Masuk裁判所の廊下は、会社の会議室よりも静かだった。
静かすぎて、靴音がよく響く。
東京地方裁判所。
午前九時四十分。
高瀬悠真は、代理人弁護士の矢島明彦、桐生麻衣、取締役CLOの大槻沙織とともに、民事部の法廷前にいた。
今日は、株式会社ネクストリンクが起こした損害賠償請求訴訟の第一回口頭弁論だった。
原告は、株式会社ネクストリンク。
被告は、高瀬美咲、桐谷健吾、西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一。
請求額は、七千二百四十万円。
不正支出四千八百万円。
調査委員会費用一千四百五十万円。
外部専門家費用六百二十万円。
内部対応費等三百七十万円。
そして別事件として、高瀬悠真個人による離婚訴訟と慰謝料請求も進んでいる。
家庭の裏切りと、会社の損害。
同じ人間たちが起こした事件でも、法廷では別々の皿に分けられる。
それが裁判だった。<
高瀬凛は、朝から忙しかった。 少なくとも、本人はそう思っている。 父親である高瀬悠真から見れば、同じマンションの中を上下に行ったり来たりしているだけだった。けれど、六歳の凛にとっては、朝から予定の詰まった立派な一日だった。 午前七時。 四十階の自宅で起床する。 白いウサギのぬいぐるみを抱えたままベッドを抜け出し、まだ少し眠そうな顔で洗面所へ向かう。歯磨きを終える頃には目が覚め、今日の予定を自分なりに確認し始める。 午前七時十五分。 三十九階に住む高瀬誠一と高瀬由紀子の部屋へ行き、朝食を食べる。 由紀子が焼いた薄めのトーストへ、凛は自分でイチゴジャムを塗った。以前のように山盛りにしようとして、誠一に無言で見られ、少しだけ量を減らした。「じいじ、これならいい?」「パンが見えているから、今日は合格だな」「きのうも見えてたよ」「昨日は端だけだった」 由紀子が苦笑しながら、凛の前へスクランブルエッグを置いた。「凛ちゃん、卵も食べましょうね」「食べる。りん、今日はいっぱい行くところあるから」「同じ建物の中でしょう」「でも、いそがしいの」 午前七時四十五分。 朝食を終えた凛は、そのまま一階下の三十八階へ向かった。 そこには母方の祖父母である秋山孝之と秋山美津子が暮らしている。 美津子は、凛が来ることを予想していたらしく、冷蔵庫から小さなヨーグルトを出した。「朝ごはんを食べてきたんでしょう」「食べたけど、ヨーグルトはべつ」「別腹を覚えるには早くないか」 孝之が新聞を畳みながら言う。 凛は真剣な顔で首を振った。「ヨーグルトはおなかにいいから、だいじょうぶ」「誰に教わった」「みつこばあば」「
朝のタワーマンションは、街より先に目を覚ます。 地上より少しだけ早く、空の色が変わる。 ガラス張りのリビングに、淡い朝日が落ちていた。 四十階。 高瀬悠真の自宅。 都心湾岸エリアに建つ高級タワーマンション、グランレジデンス月島ベイ。 コンシェルジュ常駐。 地下駐車場。 ゲストラウンジ。 スカイラウンジ。 フィットネスルーム。 プライベートミーティングルーム。 キッズスペース。 宅配ボックスと専用集配導線。 警備員の二十四時間巡回。 そして、居住者専用エレベーター。 もともとは投資用として高瀬悠真が代表を務める不動産管理会社、タカセ・アセットマネジメントが複数フロアを保有していた物件だった。 悠真はIT企業ネクストリンクの創業者であり、同時に不動産にもかなり早い段階から投資していた。 会社経営が軌道に乗る前から、収益の一部を都心不動産へ回していた。 理由は単純だった。 IT企業は伸びる時は伸びる。 しかし、景気や投資環境の影響を受けやすい。 だから、安定した家賃収入の柱が欲しかった。 都内の高級タワーマンションを区分で複数戸。 港区、中央区、品川区、文京区。 さらに法人名義で一棟レジデンスも二棟。 地方では名古屋、大阪、札幌にも収益物件を持っている。 グランレジデンス月島ベイでは、三十六階から四十階の一部住戸をタカセ・アセットマネジメントが保有していた。 多くは賃貸に出している。 外資系企業の役員。 医師。 弁護士。 上場企業の役員。 芸能関係者。 月額家賃は部屋によって七十万円から百八十万円
佐々木茉里は、請求書を作ることが仕事だった。 会社の将来を左右するような、大げさな仕事ではない。 自分がこの会社を動かしているという実感も、ほとんどなかった。 朝、事務所へ来たら、最初に小さな給湯室へ入り、電気ポットの水を替える。入口脇の郵便受けを確認し、届いている封筒を請求書、広告、役所関係の通知に分ける。 留守番電話を聞き、来客予定を確認し、代表取締役である黒川亮介の予定を共有カレンダーへ入力する。 その後は、黒川から届いたメールや、机の上に置かれたメモを見ながら請求書を作成する。 取引先の正式名称。 請求先の住所。 業務内容。 請求金額。 消費税。 支払期限。 振込先口座。 数字や文字に誤りがないかを二度確認し、PDFへ変換してメールで送る。紙での発行を求められている取引先には、印刷した請求書へ角印を押し、三つ折りにして封筒へ入れた。 宛名ラベルを貼り、切手を確認し、帰りに駅前の郵便ポストへ投函する。 それが、佐々木茉里の仕事だった。 勤務先は、Raven Works株式会社。 社員数は少なく、正社員と契約社員を合わせても両手で数えられる程度しかいない。実際には外部の業務委託者が多く、毎日事務所へ出勤してくる社員は、茉里と黒川を含めても数人だった。 代表取締役は黒川亮介。 佐々木茉里は、そこで働く契約社員だった。 二十八歳。 月給は二十二万円。 賞与はない。 入社時には、半年から一年程度で正社員登用を検討す
離婚届そのものは、紙一枚で終わる。 夫と妻がそれぞれ署名し、必要な欄を埋めて役所へ提出すれば、法律上の婚姻関係は解消される。 けれど、その紙一枚へ辿り着くまでには、二人で過ごした年月を何度も振り返らなければならない。 出会った日のこと。 結婚を決めた時のこと。 子どもが生まれた日のこと。 同じ家で重ねた朝と夜。 そして、どこから互いの視線がずれ、何を見落とし、何を壊したのか。 高瀬悠真は、弁護士事務所の応接室で、テーブルの上に置かれた書類を見つめていた。 協議離婚合意書。 親権者の指定。 面会交流の条件。 慰謝料の支払い方法。 財産分与を行わないこと。 悠真から美咲へ養育費を請求しないこと。 会社で締結する契約書に比べれば、記載されている内容は多くない。文字数だけを見れば、取引先との業務委託契約書や株式譲渡契約書よりもずっと短かった。 それでも、一行読むたびに胸の奥が重くなる。 数字と条文で整理された文書の向こうに、悠真、美咲、凛の三人で過ごしてきた時間があった。 相手側の席には、高瀬美咲が座っている。 以前のような、ネクストリンク専務取締役としての気配はなかった。 白いブラウスに、薄いグレーのジャケット。 髪は丁寧に整えられ、化粧もしている。だが、隠し切れない疲労が頬と目元に残っていた。 悠真がよく知っていた美咲は、会議の場で相手を見据え、自分の意見をはっきり口にする女性だった。 今は、机の上に重ねた両手を見つめたまま、ほとんど顔を上げない。 美咲の隣には、彼女の代理人弁護士が座っている。 悠真の隣には、代理人である矢島明彦がいた。 さらに少し離れた席には、双方の両親が座っていた。 悠真の父、高瀬誠一。 六十五歳。 元地方銀行員で、退職するまで企業融資と事業再生に長く携わって
午前五時二十分。 警視庁捜査二課の会議室には、まだ夜の匂いが残っていた。 窓の外は薄暗い。 東京の街は眠っているように見える。 だが、眠っている街の下で、警察はすでに動いていた。 会議室の正面には、三枚の顔写真が貼られている。 桐谷健吾。 元株式会社ネクストリンク営業本部長。 黒川亮介。 Raven Works代表。 青柳拓人。 Blue Mark Partners代表。 その横には、関係図。 ネクストリンク。 K-Bridge Consulting。 Raven Works。 Blue Mark Partners。 合同会社ミナトリサーチ。 S-Connect Holdings。 そして、複数の個人口座。 警視庁捜査二課の望月誠司は、逮捕状の写しを机の上に置いた。 四十六歳。 経済事件を長く追ってきた刑事だった。 怒鳴るタイプではない。 人の嘘より、金の流れを信じる男だった。 その横には、新谷怜奈。 三十一歳。 供述整理が速く、関係者の心理を読むのがうまい。 そして、森脇悠介。 三十五歳。 サイバー担当。 削除メール、端末ログ、クラウド履歴の解析を担当している。 望月が言った。「逮捕状は出た」 会議室が静まり返る。「対象は、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人。容疑は、まず背任および会社資金流出に関する共犯構成を中心に取る。業務上横領、詐欺的構成、犯罪収益隠匿については押収資料と供述で詰める。特別背任については、高瀬美咲の取締役としての関与が絡む。検察と協議しながら固める」 新谷怜奈が確認する。「西岡大輔と山城直人は任意同行」「そうだ。西岡と山城は崩れかけている。今日
朝は、誰にでも平等に来る。 だが、その朝が何を連れてくるかは、人によって違う。 東京国税局査察部のフロアには、午前五時前から明かりがついていた。 窓の外はまだ暗い。 ビルの谷間に、夜の残りが沈んでいる。 しかし、査察部の中だけはすでに昼のようだった。 机の上には、令状請求資料。 対象先一覧。 押収予定物リスト。 人員配置表。 車両割当表。 銀行口座一覧。 法人登記簿。 税務申告書。 資金移動図。 そして、桐谷健吾、黒川亮介、青柳拓人の写真。 査察官の斎藤修司は、白い紙コップのコーヒーに一度も口をつけず、資料の最終確認をしていた。 班長の大石誠司が、腕時計を見る。「行くぞ」 午前五時二十分。 斎藤修司、小野寺紗季、田丸圭吾、成宮光、早瀬理奈たちは、東京地方裁判所へ向かった。 令状を取るためだった。 強制査察は、気分で行うものではない。 裁判所が認めた令状が必要になる。 どこに入るのか。 何を探すのか。 何の嫌疑があるのか。 任意調査では足りない理由は何か。 それを資料で示さなければならない。 裁判所の一室で、裁判官が資料をめくった。 対象。 桐谷健吾自宅。 黒川亮介自宅。 Raven Works事務所。 Blue Mark Partners事務所。 K-Bridge Consulting事務所。 青柳拓人自宅。 合同会社ミナトリサーチ所在地。 押収対象。 帳簿。 請求書。 契約書。 領収書。 通帳。 キャッシュカード。 印鑑。 パソコン。







