ログイン少し間。それから、意味を含ませるでもなく。でも、なんとなく分かっている人の顔で。「昨日、なんか違ったのって、これ?」胸が少しだけ詰まる。正人。ペンギン。青い水槽。お好み焼き屋。倉庫。正人の腕の熱。全部、一瞬だけ頭をよぎる。でも、咄嗟に言葉を閉じた。「……関係ないじゃん」少し早口になった。誤魔化すみたいに。翔太は少しだけ笑う。でも、目は逸らさなかった。責めるわけではない。問い詰めるわけでもない。ただ、私が閉じた扉の前に、静かに立っているみたいな目だった。「まあ」翔太は楓をソファへ寝かせながら、低く言う。「関係あるかどうかは、確かに愛子が決めることだね」その言い方に、少しだけ胸がざわつく。分かっている。でも、言わない。気づいている。でも、押さない。それなのに、逃がしきらない。そういう距離。私は楓に薄手のブランケットをかけた。翔太も手を貸してくれる。楓の靴を脱がせる時、翔太の指が少しだけ止まった。「楓くん、ちゃんと寝たら多分いいやつですね」「起きてても悪いやつではないよ」「知ってる」翔太は小さく笑う。「愛子に似てるし」「似てない」「似てる」「どこが」「人の懐に入るのが早いところ」私は顔をしかめた。「私は楓ほどじゃない」「方向性は違うけど」翔太はそう言って、少しだけ私を見る。「愛子も、気を許すと急に近いですよ」心臓が、少しだけ嫌な動きをした。「……そう?」「うん」翔太の声は静かだった。「だから、勘違いする人もいると思う」勘違い。その言葉が、妙に引っかかった。翔太はすぐに目を逸らし、楓のスーツケースを壁際へ寄せた。言いすぎた、と思ったのかもしれない。あるいは、そこまで言うつもりはなかったのかもしれない。「まあ、俺も人のこと言えないけど」小さく笑う。それは冗談みたいだった。でも、冗談だけではなかった。私は返事に迷う。何か聞いたら、何かが出てきそうな気がした。翔太の中から。自分の中からも。だから、気づかないふりをした。「今日はありがとう」柔らかく。でも、踏み込ませないように。翔太は、少しだけ止まった。何か言いかけたように見えた。喉元がわずかに動く。視線が、私の顔から少し下がって、また戻る。言葉を探している。でも、結局、それ以上は聞
楓は、見事に飲みすぎていた。「……いや、早くない?」帰りのタクシーに乗って十五分もしないうちに、すでに肩から力が抜けている。後部座席に深く沈み込みながら、半分眠りかけている顔。さっきまで、アートバーで「俺の絵、タイトルで勝つ」と言い張っていた人とは思えない。「楽しすぎた……」そう言った数分後には、完全に寝ていた。頭が少し横へ傾いて、口元がゆるんでいる。私は呆れた声を出した。「子どもか」翔太が隣で少し笑う。「時差もあるんじゃない?」「時差って便利な言い訳だね」「まあ、楓くんの場合は本当にありそう」窓の外を、東京の夜景が流れていく。映画館の灯り。信号待ちの赤。閉まりかけた店の明かり。ワインの熱が、まだ少し身体に残っている。今日一日。思っていたより、ずっと楽しかった。映画。アートバー。久しぶりに絵を描く時間。楓と翔太が、思った以上に自然に仲良くなっていたこと。それが少し可笑しかった。そして、少しだけ困った。翔太は楓の扱いがうまい。近づきすぎる楓を、嫌がらずに受け止める。でも、全部は受け入れない。軽く笑って、流すところは流す。人懐っこいようで、ちゃんと距離を保っている。そのくせ、私には時々、その距離をすっと詰めてくる。映画館で肩にかけられたパーカー。怖いシーンで視界を隠した手。アートバーで、私の筆が止まった時に落ちてきた言葉。――愛子、考えすぎると手が止まるから。あれがまだ、耳の奥に残っていた。私は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。「久しぶりだったな」翔太がこちらを見る気配がする。「映画?」「うん」少し間があく。「ちゃんと観たの」翔太は隣で頷いた。「俺も最近あんま行ってなかった」低い声。少しだけ酔いの抜けた、落ち着いた声だった。タクシーの中は暗い。街灯が時々、翔太の横顔を薄く照らす。キャップはもう外していて、少し乱れた髪が額に落ちている。ラフな格好なのに、夜になるとまた少し雰囲気が変わる。昼間より静かで。少し影がある。その横顔に、つい目がいきそうになって、私はすぐに視線を戻した。「でもなんか、また観たくなるね」そう言うと、翔太はすぐに返した。「なる」短い。でも、迷いがない。少し間。それから、当たり前みたいな顔で言う。「次、何観る?」私は少し止まっ
翔太の目元が、ほんの少しだけ緩む。「じゃあ今度」その顔が、やけに優しかった。押してこない。でも、ちゃんと嬉しそう。その表情に、また胸が落ち着かなくなる。なんで、普通に答えたんだろう。どうして、翔太と次の予定が増えることに、こんなに抵抗がないんだろう。分からない。でも、嫌じゃない。それが一番困る。「愛子、小さい頃も宇宙好きだったよ」楓が急に口を挟んだ。「え?」「覚えてないの? プラネタリウム行って、帰りに星の図鑑買ってもらってたじゃん」「……そんなことあったっけ」「ある。俺、その図鑑ずっと読まされた」楓は自分の雑な絵を眺めながら言う。「愛子、あの頃から急にハマるとしつこい」「楓に言われたくない」「俺は合理的に深掘りするタイプ」「どの口が言ってるの」翔太が少し笑った。「楓くん、理系?」「エンジニア」楓が軽く言った。翔太が少しだけ目を上げる。「へえ」「大学もアメリカ。コンピューターサイエンス」翔太が一瞬だけ、楓を見る目を変えた。ただの明るくて距離感のおかしい弟を見る目ではなくなる。ちゃんと、相手の中身へ焦点が合う。「そうなんだ」「意外でしょ」楓がにっと笑う。「見た目がこれだから、だいたい遊んでそうって言われる」「まあ、第一印象は強い」翔太が正直に返す。楓が笑った。「でも数字とか構造とか好きなんだよね。アートはダメだった」楓は自分のキャンバスを指差す。「これ見れば分かるでしょ」「本当にダメだね」私が言うと、楓は楽しそうに笑う。「愛子とパパが描ける人だったから、そこはまあまあコンプレックスだった」少しだけ、声の温度が変わった。軽いままなのに、ほんの少しだけ本音が混ざる。私は楓を見る。楓は目を合わせない。代わりにワインを少し飲んだ。「でも、数字は好きだったから」それから、翔太を見る。「コードとか、アルゴリズムとか。ちゃんと答えが出るのが好き」翔太が頷いた。「分かる」「でしょ」「自分は今、数字が仕事になってる感じですね」「金融?」「まあ、そう」翔太は筆を置いた。「市場も数字だけど、数字だけじゃないじゃないですか。感情も混ざるし、人が過剰反応するし」楓の目が少し明るくなる。「それ面白い」「面白いですよ。綺麗なモデル通りにいかないところが」「分かる。コード
白いキャンバスに向き合う。久しぶりすぎて、一瞬だけ手が止まった。何から描いてたっけ。どう始めてたっけ。昔はもっと迷わなかった気がする。映画の余韻がまだ身体に残っている。テーマはもう決まっていた。さっき観たホラー映画の中で印象的だった、あの鏡のシーン。暗い廊下。水音。見えているものが本当かどうか分からない、不穏な空気。でも、少しずつ色を選び始めると、不思議と身体が覚えていた。輪郭。空気。感情。気づけば、ただ映画のワンシーンを描くつもりだったのに、頭の中で勝手に意味を足してしまう。暗い青。少し濁った白。細い黒。鏡の中の影。色の置き方も、構図も、少し抽象的になる。結局、自分の絵ってこうなるんだよな。そう思いながら、筆を動かしていた。「久しぶり?」不意に、隣から声が落ちる。翔太だった。グラスを片手に持っている。でも、ちゃんとこちらを見ていた。私は少し考えた。「……かなり」筆を止める。「描けない時間の方が、もう長いかも」諦めてから。本当に、しばらく描いていなかった。好きだったものを、自分から離した感覚。正人に見せた倉庫のことが、少しだけ頭をよぎる。あの白い蛍光灯。積まれたキャンバス。正人の腕。胸の奥が、ほんの少しだけ静かに揺れた。翔太は何も急がない。ただ、少しだけ目を細める。「でも楽しそう」その言い方が、妙に自然だった。観察しているみたいな。昔から、翔太はこうだった。好きなことをしている時の顔を、よく見ていた。自分でも気づいていない変化を、先に見つける。そういう目。「……見すぎ」誤魔化すように言うと、翔太が少し笑った。「バレた?」その笑い方に、少しだけ落ち着かなくなる。ワインが少し進んでいた。店の空気のせいか。久しぶりに描く感覚のせいか。思っていたより気持ちが緩んでいる。一時間くらい経って、それぞれの絵がなんとなく形になり始めた。私は少し離れて、自分の絵を見る。映画のワンシーン。のはずなのに。気づけば感情の比重が強すぎて、抽象画みたいになっている。なんか、上手くない。そう思って少し眉を寄せていると、楓が覗き込んできた。「終わった?」そのまま、自分の絵も見せてくる。雑だった。驚くほど雑。線が勢い任せで、途中から絶対面倒くさくなっている。「パ
アートバーへ着いた頃には、夕方に近かった。ビルの二階。ガラス扉の向こうに、キャンバスと絵具が並んでいる。説明を受ける。絵具。筆。エプロン。小さめのキャンバス。少しだけ懐かしい匂いがした。油絵ではない。もっと気軽なアクリル絵具。それでも、筆を手に取った瞬間、指先が少しだけ緊張した。楓が急に言う。「テーマ決めようよ」無茶振り。私は少し考える。さっきの映画を思い出す。暗い廊下。鏡。水音。見えているものが本当か分からない感じ。「じゃあ……」少しだけ笑う。「あのワンシーン」楓が頷く。「いいね」翔太もキャンバスを見ながら言う。「鏡のやつ?」「うん」「あれ、愛子好きそう」また。当然みたいに言う。私は筆を持ったまま、少しだけ睨む。「なんでも分かった顔しないで」「してない」「してる」「じゃあ、ちょっとだけ」悪びれない。その顔がまた、腹立つほど綺麗だった。久しぶりだな。本当に。筆を持つの。ぼんやり構図を考えていると、翔太がさりげなく聞いた。「どれくらいぶり?」「……しばらくかな」少し笑う。「描けない時の方が長かったし」諦めてから。ずっと。翔太は何も言わなかった。ただ、私の手元を見ている。楽しそうに。でも、茶化さずに。その視線が気になる。何かを評価する目ではない。昔の私を知っている目でもない。今、筆を持ち直そうとしている私を見ている目。その静けさに、少しだけ胸が詰まる。「いや、一番下手だった人の奢りだから」私は誤魔化すように言った。「集中して」翔太が少し笑う。割と本気で。「それ、勝ち目なくない?」その笑顔に、一瞬止まった。あ。久しぶりに見た。こういう顔。少し無邪気で。少し悪い。ちゃんと、好きだった頃の翔太。不意打ちみたいな、ときめきだった。五年前のカフェ。ホラー映画の帰り道。夜のコンビニ。少し生意気に笑う翔太。その記憶が、今の大人になった顔に一瞬だけ重なる。私は慌てて視線をキャンバスへ戻した。「勝ち目ないかは描いてから言って」「はいはい」翔太は笑ったまま、筆を取る。その仕草が、どこか楽しそうで。少しだけ、少年っぽかった。楓が隣で言う。「俺、普通にセンスあるから」「言う人ほど怪しい」「愛子、見てろよ」「見てない」「
映画は、思った以上に面白かった。エンドロールが流れても、しばらく席を立てなかった。余韻がある。怖いというより、考えさせられる怖さ。主人公が最後に選んだこと。途中で出てきた意味深な部屋。誰が本当に見えていたのか。頭の中で、いくつもの場面がつながっていく。ロビーに出てから、私は珍しくパンフレットを買った。久しぶりの映画。久しぶりに、映画の余韻をちゃんと持ち帰りたいと思った。ページをめくる。その時、後ろから影が落ちた。少しだけ近い。翔太が自然に覗き込む。「え、俺こいつ死ぬと思ったのに」指差したキャラクター。私は思わず笑う。「私も同じこと思った」「でしょ?」自然に盛り上がる。考察。伏線。演出。話が止まらない。「あの鏡のシーン、絶対二回目見ると違うよね」「分かる。あれ、あの時点で入れ替わってるっぽい」「でも音だけ先に変わってなかった?」「変わってた。だからたぶん、あの部屋に入る前からおかしい」「だよね」翔太の目が、少し楽しそうに細くなる。こういう時の翔太は、話を合わせているというより、ちゃんと同じ場所で面白がっている。それが伝わる。だから会話が軽い。無理がない。一緒に同じものを見て、同じところで引っかかっている感じ。楓が呆れた顔をした。「なに?」私が聞くと、楓はポップコーンの空箱を持ったまま肩をすくめた。「二人ともなんか似てるね」少し間。「考え方」私は止まる。楓が続ける。「愛子の感性に合うこと、光栄に思いな?」謎のシスコン目線。翔太が少し笑った。「うん、まあ」少しだけ間を置く。それから、私を見る。「貴重だよね。相性の良さってあるし」からかっている。少しだけ。でも、目線がちゃんとこっちを見ている。冗談にして逃がしているのに、言葉の中身は軽くない。私は思わず視線を逸らした。なんで。そんな言い方をするんだろう。少しだけ、照れる。楓がまた空気を読まない。「なんかアートバー前に食べたくない?」「楓さっきポップコーン食べてたよね」「別腹」翔太が少し考える。「美味しいおにぎり屋あるけど行く?」「え、知ってんの?」「近いんで」「最高」楓が即答した。私は翔太を見る。「詳しいね」「この辺、映画のあとによく歩くので」「一人で?」聞いてから、少しだけしま







