「わたしはヒロイン。殿下と結ばれるのが、運命なの」 そう信じて疑わなかった女子高生から転生した乙女ゲームのヒロイン、サフィー・プラハは、聖女グルナの囁きに従い、破滅したはずの悪役令嬢アプリルを再び告発する。 夢のような舞踏会、優しい王子の言葉。 ――すべては、偽りだった。 断罪、破滅、そして廃都への追放。 ヒロインであるはずの彼女は、気づけば「ヒドイン」として物語の外へ落とされていた。 崩壊した夢の中で、彼女は何を選ぶのか。 これは、聖女を信じて悪役令嬢を陥れ続けた少女が、すべてを失う物語。
View More目覚ましのベルが鳴って、私は慌てて布団から飛び起きた。
もうちょっと早く起きるはずだったけれども、寝過ごしちゃったみたい。「やば、また寝坊しそうだった……」
朝ごはんを急いでかきこんで、慌ただしく制服に袖を通す。鏡の前に立つけれど、そこに映る私はどこにでもいる普通の女子高生。
黒髪のセミロングに焦げ茶色の瞳。 ……なんだか、少し退屈な気がする。 と、考えている暇は無かったから急いで学校へ向かう。「お、おはよう……」
遅刻寸前で教室に入る。
「
山田さんが挨拶してくれた。
そこまで私自身、仲が良いのか分からないけれど、山田さんは今まで遅刻はしていない。 ただ暗くてどんよりしている、そんな女の子。「
「そうなんだよ……」
教室の奥で
「さて、ホームルームを始める」
そうしていたら、チャイムが鳴って先生が入ってきた。
いつものように授業が始まっていく。 順調に授業を受けていく。休み時間、教室で陽菜達と話していると、陽菜が笑いながら私に言った。
「そういえば佐奈、この前また募金に全部入れたんでしょ? ほんっと断れないんだから」
先日クラスで募金活動があった時、募金で財布に入っていたお金を入れたんだっけ。
流石に注目するよね。 財布をさかさまにして入れていたし。「えっ、だって……必要な人がいるならと思って」
私ははにかみながら答えた。
「バカだなぁ、騙されるよ絶対」
冗談めかして言われても、図星だから言い返せなかった。
だって実際、街で『幸運を呼ぶ壺』を売りつけられそうになったこともあったし。 冷静に考えれば怪しいのに……放課後は文芸部に向かう。
私の机の上には、ノートとパソコン。書くのはオリジナル小説だったり、乙女ゲーム『クリスタル・ガーデン』の二次創作だったり。 特に『転生ヒドインが破滅する』ざまぁ系の小説は、なぜかよく筆が進むし、ネットにアップできる。 でも、『クリスタル・ガーデン』のヒドイン破滅のざまぁ系は絶対に書きたくない。ヒロインのサフィー・プラハが破滅する話は特に。「サフィーが破滅するのは……イヤだ……」
私はサフィーに、自分を重ねちゃっているんだと思う。ゲームの中でも、彼女が破滅するルートは
「佐奈、また書いているの?」
同じ部員の
「やだ、見ないでよ」
「そっちこそ」
私達はそんな風に照れ隠しをしながら、それぞれ小説を書いていく。
でも私的には、『いいなぁ、ちゃんと書けてる』と羨ましく思ったりもする。「佐奈、ちょっと良い?」
小説を書いていると、文芸部の部室に友達の
「良いよ!」
「ありがとう、じゃあ小道具を運んで欲しいの」
舞台へ行って、衣装や舞台で使う小道具などを運んでいく。
そこそこの重さはあるけれども、これくらいは大丈夫。「マイクチェックもお願いできるかな」
セリフを読むと、マイク越しに自分の声が響いて、思った以上に迫真の演技になってしまった。
「佐奈、結構良い声してるじゃん」
そんな事を言われて、思わず赤くなった。
……でも、舞台の上で主役を演じる人を見たとき、胸がざわつく。 羨ましい。私もあそこに立ってみたい。 みんなから拍手される側になれたらーーって思う。 そう思いながらも、実際に立つことはできないから、ただ裏方の手伝いをするだけ。 主役を見ているだけ。「疲れちゃったから、マッサージ出来る?」
「もちろん!」
私は鈴鹿達にマッサージを行う。
「あっ、そこそこ……」
結構評判が良かったりする。
「敦賀さん、また明日ね」
「うん、また明日!」
演劇部の手伝いが終わった後、校門に向かう谷浜さんに挨拶をして、陸上部の練習場を通ると、陽菜に呼び止められた。
グラウンドはまだ熱気が残っている。 陽菜は陸上部に所属していて、大会にも出場している。「佐奈ー! ちょっと片付け手伝ってー! あとマッサージも!」
私は「良いよ!」と笑って答える。陽菜は走っているとき、本当に輝いて見える。
汗だくで、それでも楽しそうで。 そんな彼女の後ろ姿を見ながら、私は自分の影を意識する。 手伝いながら「羨ましいなぁ」って、心の奥で思ってしまう。「肩がガチガチで動かないのよ……」
片付けを行ったら、次は陽菜のマッサージを。
「わ、分かった。ちょっと失礼するね」
陽菜の肩に触れると、こわばった筋肉の感触。結構使っているんだね。
さすりながら優しくほぐしていく。「うわっ、楽になった! 佐奈のマッサージ、本当魔法みたい!」
「えへへ……役に立てたなら良かった」
「私もお願い!」
「もちろん!」
別の部員の身体もほぐしていく。
陽菜とは違った疲れ方なので、ほぐし方も別の方向から。「本当に助かった」
「疲れていたら、頼って良いからね!」
そう答えながらも、最後の一周とかをしている選手達の姿を目で追った。
他の部員達から声援を受け、ゴールに飛び込んで歓声を受ける彼ら。 彼らを羨ましく思っているけれども、私はいつも中心にはいない。「佐奈、いつもありがとうね」
「うん……」
褒められて胸が温かくなる一方で、心の奥では小さな棘がうずく。
(私だって……本当は、応援される側になりたいのに)
陸上部では支える人。
演劇部では裏方。 文芸部でも、書きかけの小説は最後まで仕上げられない。ーーどこにいても、主役にはなれない。
家に帰って、宿題を片付ける。 パソコンの前に座って、サフィー・プラハを主人公にした小説の続きを書くものの、結局アップロードのボタンを押せない。 代わりにざまぁ系の短編を投稿して、わずかな承認欲求を満たす。 パソコンの画面には、二つのフォルダが並んでいる。 一つは『サフィー小説』、もう一つは『ざまぁ投稿用』。 ……同じように小説を書いているのに、扱いはまるで違う。「溜まっちゃったな……」
『サフィー小説』の方には、未投稿のテキストデータがぎっしりと詰まっている。話はちゃんと出来上がっているけれども、投稿できていない。
サフィーが王子と結ばれる話に、サフィーが誰かに優しくされて、幸せに微笑む話。 ……私が心から『これがハッピーエンド』と思える物語ばかり。 でも、アップロードボタンにカーソルを合わせるたびに、心臓がバクバクして、結局キャンセルしてしまう。「もし、つまらないって言われたら……」
「もし、サフィーなんて嫌いってコメントをされたら……」
それは、私自身を否定されるみたいになってしまう。
だってサフィー=私だから。それが怖くて投稿できない。「こんなに投稿してきたのね……」
その一方で、『ざまぁ投稿用』の方は気楽だった。
テキストファイルに入っている小説は全て、アップロード済み。 転生したヒドインがわがまま言い過ぎて、結局破滅する話。 ライバルに嫌われ、王子に見放され、最後にはざまぁされる。 そういう筋書きだったら、どんどん書けたし、アップロードもできた。 『よくあるざまぁだけどスッキリした』『こういう展開好き!』、そんなコメントがつくだけで、胸が温かくなる。 ああ、ちゃんと誰かが読んでくれてるんだって。 ーー矛盾しているよね。 サフィーが破滅するのは絶対にイヤ。だけど、別の”誰か”なら破滅しても平気。 私はサフィーを守りたい。だってサフィーは私だから。 でもその裏では、嫉妬や劣等感を別のキャラクターに投影して、破滅させて満足している。 矛盾しているのに、やめられない。 投稿サイトの『マイページ』を眺めながら、私はそっとため息をついた。 その後、ゲーム機を取って『クリスタル・ガーデン』を起動。 何度も遊び尽くした、学園と恋と陰謀に満ちた乙女ゲーム。 サフィー・プラハはこのゲームのヒロインで、私はこのゲームの二次創作を書いている。 彼女が王子と結ばれるルートを繰り返し攻略する。 決してサフィーが破滅するエンディングは見たくない。最悪のバッドエンドだから。「やっぱり、ここが一番ハッピーエンドだよね……」
コントローラーを握ったまま、まぶたが重くなる。
「佐奈、昨日ゲームしながら寝てたでしょ」朝、目を覚ましたらゲームのエンディング画面のまま。どうやら寝落ちしたみたい。
母にからかわれて、私は顔を赤くする。「ちょっとだけのつもりだったんだけど……」
どうしてもやめられない。サフィーが幸せになるルートを見ていると、私まで救われる気がするから。
私も幸せになっている。そんな気持ち。「佐奈ー! 今日も片付けよろしく!」
「うん、良いよ」
教室で今日も陽菜に呼ばれる。
私は笑って答えるけれど、心の奥では思ってしまう。 ーーどうして私は、いつも頼まれる側なんだろう。 陽菜は大会で記録を出して表彰台に乗って、賞状を貰って。 羨ましいな、あんな風に注目されて。「やっぱり難しいなぁ……」
カタカタとキーボードを叩く音が、静かな部屋に響いている。
華怜が画面に集中している横で、私はノートをめくりながらため息をついていた。「……今日も中途半端」
サフィーの話を思いついたけれども、仮に投稿したとして喜んでもらえるものなのか不安になる。
喜んでもらえるようなそこまでストーリーが思い浮かばない。 サフィーがハッピーエンドになる話は、私がハッピーエンドだと思っている話だから。「佐奈、結構こっちに出ているけれども、手伝いとかは大丈夫?」
「うん。ちゃんとしているし、こっちは気楽で良いから」
そう言って笑ったけれども、胸の奥がチクリと痛んだ。
誤魔化すようにはにかむ。(本当は……私も目立ちたいけれど……)
ペンを握り直し、ノートに文字を走らせる。
今度は転生ヒドインが破滅する話。こっちは書きやすい。 最後はざまぁみろと言えるような破滅の仕方。 ああ、本当に書きやすい。なんでなんだろう、私。「文芸部なら役も順位も関係ない。ただ物語を考えればいい」
そう自分に言い聞かせるように。
でも、心のどこかで、その言葉が”言い訳”でしかないことを、私は分かっていたけれど。「また書いているの? 佐奈」
突然かけられた声に顔を上げると、ドアのところに
「え、うん……」
少し気恥ずかしく答える。
「へぇ……転生ヒロインが破滅する話ねぇ。普通は幸せになるはずなのに、破滅させるなんてね。本当に好きだね、そういうの」
六花はひょいと机に身を乗り出し、ノートのページを覗き込んだ。
「……破滅するヒロイン、か。ふーん」
小さく笑って、わざとらしく肩をすくめる。
「でもさ、わざわざヒロインを転生させて破滅させるなんて、ちょっと酷くない? ヒロインって、本来は愛されて幸せになるためにいるんじゃないの?」
「そ、そんなことないよ。ヒロインだからって、必ずしも幸せになれるとは限らないし……むしろ努力しないと、周りを巻き込んで破滅することだってあるから」
私は反論する。けれど六花は楽しそうに首を傾げた。
「努力しないと破滅? へぇ……そういうヒロインも”あり”なのね。でもさ、もし私が転生してヒロインになったら、そんな風にはさせない。絶対に破滅なんてしないし……誰にも奪わせない」
いたずらっぽく笑っている。
ヒロインになったら絶対に破滅したくない。 私自身サフィーになったとしても、絶対に。サフィーはハッピーエンドになってほしい。「そんな風になったらいいね」
微笑みながら、六花の宣言に反応する。
「佐奈、そういえば演劇部の手伝い、今日も来てくれる?」
六花は思い出したように言ってきた。六花は演劇部に所属している。
舞台では脇役が多いみたいだけど。「うん。じゃあ行こうか」
私はノートを閉じて舞台へ行って、演劇部の手伝いを。もちろん、疲れた鈴鹿や六花にマッサージもね。
練習を見ていると、主役が舞台で輝いていた。 拍手が巻き起こる。私はそれを遠くから見つめるだけ。「私も……」
小さな声で呟いて、すぐに首を振った。無理、そんなの。
ごまかしても、ほんのちょっとだけ思ってしまう。 失敗してしまえ、と。 それはすぐに頭の中から消えろと言い聞かせたけれど。「ごめん、今日もマッサージをお願い!」
「ううんよろこんで」
陸上部の片付けの最中、陽菜から頼まれた。
当然快く引き受ける。「あっ、そこそこ……気持ちいい……」
今日も頑張っていたのか、陽菜は肩がこっていたし、腰も疲れていた。
それをほぐしていく。 こうすれば、陽菜は明日も練習に打ち込める。「ありがとう!」
「良いの。私で良かったらいつでも大丈夫だから」
私はにっこりとした表情を陽菜に見せる。
でも、私だってこんな風に頼りたい。 目立ちたいし、手伝ってもらいたい。 ……無理だよね。 家に帰ると、今日も宿題を終えて、また小説を書いていく。 サフィーがハッピーエンドになる話を。 フォルダを開けば、『サフィー小説』のデータが目に入る。 サフィーがハッピーエンドになる話ばかりで、私がサフィーに『幸せになってほしい』と願って書いた物語だ。「……今日こそ、投稿してみようかな」
マウスカーソルをアップロードのボタンに合わせる。
誰かに読んでもらえたら、きっと嬉しい。承認されるかもしれない。 ーーでも、同時に怖い。 批判的なコメントばっかりついて、小説を、サフィーを、私を否定されるのが。「はぁ……今日はいいや」
しばらく画面を見つめていたけれど、結局『キャンセル』を押してしまった。
ああ、やっぱり無理だ……「せめてこれを……」
代わりに、『ざまぁ投稿用』フォルダを開く。
今日もここの小説を投稿する。 こっちだったら、ちょっとした短編であってもすぐに『スカッとした!』なんてコメントがつくから。 安心して投稿できるし、私の中途半端な部分を満たせる。でも……本当に見てほしのはサフィーの幸せ。
矛盾している。分かっているけれど、怖い物は怖い。「今日もこれを……」
気を紛らわせるように、私はゲーム機を手に取る。
遊ぶのは勿論、『クリスタル・ガーデン』。タイトル画面が光っている。 彼女を操作して、王子に選ばれるルートを何度も繰り返す。 でも……「……えっ?」
王子の冷たい瞳、群衆の罵声、サフィーが”偽ヒロイン”と呼ばれて追放される結末。
BGMは不協和音に歪み、キャラクター立ち絵が暗転する。ーー偽ヒロイン断罪エンド
震える指先でスキップを押しても、エンドロールは止まらない。
しまったと思っても、心が辛い。 途中の選択肢を間違えちゃった。そのせいで、このエンディングに……「違う……こんなの、サフィーじゃない……」
どうしてこのゲームは、こんなルートを用意したんだろう。
サフィーが群衆に罵られて消えていくなんて……許せない。 いくら二次創作で王子と結ばれるルートに次いで人気だからって、私は認めたくない。「私は、絶対こんなエンドになんて行かせない」
涙を滲ませながら、もう一度最初から始める。
選択肢は間違えちゃだめ。 特に断罪イベントで、『アプリルを糾弾する』なんて選択肢は絶対に選ばない。 気をつけていたから、今度は無事に王子と結ばれるエンディングに入れた。「……サフィー。君こそが、私の隣に立つべき人だ」
私の胸に、じんわりとした熱が広がる。
何度見ても涙が出そうになる。さっきは絶望の涙だったけれども、今は感動の涙。ーー真実の愛エンド
「……やっぱりこれだよ。サフィーは絶対に幸せになるべきよ」
私は安心したのか、頭が疲れてきた。
だから、そのまま眠りに入っていく……目を覚ました時……
「……え?」
私は見知らぬ馬車の車内だった。
揺れる車内で、全く見当がつかない。「どういう事……?」
「え……? ここ、どこ……?」
私は震える手で袋の中にある手鏡を掴んだ。
そこに映っていたのはーー金色の髪と、サファイアのように透き通る青い瞳。「さ……サフィー……? 本当に、私が……!」
憧れていたヒロインの姿。
『クリスタル・ガーデン』のヒロインである、サフィー・プラハ。 そのゲームの世界に、本当に来てしまったのだ。 困惑の震えは、歓喜の震えへと変わっていく。 胸が高鳴り、嬉しさのあまり涙が出そうになる。「私……異世界転生モノであるような……ヒロインになったんだ!」
よく見るような明らかなテンプレート的展開に、私は拳を握って喜ぶ。
この時の私は、希望と期待に満ちていた。 馬車は、王立クリスタリア学院へ。 そこで転校生として、私は入学することに。そう、ゲームと同じことに。 こうして私、敦賀佐奈はサフィー・プラハになった。その夜、食堂の灯りは柔らかく、談笑の声があちこちから聞こえていた。 けれど、私の耳には何も入ってこなかった。 テーブルの上で、湯気の立つスープを見つめながら、私はぼんやりとしていた。 グルナ様の言葉がまだ頭の中で響いていたから。 ”明日の夜、大事な話をしましょう” その一言が、ずっと胸の奥で鳴り続けている。 トレイを持って座ると、アプリルが向かいの席に座った。 相変わらず落ち着いた所作で食事をしているけれど、その顔にはどこか疲れが滲んでいる。 目が合った瞬間、私は視線を逸らす。 最初、どちらも先に口を開けなかった。 でも沈黙を破ったのは、彼女だった。「……サフィー、今日は学院で何かあったの?」 静かな声。 以前と同じ、心配してくれる響きなのに、私は何故か息苦しくなった。「ううん、何も。大丈夫よ」 笑って返したけれど、その笑顔がひどく薄っぺらく感じた。「舞踏会の後、疲れていない?」「平気よ。グルナ様のおかげで、すごく幸せだったの」 笑顔のまま返したけれど、アプリルはわずかに眉を寄せた。「……そう。なら、いいの。無理だけはしないでね」 そう言って、また俯いてしまった。 アプリルの言葉は、まるで祈りのようだった。 でも、私にはそれが”遠慮”に聞こえてしまった。 これ以上何を話せば良いのか分からず、またぼんやりとした。 少しして冷めたスープの上に、淡い月光が反射している。 私はその光から目を逸らすように、食事を終えた。(ごめんね、アプリル。でも、あなたの優しさはもう、私を導けないの……) 夜更け。 部屋の灯りを落とし、アプリルは机で日誌を書いていた。 ペン先が紙を走る音だけが静かに響く。「おやすみなさい、サフィー」「……うん。おやすみ」 背を向けたまま返事をする。 手の中には、昼間にグルナ様から渡された小さな封筒。 ”今夜、この時間に来てください”と記された文字が脳裏に浮かぶ。 そのままベッドから起き上がり、そっと靴を履く。 胸の鼓動が早くなる。(……グルナ様の部屋へ行かなくちゃ) そのとき、背後から声がした。「夜風が冷たいから……気をつけてね」 アプリルの声。 まるで、すべてを見透かしているようだった。 でも、振り向けなかった。「うん……すぐ戻るから」 扉のノブを握る手が震える。
グルナ様と別れ、寮への帰り道を歩いていた。 夕暮れの光が校舎の窓に反射して、眩しかった。 角を曲がった先で、アプリルが掃除道具を片付けているのが見えた。 掃除用の布を畳んでいて、背中越しでも疲れているのが分かる。「……アプリル」 名前を呼ぶと、彼女は静かに振り返った。 その赤い瞳が、ほんの一瞬、光を宿す。「サフィー。もう遅いのに、どうしたの?」「いえ……ちょっと、通りがかっただけ」 口ではそう言いながらも、心の奥で何かを探していた。 謝りたいのか、確かめたいのか、自分でも分からない。 けれど、アプリルはそんな私の心を見透かしたように微笑む。「……舞踏会、素敵でしたわ」「……えっ?」「殿下、ずっと貴女を見ておられましたわ。……本当に、嬉しそうに」 意外だった。 もっと皮肉でも言うのかと思っていたのに、その声は温かかった。 まるで、本当に喜んでくれているみたいに。 でも、胸の奥が少し痛みが走る。 その優しさが、今の私には怖かった。(『彼女は変われないのです。悪役令嬢という役割からは誰も逃れられません』……グルナ様が、そう言っていた)「ありがとう、アプリル。でも……私は、もう迷わないの」 アプリルは一瞬、悲しそうに目を伏せた。 それでも彼女は静かに頷いた。「……そう。なら、いいの。サフィーが笑っていられるなら、それで」 笑っていられるならーー その言葉が、何故だか胸の奥でひっかかった。 でも私は立ち止まらず、ただ微笑み返して歩き出した。(……間違ってない。間違ってなんか、ないはずなのに……)【アプリル視点】 わたくしはその背中を見つめていた。 手の中の布をぎゅっと握りしめる。(本当は……気づいているのよね、サフィー。誰が貴女を操っているのかも) 夕陽が沈みきる頃、赤い瞳の奥にわずかな涙が滲んでくる。(でもーー今は、もう届かない) そのままわたくしは、ゆっくりと背を向けた。 わたくしの影は、廊下の端で薄れていき、やがて闇に溶けていく。
翌朝。 舞踏会の余韻がまだまだ自分の中で残っていた。 鏡の前で髪を整えながら、昨夜の光景を何度も思い出していた。 王子と踊ったあの時間、グルナ様の瞳、拍手と歓声。 まるで夢の中にまだ居るみたいで、胸の奥がずっと温かい。(……殿下に選ばれるのは、貴女です。わたしが保証します) グルナ様の言葉が、心の中で何度も響く。 あの言葉を信じて良い。だって、彼女は聖女なんだから。 信じていれば、私は本当にヒロインになれる。 グルナ様に協力していれば、間違った結果にはならない。 アプリルは既に起きていてメイドの仕事をしているみたい。 それにしても、ここまで上手くいくなんて。(夢じゃないよね? 舞踏会で踊ったのは) 舞踏会自体が夢の中の出来事だったのではないかという考えになってしまい、少々不安になりながらも、部屋を出て学院の廊下を歩いていく。 すると学院の廊下は、朝からざわめいていた。「見た? 昨夜の舞踏会で、殿下がずっとサフィー嬢と踊ってたのよ!」「まるで童話のお姫様みたいだったわ」 そんな声が次々と耳に入る。 頬が熱くなるのを感じながら、私は胸の前で手を組んだ。(……やっぱり、みんな見てたんだ。夢じゃなかったんだわ) 誇らしさと幸せが胸に広がっていく。 さっき浮かんだ不安は一気に無くなっていた。 でもその時ーー視界の端に、赤い色がよぎった。 掃除道具を手にしたアプリルが、廊下の端で床を磨いていた。 彼女もきっと、舞踏会を見ていたはず。 一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに逸らされる。 その仕草が、なぜか胸に小さな痛みを落とした。(ごめんね……でも、私はヒロインなの。間違っちゃいけない) 心の中でそう呟いて、私は視線を前に戻した。 ーーその時、モニカが声をかけてきた。「ねえサフィー、ちょっと手伝ってくれる?」「えっ?」 モニカがティーセットを運んでいた。 どうやら備品室から取り出すみたい。「は、はい……」 私もティーセットを運ぶ。 銀の盆の上に並んだカップやポットは、どれも繊細で高価そう。 緊張で手が汗ばむ。(大丈夫……昨日の舞踏会よりもずっと簡単なことよ) そう言い聞かせながら歩いたけれど指が少し滑った。「あっ……!」 盆が傾き、カップのひとつが縁から落ちそうになる。 その瞬間、鋭い声が飛んだ。
舞踏会が終わった後も、胸の高鳴りは収まらなかった。 王子と踊ったあの時間が、まだ身体に残っている。手のひらには彼の温もりが、耳の奥には褒めてくださった言葉が響いていた。(……夢みたい。本当に私、ヒロインなんだわ……!) そんな陶酔に包まれながら寮へ戻ろうとした時、背後から静かな声がした。「サフィー、少しこちらへ」 振り向けば、月明かりに照らされた白銀の髪。グルナ様が穏やかに立っていた。 その姿を見た瞬間、私の心臓は再び早鐘を打つ。「グルナ様……!」「大広間では落ち着いて話せなかったでしょう。あちらで話しましょうか」 断れるはずがない。私は迷いなく頷き、その後を追った。 案内されたのは、王宮のバルコニー。 月明かりが照らしているけれども、人気が無く誰かに聞かれる心配も無い。「舞踏会、見事でしたわ。殿下が貴女をずっと選び続けたでしょう?」「は、はい……! 本当に、夢のようでした」 私の声は興奮で震えていた。グルナ様は柔らかく笑みを浮かべ、そっと私の手を取った。「それは、貴女の努力と……わたしの導きの賜物でしたわ」「……グルナ様のおかげです!」 嬉しさと感謝で胸がいっぱいになる。 けれど、その微笑の奥に、どこか影のようなものが覗いた気がした。 うん、気のせい。「ですけれど……サフィー。せっかく得た輝きを曇らせる影があることも、忘れてはいけません」「影……?」 グルナ様はわざと間を置き、真っ直ぐに私の瞳を見た。「……アプリル・ブラチスラバ」 その名を聞いた瞬間、胸がひやりと冷える。 確かに、舞踏会の端でこちらを見ていた赤い瞳を思い出してしまう。「彼女は断罪され、地位を失ったはず。それでも今なお殿下に近づこうとしている……」「そ、そんな……」 私の声は震えていた。 けれど藤色の瞳に見つめられると、抗うよりも信じたくなる。「貴女は純粋で優しい。だからこそ、彼女の芝居に惑わされてはなりません。サフィー……わたしと一緒に、学院を、そして殿下を守りましょう」「わ、私に……出来ますか……?」「出来ますとも。あなたはわたしに協力してくれますか?」 グルナ様の表情は真剣で、断れそうな雰囲気じゃ無い。「も、勿論です……!」「大丈夫ですよ。そんなに緊張しなくても、今すぐではありませんので」 微笑みながら優しく頭を撫でて
【アプリル視点】 王宮の舞踏会場は、無数のシャンデリアが灯されて、黄金色の光に満ちていた。 豪奢な音楽が響き渡り、色とりどりのドレスが舞い踊る わたくしは給仕係として銀盆を持ちながら、会場の隅で他の給仕の列に並んでいた。 そこは光から最も遠い、影の場所。(……あの日も、同じシャンデリアの下に立っていたはずなのに) かつては殿下の婚約者として、みんなの視線を浴びる側にいた。 けれど今は”断罪された令嬢”として、光に背を向ける立場。 目の前で煌めく光景が、残酷なほどに遠い。 やがて殿下が歩み出る。 最初に手を取ったのはーーグルナ。 銀の髪が流れ、藤色の瞳が光を反射する。 彼女と踊る姿は、まるで舞踏会そのものが彼女を中心に回っているかのようだった。「さすが聖女様……」「殿下と並んでこそ、完璧だわ」 生徒達の囁きが波のように広がる。 わたくしは唇を噛んだ。 グルナが舞台に立った瞬間、すべての視線が彼女に吸い寄せられる。 その力を、わたくしは知っている。試験の時、必死にサフィーを庇ったわたくしの声は届かず、グルナの一言で空気は一瞬にして変わった。(あの子は……きっと信じ込んでしまう。グルナの光に) 胸の奥に痛みが走る。 けれど、それでもサフィーを見守らずにはいられなかった。 曲が変わって、次に殿下の手を取ったのはサフィーだった。 薄桃色のドレスがふわりと広がり、緊張に震える頬が紅潮している。 けれどその笑顔は真っ直ぐで、必死でーーまるで本当に『主役』として選ばれた娘のように、眩しかった。 生徒達の中心で、まばゆい光を浴びているサフィー。殿下の隣で、幸せそうに微笑んでいる。 彼女、かつて言っていたっけ。『ヒロイン』という言葉。 さしずめ彼女に相応しいかもしれない。「サフィー嬢、素敵ね」「殿下もご満悦だわ」 周囲の称賛が降り注ぐ。 わたくしは銀盆を握りしめた。 それはわたくしが欲しかった未来だったのに。 けれど同時に、あの子に与えられているなら……せめて幸せでいてほしいとも願ってしまう。(サフィー……あなたを守りたかった。今も、その気持ちは変わらないのに……) 視線の先で、グルナがゆるやかに微笑んでいた。 サフィーと殿下が踊る姿を見つめながら、まるで”それは自分が与えた幸福”だと誇示するように。 そして一
舞踏会当日。 王宮の大広間は光に包まれていた。 無数の燭台が壁一面に灯され、天井からは豪奢なシャンデリアが下がり、煌めく水晶の粒が夜空の星のように輝いている。 大広間が前の舞踏会よりも煌めいていた。 場所だって、学院じゃなくて王宮だもの。 花々で飾られた柱の間を、鮮やかなドレスや燕尾服に身を包んだ生徒達が行き交い、楽団が奏でる調べが床を震わせている。「ちゃんと踊れる……はずだよね?」 私は深呼吸を繰り返しながら、大広間の入り口に立っていた。 緊張で胸が張り裂けそうだったけれど、背後に寄り添う存在に心を支えられていた。「大丈夫。サフィー、貴女ならきっと輝けますわ」 白銀の髪を揺らしながら、グルナ様がそっと囁く。 藤色の瞳が柔らかく細められた瞬間、胸の奥の不安は溶けていく。 うん、これならいける。 そして扉が開かれた。 大広間に一歩踏み出すと、空気が一変する。 会場にいた人々の視線が一斉にこちらに注がれ、ざわめきが広がった。 グルナ様は太陽のように堂々と歩み、その横に並んでいるだけで、私まで光を浴びた存在に見える。(私……今、本当に”ヒロイン”なんだわ……!) 視線の先、壇上には殿下が立っていた。 金色の瞳がまっすぐにこちらを射抜き、わずかに微笑む。 その眼差しに捕らえられた瞬間、心臓が跳ね、頬が紅潮した。 儀礼に従い、殿下は最初の曲でグルナ様の手を取った。 その光景はまるで聖女と王子の組み合わせのようで、周囲から感嘆のため息がもれる。 私は胸の奥に小さな棘を覚えたけれど、次の瞬間、その棘は甘い衝撃へと変わった。「で、殿下……?」 二曲目が始まると、王子は迷いなく私の方へ歩み寄り、差し伸べられた手を示した。「サフィー嬢、踊っていただけますか?」「は、はい……!」 会場がざわめく。 殿下の手に自分の手を重ねると、胸が震え、足元がふわりと浮いたように軽くなった。 音楽が流れ、殿下に導かれてステップを踏む。「見事な踊りですね。君の努力が伝わってきます」「そ、そんな……殿下が導いてくださるから……」 お互いの呼吸が合わさって、旋律に溶けていく。 人々の視線が私に注がれているのが分かる。 その全てが『ヒロインに相応しい』と証明してくれているようで、頬が熱くなった。(これも全部……グルナ様のおかげ。やっぱり
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