまう。
「離婚したくない」
「私はあなたの顔を見たくない」
嫌な言葉を選んで応酬すれば蒼は怯んだ。
「俺が出ていく」
私がそう言うと、蒼はマンションを出ていった。
意味のない行動、何の解決にもなっていなかった。
それどころか、自分が出ていけば解決するかのような、「離婚したい」はなくなって私が大人しく残ると思うかのような蒼の態度に私の怒りは増した。
屈辱だった。
私も出ていってやると最低限の荷物を纏め、私はマンションを出ようとしたが、マンションのエントランスホールにいた黒崎さんに引き留められた。
「蒼は部屋にいませんよ」
蒼がいなければ用はないだろうと嫌味を込めて言ってみたが、黒崎さんは微笑を浮かべるだけだった。
「運転手を務めるように言われましたので」
黒崎さんの後ろにはスーツ姿の屈強な男性が二人いた。
「まるで監視ね」
諍いを好まない普段の私なら出さない皮肉を込めた声に黒崎さんは驚いたようだったが、有能な秘書である彼が見せた素の反応は一瞬で、それは微笑の影にあっさりと隠れた。
普段通りの黒崎さんを見て、私は頭が冷えた。
衝動的に家を飛び出すのは得策ではないことに気づいた。
「部屋に戻ります。黒崎さんも仕事に戻ってください」
「陽菜さん、もう少しだけ待って……「また“もう少し”ですか」」
二人揃ってお得意の「もう少し」を、またかと思って笑ってみせれば黒崎さんは困っていた。
「『もう少し』って言葉は便利ですけど、そのカードは使い過ぎて、擦り切れて、もうボロボロですよ?」
『お前、なんでここにいる?』はあ?『ここは俺の部屋だ。俺がいて何が悪い』李凱は眉間に皺をよせ、部屋の中を見る。手前、奥、右、左、また奥……なんだ?『ヒナはどこだ?』『はあ?』唖然とした李凱の言葉に俺が驚くと、李凱の顔はめまぐるしく変化する。何語かも分からない言葉でまくしたてて、焦った様子で李凱は髪を掻き上げた。 『お前がヒナを拉致したんじゃないのか?』『なんだって?』どうして俺が?李凱は何やら唾を吐き捨てるかのように毒づくと俺に詰め寄り、胸ぐらをつかむ。『拉致したのがお前なら、身の安全はともかく命の心配はなかったのに!』なんだって?『身の安全はともかく? お前、俺が彼女に何かするとでも思っているのか?』もともと李凱のことは気に入らなかった。ささくれた感情は荒れやすい。喧嘩越しの李凱に俺の頭にも血が上り、視界が赤くなる。俺の目の熱に気づいた李凱は鼻で笑い、喧嘩に誘うような挑発的な笑みを向けた。『ヒナを孕ませて手元におきかねねえだろ』「はっ」陽菜を孕ませる?コイツにだけは言われたくない! 『俺と彼女の問題に部外者が口を出すな!』『口を、出すな?』李凱の顔が怒りで歪んだ。『口も手も出すつもりはなかったさ! お前がちゃんとヒナを幸せにしていれば、俺は……「こんなときに喧嘩はお止めなさい!」』 祖母さん!どうしてここに……は? 部屋の入口を見れば祖母さんがいた……それは分かるけど、なぜ第二秘書はバケツを持っている? 「頭を冷やさせて!」 * 『状況を整理します、いいですね?』
今でこそこんな風に冷静に分析しているけど、赤ん坊の写真を見た直後は荒れた。「どうして」って、いま思えば陽菜に理不尽だと呆れられそうなことを思って、でもかけなしの理性がここで陽菜を問い詰めてはいけないと俺の衝動を抑えて……辛うじて俺は何もせずにすんだ。体調不良と言って青山のマンションに逃げて、そこのあった酒を飲んで、それでも足りないからデリバリーで注文して、いまの時代なんでも届くなって思いながら暴飲を重ねて二日酔い。胃をぐるぐるさせながら気分の悪さに耐えて、ただベッドに横になりながらあの赤ん坊の写真を思い浮かべた。最初は、陽菜の裏切りだと、許せないと思った。俺を捨てたこと。李凱に抱かれたこと。そして、李凱の子どもを産んだこと。……完全に八つ当たりだ。許せない?それは違う。許さないという、ただ単に俺の我侭。陽菜にだって幸せを求める権利があり、そのために俺との別れを選んだのだから、陽菜はもう俺の赦しなんて求めていないのだ。陽菜が求めた幸せが、李凱との子どもだったというだけ。……俺は我侭だから、陽菜は寂しさで人肌を求めただけだと思おうとした。李凱が陽菜の傷心につけ込んだとか、あの李凱の見た目に陽菜がちょっと蹌踉めいたとか、自分に言い聞かせようとした。……馬鹿だな、陽菜のこと、分かっていたくせに。陽菜はそんなに弱い女じゃない。――― I love you, Kai.陽菜は電話でそう言っていた。愛しているって……とても優しい顔と声で、李凱に「愛している」と言っていた。あれを見て、分かってしまった。陽菜は李凱を愛している。あの言葉を、表情を、感情を俺は疑うわけにはいかない。――― 愛しているわ、蒼。あの全てはかつて俺に与えられ
キャメロットと打ち合わせしている会議室に行くと陽菜がいなかった。陽菜のサポートだと紹介された褐色の肌色をした女性に陽菜の所在を問うと、陽菜は別件で今日はこっちに来ないとのこと。様子を見にきたと言って顔を出しておきながら、陽菜がいないならとこの場を去るのはあからさま過ぎるのでしばらく会議室にいることにした。 始動してもう少しで一ヶ月、プロジェクトは順調に進んでいる。藤嶋は日本では有名企業だが、世界的に見れば知名度は低く、日本の知名度に奢って天狗になっていた藤嶋のメンバーはキャメロットのメンバーに最初は圧倒されていた。ここで例の『朝霧セラピー』の発動。陽菜の手助けで藤嶋のメンバーは自分を見直し、いまは自分が求められている長所をいかしてプロジェクトに取り組んでいる様子。自信を取り戻した彼らは陽菜を崇拝する目で見て、俺に「何で朝霧さんと別れたのか?」という疑問の目を向けることが増えた。あの目で見られると「別れていない」と言いたくなるが、「まだ別れていない」というだけでカウントダウンは残り少ない。陽菜には一ヶ月以内、遅くても四十日以内に離婚届を提出してほしいと言われている。遅くてもって、十日しか納期が伸びていないぞと文句は言いたくなるが、離婚届を俺に渡してから一年以上放置されていた陽菜の立場からしてみれば大した譲歩なのかもしれない。俺は、スーツの上から離婚届の入った封筒を押さえる。離婚届はすでに全項目記入済みで、いつでも渡せる。薄い紙切れ一枚入っただけのペラペラの封筒は軽いが、これを渡したら全てが終わりと思うと異様に重たい。 『ミスター・フジシマ。本日アサギリはおりませんが、このあと李がきますのでお話しなら……』『いや、進捗を確認したかっただけだから気にしないでくれ。そろそろ次の予定があるので失礼するよ、ミズ・トラオレ』社交的な笑みを心がけつつ、口の端が歪みそうになるのを必死に抑えて会議室を出る。後ろからついてくる黒崎の、次の予定なんてあったかと問う視線が痛い。でも、
あの子は、蒼の子どもじゃない。……私、いま喜んでいる。あの蒼に似た子どもがいたから、蒼は白川茉莉と関係を持ったと思っていた。でも、裏切ってはいないのではないかと思ったりもしていた。何かしらの手段で白川茉莉との関係を強要されたのではないか、とか……仕方がないという状況をそれなりに想像していた。だから、蒼にお兄さんがいて、あの子どもが蒼のお兄さんの子どもかもしれないという今、裏切りはなかったという可能性が高まって嬉しい。女として白川茉莉に負けたかなって思ってもいたから、そうじゃないかもしれないと気分も上がる。でも……それなら離婚はなしにしよう、とはやっぱり思えない。やっぱり、それとこれは別。これを聞いても、知らなかった蒼のことを知って、それなりに事情を理解しても、離婚するという気持ちは変わらない……変わらなかったことに、ホッとしている。我慢させられたという屈辱はあった。 この屈辱を海には味あわせない。 おそらく、蒼はあの子どもを守ろうとしているのだろう。経緯は分からないけれど、あの子どもの父親が西山蓮というなら、母親は白川茉莉なのだろう。あれだけ堂々と連れ歩いているのだから、あの子どもをどこかから攫ってきたとは考えにくい。子どもに対して母親が何をするのか、実母から虐待を受けていた蒼は白川茉莉に子どもを預けることを危惧した。でも、白川茉莉から親権を奪うことは難しい。私も調べたから、子どもがまだ幼い場合の親権争いは母親のほうが有利だということは知っている。父親が勝つのは大抵は母親が子どもに適した環境を与えられない場合で、白川家が背景にあることを考えれば環境を理由に子どもの親権は奪えないだろう。それに、なによりも父親が意識不明。二年も意識がないということは目覚めない可能性も高い。それでは親権争い……「祖母」や「叔父」でも争えるが、相手が白川茉莉では勝ち目はない。親権を奪えなくても、子どもの傍にいる……そのための条件が、恐らく、あの子どもを白川茉莉と蒼の子どもだという周囲の勘違いを蒼が否定しな
「怪我で私は足が不自由になり、夫と共にバリアフリーに改装したこの屋敷で暮しはじめたの。蒼と蓮も誘ったのだけど、学校もあるし、二人で大丈夫と言われたわ。あの子たちは優しいから、足が自由に動かない生活に私が慣れるのを邪魔したくないと思ったのでしょう……あのとき、強引にでもあの子たちを連れてくればと思わなかった日はないわ」翠さんは手を強く握った。「私がいなくなった屋敷で、香澄さんはあの子たちを虐待していた。最初は蓮だったけれど、誰もそれに気づかなかった。高校生の男の子だから虐待されることはないだろうという先入観もあったし、なによりも蓮自身がそれを隠した。蓮は、香澄さんがああなったのは司の隠し子である自分のせいだと思っていたの」「隠していたなら……どうして、それが分かったのですか?」「蒼が、証言したの。私たちと、そして父親を呼び出して、自分たちが母親に虐待されていたこと……母親に、性的暴行をくわえられそうになったと言ったわ」!「母親に襲われたなんて、言いたくなかったでしょうに……ただの暴力ならば躾ですまされるかもしれない、自分たちは男だから理解してもらえないと、だから自ら恥部を明かしたのだとあのあと蒼は言っていたわ」恥部……。「蒼のその行動は蓮を動かした。蓮は自分が香澄さんに虐待されていたこと、蒼と違って未遂ではなく被害にあったのだと言ったわ。襲われている間、自分は『司』と呼ばれていたと……だから香澄さんが蒼のことを『司』と呼んだから危険だと思い、執事に注意を促していたことも……。限界だったのでしょうね。まるでコルクの栓が抜けたみたいに蓮は全てを話したわ」……蒼は、母親から性的暴行を受けた。そんな母親がいるなんて、同じ子の母親として信じられない思いだけど、この世にはたくさん「あり得ない」が溢れている。蒼はそれを私に知られたくなかった。だから、養子にいった理由が
お手伝いさんが女性を連れてきた。西山三奈子と名乗ったその女性は、私の親世代になるだろうか。上品だけど、どこか疲れた雰囲気がある。「三奈子さん、そんなに不安がらないで。大丈夫よ、蒼に怒られるのは私だけだから」「そんな、あの温和な蒼君が怒るだなんて」蒼が怒ることを信じられないという西山さんに私のほうが驚いた。私としては「怒ります、むしろ短気です」と言いたかった。……あの蒼を“温和”なんていう女性。蒼とはどのような関係だろう。 「実はね、蒼には異母兄がいるの」……蒼にも?「名前は蓮。蒼の四歳上で、彼は十八歳のときに西山家に養子にいったわ」養子……西山家ということは、彼女は……。「私は蓮の養母です」「蒼さんから異母兄さんがいたと聞いたことはありません」さっき翠さんは蒼のお兄さんは彼が十八歳のときに養子にいったと言った。つまりそれまで彼は藤嶋家で育ったということになる。四歳差だから、お兄さんが養子にいったとき蒼は十四歳。流石に「知らない」はないだろう。「どうして教えてくれなかったのですか」二人は不仲だったなら敢えて教える必要はないと思ったのか。それなら、なぜ今になって彼の存在を私に教えているのか。 「陽菜さんは、蒼の母親が遠くにいることは知っているかしら?」「それは……まあ……」蒼の両親が別居状態であることは、藤嶋の社員なら誰でも知っている。妻が病気療養中であることから、蒼の父親はあの白川百合江を公然とパートナー扱いし、藤嶋がホストのパーティーでは彼女がホステス役を務めている。「息子の司と蒼の母親の香澄さんは政略結婚だったけれど、香澄さんは司を愛していた。司には幾人も愛人がいたけれど、公の場では香澄さんを妻として厚遇はしていたし、蒼という司の子どもの唯一の母親という矜持が彼女を支えていた。そんな香澄さんのもとに、生母が亡くなったからと引き取った蓮を司は連れていったの。その日から香澄さんの精神状態は目に見えて悪くなり、私と夫は蒼と蓮が彼女に近







