Masuk「透子、聞いて。新井にとうとう天罰が下ったみたいよ」理恵は掲示板で見つけたばかりの大きなニュースを、興奮気味に透子へ見せた。スマホをそのまま差し出す。透子は画面の見出しに目を落とし、わずかに動きを止めた。理恵が皮肉っぽく舌を鳴らす。「新井グループの広報って本当に優秀ね。掲示板をチェックしてなかったら、こんなニュース、全然目に入らなかったと思う。でも今回は、新井も相当まずいんじゃない?十数人も死傷者が出たなんて、軽く揉み消せる話じゃないわ。海外での安全事故だもの、向こうのメディアはとっくに大騒ぎしてるみたいよ。そういえば、あの腹違いの弟、ずっと権力の座を狙ってるんでしょ?今回の件で、絶好のつけ込む隙ができたわね。新井のせいで新井のお爺様が倒れたってスキャンダルだって、まだ完全には忘れられてないのに」一難去ってまた一難、外から見ればただの騒ぎでも、上流階級や業界内での影響は小さくない。少なくとも今回の件で、蓮司は人間性と経営手腕の両方を疑われることになる。透子は記事の内容を最後まで読み、理恵にスマホを返した。「私たちには関係のないことよ。ただ、プロジェクトの安全管理に問題があって人が死傷したのなら、どんな事情があっても、曖昧に済ませていいことじゃないわ」透子の声は静かだった。理恵も頷いた。「それはそうね。ただ、新井にとっては、この事故のあとにもっと大きな問題が待ってるはずよ。新井グループの取締役会が、穏やかに済むとは思えないもの。この前は怪我で休んでたみたいだけど、もうだいぶ経つし、この間なんて透子を騙して下まで呼び出せたんでしょ。なら体はもう大した問題なさそうだし、うまく乗り切るんじゃない?」透子はそれを聞いても、それ以上は何も言わなかった。目を少し伏せた顔には、これといった表情が浮かんでいない。理恵も、透子が蓮司に関する話題を続けたがっていないことは分かっている。ただ、あまりに大きなニュースだったから、思わず共有しただけだ。それ以上は深追いせず、理恵はすぐ別の話に切り替えた。それは、二人にとってはほんの小さな出来事にすぎなかった。料理が運ばれてくると、二人は食事をしながら、別の話題で賑やかに盛り上がった。ただ、透子は食べながら理恵と話していても、時折ふと上の空になることがあった。午後。
だが、雅人には理恵が頑なに自分を避ける理由が少し分からなかった。やはり以前、彼女の気持ちをはっきり断ったことがあるせいで、今さら顔を合わせづらいのだろうか。雅人は少し考えてから、返信を打った。【それなら二人で食べておいで。支払いは僕が持つ】助手席に座っていた透子は、その返信を見て理恵に伝えた。しかし、理恵はそれすらきっぱりと拒絶した。「いらないわよ。ご飯代くらい自分で払えるわ。私、ランチ代にも困るほど落ちぶれてないから」理恵は完全に雅人との関係を切り離したいようだった。今後一切関わりたくないどころか、同じ通りを歩いて同じ空気を吸うことすら我慢ならないと言わんばかりの勢いだ。透子は仕方なく、雅人の好意をやんわりと断った。雅人はそのメッセージを見て、わずかに沈黙した。その時、スティーブが社長室の奥にある休憩室から出てきた。手にはキャスター付きのハンガーラックを押している。本来なら、わざわざそんなことをする必要はない。服はそのままクローゼットに掛けておき、社長が必要な時にすぐ着替えられるようにしておけば済む話だ。だが、今回は違った。スティーブはにこにこと笑いながら言った。「社長、理恵お嬢様はなかなか独特な審美眼をお持ちですね。社長のために、ひと目で印象に残るような素晴らしい正装をお選びくださいましたよ」雅人が横へ視線を向けると、ハンガーラックには一式のスーツが掛けられていた。全体はチャコールグレーで、その色自体は悪くない。雅人の好みにも合っている。だが、中に合わせるシャツ、なぜ淡いピンクなのか。雅人は無意識に眉をひそめた。明らかに、雅人の普段のスタイルとは合わない。これほど甘い色の服を、雅人は一度も着たことがない。たとえシャツ一枚であってもだ。長くそばに仕えているスティーブも、当然そのことは分かっている。だからこそ、あえて服をクローゼットにしまわず、ハンガーラックごと引っ張り出してきて雅人の反応をうかがったのだ。雅人の眉が寄ったのを見て、スティーブは笑顔のまま説明した。「この一式なら、社長の厳しさが少しやわらぎます。若々しく、活気のある印象にも見えますよ。理恵お嬢様がご自身でお選びになったものですから、きっとかなり心を砕いてくださったのでしょう。社長があまり嫌がられると、せっかくのお気遣いを無
店長はすぐに応じた。「かしこまりました」透子が横から口を挟む。「ピンク?それって、お兄さんにはあまり似合わないんじゃないかな?」店長は透子へ向き直り、プロらしい柔らかな笑みを浮かべて説明した。「いえ、淡いピンクのシャツは清潔感があり、印象もやわらかくなります。年齢を問わずお召しいただけますし、チャコールグレーと合わせると、冷たい色味と温かい色味のバランスがきれいに出ます。全体として、品よく洗練された雰囲気に仕上がりますよ」透子はそれを聞き、納得したように頷いた。その横で、理恵が腕を組んだまま口を開く。「たくましい男ほどピンクを着るべきなのよ。ピンクは可愛い色だし、ああいういい年したおじさんにはちょうどいいわ」透子は素直に黙った。もう疑問を挟むことも、反論することもしなかった。どう見ても、理恵は服の弁償にかこつけて、兄の雅人にささやかな腹いせをしようとしている。最終的に服はきれいに包装され、理恵が会計を済ませた。その後、二人は雅人の会社へ向かった。車を路肩に停めると、理恵はシートベルトを外した。透子も一緒に車を降りる。理恵が紙袋を持ち直しながら言った。「受付に預けるわ。橘さんのオフィスまで届けてもらえばいいから」透子が尋ねる。「自分で持って上がらないの?」理恵は即答した。「行かない。あの顔、見たくない」透子が眉を上げた。「昨日の夜、完全に吹っ切れたって言っていたのは誰だったかな。どうして今日は顔を合わせることすらできないの?」理恵はすぐに反応した。「できないわけじゃないわよ!ただ、私が行く価値がないだけ。わざわざ本人に手渡ししてあげるほど、あの人は偉くないもの」透子は分かっていながら何も言わず、ただ笑った。「はいはい。じゃあ受付に預けようね」受付係は当然、透子のことを知っていた。社長の妹であり、理恵も以前に何度かここへ来たことがあるため、二人の身分は把握している。受付係は丁寧に微笑んだ。「お嬢様、柚木様、どうぞご安心ください。必ずきれいな状態でアシスタント室までお届けいたします」受付係の立場では、社長室へ直接入ることはできない。そのため、届けられるのはアシスタント室までだ。それでも社長宛ての荷物である以上、間違いは許されない。スティーブの手に直接渡す必要がある。理恵は荷
午前十時。理恵は透子と待ち合わせ、高級ブランドのブティックを訪れた。店長自らが付きっきりで接客に当たる中、透子は理恵と一緒に、雅人に弁償するためのスーツを選んでいた。理恵はあまり気乗りしない様子で言った。「適当に黒を一つ見繕えばいいわよね?あの人、普段から黒ばっかり着てるし」理恵には、じっくり品定めをする気などさらさらない。適当なものを一着買って、さっさとこの面倒な用事を片づけてしまいたかった。透子も頷いた。「いいと思う。黒なら定番だし、何にでも合わせやすいから」とはいえ、一口に黒のスーツと言っても、デザインは星の数ほどある。店長は店内にある黒のスーツを次々と運んできては、二人が選びやすいように丁寧に並べてみせた。ところが、口では「適当でいい」と言っていた理恵は、並べられたスーツを一瞥するなり、次々と難癖をつけ始めた。あるものはデザインが古い。あるものはシルエットが野暮ったい。あんなの雅人には似合わない。挙句の果てにはポケットの位置といった細かなディテールまで気になり出し、理恵はどうしても首を縦に振ろうとしなかった。あれこれ見比べた末、理恵は不満そうに店長へ尋ねた。「このお店、海外本社のラインナップと連動してないの?最近出たばかりの新作シリーズはないわけ?」店長が申し訳なさそうに頭を下げた。「申し訳ございません、柚木様。国内店舗への最新作の入荷は、どうしても海外より少し遅れてしまうことが多くなっておりまして。よろしければ、本部の最新シリーズのカタログをご覧いただけますでしょうか。お気に召すものがございましたら、すぐに本部へ手配し、空輸でお取り寄せいたします」理恵は少し考え込んだ。それでもいいと言えば、いい。だが、それではまるで、自分が雅人のためにわざわざ心を込めて特別な服を選んでいるみたいではないか。たかがスーツ一着だ。雅人の巨大なクローゼットには、仕事用のスーツなど何十着、下手をすれば百着近くずらりと並んでいるはずだ。それなのに、わざわざ新作の到着を待ってまで取り寄せるとなると、ただの弁償というより、まるで恋人への特別なプレゼントを贈るかのように気合いが入って見えてしまう。理恵は唇を引き結び、少し間を置いてから言った。「……いいわ。そこまで面倒なことはしなくて。ここにあるものから適当に選んで包
蓮司の車は、そこらの車とは違う。安全性能は高く、防音も徹底されている。しかも車窓は外から中が見えない仕様で、記者たちがどれだけシャッターを切ったところで、まともな写真など撮れるはずがなかった。ほどなくして警備員が動いた。十数人から二十人ほどが駆けつけ、記者たちを取り囲むようにして後ろへ押し戻していく。運転手が言った。「社長、車を地下駐車場へ回します。正面からは入りません」すでに運転手はハンドルを切り、タイヤの向きも変えていた。その時、後部座席から蓮司の声がした。「その必要はない」次の瞬間、蓮司は自ら車のドアを開け、外へ降りた。運転手は慌てて後を追い、蓮司のそばに立って身を守るように寄り添った。警備員たちが人垣を作って制止し、記者たちは数歩分押し戻されていた。だが、蓮司が車から降りたのを見るなり、再び一斉にざわめき出す。レンズが向けられ、フラッシュが激しく瞬いた。そばにいた運転手でさえ、眩しさに目を開けていられないほどだった。「新井社長、海外で建設中の新港湾プロジェクトで十数名の死傷者が出た件について、ご存じでしょうか!」「新井グループは今回の事故にどう対応するおつもりですか!現場の安全管理に問題があったのでしょうか、それとも単なる不慮の事故なのでしょうか!」「このプロジェクトは、新井グループが海外展開の重点として進めていた案件だと聞いています。最高経営責任者である新井社長は、このプロジェクトにどの程度関与されていたのでしょうか!」……記者たちの質問は、堰を切ったように次々と押し寄せた。手持ちのカメラも、肩に担いだカメラも、すべて蓮司へ向けられている。今にも顔の前へ突きつけられそうな勢いだった。騒がしい問いかけの中、蓮司は記者たちを見据えた。その表情は冷静で、揺らぎがない。「今回の事故は突然発生したものであり、当グループとしても想定外の事態です。現在、事故原因の究明を第一に進めています。調査結果がまとまり次第、正式に声明を発表します。曖昧なまま済ませるつもりはありません。また、当グループの各プロジェクトにおける安全管理は、必要な基準を満たしたうえで徹底しています。その点については、ご安心ください。ただし、この発言は責任を回避するためのものではありません。今回の事故で亡くなられた方、負傷された方々に、深い哀
新井グループが手がける海外の大型プロジェクトで、人命に関わる重大事故が発生した。しかも、現場に居合わせた何者かが事故の一部始終を撮影しており、その動画がネット上に流出してしまったのだ。事故現場は海外であるにもかかわらず、影響力を持つインフルエンサーたちが次々と動画を拡散したことで、事態は瞬く間に炎上。わずか三十分ほどで閲覧数は跳ね上がり、数億回再生に達する勢いを見せていた。新井グループの国内外の広報部は、事態を重く見て即座に火消しへと動いた。しかし、どれほど迅速に対応しようと、拡散された動画をすべて消し去ることは不可能だ。この大惨事は、すでに業界内にも取り返しのつかない衝撃を与えていた。その頃。新井グループが所有するプライベート病院のVIP病室。蓮司はスマホを耳に当て、大輔と通話していた。眉間には深い皺が刻まれている。声のトーンこそいつもと変わらないが、病室の中を落ち着きなく行き来する足取りが、彼がギリギリで保っている冷静さの裏側を露わにしていた。今回の事故がグループに与えるダメージは計り知れない。十数人もの死傷者が出ている以上、金や権力で簡単に揉み消せる問題ではないことを、蓮司自身が一番よく理解していた。蓮司は胸に渦巻く焦燥を抑え込み、的確に指示を飛ばす。「まずは遺族と負傷者の家族への対応を最優先にしろ。補償の協議もすぐに進めるんだ。広報にはネット上に公式声明を出させろ……取締役会には、後ほど俺から直接報告する」蓮司は混乱の中でも、手順を崩さずに陣頭指揮を執っていた。大輔との通話を切った直後、今度は広報担当の責任者から着信が入った。今回のネットでの拡散スピードは、どう考えても異常だった。現場にいたという人物が事故の全過程を撮影していたにしては、手ブレもなく映像が不自然なほど鮮明すぎるのだ。単なる偶然の産物とは、とても思えない。さらに、インフルエンサーたちによる拡散のタイミングも妙だった。ほとんど数分と空けず、まるで事前に示し合わせていたかのように一斉に動画をシェアしている。裏で何者かが意図的に仕組んだとしか、蓮司には考えられなかった。広報の担当者は、海外拠点から届いた初期調査の報告を読み上げる。動画の撮影者は現場近くを旅行していた一般人で、周辺の風景を撮影していたところ、偶然にも事故の一部始終がフレームに
確かに、トレンドからの削除は早かった。 ――だが、本家のほうではすでに事が知れ渡っていた。 翌朝早々、祖父から雷のような電話が飛んできた。 その頃、蓮司はちょうど出勤途中。スマホ越しに浴びせられた怒声に、黙って耳を傾けるしかなかった。 「透子みたいないい子を前にして、お前は何をしているんだ!?この二年、彼女がどれだけ尽くしてきたか、何も見えてないのか!」 祖父の声には、明らかな怒りと失望が滲んでいた。 蓮司は唇を引き結び、心の中で反論していた。 ――尽くすって?せいぜい料理くらいだろ。洗濯は洗濯機、掃除はロボット。むしろ、俺が彼女を二年も養ってやった立場だ。 恩
理恵は彼女の傷を確認しようとしたが、透子に止められ、もう大丈夫だと言われた。彼女はもう一度そっと抱きしめ、今度は優しいハグだった。理恵は謝った。「ごめんね、体に傷があるなんて知らなかったの。2年ぶりで、ちょっと興奮しすぎちゃった」「私が悪いの。前もって言うべきだったわ。でも、心配かけたくなかった。私もあなたに会いたかった」透子は言った。久しぶりの再会に、二人は手を取り合って一緒に街をぶらついた。透子が服を選びたいと言い、理恵が職場にふさわしいコーディネートをいくつか提案した。「普段着もいくつか選ぼうよ。清楚で気品あるスタイルがあなたにぴったり」理恵は言いながら、
透子は心の中で深く息をつき、相手に怒鳴り返したい衝動を必死で抑えた。ただ寝る場所にすぎないから、どこで寝ても同じだ。どうせあと十日だけだから、我慢すればいい。「私の物は?」透子が尋ねた。蓮司は、彼女がさっきまで怒っていたのに、すぐに落ち着きを取り戻したのを見て、答えた。「全部小部屋に運ばせたって、美月が指示した」透子はもう一つの小部屋へ行き、ドアを開けた。すると、床一面に荷物が無造作に投げ捨てられていた。知らなければゴミと見間違えるほどだった。後ろからついてきた大輔も、思わず息を呑んだ。部屋が奪われた上に、物置部屋に寝かせられた。正妻が愛人にここまで虐められたと
「わざわざ私を迎えに来てくれたんでしょう」「いや、ただの通りすがりだよ」駿は言った。透子は唇を引き結び、信じていない様子だった。「本当だよ。昨夜君を送ってから、うちと同じ方向だって気づいてね。それで、たまたま今朝も通りかかったんだ」駿は真に迫った様子で言った。透子が横を向くと、男は今日、黒のスーツに身を包み、香水までつけていた。明らかに、念入りに身なりを整えた様子だった。「先輩、いくつか、はっきりお話ししたいことがあります」透子は切り出した。「もし僕が聞きたくないことなら、言わないでほしい」駿は答えた。透子は彼を見つめ、小さくため息をつくと、やはり口