3-2

「それで、美奈さんから藤崎さんが離婚されたと聞いて……」

「美奈から聞いた？」

　意外だった。離婚後、美奈とは事務的な連絡しか取っていない。

「はい。先週、偶然駅前でお会いして。美奈さん、藤崎さんのことをとても心配されていました」

「心配？」

　美奈が俺のことを心配している。それは本当に意外だった。離婚の時は、もうお互いに何の感情も残っていないと思っていたから。お互いに疲れ切って、ただ別れることしか考えていなかった気がする。

「『悠真は一人でいると考え込んでしまうタイプだから』って。『きっと自分を責めて、また笑わなくなってしまう』っていわれて」

　美奈は俺のことを、そんなふうに見ていたのか。結婚していた頃は分からなかった視点だった。確かに俺は一人になると、どうしても物事を悪い方向に考えてしまう癖がある。

「美奈さんは『悠真にはもっと笑っていてほしい』ともいわれていました。『結婚生活の終わり頃には、彼の本当の笑顔が見られなくなって、それが一番辛かった』と」

　その言葉が胸に刺さった。美奈も辛かったのだ。俺は自分の辛さばかりに囚われて、美奈の気持ちを理解しようとしていなかった。

「それで、おせっかいだとは思ったのですが、どうしてもお会いしたくて」

　蓮は俺の方を向いた。その瞳には昨日と同じ真剣さと、新たに加わった温かさがあった。

「藤崎さんが今辛い時期にいるなら、今度は俺が……何かお手伝いできることがあるかもしれないと思って」

「お手伝い？」

「はい。一人でいるのが辛い時に、話し相手になったり。買い物に付き合ったり。映画を見にいったり」

　蓮の頬がほんのり赤くなる。その照れた様子が、クールだった第一印象とのギャップを際立たせている。

「そんな些細なことですが……。もしかしたら、少しでも藤崎さんの助けになれるかもしれない。あの時の笑顔を取り戻すお手伝いができるかもしれない」

　その不器用な申し出に、俺の心が温かくなった。見返りを求めている様子はまったくない。ただ純粋に、俺を助けたいと思ってくれているのだと感じた。こんな人が、本当にこの世の中にいるのだろうか。

「どうして、そこまでしてくれるんですか？」

「あの時の笑顔に救われたから」

　蓮は一切の迷いなく即答した。

「今度は俺が、その笑顔を守る番だと思ったから」

　守る。その言葉が胸の奥深くに響いた。誰かに守られるという感覚を、いつから忘れていただろう。結婚していた時も、美奈を守ろうとはしていたけれど、自分が守られていると感じたことはなかった。

「でも、俺は今、あまり笑えていないと思います」

「それでもいいんです」

　蓮の声は包み込むように優しかった。

「笑顔を取り戻すお手伝いができれば。そのために時間がかかっても、俺は構いません。それだけで俺は……」

　蓮はいいかけて、慌てて口を閉じた。その表情に、何かいい足りないことがあるのが見えた。

　俺は蓮を見つめた。この人は本当に純粋なのかもしれない。計算や打算的なところがまったく感じられない。警備員という職業から想像していた厳格さよりも、ずっと繊細で優しい。それでいて、芯の強さも感じられる。

「蓮さんは……優しいんですね」

　その言葉を口にした瞬間、蓮の顔が見る見るうちに真っ赤になった。

「や、優しいだなんて……そんな」

　慌てて手をひらひらと振る様子が、さっきまでの真剣な表情とのギャップで可愛らしく、思わず小さく笑ってしまった。  

　すると蓮の動きが完全に止まった。まるで時が止まったように。

「あ……」

「今……」

　蓮の声が上ずっている。

「笑ってくださいましたね」

　蓮はじっと俺の顔を見つめている。その真剣な視線に、心臓の鼓動が少し速くなる。男性にこんなに真剣に見つめられるのは初めてで、どう反応していいか分からない。

「やっぱり、とても素敵な笑顔です」

　そんなふうに真正面からいわれると、さすがに照れてしまう。

「大したことないですよ」

「いえ、本当に……。俺が一年半前に見た笑顔と同じです。変わらず美しい」

　美しい。男性にそんなふうにいわれたことがあっただろうか。美奈からも「ハンサム」や「素敵」といわれたことはあったが、「美しい」といわれたのは初めてで、なぜか胸がどきりとした。  

　蓮は真剣な表情で俺を見つめている。そのまっすぐな視線に、なぜか胸が高鳴ってしまう。これは一体何なのだろう。男性に対してこんな感情を抱くなんて、自分でも戸惑ってしまう。

「あの、もしよろしければ」

　蓮が遠慮がちに口を開く。その緊張した様子から、大事な話なのだと分かった。

「今度、お食事でもご一緒しませんか？　一人で食べるより、誰かと一緒の方が美味しいと思うので」 

　食事の誘い。それは友人としてなのか、それとも－－。

　俺の心の中で、小さな疑問が芽生える。この感情は一体何なのだろう。

「お時間がある時で構いません」

　蓮が慌てて付け加える。

「無理にとはいいません。もし迷惑でしたら……。俺、馴れ馴れしすぎたでしょうか」

「いえ」

　俺は遮るように口を開いた。この人ともう少し時間を過ごしてみたい。そんな気持ちが確かにあった。それが何なのかは分からないけれど、今は考えるよりも感じることを大切にしたい。

「お願いします」

　蓮の顔がぱっと明るくなった。まるで花が咲いたような表情だった。こんなに喜んでもらえると、こちらまで嬉しくなってくる。

「ありがとうございます！　あの、今度の週末はいかがですか？　土曜日の夕方とか……。でも、お疲れでしたら日曜日でも」

「土曜日で大丈夫です」

「それでは、連絡先を……あ、でも僕の番号、急に送っても大丈夫でしょうか？　それとも、最初はメールの方がよろしいでしょうか？」

　蓮は慌ててスマートフォンを取り出しながら、一人で心配している。その慌てぶりに、また小さく笑ってしまう。こんなに純粋で誠実な人がいるなんて。

　連絡先を交換しながら、俺は不思議な気持ちでいっぱいだった。離婚してから初めて、誰かと約束をした。それも、こんなに純粋で優しい人と。しかも、その人は俺の笑顔に救われたといってくれる。人生とは不思議なものだ。

「それでは、また連絡させていただきます。明日の夜頃に……。いえ、でも忙しかったら返信は急がなくて大丈夫ですので。お仕事のお邪魔はしたくないので」

「分かりました。お気遣いありがとうございます」

　蓮は立ち上がって、深々と頭を下げた。その礼儀正しさも、この人らしい。きっと何をするにも丁寧で、真面目なのだろう。

「こちらこそ、ありがとうございました。今日は……来てよかったです」

　その言葉に、蓮の表情がさらに明るくなった。

「俺も、お話しできて本当によかったです。それでは、お気をつけて」

　その後ろ姿を見送りながら、俺は胸の奥の変化に気づいた。ここ数か月間ずっと重かった心が、少しだけ軽くなったような気がする。まるで心の奥に溜まっていた重い空気が、少しずつ晴れていくような感覚だった。

　家に帰る足取りが、いつもよりも軽やかだった。

　久しぶりに、明日が来るのを楽しみに思えた。

　それと同時に、自分の中に生まれた新しい感情に戸惑いもあった。これは友情なのだろうか、それとも……。

　でも今は、あまり深く考えすぎずに、この温かい気持ちを大切にしたい。