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第8話

Author: ちょうもも
史弥は一晩中まともに眠れず、頭はぼんやりし、体全体がべたつくような不快感に包まれていた。

目覚めると、胃の中は空っぽで、刺すような痛みが周期的に襲ってきた。

寝返りを打つと、隣が空いていることに気づき、こめかみを揉みながら呟いた。

「悠良......」

そのとき、ドアが開いて、森が立っていた。

「白川様、目を覚まされましたか」

史弥は布団をめくりながら尋ねた。

「悠良は?」

「奥様は朝早くから会社へ向かわれました」

彼は起き上がり、服を着て食卓へ向かった。

だが、テーブルの上にはパンと牛乳しかなく、自然と眉間にしわが寄った。

「お粥は?」

森はうつむいて答える。

「申し訳ありません、白川様。私はお粥を作れませんし、奥様は仕事が忙しいので、もう作る時間がない......適当に召し上がってくださいとのことでした」

史弥の胸中には得体の知れない苛立ちがこみ上げてきた。

彼は酒を飲んだ翌朝、必ずと言っていいほどお粥を口にしてきた。

どれだけ忙しくても、たとえ夜中の四時や五時に起きてでも、彼女は自らお粥を煮てくれていた。

今回が初めてだった。

酔い覚めの朝、食卓がこんなにも空虚に感じたのは。

胃の痛みが再び襲い、彼は無意識に腹部を押さえ、身をかがめた。

「胃薬を持ってこい」

森は慌てて家中を探し回る。

「白川様、胃薬はどこに置いてあるのでしょうか」

そのとき初めて、史弥は我に返った。

これまでは胃痛が起きる前に、悠良が常に薬をテーブルに置いてくれていたのだった。

彼は手を軽く上げて言う。

「悠良に電話して聞いてみろ」

森はすぐに電話をかけたが、何度かけても応答はなかった。

何度か試した末に、彼はスマホを仕舞った。

「奥様は出られませんでした」

胃の痛みに加え、冷えた食卓が彼の苛立ちに拍車をかけた。

「もういい。外で胃薬と粥を買ってきてくれ」

「はい」

だが、外で買った粥など悠良の手作りには到底及ばない。

彼女は彼の胃の弱さを気にかけ、いつも深夜三時に起きていた。

そうして長時間かけて丁寧に煮込んだ粥こそが、柔らかく香り高い味になるのだ。

森が買ってきたのは、雲城で最も高級なレストランの粥だったが、史弥は二口ほど食べただけで、もう食欲を失ってしまった。

「まずい」

......

その頃、悠良はカフェでコーヒーを飲みながら、朝食を優雅に楽しんでいた。

彼女はスマホに表示された着信画面を見て、唇の端に冷たい笑みを浮かべる。

彼女が史弥に尽くす理由は、彼の心が彼女にあるという前提があってこそ。

だが今や、彼は体も心も他人のものとなっている。

彼女にそんなことをする義理などなかった。

あと十日もすれば、この腐りきった関係に終止符を打てる。

とはいえ、今の彼女にとっての問題は、伶を説得しなければならないことだった。

この男はまるで鋼鉄のように硬く、少しも妥協しない。

伶は典型的な商人で、結果しか見ない。

私情など一切挟まない。

そんな彼の心を動かすには、満足のいく条件を提示するしかない。

何があろうと、最後の瞬間まで、彼女は諦めないつもりだった。

腕時計の時間を確認した悠良は、残りのコーヒーを飲み干し、会社へと向かった。

オフィスに入ると、社員たちが玉巳を囲んで、羨望の眼差しを向けていた。

「玉巳、そのネックレスすごく綺麗ね。確かオークション限定のコレクション品だったよね?かなり高価なはず」

玉巳は取り囲まれながら、透き通るような白い顔に幸せの笑みを浮かべていた。

首元のネックレスを大切そうに撫でながら言った。

「うん、彼氏が買ってくれたの。他の人にあるものは、うちの子にもって言って」

その言葉に女性社員たちはさらに大騒ぎ。

「愛が深いのね、彼氏さん」

彼のことを話すときの玉巳の目には、少女のような照れが浮かんでいた。

「妊娠したら、もっと大きなプレゼントがあるって言ってくれたの」

少し離れた場所でそれを耳にした悠良の体は、錆びついたかのように動かなかった。

ある社員が彼女に気づき、慌てたように挨拶する。

[小林さん、おはようございます]

悠良は思考を引き戻し、淡々と応えた。

「おはよう」

社員の一人が駆け寄ってきて言った。

[小林さん、玉巳さんのネックレス見ました?すっごく綺麗なんですよ]

悠良の視線は自然と玉巳の首元に向かった。

唇の端が引きつる。

このネックレス、オークションで出ていた「永遠」じゃないか?

史弥、やけに両方に気を使っているようね。

どちらも満足させようとして、白川社の案件も抱えてるのに、疲れないのかしら?

悠良は率直に言った。

「綺麗だね。でも昨日のオークションには石川さんの彼氏はいなかったよ?今度機会があったら紹介してね」

玉巳は目を三日月のように細めて微笑む。

[機会があればね]

悠良は視線をネックレスに定め、その冷たいチェーンを指先で軽くなぞった。

「これ、かなりの高値だったはず。石川さんの彼氏も業界の方?お名前は?もしかしたら知っているかもしれない」

社員たちも興味津々に身を乗り出す。

「そうですよ、業界の方なら、小林さんなら絶対にご存じでしょう。教えてくださいよ」

「ねぇ、教えて教えて」

さっきまで笑顔だった玉巳の表情が、名前に言及された途端に少しずつ曇っていく。

悠良は鋭い目で彼女の微かに緊張した顔を見据えた。

「どうしたの?もしかして、言いにくい?」

この一言で、周囲には様々な憶測が広がった。

もし誠実な交際相手で、しかもこんなに裕福なら、名前を言うのに恥じる理由はないはずだ。

何かしら隠しているのでは、と、誰もが薄々感じ取った。

そのとき、不意に鋭い男性の声が背後から響いた。

「朝っぱらから、何を集まってる?仕事はどうした?」

「白川社長が来た......!」

全員が慌てて自席へと戻った。

史弥はポケットに手を突っ込んだまま現れ、酔いの残る顔にはやや疲れが見えるものの、端正な顔立ちは隠しきれない。

鷹のような鋭い眼差しを向けながら、彼はゆっくりと二人の前に歩み寄り、悠良に視線を向けてスマホを掲げた。

[なんで電話に出なかった?]

悠良は無意識に玉巳に目をやり、淡々と応じた。

「気づかなかったの。さっき皆で話してたのよ、石川さんの首元の『永遠』。彼氏からの贈り物なんだって。史弥は何か知ってる?」

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