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第四話

last update Last Updated: 2025-06-26 11:05:27

「弥生、用意できた?」

離婚当日、朝から自分の部屋で荷物の最終チェックをしていた私は、その声に顔を上げた。

「うん」

最後ぐらい笑顔を──と、無理やり浮かべた私だったが、尋人はいつも通りだ。

この一年、それなりに楽しくやってきたと思うが、別に今日から私がいないことなど、彼にとってはどうでもいいことなのだろうか?

少しくらい寂しいと思ってくれてもいいのに。

そんな思いが頭をよぎるも、こんな気持ちを言うつもりなど毛頭ない。

「荷物、これだけか?」

積み上げられた段ボールを見ながら尋人は言い、箱をポンポンと叩く。

「もともとそんなに持ってきてないし、ここは尋人の家だしね」

「あのソファはいいの? 気に入ってただろ」

唯一、一緒に住み始めた時に買ったのが、あのソファ。

大手のインテリアショップに行って、何時間も一緒に選んだのを思い出す。

私がベージュのファブリック、尋人がブラックのレザーがいいと意見が分かれたときのことだ。

そして、じゃんけんをして……。そこまで思い出して、思わず笑みがこぼれた。

「尋人、あの色気に入ってなかったもんね。私が勝っちゃったから」

確かにモノトーンの多い尋人の家にはブラックの方が合っていた。でも私は、座った時の感触が好きだった今のソファを譲らなかった。

「そうだったな。でも、今では気に入ってるよ。二人で座ってもゆったりしてるし、寝心地もいいし」

懐かしむように言った彼の言葉に、嫌でも記憶がよみがえる。

休日に映画を見たり、夜はお酒を飲んでそのままソファで寝落ちしたりした。

たくさん言い合いもしたけど、それ以上に、楽しい時間の方が多かった。

もともと人見知りで、社交性の高くない私が、こんなにも心を開いて落ち着けるのは、尋人だけだった。

……でも、それは私の一方的な思いだ。

妹のように可愛がってくれているのを、嫌というほどこの一年で知った。

「じゃあ、これからも使ってよ。今度の家にあのソファ入らないから」

今では出世街道まっしぐらの尋人と違い、私のお給料では、そんなに高い家賃のところには住めない。

「わかった」

あっさりと了承してくれた尋人に、私は小さく頷いた。

「ねえ、尋人」

「ん?」

最後に夫婦らしいことをしたい──そんなことを思う。でも何をすればいいのだろう。

憎たらしいほどいつも通りで、ドアにもたれかかってる彼を見て、私は自嘲気味に笑ってしまった。

今さら“抱きしめて”、とか、“キスして”、なんて言えるわけがない。

それを言っていたら、何かが変わっていただろうか?

ずっと、適度な距離の“ルームシェア”だった私たち。

立ち上がって尋人に近づき、背の高い彼を見上げた。

──ここでキスの一つでもしたら、忘れられる?

そんなバカなことを考えながら、尋人のきれいな瞳を見つめていた。

「弥生?」

不思議そうに私を見つめるその瞳に、何も宿っていないことを知る。

この人の中には、まだ佐和子がいるのだろう。

そして、今キスをしてしまったら、私はまたこの片思いをこじらせるだけな気がした。

「ありがとうね」

お礼を伝えた私を、尋人は少しだけ怪訝そうに見た。

「なんだよ、変な弥生」

最後くらい、しんみりさせてよ。

そんなことを思っていると、インターフォンが鳴ったのが分かった。

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