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第6話

Author: 春を贈る
梓はどきりとしたが、けっして顔には出さなかった。

「辞めようかと考えているだけよ」

同僚がまだ何か言いたそうにしている。梓は急いで耳打ちで仕事の指示をいくつか伝え、先にその場を離れさせてから、奏多に素っ気なく言った。

「好きにすればいいわ。どうせ本部長のポストなんて、今の私にはそこまで大事じゃないもの」

冷ややかな梓の表情を見て、奏多の胸にざわつきが生まれた。まるで、梓が自分の手からすり抜けてしまいそうな感覚に襲われた。

でもそんなはずはない。梓は何も知らないのだから、自分から離れていくわけがない。

奏多は一歩前に出て、さらに問いただそうとした。

そのとき、壇上から花梨のおびえた悲鳴が響いた。

「プレゼントを当てるゲームじゃなかったんですか?中で何かが動いてて……なんかプレゼントって感じしないんですけど」

花梨の前には、余興用のボックスが三つ並べられていた。

どれも中身が見えないよう布で覆われ、正面には手を入れるための穴が開いている。

何が入っているのかは、触ってみるまでまったく分からなかった。

梓は眉をひそめ、部下に様子を見に行かせようと体をひねった。その手首を、奏多が力強くつかんだ。

「君がやったのか」

「どういう意味?」

「プレゼントを用意したのは君の部署だろう」

奏多の目が暗く沈む。

「さっき指示を出してた男の同僚は、プレゼントをすり替えに行かせたのか」

梓は深く息を吸った。顔から血の気が引いた。

「誤解よ。私は……」

言い終わらないうちに、花梨がまた悲鳴を上げた。「や、やだ、本当に怖い、この中、本当に何か生き物がいる!」

同僚たちが口々に言う。

「中津さん、考えすぎじゃない?ありえないって」

「そうだよ、プレゼントは俺たちの部署で直接入れたんだ。生き物なんているわけないだろ」

花梨は唇をきゅっと結び、視線を梓に向けて挑むように言った。「そこまで言い切れるなら、副社長、ここに上がって、ご自分で触ってみていただけますか」

梓はためらいもせず壇に上がった。

だが梓が箱に手を差し入れた、その瞬間だった。

中から低い羽音が響き、ほどなく1匹の大きな蜂が穴から飛び出した。

花梨は悲鳴を上げ、反射的に箱を払いのける。

蓋が外れた瞬間、中から何匹ものスズメバチが一斉に飛び出した。

会場はたちまち騒然となった。

梓はその姿を見た瞬間、顔色を変えた。

「スズメバチ……」

なぜこんなものが余興用の箱の中に入っていたのか。考える間もなく、1匹が梓のほうへ向かってくる。

「助けて!」

梓は青ざめた顔で、とっさに奏多を見た。

奏多はすぐさまこちらへ駆けてきたが、次の瞬間、梓のすぐ横を通り過ぎ、そのまま花梨を抱き寄せて庇った。

その直後、花梨を庇った奏多の肩に1匹の蜂が襲いかかった。

ほとんど同時に、梓の手首に鋭い痛みが走った。

蜂に刺されたのだ。

やがて息苦しさが増し、梓の視界まで少しずつ霞んでいく。

梓はふらつきながら、花梨を庇う奏多の背中を呆然と見つめた。

彼がほかの女を優先して助けるなんて、思いもしなかったのだ。

やがて、梓は感覚が麻痺したように目を閉じた。心の中には、がらんとした空白しか残っていなかった。

壇の下では大勢がざわめいていた。

「やっぱり、中津さんと社長ってただの上司と部下って関係じゃなかったんだよ」

「危険なときにこそ本心が出るって言うしね。うちの社長、これで交際を公表するんじゃない?」

「それにしても、なんで箱に本当にハチが入ってたんだろう。まさか副社長が仕組んだんじゃ……もしかして、社長に片思いしてて、それで……」

数えきれないほどの指さしと、いぶかしげな視線にさらされ、梓は絶望の底に突き落とされたようだった。

奏多が花梨を腕に抱きかかえ、大股でその場を去ろうとしたとき、梓の視界は暗く塗りつぶされ、そのまま意識を失った。

梓に蜂毒アレルギーがあり、アナフィラキシーを起こしたため、丸一日にわたる懸命な救命処置を受け、ようやく命の危険を脱した。

その後も病室で何日も横になっていたが、奏多は一度も見舞いに来なかった。

奏多からふたたびメッセージが届いたのは、梓が会社からの通知を受け取ったのと同じ時だった。

【退職までの1か月の期間が満了しました。これをもって正式に退職となります】

奏多からのメッセージは無視して、梓はそのまま会社へ行き、正式な退職手続きを済ませた。

会社を出るとき、奏多は会議中だった。ガラス越しに目が合うと、彼は唇の動きだけで言った。「仕事が終わるまで待ってて。一緒に帰ろう」

梓は表情ひとつ変えずに視線を外し、そのまま会社をあとにした。家に戻ってスーツケースを提げると、タクシーで空港へ向かった。

1時間後、退勤の時間になると、奏多からメッセージが届いた。

【どこにいる?】

梓は返事をしなかった。電源を切り、SIMカードを抜き取って折る。

飛行機が雲を突き抜けていく中、梓はまったく新しい人生へと旅立った。

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