Masuk仕事が終わったのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。正人はまだ会議中だった。チャットには短く、『まだ少しかかる』 『先帰って』と届いている。『了解。無理しないで』すぐに既読はついたが、返事はない。本当に忙しいのだろう。電車でマンションへ戻り、部屋の明かりをつける。バッグを置く。ジャケットを脱ぐ。いつもの部屋。なのに。少しだけ、よそよそしく感じた。昨日は正人の部屋にいた。あの部屋で。正人に触れられて。自分からも触れた。それだけのことが。まだ身体のどこかに残っている。愛子はソファへ座り、クッションを抱き寄せた。「……無理」小さく呟く。嫌だったわけではない。むしろ。嫌じゃなかったから困っている。正人の声を思い出すだけで、胸の奥が落ち着かない。少し外の空気を吸いたくなって、ベランダの窓を開けた。湿った夜風。遠くを走る車の音。そして。隣から聞こえる、小さな水音。顔を上げる。「……あ」隣のベランダに、翔太がいた。黒いTシャツにラフなパンツ。片手に小さなジョウロを持って、鉢植えへ水をやっている。髪は少し下りていて。仕事終わりなのか、肩の力が抜けていた。翔太もこちらに気づく。「なんか、久しぶりな感じですね」「うん」同じマンションの。たった隣なのに。本当に少し久しぶりに感じた。ここ数日。正人のことで頭がいっぱいだったからだと思う。「仕事、少し落ち着きました?」「撮影準備はまだあるけど。前よりは」「それでも忙しそう」「広告代理店なので」「ブラックですよね本当に」「否定できない」少し笑う。翔太との会話は。相変わらず軽かった。踏み込みすぎず。でも。他人ほど遠くもない。その距離に。少しだけ身体の力が抜ける。翔太がふと、こちらを見る。「あの人とは、上手くいってるんだ?」心臓が小さく跳ねた。「あの人?」「同僚の人」あまりにも普通に言われて。逆に返事に困る。どこかで見られていたのか。それとも。顔に出ているのか。「……まあね」なるべく平坦に返す。翔太は短く「へえ」と言った。そして。少しだけ笑う。「嫉妬するな」愛子は思わず顔を向けた。「……そういうの困るんだけど」「困らせてるので」「堂々と言わないで」「冗談にされたら困るんで」口調は軽い。
翌朝。正人の家を出る時、愛子は玄関で一度だけ深く息を吸った。平日の朝。バッグを肩に掛け、パンプスを履き、スマートフォンで今日の予定を確認する。いつもなら、それだけだった。でも今日は。隣に正人がいるだけで、何でもない朝まで少し違って見える。マンションを出て、近くのパーキングまで歩く。正人は片手に車のキーを持ち、もう片方の手でジャケットの袖口を整えていた。昨日の夜、あんな顔をしていた人とは思えないくらい、朝の光の中ではいつもの正人だった。「眠い?」隣から聞かれて、愛子は顔を上げる。「……少し」「昨日、色々考えすぎてたから」さらっと言われて、視線を足元へ落とした。「言わなくていい」「顔に出てた」「それも言わなくていい」正人が笑う。完全に面白がっている顔だった。同じ声で。同じ歩幅で。昨日までと変わらず隣にいる。それなのに。ちゃんと恋人になったのだと意識すると、何気ない会話まで妙に恥ずかしい。曖昧だった場所を、もう抜けてしまった。親友でも。仕事の相棒でもない距離を知ってしまった。その事実に、まだ身体だけが慣れていなかった。会社近くのパーキングに車を停め、二人でオフィスへ向かう。正人と一緒に出社すること自体は珍しくない。駅から並んで歩いたことも。会議前にコーヒーを買いながら資料の話をしたことも、何度もある。なのに今日は。指先が触れそうな距離で歩くだけで、昨日の記憶が勝手に戻ってくる。近かった顔。髪に触れた指。自分の名前を呼んだ、少し低い声。出勤前に思い出すものじゃない。愛子は思わず歩幅を早めた。正人が黙って合わせてくる。「……何その顔」「何でもない」「何でもなくない顔」「会社着く前にそういうのやめて」「そういうのって?」「……そういうの」正人がとうとう吹き出した。「愛子、分かりやすい」「会社では絶対言わないで」「まだ外だけど」「屁理屈」自動ドアのガラスに、二人の姿が薄く映る。ただ並んでいるだけ。それなのに。以前とは違うことを、自分だけが知っている。愛子は小さく息を整えた。会社に入れば。仕事の顔には戻れる。そう思った。*午後。ラウンジでコーヒーを飲んでいると、正人が隣へ座った。「撮影まわり、少し落ち着いた?」「まあね。あとはロケと絵コンテ、それから素材
「ん?」返事だけが返ってくる。その声が近い。近すぎる。さっきまで考えていたことも、言おうとしていたことも、少しずつ曖昧になっていく。正人は少しだけ笑った。その顔がずるい。何を考えているのか、少し分かるから。分かるのに、逃げられないから。唇がもう一度触れる。今度はさっきより少し長い。短く息を吸う間もなく、正人の手が愛子の髪の間を通った。親友だった頃には、絶対に越えなかった距離。仕事の相棒だった頃には、触れないようにしていた場所。そこに、今は迷いなく正人の指がある。愛子は目を閉じた。考えるのをやめる。やめた、というより。考えられなくなった。正人の唇が離れる。少しだけ額が近いまま、正人が小さく言う。「考えすぎ」「……何も言ってない」「顔に出てる」「ひどいなんでわかるの」「ずっと見てたから」その言い方が、妙にまっすぐで、愛子の胸がまた揺れる。ずっと。その言葉が、今の距離で言われると、前とはまるで違う意味を持つ。ずっと近くにいた。ずっと見ていた。ずっと、こうなる前から。愛子は返事ができなかった。正人はそれ以上、言葉を重ねない。ただ、少しだけ顔を寄せる。唇ではなく、頬の端に触れる。それから、耳の下。首筋の少し手前。愛子の肩が、ぴくりと小さく揺れた。「正人」声が思ったより頼りなく出る。「嫌?」すぐに聞かれる。その声は低いのに、ちゃんと優しかった。愛子は首を横に振った。嫌ではない。嫌なわけがない。ただ、知らないだけだ。正人とこんな距離になることを。正人の唇が、首筋にそっと落ちる。触れたのは一瞬だった。でも、そこだけ熱が残った。愛子は思わず、正人のシャツの袖を掴む。考えられない。本当に、考えられない。昨日まで、ずっと別の場所に置いていた人だった。頼れる人。近い人。大事な人。でも、こんなふうに触れる人ではなかった。それなのに今、正人の手が髪に触れて、唇が首筋に落ちて、声がすぐ近くで揺れている。今までの距離との差が、あまりにも明確で。それが怖いくらいに甘い。「……何か」愛子は言いかける。でも、その先が出てこない。正人が少しだけ顔を上げる。「何?」聞かれて、余計に分からなくなる。何を言おうとしたのか。近い、と言いたかったのか。ずるい、と言いたかった
昼食を食べ終える。オムライスの皿をシンクへ運びながら、愛子は改めて思った。本当に器用だ。仕事も。料理も。生活も。全部、当たり前みたいに整えてしまう。それなのに本人だけが、特別なことなんて何もしていないような顔をしている。そこが少し悔しい。「コーヒー飲む?」キッチンから正人の声が飛んでくる。「飲む」そう返すと、数分後にはマグカップが目の前に置かれていた。当然みたいな顔で。本当に、当然みたいな顔で。「ありがとう」「うん」正人は短く返して、自分のカップを持ったままソファへ向かう。午後の日差しが、窓から柔らかく差し込んでいた。平日の昼下がり。本来なら、会社にいる時間だった。愛子はソファへ腰を下ろし、ほとんど癖のようにパソコンを開いた。その瞬間。「だめ」即答だった。愛子は思わず笑う。「チャットとメールだけ」「休み取った意味なくなる」正人はソファの反対側へ身体を預けながら言った。本気で不満そうな顔をしている。「明日、大事なミーティングあるし」「三十分」「正人」「三十分」譲らない。その顔がおかしくて、愛子は肩を揺らした。「分かった」「三十分後、没収する」「怖い」「信用がない」「信用してよ」「仕事に関してはしない」きっぱり言われて、愛子は少し笑った。でも、その言い方が妙に優しくて、胸の奥が少しだけ緩む。思ったより、平和だった。チャットも、メールも、急ぎの案件は飛んでいない。未読の数字も許容範囲で、明日の会議に必要な確認も、すでにチームが拾ってくれていた。よかった。胸の奥に残っていた小さな緊張が、少しずつほどけていく。画面から顔を上げる。隣では、正人が本を読んでいた。ページをめくる音。コーヒーの香り。午後の光。静かな部屋。その光景を見ているうちに、不意に昔を思い出した。付き合う前。飲みに行って、終電近くまで話して、どうでもいいことで笑っていた時間。肩の力を抜いていられる感じ。何も話さなくても気まずくならない感じ。あの頃の空気に少し似ている。でも、同じではない。似ているのに、どこか決定的に違う。その違いに、まだ身体が追いついていない気がした。「なんか」思わず口から零れる。正人が本から顔を上げた。「ん?」「ちょっと、前みたい」言ったあとで、少し違う気
結局。また正人の家へ戻ってきてしまった。買い物袋をダイニングテーブルへ置く。シャンプー。化粧水。日用品。当たり前みたいに。正人の家へ置く前提で選んだものたち。その事実にまだ慣れない。「適当に作るよ」そう言ってキッチンへ立った正人を眺めながら。愛子はソファへ沈み込んだ。窓から差し込む昼の光が明るい。平日の午後。本来なら会社にいる時間だった。なのに。今日は違う。不思議な一日だった。「できた」呼ばれてダイニングへ向かう。テーブルの上。オムライス。愛子は思わず足を止めた。「……」正人が顔を上げる。「何」「いや」思わず笑う。「綺麗すぎない?」卵の形が整っている。ソースも綺麗。店で出てきても違和感がない。「普通じゃない?」「普通じゃない」即答だった。正人が少し笑う。本当に器用だ。仕事も。料理も。生活も。全部。それなのに本人だけが普通の顔をしている。そこが少し腹立たしい。昼食を食べながら。他愛ない話をした。仕事のこと。最近見た映画。共通の知人。そんな話。オムライスを半分ほど食べた頃だった。正人がスプーンを置く。「そういえばさ」愛子が顔を上げる。「ん?」正人は少しだけ迷うような顔をした。それから口を開く。「答えたくなかったらいいんだけど」その前置きで。少しだけ背筋が伸びる。「前にさ」正人が続ける。「愛子が引っ越したのって」視線が重なる。「結婚決めきれなかったからって。前言ってたじゃん」愛子は瞬きをした。「急だね」思わず笑う。正人も苦笑する。「そう」認める。「急なんだけど」窓の外では平日の昼が流れている。向かいのマンション。ベランダに干された洗濯物。遠くで聞こえる車の音。どこにでもある午後だった。なのに。今いる場所だけが少し現実感を失っている。「理由聞いてもいい?」正人が言う。穏やかな声だった。責めるわけでもない。探るわけでもない。ただ知りたい。そんな顔。「もし原因があって」正人は続ける。「避けられることなら」少し肩を竦めた。「理解しておきたいなって」愛子はスプーンを置く。正人を見る。その表情は穏やかだった。でも。続いた言葉に視線の置き場を失った。「俺」正人が言う。「愛子とは結婚したいと思っ
「はい」穏やかな声だった。「とりあえずはこれで終わり」終わってない。全然終わってない。とりあえずって何。心臓がうるさい。正人はそんな私を見て。少しだけ目を細めた。その表情が。昨日までよりずっと柔らかい。「そんな反応されると」小さく呟く。「俺も慣れない」その言葉に。愛子は完全に視線を逸らした。無理だった。本当に。彼氏になった正人は。思っていたよりたちが悪い。***正人がそのままキッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。卵を取り出す。フライパンを出す。その動きが妙に慣れている。「何してるの?」「朝ごはん」当然みたいに返ってくる。「今から?」「うん」卵を割る。「俺ちゃんと朝食べる派なんだけど」その言い方が妙に真面目だった。「卵どうする?」「どうする?」「目玉焼き」指を一本折る。「卵焼き」もう一本。「オムレツ」さらに一本。「ポーチドエッグもできる」「なんでそんな選択肢あるの」思わず笑う。正人が少し肩を竦めた。「朝ごはん好きだから」言いながら冷蔵庫を覗く。「愛子は?」「え?」「何が好き」そこで少し詰まる。好きというより。普段は食べない。コーヒーだけの日も多い。プロテインだけの日もある。言おうとして。やめる。正人がどんな顔をするか想像できた。案の定。ゆっくり振り返る。「食べてないな?」「食べる日もある」「食べてないな」即答だった。悔しい。でも。当たっている。「じゃあ」卵を混ぜながら言う。「そこ今後ちゃんと調整しよう」自然な口調だった。当たり前みたいに。今後。その言葉に。愛子は少しだけ目を伏せる。昨日までなら。なかった言葉。私の食生活も。睡眠も。仕事の癖も。全部。正人の中では。もう少し先まで続く話になっている。キッチンに立つ正人の背中。昨日まで。こんな朝が来るなんて思っていなかった。愛子はマグカップを両手で包みながら。静かに目を細めた。*** 私の家へ寄ったのは昼前だった。仕事用の鞄。化粧品。数日分の着替え。最低限だけ。そのつもりだったのに。気付けばそれなりの荷物になる。マンションを出る。正人は当然みたいにトランクを開けた。荷物を受け取る。後部座席へ積む。何も言わない。本当に何も。







