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第211話:戻れなくなる

Auteur: Sunny
last update Date de publication: 2026-08-23 21:33:37

「……嫌なら」

翔太の視線は、私の唇に落ちて。

部屋に流れていた静かな空気を震わせるほどではないのに、その声だけが妙に近く感じられる。

テーブルの上では飲みかけのハーブティーからまだ微かに湯気が立ち、お香の残り香が淡く漂っていた。

その穏やかな空間とは裏腹に、私の心臓だけが異様な速さで脈打っている。

「今、逃げて」

そう言いながら、翔太の視線がゆっくりと落ちていく。

私の目から、唇へ。

その動きを追っただけで呼吸が止まりそうになった。

近い。

さっきまで普通に話していたはずなのに、いつの間にか互いの息遣いが分かる距離になっている。

少し顔を上げれば睫毛の影まで見えてしまうほど近くて、私は思わず息を呑んだ。

整った輪郭。

伏せられた瞳。

少しだけ苦しそうに寄せられた眉。

認めたくないのに、ずっと好きだった顔だった。

逃げるなら今だ。

翔太はちゃんと逃げ道を残している。

手首を掴む指にも強引さはない。

少し身体を引けば離れられるし、顔を背ければきっと止まる。

そう分かるだけの余白を、彼は最後まで残していた。

それなのに、私は動けなかった。

シャツを掴んだ手を離せない。

むしろ指先には少し
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  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第227話:今、結構見てたけど

    ふと横を見る。街灯に照らされた横顔。高い鼻筋。少し疲れているのに、崩れない輪郭。仕事終わりの気怠さがあるのに、整っている。綺麗だな、と思った。その瞬間、ふと頭によぎる。この人が、自分の彼氏になる。少しだけ、恥ずかしくなる。まだ、ちゃんとは想像できない。でも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、そのうち慣れる気がした。この距離も。隣を歩く感じも。仕事終わりに、他愛もない話をして帰る時間も。少しずつ、馴染んでいくんだろう。無理なく。ゆっくり。そう思えた。熱ではなくて、安心。胸が締めつけられるような感情ではない。でも、静かに心が落ち着く。心地いい。その感覚が、自分の気持ちを、少しずつ固めていく。優しくて。誠実で。ちゃんと言葉にして。でも、押しつけない。丁寧に距離を作ってくれる。尊敬する。人として。たぶん、社会人になってから、一番。そんなことを考えていたら、正人が少しだけ覗き込んだ。「……何?」「え?」「どうしたの?」私は慌てて視線を逸らす。「なんでもない」「今、結構見てたけど」「見てない」「見てたよ」「見てないってば」正人が少し笑う。「そっか」そのまま、またゆっくり歩く。会社の話。最近の案件。青木くんのマブ制度。さやかの酒癖。たわいもない話。でも、心地よかった。正人は、青木くんの話を必要以上に掘らなかった。どこで飲んだのか。何を話したのか。楽しかったのか。そういうことを聞いてもよかったはずなのに、聞かなかった。ただ、青木くんが仕事に前向きならよかったね、と言っただけだった。その一言で、私はまた少し胸が痛くなる。この人は、聞きすぎない。でも、見ていないわけじゃない。たぶん、ちゃんと気にしている。気にしているのに、私が苦しくならない場所に言葉を置く。そのことが、今の私にはあまりにも優しかった。気づけば、実家の最寄り駅に着いていた。駅から少し歩くと、住宅街へ入る。いつもの自分のマンションとは違う道。低い建物。古い植え込み。夜でも明るいコンビニの灯り。少しだけ懐かしい匂いがする。実家の近くまで来ていた。私は小さく立ち止まる。少しだけ迷って、でも、決める。「……正人」「ん?」「明日、時間ある?」声に出した瞬間、心臓が少しだけ速くなった

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