LOGIN順和建設の社長は、本来なら新井グループの責任者として高山副社長が座るはずだった席に、新井社長が鎮座しているのを見ていた。新井社長自らのお出ましとあっては、彼もこの上なく丁重にもてなすのが常であり、普段なら諸手を挙げて歓迎するところだ。しかし、今日に限っては、彼は焦燥に駆られ、冷や汗を流し、震え上がるしかなかった。理由は、周知の通りだ。この会議に、ただ橘社長と新井社長が同席しただけなら、まだここまでの波風は立たなかっただろう。だが、よりによって、透子、いや橘家の令嬢までいらっしゃるのだ。新井社長と彼女の間の「浅からぬ因縁」は、社交界ではとっくに知れ渡っており、つい先日まで、新井社長が彼女を派手に追いかけ回していたばかりなのだから。今、橘社長の怒気を孕んだ表情を見ると、次の瞬間には、橘社長がその場で提携契約書を破り捨てかねない勢いだとさえ感じられた。順和建設の社長である石橋大樹(いしばし だいき)は、心臓の激しい動悸と手の震えを抑え込み、顔には必死に満面の笑みを張り付けた。何しろ、彼がこのプロジェクトの主幹事なのだ。同時に、他の提携先の人間たちも、この凍りついたような緊張感と、不穏な空気に気づいていた。一時、会議室は水を打ったように静まり返った。誰一人として口火を切ろうとせず、ただ黙って、橘社長と新井社長の間に散る火花を、固唾を飲んで見守っていた。大樹は意を決して蓮司のそばへ歩み寄り、手を差し伸べて笑顔で挨拶した。「新井社長、わざわざご足労いただきながら、お出迎えもせず、大変失礼いたしました」蓮司は立ち上がり、無表情のまま彼と握手を交わし、軽く頷いた。大樹は、そこですかさず弁解を重ねた。「先日の会議では、今回のプロジェクトは高山副社長がご担当されると伺っておりましたので、社長様に対しては、ついご挨拶が疎かになってしまいまして。何卒、ご容赦ください」彼は表向き、蓮司の来訪を出迎えなかった非礼を詫びているが、実際には、橘社長側に対して必死に身の潔白を訴えていたのだ。もともと、新井グループの責任者は新井社長ではなく、高山副社長の予定だったのです、と。でなければ、彼がいかに命知らずの馬鹿だったとしても、この状況で新井グループとの提携を推し進める勇気などあるはずがない。何しろ、今や橘家と新井家は犬猿の仲であり、新井社
透子は一介の平社員からスタートし、わずか一ヶ月でチームリーダーに昇進した。掲示板では、これに対して「コネ」だという声が少なくなかった。だが、それに異を唱える者もいた。透子自身の実力は本物であり、頭角を現すのは時間の問題だったのだ、と。その証拠として、彼女の大学時代の優秀な成績や、数々の受賞歴が次々と掘り起こされた。さらには、かつての競合相手だったCG社の社員までもが掲示板に降臨し、彼女の実力を証言したのだ。CG社と旭日テクノロジーのプロジェクト提携は紛れもない事実であり、しかも、それまで旭日テクノロジーが提携権を獲得したことは一度もなく、これが初の快挙だった。同時に、コンペのプレゼンに登壇した旭日テクノロジーの社員が、まさか新井社長の夫人だったとは誰も知らなかったという。そのため、「出来レース」の疑いは完全に晴れた。とにかく、透子に対する世間の注目度は凄まじく、半月もの間、トレンドワードのトップ3から落ちることはなかった。橘社長と共に会議の場に頻繁に姿を現し、共同でプロジェクトを担当するようになると、その熱狂にはさらに拍車がかかった。人々が彼女のビジネスの手腕へ寄せる関心は、すでに元夫である新井社長とのゴシップを上回っていたのだ。新井社長が鳴りを潜めてしばらく経ち、人々が彼の一方的な求愛劇を忘れかけ、二人はもう何の関係もないのだと思い始めた、その時。新たな衝撃的な展開が、突如として訪れた。橘家が、順和建設(じゅんわけんせつ)と提携を結んだのだ。投資側として、雅人が透子を伴い、都市開発プロジェクトのキックオフ会議に出席した。そして、透子が彼の名代として、順和建設側と深く意見交換を行うと発表された。特別会議室。順和建設の社員は、とっくに会場の準備を整えていた。今回の提携を最重要視しており、社長と役員たちが自らエントランスまで、橘グループの一行を迎えに出ていたほどだ。黒のトールワゴンが横付けされると、順和建設の社長が満面の笑みで進み出て、深々と頷きながら握手を求めた。雅人と透子は順に彼と握手を交わし、会議室へと案内された。雅人は左側の上座に座り、透子はその隣で、書類をテーブルの上に広げた。橘家は出資に徹し、順和建設がプロジェクト全体の施工を請け負う。順和側はすでに協力会社を選定しており、今日の会議には
透子はスティーブの言葉を聞いていたが、その点については特に意識していなかった。だから、彼らがわけもなく拍手喝采したのも、そういう意味だったのかと得心がいった。雅人は言った。「気にするな。今の立ち位置なら、君と繋がりを持ちたいと願う人間は星の数ほどいる。君には、相手をふるいにかける権利があるんだ。彼らは皆、君から何らかの利益を得ようとしている。だが、それは安売りするようなものじゃない。時には冷徹に振る舞うことも、自分を守る境界線を引くことになる」透子はそれを聞き、考え込んだ。兄が言いたいのは、自分が人が良すぎて、断りきれない性格だということだろうか。だが、あの人たちは自分の本質を知らないはずだ。それとも、見ただけで舐められてしまうのだろうか。透子は言った。「そういう人付き合いの駆け引きについては、これから深く学んでいくつもりです」彼女が学ばなければならないことは山積みだ。ビジネスの世界は複雑怪奇で、人間関係にも様々な思惑が絡み合っている。もし今、本当に老獪で腹黒い人間に罠を仕掛けられたら、自分は気づかずに嵌ってしまうかもしれない。「焦る必要はない。ゆっくりでいいさ。僕と父さんたちが、君のために道を切り拓いてやる。良からぬ下心を抱いたり、君を利用しようとしたりするような有象無象は、僕たちがすべて排除するから」雅人は、横を向いてそう言った。その声はあくまで優しく、透子は兄を見つめ、こくりと頷いた。胸の奥に、じわりと温かいものが広がる。これが、家族からの庇護と愛なのだ。自分のために荊棘の道を切り開き、ただ、平坦で輝かしい道を歩ませてくれようとしている。……今日、雅人と透子が揃ってプロジェクト会議に出席したという情報は、会議が始まるやいなや、各提携先の社長たちの耳にも入っていた。彼らは、自らが出席しなかったことを、臍を噛む思いで後悔した。雅人と透子本人に繋がりをもつことができる千載一遇の好機を、みすみす逃してしまったのだから。雲の上の存在である彼らと会えること自体が、金銭には代えがたい貴重なチャンスなのだ。何しろ、企業のトップであっても、それなりの格がなければ、普段、雅人にアポイントメントを取ることすら叶わないのだから。そして、各社のマネージャーが帰社するや否や、社長自らがオフィスに飛んできて、雅人と会話
何しろ、透子の隣にはまだ雅人が鎮座しており、席を立つ気配すら見せないのだから。だから、提携先の担当者たちは先に失礼するしかなかった。彼らが去ると、会議室には雅人たち三人だけが残された。雅人は妹の方を向き、称賛の眼差しで微笑んで言った。「今日は本当によくやった。ここまで熱心に準備してくるとは思わなかったし、短時間でこれほど細部まで深く理解しているとはな」透子は答えた。「お兄さんがこの機会をくれたんですから、もちろん、大切にして、ちゃんとやり遂げたいと思いました。プロジェクト責任者の専門レベルには及ばないとしても、少なくとも、私が知るべきことは、全部、徹底的に理解しておきたかったですから」雅人は頷いた。「今回のは、機会というほど大層なものではない。ただ、君に度胸をつけさせるための、小さな舞台に過ぎない。だが、次のプロジェクトは、君も主導メンバーに入って、全体の流れを学んでみるといい。そうすれば、その次のプロジェクトでは、一人で担当できるようになる。僕はもう、現場のプロジェクトを直接担当することは少なくて、最終的な決定を下すだけなんだ。でなければ、僕が手取り足取り指導してやるんだが」透子はそれを聞き、思わず言った。「私、まだビジネスのイロハに触れ始めたばかりで……一人でチームを率いるなんて、そんな実力は、まだ……」雅人は言った。「心配するな。今すぐプロジェクトを丸投げすると言っているわけじゃない。だが、来月には、小さな案件から君に任せ始めるかもしれない」透子はそれを聞き、目をぱちくりとさせた。来月……それほど猶予があるわけではない。兄は、自分を買いかぶりすぎているのではないだろうか。妹の躊躇を見て取り、雅人はまた言った。「君は、ただ大胆にやればいい。余計な心配は無用だ。僕が、君を補佐する人間をつける」彼はまた励ました。「時々君は自分の可能性を過小評価しすぎていると思う。僕自身も、そうだったのかもしれない。だから、試してみたいんだ。君の未来は、無限に広がっていると」その言葉に、透子は頷いた。兄は自分に絶大な信頼を寄せているが、彼女自身にはそれほどの自信はない。それでも、彼女は頷いて、その期待を受け入れた。一つ一つ、乗り越えていくしかない。頑張って、挑戦してみよう。彼女が不安を抱えながらも、勇気と気概を見せるのを
スティーブはその流暢な回答を聞き、驚愕に目を丸くして壇上の透子を見つめた。彼はただ、透子には最初から最後まで原稿を読んで貰えればそれでいい、と伝えていたはずだ。具体的な質疑応答は、担当の専門マネージャーが引き受ける手はずになっていたのだから。だが、まさか透子が、事前にプロジェクトの全容を把握していただけでなく、これほど淀みなく答え、対等に議論を交わすことまでやってのけるとは。スティーブは胸中で舌を巻いた。さすがは社長の実の妹、この兄にしてこの妹あり、だ。彼女の成長ぶりは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いと言える。上座では。雅人は終始、静かに妹の発言に耳を傾けていたが、その眼差しには、隠しきれない称賛の色が深まっていた。今日のこの会議は、本来なら彼女に度胸をつけさせるための「予行演習」のはずだった。だが、まさか──妹は、自分にうれしい誤算を与えてくれたのだ。もしかしたら、育成のペースをもっと早めてもいいのかもしれない。型にはまったやり方は不要だ。何しろ、彼女自身がこれほど優秀で、向上心に溢れているのだから。会議が続く間、橘グループ側のプロジェクト責任者であるマネージャーは、一度も口を開く幕がなかった。彼は透子の回答を聞き、確かに的確で、寸分の狂いもないと舌を巻いていた。どうやら、以前彼らが密かに交わしていた憶測は正しかったようだ。透子は、橘社長の元で、本格的にビジネスの世界へ足を踏み入れようとしているのだ。彼は、自分の仕事が奪われるなどとは微塵も心配していなかった。なぜなら、透子の目指す場所は、こんな小さなプロジェクトではないと直感したからだ。彼女は将来、雅人に次ぐ人物、瑞相グループのナンバーツーになる器だ。そうなれば、自分にとっても好機だ。雅人は若くして名を成し、その基盤は海外にあるため、普通の人間が彼の側近チームに入り込むことなど、到底叶わない。しかし、透子は違う。彼女はゼロから少しずつ階段を上っていく。自身の手足となる腹心や、信頼できる人材をこれから築いていく必要があるのだ。それこそが、彼らにとっての千載一遇のチャンスとなる。それに、本当に透子に付いていくことができれば、そのプレッシャーは雅人の下で働くよりもずっと小さいだろう。何しろ、透子の方が雅人よりも遥かに親しみやすいのだから。そう理解
会議が正式に始まり、透子は席を立って、スクリーンの前へと歩み出た。向かいの席の者たちは彼女を見つめ、それから、席に座ったまま動かない橘側のマネージャーに視線を移し、一瞬、動きを止めた。今回、会議を進行するのは、担当マネージャーではないのか?まさか、橘家の令嬢が?プロジェクトの責任者に抜擢されたのか、それとも、単なる会議の進行役を務めるだけなのか。おそらく、ただの進行役だろう。最近、透子が橘社長に付き従って出社しているという噂は耳にしていたが、まだ日も浅い。プロジェクトを任されるには、あまりに荷が重すぎる。透子の凛とした声が響くと、彼らは一斉に手元の資料を開き、真剣に耳を傾け始めた。誰が話そうと、会議の内容こそが最も重要だからだ。壇下。雅人は上座に座り、透子が落ち着き払ってスクリーンの横に立ち、プレゼンを行う姿を見守っていた。その佇まいは穏やかで、冷静沈着、思考も明晰そのものだ。思わず、その瞳に称賛と感嘆の色が浮かぶ。妹は、本当にビジネスの世界に向いている。特に、人の上に立つ者に相応しい資質を持っている。こんなリーダーなら、仕事は真面目で責任感があり、性格も良い。間違いなく、部下からの人望も厚いだろう。そう思うと、雅人は、もっと早く妹を見つけ出せなかった自分を呪った。でなければ、彼女はとっくにビジネス界で頭角を現し、辣腕を振るう女性経営者として名を馳せていただろうに。たとえ、二年早く、彼女が大学を卒業した時だったとしてもだ。新井蓮司のようなクズに嫁がせ、二年もの間、まるで家政婦同然に扱われ、彼女の青春と才能を飼い殺しにさせるようなことなど、断じてさせなかったはずだ。透子が壇上で一心不乱に話すのを、雅人は食い入るように見つめている。その向かい側では。会議を聞きながらも、提携先の担当者たちは、こっそりと雅人の様子を窺っていた。その冷徹な瞳に、妹を慈しむような温かい色が、隠しきれずに滲んでいることに気づく。それで、皆、雅人が今日、なぜこの会議にわざわざ出席したのかを悟った。彼は、会議を聞きに来たのではない。彼ほどの立場の人間が、このような定例会議に出る必要などないのだ。彼はただ──透子が壇上に立ち、会議を仕切るその晴れ姿を見守るためだけに来たのだ。こんな兄がいて、世界中の妹という妹が、透