FAZER LOGIN夫が事故で亡くなった日、私、高梨志央(たかなし しお)は睡眠薬を一瓶丸ごと飲み干した。 目を真っ赤にしてドアを蹴破り、死の淵から私を引き戻したのは、夫の親友の桐生朔也(きりゅう さくや)だった。 「湊人のためにも、生きろ!」 それから3年、何かにつけて私とぶつかっていた彼は、それまでの刺々しさをすっかり収めた。 私がごみを出しに行くだけでも、必ずついてきた。 ようやく過去を乗り越えられたと思った私は、いつしか朔也に惹かれていた。 彼と付き合い始めて2年目。陽性反応の出た妊娠検査薬を手に、彼を驚かせようと思っていたときだった。 引き出しの奥から、英語の結婚証明書を見つけた。 婚姻登録地はオーストラリア。日付は5年前だった。 新郎は、事故で亡くなったはずの元夫、久世湊人(くぜ みなと)。 新婦は、結婚する気はないと言い続けていた親友、沢渡千紗(さわたり ちさ)。 登録日は、私が睡眠薬を飲んだあの日だった。 証明書の隣にはスマホが置かれ、昨日、千紗から届いたメッセージが残っていた。 【この5年間、志央を見張っていてくれてありがとう。おかげで何も気づかれずに済んだわ。私と湊人は今、とても幸せよ】 私は妊娠検査薬を強く握りしめた。全身から血の気が引いていった。 私が救いだと信じていたものは、彼らが5年間、真実を隠し通すためについた嘘にすぎなかった。
Ver maisどうせ後悔や苦しみを書き連ね、気持ちのはけ口を求めているだけだ。なぜ、私がそのはけ口にならなければならないのだろう。母からは、今でも時折電話がかかってきた。急に老け込み、言葉も以前のようにはすらすら出なくなっていた。電話がつながった途端に泣き出し、あの頃の自分はどうかしていたと言うこともあった。真実を隠す手助けなどするべきではなかった。私が調べようとするたび、止めるべきではなかったと。またあるときは、3人とも今はうまくいっていないと話した。まるで、全員が報いを受けたのだと伝えたいようだった。けれど聞いているうちに、どれも遠いところの話に思えてきた。「お母さん」ある日、私は母の話を遮った。「もう、あの人たちのことは話さないで」電話の向こうで、長い沈黙が続いた。やがて母が、小さな声で尋ねた。「もう私のことも、母親だと思ってくれないの?」私はキッチンに立ち、鍋の中でシチューを見ながら、すぐには答えなかった。本当は、母もとっくに答えを知っていた。湊人が生きていると知りながら、私が遺影を抱いて泣くのを見ていたときから、私たちの間にあった何かはもう切れていた。「体には気をつけて」最後に告げたのは、それだけだった。電話の向こうで母が泣いていたが、そのまま通話を切った。しばらくその場に立ち尽くしたあと、火を止め、シチューを器によそって一人で食べた。そのとき、はっきり分かった。もう本当に、あの人たちは必要なかった。私は少しずつ、自分のために時間を使うようになった。職場で、誰かを紹介しようかと言われたこともある。初めて聞いたときは、反射的に断ろうとした。けれど言葉が出る直前で、思いとどまった。また恋愛を信じられるようになったわけではない。ただ、以前ほど怖くなくなったことに気づいた。以前は、愛など汚らわしいもので、関われば不幸になるだけだと思っていた。けれど今は、少しずつ分かり始めている。汚れているのは、愛ではない。愛を自分の醜さを隠すために利用する人間だ。だからもう、自分の心を固く閉ざそうとは思わなかった。焦る必要はない。まずは、一人でも穏やかに暮らせるようになればいい。そしていつか、誰かと向かい合って、ゆっくり食事をしたいと思う日が来てもいい。
朔也はそう答えると、少し間を置き、声を落として付け加えた。「たまたま通りかかった」私は何も言わなかった。世の中に、そんな偶然がいくつもあるはずがない。本当に通りかかっただけなら、あんなふうに待っていたはずがない。「何か用?」淡々と尋ねると、そのよそよそしさに傷ついたような顔をした。しばらく黙ってから、ようやく答えた。「顔を見たかった」風に吹かれ、彼の髪が少し乱れていた。朔也は近づかず、私も動かなかった。二人の間には、少し距離があった。遠すぎも近すぎもせず、互いの表情が見て取れるくらいだった。「最近はどうだ?」「元気にしてる」そう答えると、彼の目に浮かんでいたわずかな光が、ゆっくり消えていった。きっと、分かったのだ。強がりでも、彼に聞かせるための嘘でもない。私は少しずつ立ち直っていた。そして、その変化に彼は何も関係していない。長い沈黙のあと、朔也が低い声で言った。「あのあと、俺はあいつらとの関係を全部断った」私は何も答えなかった。「湊人には何度も、お前に会わせてほしいと頼まれた。でも断った。千紗も訪ねてきたが、一度も会っていない。あの子にも、今は会わないようにしてる」恩着せがましく聞こえるのを恐れているような、低い声だった。けれど、聞き終えても心は少しも動かなかった。今さら彼がしているのは、自分の罪悪感を軽くするためにすぎない。私が求めていることではなかった。「それで?」朔也は私を見つめた。言いたいことはたくさんあるようだったが、最後に口にしたのは一言だけだった。「これ以上、間違いを重ねてはいない。それだけ伝えたかった」私は小さく笑った。「朔也。今、私が何より幸運だったと思ってること、分かる?」彼は黙って私を見ていた。「手遅れになる前に、全部気づけたこと」もし妊娠を彼に伝え、そのまま二人の関係を本物だと受け入れていたら。そのときこそ、私のこれからの人生は本当に壊れていただろう。そう考えると、今さらながら恐ろしくなった。もう少しで、残りの人生をまた別の嘘つきに預けるところだった。「もし私が気づかなかったら」彼を見つめた。「いつまで騙し続けるつもりだった?」その言葉に、朔也の体が強張った。海風が強く、頬
病院を出たあと、元の家には戻らなかった。あの部屋は、もう私には汚れきって見えた。リビングのソファは、朔也が買い替えたものだった。一晩中眠れず、毛布を抱えて朝まで座っていた時期があった。体を冷やさないようにと、わざわざ大きなものへ替えてくれた。キッチンの食器は、湊人と結婚したばかりの頃に二人で買った。バルコニーの花は、千紗もきれいだと褒めていた。家のどこを見ても、この5年間がどれほど馬鹿げたものだったかを思い知らされた。私はすぐに仕事を辞め、電話番号を変え、二つのスーツケースを引いて南へ向かった。海辺にある小さな町だった。にぎやかではないが、静かだった。小さな部屋を借りた。寝室が一つと、バルコニー。それに、狭いキッチン。引っ越した日、カーテンをすべて開け、室内へ差し込む日差しを眺めた。すると、ふと不思議な感覚に包まれた。これまで生きてきて初めて、本当に自分だけの居場所を手に入れたようだった。湊人はいない。朔也もいない。夜中に起きた私へ、水は要らないか、明日は診察じゃなかったかと声をかける人もいない。最初は、なかなか慣れなかった。悪夢で目を覚ますと、反射的にベッドの脇を見てしまう。けれど次の瞬間、ここには自分しかいないのだと思い出した。あるとき、頭がぼんやりするほど熱が出た。横断歩道で信号を待っていると、冷たい風に吹かれ、急に泣きたくなった。以前なら、朔也が眉をひそめ、私にしっかり着込ませ、処方箋も飲み物も忘れずに持ってくれたはずだ。それでも、悲しさはすぐに消えた。彼が5年間も真実を隠していなければ、私はあの依存を愛情と取り違えることなどなかった。そう考えると、胸にこみ上げた寂しさもすぐに薄れていった。私は自分を追い立てるように、さまざまなことを覚え始めた。薬を飲む時間は、自分で管理した。一人で通院し、最近の状態を自分の言葉で医師に伝えた。湊人は何度も番号を変え、メッセージを送ってきた。初めのうちは、ただ会ってほしいと懇願していた。【志央、一度だけ会ってくれ。罵ってくれてもいい】その後は、帰国し、千紗とも別れたと書いてきた。さらに時間が経つと、何度も謝罪し、許してほしいとは言わないから、自分の存在まで完全に消さないでくれと訴えた。私
様子を見に来た看護師は、険しい顔で3人を病室から追い出した。ドアが閉まったあとも、外から声を抑えた言い争いが聞こえていた。私は耳を傾けなかった。夜が明ける頃、ようやく一つの答えにたどり着いた。あの3人は、もう誰一人いらない。退院の日は、よく晴れていた。最後の服をバッグに入れ、ファスナーを閉じて持ち上げると、そのまま病室を出た。ドアを開けた途端、朔也が立ち上がった。この数日間、ずっと廊下で待っていたらしい。看護師によれば、ほとんど眠っていないという。それを聞いても、心は少しも揺れなかった。今さら後悔されても、嫌悪しか湧かなかった。朔也はバッグを受け取ろうと手を伸ばしかけ、途中でゆっくり下ろした。「車は下に止めてある」「一人で帰る」「医者も、まだ無理をするなと言ってただろ」「朔也」彼の言葉を遮り、まっすぐ目を見た。「もう二度と、そんな言い方で私に話さないで」彼の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「そんなつもりじゃない」「でも、この5年間ずっと、そういうつもりだったでしょ」何か言おうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。私は彼を避けて歩き出したが、出口の手前で足を止めた。どうしても、はっきり伝えておかなければならないことがあった。「今、私が一番憎いのは誰だと思う?」背後に立つ彼の呼吸さえ、浅くなった。「湊人でも、千紗でもない」振り返り、彼を見つめた。「あなたよ」その一言に、朔也はその場へ縫い止められたように動かなくなった。彼にも、その意味は分かっているはずだった。湊人と千紗は、最初から卑劣だった。私の5年を踏み台にして、自分たちの幸せを手に入れた。二人の卑劣さは、知ってしまえばあまりにも明白だった。ただ、当時の私が何も知らなかっただけだ。けれど朔也は違った。命の恩人という立場で私の前に立ち、残っていた最後の警戒心まで解いた。そして、ようやく彼へ目を向けようとしたとき、何もかもが初めから嘘だったと突きつけた。「5年前、あなたがあのドアを蹴破らなければ、私は本当に死んでいたかもしれない」私は静かに続けた。「でも、あのとき死んでいたら、少なくとも信じていたものを壊されずに済んだ」「そんなこと言うな」声がすでにかす