Mag-log in翌朝、朝倉倫子はスマートフォンに昨日の写真を表示し、それをお手本にして眉毛を描いた。「眉山を作って、直線になるように……ブレないように肘をついて」 ブツブツと唱えながら、描いていく。 何回もなぞったために、いつもより濃く、映画の暗殺者のように凜々しくなってしまった。「軽くパフで抑えるか、明るい色のアイブロウカラーでカバーする」 教わったことを忠実に実践する。生真面目な倫子だった。 職場に着くと、クララがさっと眉毛に目を向けた。「いい感じですね。素敵ですよ」「あ、ありがとう。ちょっと照れくさいけど、そのうち慣れると思うわ」 そんな会話をしていたら、他の人たちも加わってきた。「メイクを変えたのね。溌剌として見えるわ」「自信がある感じ。頼れそう」 と、女性たちには概ね好評だった。 ところが、その後で「前のほうがいい」と言われてしまった。「ほら、ドクター・リンは優しいのが魅力だと思うんだよね。そんな、きつい感じにしなくてもさ」「……これは、自分の意見をはっきり言えるようになるための訓練でもありますので。ご意見は、参考にさせていただきます」 今までなら曖昧に微笑んでいたが、それをしたら教えてくれたクララに悪い。そう考えて、倫子は説明をした。心臓がバクバクしている。「へ、へえ。さっそく生意気になったもんだ」 その医師は捨て台詞を吐いて、遠ざかっていった。「あの先生、いつも嫌味ばっかり」「気にしないで。似合っているわよ」 看護師たちは倫子を慰めてくれた。「みんな、ありがとう。いろいろな意見があるわよね。大丈夫よ」 少し離れてイーサン・タンがこちらを見ていた。「イーサン、おはよう。ちゃんとクララにおしゃれを教わってきたわ。……どう?」 先ほどとは違うドキドキを感じた。「キリッとして、いいと思います」 イーサンが微笑んだ。 倫子はその言葉に、緊張して損したと思う。そもそも、キリッとするのは、イーサンの発案だった。 倫子は妙に弱気になった自分に、苦笑した。 そして、ふと、不安がよぎった。 もし自分が日本の病院に配属されたら、イーサンの担当から外れるかもしれない。 その前に、二か月ほど九州へ派遣される。そのときはどうなるのだろう。 そんなことを考えた。 イーサンはどうしたいのか。
桐生美琴は、家事代行スタッフに声をかけた。「掃除が終わったんでしょ。帰る前に撮ってくれる?」 スマートフォンを渡して、美琴はソファに座った。「……あ、はい」 一瞬戸惑った顔をされたが、これくらいはサービスのうちだろう。ポーズを取り、何パターンも撮ってもらった。「ん。まあ、いい感じ。ありがとう」 家事代行スタッフはそそくさと帰って行った。 以前、「家事ではないので」と断られたとき、会社に苦情を申し入れた。そのスタッフは二度と寄越さないようにと厳命している。「さて。白木の病院に顔を出しますか。そのあとで、一仕事しておかないとね」 父が理事長の病院では、美琴は外来の診察を担当せず、たまに手術をするという働き方をしている。 平日の昼間の時間帯にSNSにアップすると、「仕事は?」という無粋なコメントが来ることがある。先ほどの写真をアップするのも、夜まで我慢しないといけない。 優雅な女医の生活。皆が憧れるセレブなライフスタイル。「それを維持するのも大変なのよね」とつぶやきながら、ウォークインクローゼットでバッグを選んだ。 美琴はタクシーを呼んで、自分の職場へ行くことにした。 自分専用の運転手がいない生活は不便だと、舌打ちしたくなる。運転手には当たり外れがあるのだ。おしゃべりな運転手は嫌いだ。 学生時代に圧倒的に遊ぶお金を持っていたのは、桐生智也だった。 他の男友達を思い出すと、派手に遊ばないけれど、いつも運転手付きの車に乗っている人がいた。もしかしたら、そっちを選ぶべきだったのだろうか。タクシーに乗りながら、そんな迷いが生じた。 いや、人生最大の「首席卒業」という名誉を得るために、協力してくれそうなのは智也しかいなかった。「私は間違っていない」 そう呟くと、親指を噛んだ。 美琴は病院に着くと、自分専用の部屋に入った。中で仕事をしていた秘書が、パッと立ち上がる。「紅茶」 美琴は一言だけ言い放ち、バッグを秘書に押しつけた。「はい。ただいま」 秘書は受け取ったバッグを台に置き、電気ポットからお湯をティーポットへ注いだ。 美琴は机の上の書類に目を通し、メールを確認する。手術のスケジュールは秘書が管理しているので、新しいものがないかチェックした。 秘書が無言で紅茶を机に置いていく。 美琴は、ファッション雑誌のコ
「さあ。顔を整えたところで、お買い物に行きましょうか」 クララ・リムは、持参したスタイリング剤をバッグに片付けた。「眉毛だけでいいの? アイシャドーとか口紅とか……」 朝倉倫子は、一応自分なりに頑張ってフルメイクをしてきた。眉毛を遠慮なく修正されたので、全体を直すのかと思ったのだ。「一度に覚えられるほど、熱意はないですよね? メイクを覚えたいという気持ち……」「……はい」 正直に言うとそのとおりなのだが、少々後ろめたさはある。「無理なく、苦痛にならないスピードで進めましょう」 とても頼りになるクララであった。 *** クララはショッピングモールをスタスタと歩いて行く。「全部の店を見る必要はありません。今回は可愛い系、爽やか系のお店はスルーします」「なるほど。いつもは、どのお店に入るか考えるだけで疲れてしまうのよ」 倫子が白状すると、クララは笑った。「そうだろうと思いました。私なんかは、自分に似合わない服でも、誰に似合いそうか考えるのが楽しいですけどね」 教室でファッション雑誌を見ていた同級生たちも、そういうふうに楽しんでいたのだろうか。 倫子がそんなことを思い出していると、クララは一つのお店に入っていった。「さて。ポイントは色々あるのですが、最優先はシルエットですね。これだけでも、かなりダサいのを回避できますよ」「だ、ダサい……」「身体の特徴を無視すると、スタイルが悪く見えます。もったいないですよ」 クララがぱっと三着選んで持って来た。「ハイウエスト、ローウエストとジャストウエストと、着こなしのポイントが違う服です。全部着てみてください」 倫子は言われるままに試着した。 クララは店員に写真を撮る許可をもらい、一着ずつ写真に収めていく。「ドクター・リンはジャストウエストがスタイルよく見えますね。足が長く見えます」「へえ、意識したことなかったわ」 試着したときはどれも素敵に思えたが、写真でパパッとスクロールしてみると違いがわかる。「気に入ってよく着ていた服を思い出してみてください。案外、ジャストウエストの組み合わせが多かったんじゃないですか?」「そうかしら?」 よく覚えていない。「う~ん。じゃあ逆に、服は気に入っているのに着てもピンと来なかった経験は? ハイウエストかローウエストだった
朝倉倫子は休日にショッピングモールに行った。 看護師のクララ・リムが服を選んでくれるというのだ。 ところが、クララは洋服店へ向かうのではなく、まずカフェに入ろうと言った。 アイスティーを注文して受け取ってから、空いている席に座った。「さて、ドクター・リン。いつもどんなふうに服を選んでますか?」 クララはシロップとミルクをたっぷり入れ、ストローでかき回す。「……動きやすくて、おかしくないもの?」「無難に、目立たず? どんなふうに見られたいとか、イメージしていないんですね」「あまり考えたことがないわ」 学生時代に、同級生たちがファッション雑誌を見ながらおしゃべりしているのを眺めていた。ある程度自分に自信がないと、着飾ろうと思わないのではないだろうか。 デザイナーのジュンコにコーディネートしてもらって、自分も捨てたものではないと知った。だが、それは特別な日のコスプレのような感覚で、日常の自分まで変えようとは思わなかった。「あの……今日は、似合う服を選んでくれるんじゃないの?」「似合う服かつ、着たい服を探しましょう」 クララはストローをくわえ、いたずらっぽく笑った。「それに加えて、イーサンさんのリクエストがあります。優しい感じではなく、キリッとした感じ。無茶なことを言われたら、撥ねのけられる強い女です。ドクター・リンはどんな『キリッ』がいいですか?」「え? どんな……? 強さに種類があるの?」「女優さんでもいろんな『キリッ』がありますよ」 クララはバッグの中からタブレットを取り出した。「キリッとしたイメージの女優さんです。 この人は知的で優雅な雰囲気、こっちは都会的でバリバリ仕事する女性、こちらは威厳ある完璧主義な女性。どういう方向を目指したいか考えてください」「どれも、私には無理だと思うけど……」 倫子は、正直面倒くさいと思った。たかが服だ。着ていておかしくなければいいじゃないか、と。 クララは倫子の表情をじっと見つめる。「イーサンさんが求めているのは、押せば譲る人だと思われる可能性を潰したいってことだと思うんです。その結果に繋がるなら、服装はドクター・リンが好きに選んでいいはず。 それに、自分が好きじゃないものを着るよりは、少しでも好きなものの方が気持ちが上がるでしょ。毎日のことですからね」
夕方のスタッフオフィスで、朝倉倫子は伸びをしながら呟いた。「夏にまとまった休みが取れたら、故郷の花火大会を見に行きたいな」 七年前に、桐生智也と白木美琴が堂々と花火デートをSNSに上げた。次の夏がきたら、八年になる。 もう花火大会と聞くだけで気が滅入るような状態を、やめたいと思った。 父や母と手を繋いで見た思い出の方が前面に出てくればいいのだが、気持ちを切り替えるのは難しい。 母を誘って、新しい思い出で塗り替えたい。声をかけたら、三枝哲郎も来るだろうか。同じ病院で働いているということで、仲良くやっているようだし。 テーブルに書類を広げて仕分けしていたイーサン・タンが、顔を上げた。「いいですね。私も同行していいですか?」 イーサンは医療コーディネーターとして倫子を担当しているが、他にも数名の医師を担当している。日本への出張ではつきっきりで世話をしてくれたが、倫子専用ではない。「休暇を取って? 気に入ってくれたのね。日本の雰囲気がよかった? それとも料理が口に合った?」 一緒にいてくれるなら心強い。倫子は嬉しくて、つい早口になってしまった。「いえ。すっぴんで人前に出ないか、迷子にならないか、監視しないと……」 イーサンがくくっと笑う。「ひどい。からかったのね」 倫子ははしゃいだ自分が恥ずかしくなり、目を逸らした。これだから、冗談が通じないと言われるのだと、軽く落ち込んでしまう。「半分は冗談ですけど、気をつけて欲しいのは本当ですよ。有名人になったのですから、イメージを崩さないよう少しは気遣っていただきたい。ドクター・リンのママさんと哲郎にもお願いしておきましょうか」「哲郎まで巻き込むつもり? 友達にそんなことを頼むなんて」 自分同様におしゃれに興味がなさそうな人たちに頼んで、何ができるというのか。倫子は内心おもしろくなかった。 かといって、おしゃれを教えてくれそうな知り合いなど、心当たりがない。デザイナーのジュンコは、日常遣いの服は扱っていないし。「今の状態がひどいと言っているわけじゃないですよ。シンプルで清潔感があり、お似合いです」 イーサンにそう言われて、倫子はほっとした。「どうやっていいかわからないから、無難にしているんだけど。ありがとう」 同級生の女の子たちがファッションで盛り上がっているときには、余裕がなかった。
三枝哲郎から朝倉倫子にメッセージが届いた。『もう、通常業務に戻った頃かな。手のリハビリはやっているか? 夜更かしはしていないか?』 まるで母親のようだ。大丈夫だと書いたあとに、こう付け加えた。『患者さんの奥さんにデザートを渡されて、袖の下は駄目って断ったの。私、頭が固いのかなぁ?』『疑われそうなことはやらないっていうのも、自己防衛だろ』 そんな返事を見て、倫子はほっとした。『倫子は再生の魔術師と言われて目立つのが嫌なんだろ? だから、ゲーム仲間と○○の魔術師っていうあだ名をあちこちで付けて、ネットミームになるように流してる』『どういうこと?』『以前、○○王子ってあだ名を付けるブームがあったじゃん。あれみたいに、たくさん魔術師が出てくれば埋もれるって』『あはは。それ、いいね。ちなみにどんなの?』『ゲームの魔術師、スポーツの魔術師、氷上の魔術師、キッチンの魔術師……』『なんでもあり、なのね』 倫子は哲郎とのやり取りを終えると、スマートフォンを置いた。いつの間にか眉間のしわが消え、笑顔になっていた。 *** その頃、美琴はSNSにこんな書き込みをしていた。『子どもが離婚した前妻を恋しがっています。 あちらはまったく未練がないみたいで、離婚後に一度も会ってくれません。 私は何をしてあげられるのか、毎日悩んでいます』 ほどなくして、期待していた反応が返ってきた。『優しいですね。Mikotoさんの気持ちは、お子さんに届いていると思いますよ』『その前妻もひどいですね。人の心がないみたい』 美琴は、満足げに画面を眺めた。 ちゃんと「子どものことを心配している愛情深い女性」だと思われた。 さらに、美琴は書き込んだ。『もし彼女から連絡が来たら、すぐに会えるようセッティングします。 だから、これを見たら連絡をしてきてほしいな』 その後、美琴はお風呂に入り、すっかりいい気分になってリビングへ戻った。「美琴ママ。僕、こんなこと言ってないけど」 直也がスマートフォンを、美琴の目の前に突きつけた。 美琴は、面倒なことになった、と舌打ちしたくなった。「朝倉倫子と接点を持ちたいのよ。連絡が来ても、直也に会えとは言わないから、安心して」「いや、別に……会ってやってもいいけど」「え……?」