LOGINレジで本を買い、店を出る。袋の中で新刊が少しだけ揺れる。外の空気は、さっきより少し涼しかった。香港料理屋へ向かう道。夜風が髪を揺らす。並んで歩く。でも、正人の言葉は少しずつ減っていった。話しかけてくれる。でも、どこか慎重だ。笑うけれど、少しだけ力が入っている。歩幅も、少しだけゆっくり。合わせてくれているのに、近づきすぎない。踏み込みすぎない。まるで、何かを待っている人みたいだった。もう。早く言いたい。そんな気持ちが、少しずつ大きくなる。沈黙が長くなる前に、私は小さく口を開いた。「そういえば」正人が視線を向ける。「正人って、何料理好き?」「え?」少し意外そうに笑った。「急だな」「なんとなく」正人は少し考える。その間、視線が斜め上へ流れる。「中華かな」「中華」「辛いのも好きだけど、点心とかも好き」「意外」「そう?」「なんか、正人って和食とか言いそう」「それ、俺のことちゃんとしてる人だと思いすぎ」「違うの?」「違わなくはないけど」正人が少し笑う。その笑い方で、少し空気が緩んだ。私は小さく頷く。「私、香港料理好きなんだよね」「ああ」正人の表情が少し和らぐ。「分かる。俺も結構好き」「点心とか、お粥とか」「分かる」正人が少しだけ楽しそうな顔になる。「なんか楽しいよね、香港料理って」私もつられて笑った。「分かる。みんなでちょっとずつ食べる感じとか」「あと、雑多なのにちゃんと美味しい感じ」「そう、それ」少しだけ沈黙。さっきまでの緊張とは違う、柔らかい間。私は前を向いたまま、呼吸を整えた。言うなら、今かもしれない。いきなり答えを言うのではなく。少し先の話をすることで、自分の気持ちを渡す。そう思った。「なんかさ」私は、なるべく自然を装って言う。「香港、行ってみたいなって最近思ってて」正人が少し驚いた顔をする。「へえ、いいじゃん」「ご飯も美味しそうだし」少し笑う。「夜景とかも綺麗そうだし」「うん」正人は頷いた。でも、その目が少しだけこちらを探っているのが分かる。何気ない旅行の話なのか。それとも、別の意味があるのか。慎重に、でも確かめたいみたいな目。私は、もう一度だけ呼吸を整えた。胸の奥が熱くなる。怖い。でも、逃げたくない。「……正人と行
会社を出る頃には、外はすっかり夜だった。ガラス張りのエントランスに、仕事終わりの人たちが次々と吸い込まれていく。自動ドアが開くたびに、外の冷たい空気が細く入り込んでくる。昼間はあれだけ仕事の話をしていた。頭の中は、ずっと仕事の言葉で埋まっていた。なのに、ビルの外へ一歩出た瞬間、空気が少し変わった。仕事の時間が終わる。その感覚が、肌に触れる夜風と一緒に戻ってくる。私はバッグの持ち手を握り直した。隣を歩く正人は、いつも通りと言えばいつも通りだった。でも、少しだけ違った。シャツの袖を軽くまくったまま、片手でスマホを確認しながら歩いている。ネクタイは少しだけ緩んでいて、仕事終わりの疲れも見える。それでも背筋は伸びていて、歩幅も乱れない。ただ、妙に静かだった。いつもなら、もう少し話す。「今日の会議、よかったね」とか。「青木くん、大丈夫そう?」とか。仕事の延長で軽口を挟むこともある。でも今日は、違う。会話はする。私が言えば、ちゃんと返してくれる。けれど、そこに少しだけ間がある。言葉を選ぶような沈黙。質問をする前に、喉の奥で一度止めるような気配。時々、無意識みたいにネクタイの結び目を指で触る仕草。その指が、すぐに離れる。触ったことに自分で気づいて、やめたみたいに。そして、気づけば、少しだけ距離があった。並んで歩いているのに、肩ひとつ分くらい。近づきそうで、近づかない。いつもなら自然に隣にいるはずの距離が、今日はほんの少しだけ慎重だ。まるで、これ以上近づく資格がまだないみたいに。そんな距離。あ。私は、少しだけ察した。今日、正人、緊張してる。いや。たぶん、怖いんだ。私の返事。期待して。でも、期待しすぎないようにしている。その慎重さが、あまりにも正人らしかった。胸がきゅっとする。そんなに怖がらせていたんだ。私が曖昧にしていた時間。待たせていた時間。大丈夫そうな顔で笑ってくれていたその奥に、ずっとこういう緊張があったのかもしれない。そう思うと、喉の奥が少しだけ詰まった。「寒くない?」正人が聞いた。声は穏やかだった。でも、少し低い。「大丈夫」「店まで歩く?」「うん。そんな遠くないし」「分かった」それだけの会話。でも、そのあとにまた少し沈黙が落ちる。気まずくはない。けれど
PCを閉じた後も、少しだけ沈黙が残った。オフィスはもうかなり静かだった。遠くの島で誰かがキーボードを打つ音。コピー機が止まる音。空調の低い音。ガラス窓に映る照明。普段ならただの仕事終わりの風景なのに、今日は少し違って見える。今日、話す。正人も、それを分かっている。だからだろうか。隣にいる正人の動きも、いつもより少しだけ静かだった。彼は自分の資料を閉じると、ゆっくり椅子から立ち上がった。少しだけ肩を回す。長く座っていたせいか、首の後ろに手を当てて軽く伸ばした。腕まくりされたシャツから、前腕の線が見える。マッスルバーで見た作られた筋肉とは違う。生活と仕事の中でちゃんと保たれている身体。無理に見せるためではないのに、ちゃんと強さがある。私はそれを見て、少しだけ視線を逸らした。こういうところに気づくようになっている自分が、少し恥ずかしい。「この後、どうする?」正人が何気ないトーンで聞いた。「サクッと近くでご飯でもいいし」少し間。「どっか行きたいとこある?」胸が少し跳ねる。答える日。そう決めているのに、いざその場が近づくと、喉の奥が少しだけ固くなる。咄嗟に出たのは、言い訳だった。「今日も実家帰ろうと思ってて」楓いるし。自分でも、都合のいい理由だと思った。まだ少し、自分の家に一人で帰る勇気がない。隣の部屋を思い出してしまうから。翔太のドア。翔太のメモ。連絡が来ないこと。引いてくれていること。そういうものを、ひとりで受け止める自信がない。でも、それを正人には言えない。その代わりみたいに、私は少し視線を逸らした。「神保町に好きなお店あるんだけど」「そこ、行かない?」正人が少しだけ頷く。「いいよ」静かな声。落ち着いたトーン。「行こうか」そして、少しだけ間が空いた。正人は自分のPCをバッグにしまいながら、何でもないことのように言う。「帰り、近い方がいいよな」その言い方が、妙に静かだった。ご飯を食べたら、そのまますぐ解散することが前提みたいな。期待を持たない声。踏み込まない距離。私は、その言葉に少しだけ息を止めた。あ。そうだよね。まだ、返事をしていない。正人は、期待しないようにしている。ご飯の後に何かあるかもしれないとか。もっと一緒にいられるかもしれないとか。そう
方向性がまとまった頃には、オフィスの窓の外はすっかり暗くなっていた。昼間はあれだけ光が差し込んでいたガラス張りの会議室も、今は社内の照明だけが白く反射している。撮影チーム、制作会社、社内関係者が集まり、最終的な撮影内容を詰める。今日まとまった方向性を、ちゃんと通せるか。そこが勝負になる。でも、少しだけ安心感があった。商品露出。世界観。初速売上。全部が綺麗に一本へ繋がった感覚がある。しかも、正人が自然に味方してくれた。ああいう瞬間に、少し安心する。私はPCを閉じかけた手を止め、深く息を吐いた。まだ仕事は残っている。でも、終わりが見えてきた。そんなタイミングだった。「愛子さん、ちょっと相談いいですか?」青木くんだった。今日も相変わらず少し距離が近い。気づけば三十分くらい、一緒に資料を見ていた。ふと、時間を気にしたときに。青木くんが、急に時計を見た。「あ」顔色が変わる。「やば」立ち上がる。「今日、彼女と会わないとなんで」申し訳なさそうに笑う。「お先失礼します!」若い。私は思わず苦笑いする。「はいはい、いってらっしゃい」「明日、今日のやつ直して出します!」「うん。彼女に怒られない程度にね」「もう怒られる寸前っす!」そう言って、青木くんはぱたぱたと出ていった。背中まで慌ただしい。オフィスはだいぶ静かになっていた。ちらっと時計を見る。もう十分遅い時間。正人、まだ仕事してるかな。そんなことを考えながら、私は再びPCを開いた。来週のプレゼン。少しだけ気になっていることがあった。有田さん。今回のクライアント担当だ。かなり細かい。しかも、今回の案件は金額が大きい。新製品ローンチ。タイ撮影。制作費も媒体費も大きく動く。だからこそ、先方も細かく見る。絶対に、予算の話は突っ込まれる。そんなことを考えながら、ストーリーボードを見返していた時だった。「そろそろ終わる?」声が降ってきた。顔を上げる。正人だった。ネクタイは少し緩んでいて、シャツの袖を軽くまくっている。仕事終わりの空気。少し疲れているはずなのに、崩れない。会議中より、少しだけ目元が柔らかかった。でも、どこか緊張しているようにも見える。私だけがそう見ているのかもしれない。今夜、返事をする。そのことを正人も分
次の日。今日は、正人にちゃんと答える日だった。朝、実家を出る時から、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。楓に言われた言葉が、まだ残っている。愛子が、好きになれるのか?あの一言は、思っていたより深く刺さっていた。図星だったのだと思う。自分でも、どこかで分かっていた。正人は優しい。誠実で、仕事もできて、人として尊敬できる。一緒にいると安心する。彼が隣にいる時間を、私はちゃんと心地いいと思っている。それは本当だ。でも、好きになれるのか、と聞かれた時。すぐに頷けなかった。そのことが、昨日の夜からずっと胸の奥に引っかかっている。好きになろうとしている。好きになる努力をしようとしている。その言葉は、正人に向き合うための誠実さのつもりだった。でも。好きって、努力するものだっけ。そう思った瞬間、自分の中の足元が少しだけ揺らぐ。それでも、向き合いたい気持ちは本当だった。正人は、ちゃんと向き合ってくれている。私が曖昧でも、急かさず、でも逃がしすぎず、静かに待ってくれている。だから、自分もちゃんと答えたい。そう決めている。実家から会社へ向かう電車は、いつもより少し長い。窓に映る自分は、思ったより普通の顔をしていた。少しだけ安心する。仕事をしよう。余計なことは考えない。そう決めて、会社へ向かった。会社に着けば、頭は自然と仕事に切り替わった。午前中は提出資料の修正と、青木くんの確認対応でほとんど消えた。青木くんは相変わらず距離が近く、質問も多い。でも、昨日より少しだけ飲み込みが早くなっている。細かいやり取りをしていたら、気づけば午後になっていた。午後。ガラス張りの会議室。長机には、ストーリーボード、タイのロケ資料、商品のモック、SNS展開案が雑多に並んでいた。撮影まで、あと三週間。場所は、タイで確定している。制作側の声で、モニターに映像が流れる。ゆうとの参考MV。朝の街。少し湿った空気。自転車を押して歩く姿。荷物を肩に引っ掛ける仕草。汗ばんだ肌。何気ない生活なのに、妙に画になる。そして私は、少しだけ動きを止めた。似てる。普通に。翔太に似ていた。顔も。空気感も。顔が小さい。自然に広い肩幅。長い手足。一般の人と少しだけ作りが違う。立っているだけなのに、目を引く。画面の中で、
「てかさ」「何」「あの人」少し間。「確実に愛子のこと好きだよね」私の指が少し止まる。画面の中のカートが、壁にぶつかった。「……急だね」「いや」楓は普通に言う。「だってあれ、普通に分かるじゃん」画面から目を離さないまま、アイテムを投げる。「あれもう、告白されてる感じの距離だったし」血縁、恐ろしい。何も言っていない。なのに、ちゃんと見抜く。正人の距離感。待ち方。言葉の選び方。明日、時間ある?と聞いた時の空気。「あけるよ」の声。全部。たぶん、外から見ても分かるくらいには本気だった。「……まあ」私は視線を画面に戻した。「そうかもね」楓が少しだけ決まり悪そうに言う。「あのさ」「うん」「俺、普通に姉ちゃんには幸せになってほしいんだよね」思わず、指がまた止まる。画面の中で、またカートがコース端に擦れた。楓はそれを笑わなかった。「だから」肩をすくめる。「人紹介しようかな、とか思ってた」「……え?」「いや、ほんとに」少し困った顔。「仕事ばっかだし。自分で会う人探す気ないのかなって思ってたし」「余計なお世話」「まあ、そうなんだけど」楓は少しだけ笑う。でも、声はいつもより優しかった。「でも、もういいかなって思った」私は小さく首を傾げる。「今日の人なら?」率直だった。「ちゃんとしてそうだし」「品あるし」「普通にイケメンだし」「母さんと同じこと言ってる」「え、やだ」「ひど」楓は少し笑って、それから真面目な声に戻った。「愛子にちゃんと向き合ってそう」胸の奥が、静かに揺れる。ちゃんと向き合ってくれている。それは、私も分かっている。正人は逃げない。聞きすぎないけれど、見ている。押しつけないけれど、待っている。不器用でも、ちゃんと言葉にしてくれる。そういう正人の誠実さを、私はちゃんと受け取っている。受け取っているからこそ、苦しい。「ただ」楓の声が少しだけ低くなる。私の指が止まる。「……何」楓が少し言いづらそうな顔をした。「あの人、愛子のこと好きなの、めっちゃ分かる」「うん」「でも」コントローラーを軽く回しながら、楓は言葉を探す。「愛子が、好きになれるのか?」その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。「っていうのは、ちょっと疑問だった」血縁、恐ろしい。







