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第870話

Author: ちょうもも
正雄は、史弥が逃げるように去っていくのを見て、仕方なさそうに首を振った。

「もういい年なのに、まだ未熟だ。自分が何を好きで、どんな相手と一緒に生きていくのかすら分かっていない」

そう言って手を振り、伶に本題へ戻った。

「さっき言ったこと、君もそろそろ本気で考えなさい。もう若くもないんだ、自分のことは早めに片づけるんだぞ」

伶は唇を固く結び、低く答えた。

「まだ......あいつが承諾するかどうか分からない」

その珍しい緊張ぶりに、正雄は思わず茶化した。

「悠良って娘は、君たちの天敵みたいだな。仕事じゃどれだけ複雑でも、どんな難題でも全力で攻略してきたあの寒河江伶が、女の前で不安げな顔をするとは思わなかったよ。驚いたぞ」

正雄は知らない。

悠良は途中から好きになった相手ではなく、最初からずっと彼の中でただ一人の存在だったことを。

変わったことは一度もない。

手に入れにくかったからこそ、なおさら大事にしてきた。

伶は淡く笑っただけで、何も言わなかった。

「親父」

不意にノックの音と澄んだ女性の声が響く。

伶はその声を聞いた瞬間、反射的に扉のほうへ目を向け、悠良の姿を見つけて驚き、足早に近づいた。

「どうしてここに?三浦の件は片づいたのか?」

そう言いながら、自然と彼女の手を取る。

悠良は顔を上げて答えた。

「うん、もう全部済んだよ。イライ先生が言うには、彼女の状態は私が想像してたほど良くなくて......自分で気づいたときも、しばらく黙ってたせいで、今は悪化の兆しがあるみたい。イライ先生が、こっちの担当医ともちゃんと話し合って、何かいい方法がないか探してくれるって」

そこまで言ったところで、悠良の鼻先がつんと痛み、目も思わず赤くなる。

口を押さえて顔をそらし、必死に気持ちを抑えた。

「ごめん......」

伶は彼女の肩を軽く揉んでなだめた。

「気にするな。三浦とは仲が良かったんだろ。今の状態を聞いたら、つらくなるのは当然だ」

悠良は深く息を吸い、ここで正雄の前で沈んでいてはいけないと思い直す。

正雄も体が弱いのだ、葉の話をすれば気を揉ませてしまう。

気持ちをすぐに整え、手に持っていた菓子袋を提げて正雄の前へ進んだ。

「正雄さん、この店の菓子がお好きだって聞いたので、さっき買ってきました。ちょうど焼き上がったばかりだ
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