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第32話 誰かの居場所

last update publish date: 2026-08-28 18:00:00

十二月の朝は、街の輪郭を少しだけ硬くする。

駅前のロータリーに並ぶ街路樹は葉を落とし、枝だけになった姿で空へ伸びていた。吐く息は白く、通勤する人々の足取りは速い。けれど、その日だけは、愛知県一宮市の駅前商店街に、いつもとは違う熱があった。

閉じたままだったシャッターが三枚、上がっている。

古い婦人服店だった建物。

元は学習塾だった二階建てのビル。

数年前まで青果店の倉庫として使われていた平屋。

その三つの建物に、新しい看板が掛けられていた。

ネクストリンクワークス愛知。

就労継続支援A型事業所。

地域連携作業センター。

隣には、小さなカフェスペースの看板もある。
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  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第35話 鐘が鳴る日

     朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。

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     年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第33話 人を支える仕事

    ネクストリンクワークス愛知の開所から二週間後。 十二月の朝は、さらに冷たくなっていた。 愛知県一宮市の郊外にある有料老人ホーム《ひだまり一宮》の駐車場には、朝八時前から数台の車が停まっていた。建物は三階建てで、外壁には少し色褪せたクリーム色の塗装が残っている。入口の花壇にはパンジーが植えられていたが、土は乾き、端の方には枯れた葉が溜まっていた。 古い施設ではない。 けれど、新しくもない。 清潔には保たれている。 けれど、余裕があるわけではない。 その空気は、入口に立っただけで分かった。 高瀬悠真は、駐車場から建物を見上げた。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の彼女は濃紺のコートに、白いマフラーを巻いていた。手にはいつものタブレット。予定表、視察資料、施設概要、職員名簿、給与体系、離職率、夜勤回数、事故報告一覧、家族からの要望、修繕見積もり、全部が入っている。 高瀬悠真が建物を見ていると、神谷玲奈が静かに言った。 「社長、表情が硬いです」 「そうですか」 「はい。開所式の時より硬いです」 「今日は、明るい話だけでは終わらない気がしているので」 「正しい感覚です」 神谷玲奈は、資料を見た。 「ひだまり一宮。入居者五十六名。常勤介護職員二十一名、非常勤十二名。看護師常勤三名、非常勤二名。夜勤は介護職員二名体制。直近一年の離職率は三十一%。介護職員の平均月給は二十二万八千円。夜勤手当は一回五千円。賞与は

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    十二月の朝は、街の輪郭を少しだけ硬くする。 駅前のロータリーに並ぶ街路樹は葉を落とし、枝だけになった姿で空へ伸びていた。吐く息は白く、通勤する人々の足取りは速い。けれど、その日だけは、愛知県一宮市の駅前商店街に、いつもとは違う熱があった。 閉じたままだったシャッターが三枚、上がっている。 古い婦人服店だった建物。 元は学習塾だった二階建てのビル。 数年前まで青果店の倉庫として使われていた平屋。 その三つの建物に、新しい看板が掛けられていた。 ネクストリンクワークス愛知。 就労継続支援A型事業所。 地域連携作業センター。 隣には、小さなカフェスペースの看板もある。 まちの縁側カフェ。 まだ開店前なのに、地元商店街の人たちが何人も集まっていた。 田中青果の田中久江は、毛糸の帽子をかぶって両手をこすり合わせている。 鈴木商店の鈴木良一は、紺色のジャンパー姿で看板を見上げていた。 木村印刷の木村悠人は、今日の開所式用に刷った案内チラシを抱えている。 山本製茶の山本千代は、温かいほうじ茶をポットで持ってきていた。 商店街の会長である田中英治は、少し緊張した顔で腕時計を見た。 「本当に来るんだよな、東京の社長さん」 鈴木良一が笑った。 「来るってよ。テレビにも出てた、あの高瀬さんだろ」 「テレビに出てた人間

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第31話 支える人たち

    会社が大きくなる音は、派手ではない。 世間が耳にするのは、もっと分かりやすい音だ。 何十億円規模の企業買収。 上場準備への着手。 新しいAIサービス。 地方支社の開設。 福祉事業への参入。 介護施設の買収。 ゲーム会社やアニメ会社のグループ入り。 高瀬悠真が何を決めたのか。 水城莉央が、どれほどの資金計画を組んだのか。 七瀬蒼真が、いくつの事業を同時に回しているのか。 佐藤唯夏が、A型やB型の事業所をどう広げようとしているのか。 そうした話は、ニュースの記事にもなる。 会社説明資料にも載る。 投資家へ向けた成長戦略にもなる。 だが、本当に会社が大きくなり始めた時。 最初に悲鳴を上げるのは、たいてい総務だった。 「佐々木さん、愛知支社の追加社員証十二枚、今日中に発行申請までいける?」 「いけます。顔写真データが午前十一時までにそろえば、本人確認して午後一時までに発行センターへ回します」 「北海道支社の社用携帯十五台は?」 「昨日発送済みです。神代雪乃副支社長宛て。配送業者の追跡番号も北海道支社管理チャットへ共有してあります」 「高知支社の倉庫用備品。追加棚とラベルプリンター」 「棚は十三日納品で確定しています。ラベルプリンターは指定機種が欠品中なので、代替候補を二機種出して三好美月支社長に確認依頼中です」 「鹿児島支社の大会議室モニターは?」 「見積もり二社まで取得済みです。価格差は三万八千

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第30話 信用を積み上げる会社

    十二月の朝は、透明だった。 窓の外に広がる東京の空はよく晴れている。それなのに、夏の青空とはまるで違う。空気そのものが薄い氷を含んでいるように冷たく、林立する高層ビルの輪郭を白い朝日が鋭くなぞっていた。 高瀬悠真は、ネクストリンク本社二十七階の大会議室へ入る直前、一度だけ足を止めた。 廊下の向こうを、社員たちが行き交っている。 まだ硬さの残る新しい社員証を首から下げた若いエンジニア。 ノートパソコンを片手に、北海道支社とのオンライン会議へ急ぐセキュリティ担当者。 A型事業所の採用計画書を抱え、福祉事業本部の会議室へ入っていく職員。 買収後統合、PMIと大きく書かれたファイルを持つ経営企画担当。 壁面モニターには、愛知、大阪、広島、北海道、高知、長野、青森、鹿児島の各支社から送られてきた当日の稼働状況が表示されている。 半年前までのネクストリンクとは、明らかに違う。 人が増えた。 拠点が増えた。 事業が増えた。 扱う金も、契約も、個人情報も、顧客も増えた。 だが、高瀬悠真はもう知っている。 会社が大きくなることと、会社が強くなることは、同じではない。 売上が百億円増えても、管理に穴があれば、その穴から金は漏れる。 社員が千人になっても、誰も上司へ異議を言えない会社なら、不正は人数の陰へ隠れる。 支社を全国へ増やしても、本社の統制が届かなければ、支社長や本部長を中心とした小さな王国が生まれる。 AIが高度になっても、その警告を人間が握り潰せば何の意味もない。 桐谷健吾たちの事件は、その全部をネクストリンクへ突きつけた。

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