黒澤は言った。「四季ホテルは個室を予約した。瀬川さん、車に乗ろうか」「光栄です」午後、冬城は宴会に行く予定で、中井が運転するクルマがA大学の門を通りかかった。冬城はキャンパス内を行き交う学生たちを一瞥し、頭の中に真奈の姿が浮かんだ。「車を停めて」冬城が突然口を開いた。この言葉を発した瞬間、冬城は自分でも驚いた。なぜ停車させたのか。中井はすでに車を路肩に停め、尋ねた。「総裁、浅井さんを一緒にお迎えしますか」冬城は黙っていた。中井はまた尋ねた。「奥様にお電話しましょうか」冬城が顔を上げると、バックミラーに映った冷たい眼差しを見て、中井は即座に口を閉ざした。一方、A大学の校門前で、福山は真っ先に冬城の高級車を見つけ、隣にいた浅井みなみの袖を引いた。「みなみ、彼氏さんの車じゃない?迎えに来てくれたの?」遠くから、浅井みなみはそのナンバープレートを一目で認識し、福山の言葉を聞いて顔が赤くなった。杉田は少し羨ましい顔で言った。「まあ、彼氏が迎えに来てくれたのに、私たちと一緒に食事するって言ってたじゃない。今度はおごってもらわなきゃダメよ」「もう、からかわないで。私、先に行くわ。みんなで食べてきてね」浅井みなみは嬉しそうに走り寄っていった。冬城が彼女に会いに来るのは随分久しぶりだった。浅井みなみは後部座席の窓をノックし、中井が窓を下ろした。浅井みなみの姿を見た瞬間、冬城の表情に一瞬の落胆が走った。「冬城総裁、どうしていらしたんですか?私に会いに来てくださったんですか?」浅井みなみの顔には期待の色が浮かんでいた。冬城は淡々と言った。「先に乗りなさい」浅井みなみは車に乗り込むと、冬城の浮かない表情を見たが、今日の機嫌が悪いだけだと思い込んだ。冬城は言った。「行っていいよ」「はい、総裁」車内で、冬城は一言も発しなかったが、浅井みなみはもう慣れている。冬城は普段から感情表現が苦手だったが、こうして何の前触れもなく彼女を訪ねてくるのは初めてのことだった。「宴会があるんですか?」この時間なら、普段なら彼女も冬城と一緒にこういった宴会に参加することが多かった。「ああ」「私、着替えた方がいいですか?」「いや、いい」冬城の心は明らかに別のところにあった。冬城が話したくない
「好きなものを選んでごらん」黒澤はメニューを真奈の手に置いた。真奈は適当に目を通して言った。「さっき伊藤さんが言ったものを全部一つずつお願いします」これを聞いて、黒澤は口元を緩めて軽く笑った。隣に座っていた伊藤が思わず口を開いた。「だろう?遼介の選ぶものに間違いはないって。全部瀬川さんの好物なんだよ」真奈は困惑した表情で黒澤を見たが、彼には説明するつもりはないようだった。「申し訳ございません。カニみそ豆腐が品切れとなってしまいまして、同価格帯の別のお料理に変更させていただくことは可能でございますが、いかがでしょうか……」給仕は細心の注意を払い、黒澤の機嫌を損ねないよう心配そうだった。伊藤は眉をひそめた。「どういうことだ?事前に予約してあったはずだろう。なぜ品切れなんだ?」彼は宴席の手配に関しては完璧を期していて、これまで一度もミスを出したことがなかった。これは完全に彼の面子を潰すようなものではないか。「大変申し訳ございません。カニみそ豆腐は他の席で先約がございまして、厨房での集計ミスでございます。お詫びとして二品追加させていただきますので、どうかご容赦いただけませんでしょうか」「補償の問題じゃない。どの席が予約したんだ?直接話をつけに行くぞ」伊藤が立ち上がろうとすると、真奈が言った。「もういいんです。カニみそ豆腐にこだわる必要はありません。それに、海鮮は苦手なんです」実は、このカニみそ豆腐も冬城が好きだったから、以前の彼女は好きな人の好物として受け入れていただけだった。本当のところ、彼女は海鮮の匂いが苦手だった。「海鮮の臭みが苦手だって分かってたから、遼介が特別にこのカニみそ豆腐を注文したんだぞ!本当に腹が立つ!」伊藤は相当怒っているように見えた。真奈は給仕に淡々と言った。「タラバガニの辛味炒めに変更してください」「かしこまりました。すぐに厨房に申し付けます」真奈は頬杖をつきながら伊藤を見て言った。「タラバガニの方がカニみそ豆腐よりマシでしょう?」真奈がそう言うのを聞いて、伊藤の怒りはようやく収まった。「ちょっとトイレに行ってきます。先に話していてください」真奈が立ち上がり、ドアを出たところで、カニみそ豆腐を運んでいる給仕とすれ違った。給仕は廊下の向こう側の個室へと向かっていった
中山社長は疑問に思いながら冬城を見つめた。これは素晴らしいニュースのはずだ。他の不動産関係者たちはみな噂を聞いているというのに。冬城は眉間に深い皺を寄せた。今朝から真奈と連絡を取っていなかった。「中山社長、お酒を」浅井みなみは今の冬城の頭の中が真奈のことでいっぱいだと分かっていた。感情を抑えながら冬城にお酒を注いだ。しかし冬城は突然立ち上がり、振り返ることもなく個室を出て行った。「あっ?冬城総裁!」部屋の中の人々は途方に暮れ、浅井みなみの表情は見るも無残なほど暗くなった。あの土地が、どうして緑地指定なんかに……!お手洗いで、真奈が手を洗い終えたところ、洗面台の上の携帯が鳴り続けているのに気付いた。冬城からの着信を確認すると、電話に出た。「何?」「今どこにいる」冬城の声は明らかに不機嫌だった。真奈は自分がこの気難しい人のどこを怒らせたのか分からなかった。「友達と食事中よ。何かあるなら夜に帰ってから話しましょう」そのとき、電話の向こうから浅井みなみの甘い声が聞こえてきた。「司さん、戻りましょう。みんなが待ってますよ」それを聞いた真奈は、何も言わずに電話を切った。自分の居場所を聞いておきながら、愛人と一緒にいるなんて!真奈は電話をしまい、振り返ってトイレを出た。浅井みなみは個室のドアを閉めようとした時、顔を上げるとトイレから出てきた真奈と目が合った。彼女の顔に一瞬の驚きが走り、そして無意識にドアを閉めた。「みなみ、こっちへ」浅井みなみは振り返り、冬城がドアの外の真奈に気付いていないのを見て言った。「冬城総裁、ちょっと外で息をつきたいのですが」「ああ」冬城の声は穏やかだった。周りの人々は互いに顔を見合わせた。浅井みなみが冬城とこういった場に出席するのは初めてではなかった。彼ら男たちは、酒席には決して妻を同伴せず、いつもほかの女性を連れて来ていた。そしてその女性たちの立場が何なのかは、誰の目にも明らかだった。誰にも気付かれていないのを確認すると、浅井みなみは真奈が去った方向へと歩き出した。少し歩くと、男女の会話が聞こえてきた。「素晴らしい目を持っているね。本当に感心するよ!さあ、祝杯を上げようじゃないか」伊藤はグラスを掲げた。真奈もグラスを掲げた。料理の配膳
浅井みなみは顔色が悪いまま個室に戻り、周囲の注目を集めた。必死に心を落ち着かせて座ると、冬城は彼女の様子を見て尋ねた。「どこか具合でも悪いのか?」浅井みなみは小声で言った。「冬城総裁、私、今真奈さんを見かけたような……」「真奈?」浅井みなみは頷き、困ったように続けた。「真奈さんだけでなく、前回のオークションで見かけた男性二人も。そのうちの一人が……真奈さんとすごく親しげでした」黒澤遼介?その名前が冬城の頭に瞬時に浮かんだ。冬城の目に一瞬冷たい光が宿り、立ち上がると一気にドアへ向かった。浅井みなみも後を追い、周囲の人々は何が起きたのか分からない様子だった。「この先です」浅井みなみが案内する。冬城がドアを勢いよく開けると、中では黒澤と伊藤の二人が杯を交わしているところだった。伊藤は冬城の姿を見て困惑した表情を浮かべた。「冬城?」真奈の姿が見えず、浅井みなみは一瞬困惑したが、すぐにテーブルの上の三つ目の食器に気付いた。「冬城総裁、食器がまだあります」冬城も三つ目の食器に気付き、さらに冷たい目つきで言った。「真奈はどこだ」「真奈?」伊藤は怪訝な顔をした。「冬城、お前の妻がどこにいるかなんて、なぜ俺たちに聞くんだ?」「とぼけるな。みなみがここで真奈を見かけたと言っている。真奈はどこだ」「みなみ?誰だそれ?」伊藤は冬城の隣にいる浅井みなみを見て、何かを悟ったような表情を浮かべた。「ああ、お前か。なぜ無駄な噂を流そうとする?」「噂なんかじゃありません。この目で見たんです!」「ほう?何を見たというんだ?」黒澤が突然口を開き、その威圧的な雰囲気に浅井みなみは息苦しさを覚えた。浅井みなみは無意識に冬城の腕を掴み、それを支えに言った。「お二人が個室で楽しそうに話して、お酒を飲んでいるのを見ました。あなたは真奈さんに料理を取り分けていて!二人はとても近くに座っていて、手まで握り合って……」浅井みなみの言葉には真実と嘘が混ざっていた。向かいの黒澤は冷笑を浮かべた。冬城の声は一層冷たくなった。「もう一度聞く。真奈はどこだ」「すみません、通していただけますか」ドアの外から、澄んだ女性の声が響いた。ワインレッドのドレスを纏った女性が入ってきた。彼女は困惑した表情で部屋の中を見回し、「
黒澤の当主はこの孫娘を心から可愛がっていた。「申し訳ありません、幸江様!私はわざとじゃないんです!私……」「もういい!」幸江美琴は眉を寄せ、冬城に向かって言った。「まさか冬城とは。愛人をきちんと躾けておいたほうがいい。金持ちに擦り寄っただけの貧乏学生が、私の前で好き勝手言えると思ってるの?」「愛人」という言葉を聞いて、浅井みなみの表情が一変した。反論しようとした彼女を冬城が制した。冬城自身の表情も険しくなっていた。浅井みなみは冬城の様子に怯え、声を出す勇気もなくなった。「みなみの誤解だった。申し訳ない。このお食事は俺が負担する。どうか気にしないで」「結構だわ。幸江家はそんな端金で困ることはないから」幸江は冬城に一片の面子も立てず、冷たく言い放った。「今日のこと、私は忘れないわよ。お帰りなさい」数人のボディーガードが冬城と浅井みなみを部屋の外へ案内した。実際、冬城が本気を出せばこの程度の人数など物の数ではなく、三人相手でも互角に渡り合えたはずだ。だが今回は明らかに自分に非があった。個室を出ると、冬城の表情は完全に険しさを増していた。「司さん……私、本当に……」「もういい。今日のことはもう言うな」冬城は心の中の怒りを抑えながら、浅井みなみに対してはまだ優しい口調を保っていた。浅井みなみは悔しさで唇を噛んだ。絶対に見間違えるはずがない。これは真奈の策略に違いない。冬城と浅井みなみが立ち去った後、真奈は隣の個室から姿を現した。幸江美琴の服に着替えた彼女は言った。「美琴さん、今日はありがとうございました」幸江美琴は思わず口をついて出た。「気にしないで。私たちは家族なんだから」「こほん!」伊藤が二度咳払いをした。真奈がその言葉に首を傾げると、黒澤はすぐに言った。「本来なら今日、お姉さんを紹介するつもりだったんだが、冬城のせいで台無しになってしまった。先に帰るんだ。冬城に見つからないようにな」「わかりました」真奈も同じことを考えていた。本当なら先ほど出るべきだったのに、幸江美琴に挨拶だけでもと思って出てきてしまった。幸江は黒澤の従姉で、二歳年上。海外でも名の知れた人物だった。黒澤が幸江を紹介してくれるというのに、顔も見せずに逃げ出すわけにはいかなかった。「美琴さん、また今度お会
「キィッ」真奈はドアが開く音を聞き、薄暗い光が部屋の中に差し込んできた。「真奈」冬城の声は低く沈んでいた。真奈は聞こえないふりを続けた。冬城は声を上げた。「真奈!」真奈は眉をひそめたまま、目を開けずに言った。「こんな夜中に、何で私の眠りを邪魔するの」「起きろ!」冬城の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。真奈は苛立ちながら起き上がり、ドア口に立つ冬城を見据えた。「冬城、頭でもおかしくなったの?」突然、冬城が飛び出してきた。真奈が驚く間もなく、次の瞬間には冬城に押し倒されていた。ドア口からの薄明かりが冬城の背中に落ち、妙に艶めいた空気を作り出していた。真奈の息が一瞬止まったが、すぐに落ち着きを取り戻した。「一体何がしたいの?」「今夜、どこにいた」「友達と食事をしていたわ」「どの友達だ」真奈は眉をひそめた。「それを話す義務なんてないでしょう?忘れないで。私たちはただの利害関係。お互いの利益のために利用し合ってるだけよ」「そうか」冬城が冷笑を浮かべた。真奈は危険を感じたが、すぐに冬城は彼女のパジャマを引き裂いた。「法律上、お前は私の妻だ。妻としての務めを果たすべきじゃないのか」「冬城!正気じゃないわ!」冬城の力は強く、彼女の服を完全に引き裂こうとしていた。真奈は我慢の限界に達し、反射的に冬城の頬を打った。「パシッ!」鋭い平手打ちの音が響き、部屋は一瞬静寂に包まれた。真奈は冷たく言い放った。「冬城、私はあなたのおもちゃじゃない!」真奈の上に乗った冬城の体が硬直し、胸が激しく上下していた。「出て行って!」瀬川真奈はドアを指差した。目の縁が赤くなっているのは、おそらく怒りのせいだろう。冬城は少しずつ正気を取り戻し、真奈の部屋を後にした。ドアが閉まる瞬間、冬城は眉間を押さえた。自分は狂っているに違いない。だからあんな行為に及んでしまったのだ。しばらくして、冬城は振り返り、ドアノブに手をかけたが、躊躇った末に結局部屋に入る勇気は出なかった。一方、部屋の中で真奈は先ほどの出来事に、黙ってドアに鍵をかけた。どうやら今日のことで冬城は本気で怒っているようだ。これからはもっと慎重にならなければ。翌朝、本来なら彼女を起こすはずの大垣さんの姿が見えず、真奈は階下
前世で彼女は冬城と結婚した後、冬城おばあさんの言葉を信じ込んだ。男の心を掴むには先ず胃袋を掴むべきだと。そこで、これまで家事など一切したことのないお嬢様が、台所に立ち始めたのだ。だが結局、冬城は彼女の料理を一口も口にしなかった。所詮は冬城が浅井みなみをより愛していたからだ。朝食の支度が済むと、冬城は自分の分がないことに眉を寄せた。「俺の分は?」「自分で作ればいい」真奈は彼に良い顔一つ見せなかった。冬城は案の定、怒りを露わにした。「お前!」真奈は彼を無視して、黙々とパンを千切って口に運んだ。彼女はもう冬城のことが好きではないのだから、無理して取り入る必要もない。「ごちそうさまでした」真奈は食べ終わると食器を台所に運び、小さな鞄を手に取って出かけようとした。冬城が尋ねた。「どこへ行く?」「午前中は授業がある」「休め」「冬城、頭でもおかしくなったの?」真奈はとうとう我慢の限界を超えた。今朝から冬城の態度は明らかに普段と違っていた。初めは大垣さんに休暇を与え、それから朝食を作らせ、今度は彼女に休みを取らせようとする。しばらくして、冬城がゆっくりと口を開いた。「その土地の件はどうなってる」ようやく本題に入った。真奈は冬城が尋ねてこないと思っていた。今日の異常な態度の理由が分かった。やはり利益のためだ。「その土地はもう手放した」と真奈は言った。「売ったのか?誰に」「それは私の自由よ。あなたに説明する必要なんてない」「真奈!」冬城は冷たい声で言った。「お前はその土地の価値がどれほどのものか分かってるのか」「知らないわ。ただあの土地を持て余してたから早く売りたかっただけ。買い手が見つかったから売っただけよ」「お前……」真奈は冬城がここまで怒る様子を見て、内心愉快だった。「どうしたの冬城総裁。前はあの土地なんて眼中になかったじゃない。今更価値が出てきたって?」冬城は一呼吸置いた。「結局誰に売ったんだ」真奈が黙り込むのを見て、冬城は更に追及した。「あの土地が緑地指定されることを、お前は知ってたんだな」彼は一晩中考えたが、それ以外の可能性は思いつかなかった。二千億で汚水地帯を買うなど、狂人のすることだ。以前は真奈が狂っていると思っていたが、今となって
この場面では真奈に言い分はなく、冬城の言うなりになるしかなかった。「分かったわ、買い物すればいいんでしょ」どうせ自分のお金じゃないんだから、好きにすればいい!真奈は冬城の口元が思わず緩んでいることに気付かなかった。モールに着くと、真奈は周囲のレイアウトに目を向けた。自分が大規模な商業街を建設する予定なので、下調べとして見ておく必要があった。突然、手を引かれる感触があり、真奈は思わず身を引いた。タピオカミルクティーを買って戻ってきた冬城を警戒しながら尋ねる。「何するの?」「手を繋いで、写真を撮る」そう言うと、冬城は近くにいるカメラを持ったパパラッチらしき人物に目をやった。真奈は面倒だと思いながらも、言われた通りにした。すると冬城はスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。「今度は何?」と真奈は言った。「自撮りだ」「……」真奈がカメラの前で強張った表情を見せていると、冬城は不満げな声で言った。「笑えないのか」真奈は笑おうとしたのだが、画面に映る冬城を見た途端、どうしても笑顔が作れなくなった。結局、無理やり作った笑顔は泣き顔よりも酷いものになってしまった。冬城は不機嫌そうに携帯を閉じた。真奈は写真撮影が終わったのを見て喜び、いくつかの服を買い足した。どうせ冬城のお金なのだから、使わない手はない!午後、冬城は落ち着いた雰囲気の静かなカフェを見つけ、真奈に繊細なデザートセットを注文し、自分は向かい側に座ってコーヒーを飲んだ。真奈は今日の戦利品に満足げで、少しずつデザートを味わっていた。冬城はその様子を見て、心に何か暖かいものを感じた。彼は携帯を取り出し、真奈が気付かないうちに、自分の顔を半分だけ出して真奈と一緒に写真を撮った。シャッター音を聞いて真奈は顔を上げ、困惑した表情で冬城を見た。「何してるの?」冬城は姿勢を正し、まるで何もなかったかのように淡々と言った。「デザートが綺麗だったから、写真を撮っただけだ」「は?」真奈には意味が分からなかった。こんな乙女チックなデザートを撮影する男が信じられない。「もう食べ終わったか」「もう食べられないわ」「じゃあ行くぞ」冬城は立ち上がり、さっと会計を済ませた。この一日で冬城のカードは20回以上も使われたが、真奈は女にお
「かしこまりました」大塚が言い終えると、また躊躇し始めた。その様子を見た真奈は尋ねた。「ほかに何かあるの?」「社長、もう一つありますが……」大塚はさらに困ったような表情を浮かべて言った。「白井綾香は今、冬城グループの所属タレントですが、本日冬城グループから連絡がありまして、白井と白石で雑誌の撮影をしたいとのことです」「冬城グループが連絡してきたのは、Mグループ?それとも瀬川グループ?」「……瀬川グループです」たとえ今、冬城グループの関係者に百倍の勇気があったとしても、Mグループと直接手を組む勇気はないだろう。だが瀬川グループ――過去の関係を辿って、そこに私的な情を見出そうとしているのは見え見えだった。白石は今、一線で活躍する俳優であり、誰もが認めるトップスター。ファンベースも圧倒的で、まさに男性芸能人界の頂点にいる存在だ。そんな新と雑誌で共演できれば、デビュー間もない新人タレントの価値は一気に跳ね上がる。「……冬城氏は白井に流星のような鮮烈デビューを狙わせる気ね」真奈は軽く笑っただけだった。流星のようデビューは、必ずしも良いことではない。「社長、承諾なさいますか?」「白石に直接聞いて。彼の意思を尊重して。彼がいいと言うなら、私は何も言わない」大塚は、真奈がなぜ白井にそんなチャンスを与えるのか、正直、理解できなかった。もし白井が本当にキャリアを上げるようなことがあれば、それは冬城グループにとって大きな後押しになる。そうなれば――これまで彼らが積み重ねてきた、冬城グループに対するあらゆる攻撃の努力がすべて水の泡になる。「どうしたの?私の決断を疑っているの?」「いえ、すぐに確認を取ります」中井が部屋を出て行った。真奈は窓の外に目を向ける。白井を金のなる木に育てたいのなら、それにふさわしい相手を選ぶべきだった。なぜ白石なのか?白石は表面上は無口で穏やかだが、実は腹黒い。今回、白井は損するしかないだろう。撮影現場。大塚は白石のマネージャーに連絡を入れ、マネージャーは白石のもとへと歩み寄り、真奈の意向を簡単に伝えた。それを聞いた白石は、ふっと口元に笑みを浮かべた。「共演?いいよ」マネージャーは一瞬、驚いた表情を浮かべた。「でも、今冬城グループと瀬川社長の関係って……」「構
「好きにしろ」黒澤は冷たくそう言い捨てると、その場を去った。伊藤も黒澤が去っていくのを見て、すっかり残る気をなくし、すぐにその後を追った。白井は、誰にも構われずにその場に取り残された。真奈はそれを見て、ただ背を向けて去った。幸江がそばで言った。「さっき彼らが何を言っていたか聞こえた?」「聞こえたわ」伊藤の声はあまりにも大きく、聞こえないほうが無理だった。ただ、白井は気づかぬうちに、真奈に多くの厄介を押しつけてきた。真奈の表情が暗く沈んでいるのを見て、幸江の顔にも緊張が走った。「白井が冬城グループの映画会社に入ったことで、何か面倒が起きてる?」真奈は口を閉ざしたまま黙っていたが、幸江にはその表情だけで十分だった。 「深刻なの?」「深刻じゃないことを願ってる」海外の白井家はかつて非常に栄えていた家系で、今は黒澤家が後ろ盾にいる。その存在は、周囲に警戒心を抱かせるには十分だった。そんな中で冬城氏が白井を映画会社に招いたのは――明らかに、先日の礼にまつわる騒動から目を逸らすための戦略だ。そして綾香には白井家という名のバックがある。その影響で、今後は多くの海外からの投資が期待されるだろう。どうりで、少し前に白井と黒澤が一緒にトレンド入りしていたわけだ。あれは冬城グループが、彼女を売り出すために仕掛けた流れだったのだ。こうなると、礼という厄介者で台無しになった冬城グループの映画会社も、再び息を吹き返すことになるだろう。果たして三日も経たぬうちに、白井の名前は頻繁にトレンド入りするようになった。海家名家のセレブという肩書きを持つ彼女は、すぐに世間の目に名家のお嬢様、財閥の令嬢として映るようになった。そして、そのキャラクターを白井は非常にうまく演じ切っていた。真奈がMグループの最上階のオフィスに座ると、少し疲れていた。状況は変化した。すべてが彼女の予想通り、白井の加入によって、冬城グループの映画会社は徐々に再起し始めていた。以前、礼によってもたらされた悪影響も、ゆっくりと世間の記憶から薄れていった。そのとき、大塚がドアをノックしながら声をかけてきた。「社長、急ぎの用件です」「入って」真奈は疲れたように尋ねた。「また何か悪い知らせがあるの?」「浅井が刑務所から出てきました」その一言
真奈は淡々とした声で言った。「これは黒澤と彼女の問題よ。私たちが口を出せることじゃない」「でも、遼介が好きなのはあなただし、あの白井はただのわがままだよ!遼介は彼女と結婚するなんて一度も言ってないし、好きだって言葉も一回も言ってない!」幸江は言った。「彼女はあなたに道徳的に圧力をかけて、みんなの前で可哀想なフリをしてるだけよ。さっき通りがかった人たちが、どんな目であなたを見てたか、見なかったの?」通行人の視線はまるで、真奈が白井にひどいことをしたかのようだった。しかし、これには真奈はまったく関係がない。幸江は怒りに任せて足を踏み鳴らした。「白井の父親が遼介に少しだけ恩があるから、あの子を気にしてるだけでしょ?じゃなきゃ、遼介が彼女のことなんて気にかけるわけないわよ!」真奈は気にしないと言いながらも、視線は黒澤と白井に向けていた。白井は黒澤の腕に触れようとしたが、黒澤は表情ひとつ変えず、さりげなく身を引いてそれを避けた。 白井は目を伏せた。「私に触れるの、そんなに嫌なの……?」「俺は、白井裕一郎にお前の後半生を安泰に過ごさせると約束した。だが、もしお前がそれをいいことに俺の限界を試し続けるつもりなら、その約束を破ることだってできる」白井ははっと息を呑んだ。黒澤が、外でどんな評判を持っている男なのかを、彼女は知っていた。かつて父親が生きていたころ、面倒な相手の処理を何度も黒澤に任せていたことも。黒澤は誰よりもルールを守らない男であり、約束を絶対とはしない人間なのだ。白井は分かっていた。黒澤は、本当にそういうことをする男だ。その瞬間、彼にすがりつこうとする気持ちは一気に冷めていった。「智彦、白井さんを送ってくれ」伊藤は戸惑った。「送る?どこに?」黒澤は伊藤を一瞥した。その一瞬で、伊藤はすべてを察した。「国外に?それはムリだって!」白井が眉をひそめ、伊藤が何か言おうとしたその時、白井が恥ずかしそうに目を伏せ、口を開いた。「わ、私……国外の家、売ってしまったの……」「白井家には家は一つだけじゃない。残るための口実を作る必要はない」黒澤の目はますます冷たくなった。その冷たさに気づいた白井は、唇を噛みながら言った。「私……海城で頑張りたいの」白井は黙って、真奈の続きを待った。白井は言っ
黒澤が振り返り、軽く眉をひそめた。白井は黒澤に近づこうとしたが、伊藤にすぐさま止められた。「白井さん、どうして出てきたんだ?お医者さんにベッドから降りないように言われてたんだろう?早く、戻ろう!」伊藤は内心ひやひやしていた。白井がまた何かで動揺して倒れたりしたら、自分はもうもたない。彼は昨晩からずっと寝ずに付き添っていたのだ。「遼介、ちょっと話がしたいんだけど、いい?」白井の声は弱々しく、目元は赤くなり、今にも泣き出しそうだった。だが黒澤の視線は、始終向かい側に立つ真奈に向けられており、白井には一言の返事もなかった。その視線を追うように、白井も後ろに立つ真奈を振り返った。白井は唇を噛んだ。真奈を見た伊藤は、思わず顔を覆った。ああ、修羅場だ……次の瞬間、白井は真奈の前まで歩み寄り、何も言わずにその場に膝をついた。そして、真奈の手をぎゅっと掴み、涙ながらに訴えた。「冬城夫人……どうか、遼介に私と少しだけ話す時間をください!本当に……どうしても聞きたいことがあるんです!」その場にひざまずいたことで、周囲の人々の視線が一気に集まった。ざわざわと小声の囁きが飛び交い、様子を見ようとする人々が次第に集まりはじめる。それを見た伊藤は慌てて駆け寄った。「なんてこんなところで跪いていらっしゃるんですか!白井さん、まず立ち上がって!」伊藤は慌てて白井を助け起こそうとしたが、思いもよらなかった。この子、なんでこんなに力強いんだ!この子はどうしてこんなに力が強いんだ!「彼があなたと話したいかどうかは彼次第だよ。なぜ私に頼むの?」真奈は落ち着いた声で言った。白井は一瞬驚いた。おそらく、真奈が彼女が跪いてもこんなに冷静でいられるとは思わなかったのだろう。彼女は先ほどの激しい感情を収め、代わりに目を伏せてすすり泣きはじめた。まるでこの世の不幸を一身に背負っているかのように、哀れさを漂わせながら。「遼介は私に一生、面倒を見るって言ってくれたんです。私にはもう遼介しかいないんです。でも、冬城夫人にはご主人がいるでしょう?どうか……遼介を奪わないでくれませんか?」白井の声は卑屈で、目には切実さが宿っていた。周囲の人々は完全に見物モードで、誰と誰がどういう関係なのか、ひそひそと噂し合っていた。それでも真奈はま
「おじさん、私と黒澤は、おじさんが思っているような関係ではありません」「黒澤のお前への想いは、誰の目にも明らかだ。だが……あの男はあまりにも多くの血を見てきた」瀬川の叔父は、心配しているような目で、沈んだ声を出した。「叔父としては、ただお前が平穏で幸せな人生を送ってくれればそれでいいんだ。だが黒澤と一緒では、きっと安らかな日々は望めない。どうしても無理なら……別に無理に結婚なんてしなくてもいい。うちは金には困らん。お前の生活は保障できる」「叔父の気持ち、ちゃんとわかってます。だからもう心配しないでください。まずはしっかり治療に専念してください」叔父はようやく小さくうなずいた。病室を出た真奈は、廊下の奥で黒澤と伊藤が言葉を交わしているのを目にした。だが、彼女はそこへは向かわなかった。頭の中は、さっき叔父が言った言葉でいっぱいだった。遼介……本当に自分にとってふさわしい人ではないのか?「真奈!」後ろから聞こえてきた声に振り返ると、ハイヒールを履いた幸江が、礼服のまま走ってくるのが見えた。息を切らせながら彼女は真奈に飛びつくように抱きついてきた。「ニュース全部見たわよ!大丈夫?冬城のあのクソ野郎に何かされてない!?」「大丈夫よ、見ての通り元気でしょ?」幸江は真奈が無事なのを見て、やっと安堵の息をついた。「もう……昨日の夜、私どれだけ心配したと思ってるの。迎えに行こうとしたのに、智彦がぜっっったいに行かせてくれなかったんだから!夜は危ないとか言ってさ、ねぇ、一体誰にとって危ないっていうのよ!?」そう言いながら、幸江は自分の拳を振り上げた。真奈はくすっと笑って言った。「それで、昨日の夜はずっと病院にいたの?」「そうよ。途中で智彦は遼介の用事を手伝いに行ったけど、それほど長くはかからなかったわ」それから幸江は、どこかいたずらっぽい表情で真奈の耳元に顔を寄せ、声を潜めてささやいた。「白井の体がどれだけ弱いか、知らないでしょ。昨日の一晩だけで何百万も使ったのよ、それも全部遼介の口座から」黒澤の口座から出たと聞いて、真奈の心に一抹の違和感が過ぎた。幸江はまた言った。「でも、安心して。ちゃんとあんたのために確認済み。遼介と白井は、あんたが思ってるような関係じゃないって」そう言われても、真奈は唇をきゅっと引き結び、つ
「おじさん、本当にその決断でいいですか?」真奈は不安そうに叔父を見つめた。もしかしたら後になって後悔するのではないか――そんな思いが胸をよぎった。だが、瀬川の叔父の決意は揺るがなかった。「このろくでなしは、自分の父親すら殺そうとしたんだ。そんな奴に、これから何ができないって言うんだ?今日は親子の縁を切るだけじゃなく、記者会見も開くつもりだ。秦めぐみとの離婚も発表する。これから先、俺の遺産は一銭たりとも、あの母子には渡さない!」それを聞いた貴史は、完全に取り乱して叫んだ。「父さん!そんなひどいこと言わないでくれ!瀬川家のすべては、本来俺のもんだったはずだろ!どうして他人に全部やるんだよ!」「他人?瀬川家の財産は、どれもこれも全部、俺の兄が残してくれたものだ!この数年、お前が食ってきたもの、着てきたもの、全部真奈が持ってきた金で賄っていたんだ。それなのに、どうして姉に手をかけるような真似ができる?」叔父は、かつては貴史をただの手のかかる子どもだと思っていた。だが今、目の前の彼がまさかここまで外道なことをするとは、思いもしなかった。叔父は冷たく言った。「お前のような息子はいらない。さっさと出て行け!」「父さん!」黒澤は淡々と口を開いた。「瀬川会長の言うことが聞こえないのか?連れ出せ」「はい」ドアの外で待っていたボディーガードがすぐに入ってきて、貴史を無理やり病室の外へと連れ出した。真奈は黙り込んだ。そんな彼女の手の甲に、叔父がそっと手を添え、優しく叩いて言った。「真奈……おじさんは、ずっと目が曇っていた。こんな恩知らずの女をそばに置いていたせいで……これまで、ずいぶんつらい思いをさせてしまったな」瀬川の叔父の顔には、深い後悔と疲れがにじんでいた。けれど真奈自身はそれほど苦しいとは思わなかった。前世、彼女は両親を相次いで亡くし、家の遺産を持って叔父を頼って来た。秦氏は、叔父の前ではあくまで優しくて穏やかな女を装っていたが、裏では彼女に冷たく、言葉も容赦なかった。あの時、瀬川の叔父は彼女の唯一の親族だった。彼女は波風を立てたくなくて、ただ黙って耐えていた。それが叔父のためになると信じていたのだ。けれど時が経ち、秦氏が家の金を食い潰し、貴史を連れて何の未練もなく無一文になった叔父を見捨てたことを、後になって知ること
黒澤の腕は力強く、筋肉はやや硬くて、二人の距離はほんのわずか。互いの鼓動や息遣いさえ感じられるほどだった。 真奈は手を引っ込めて言った。「すみません、足を滑らせてしまった」「俺が支えてる。転んだりしないよ」そう言ったところで、ドアの外からメイドが真新しい服を差し出してきた。黒澤はそれを受け取ると、脇のテーブルに置いて、言った。「外で待ってる」真奈はこくりとうなずいた。彼女は夜通し熱を出しており、全身にうっすら汗をかいていた。黒澤が部屋の外に出るのを見届けてから、ようやく浴室へと向かい、体を洗い流した。ドアの外では、腕に残るぬくもりがまだ消えず、黒澤は室内から響いてくる水音に耳を傾けながら、喉を軽く鳴らした。しばらくして、真奈は清潔で整った服に着替えて出てきた。真奈は言った。「準備ができたので、行きましょう」彼女はシンプルなカジュアルシャツにジーンズという姿で、髪はまだ少し湿っていた。波のような長い髪が肩にふわりとかかっていた。黒澤は真奈の前に歩み寄り、彼女の髪を軽くまとめてから、彼女の手首を引いて部屋に近づいた。「ドライヤーは?」「……ここよ」真奈は浴室にあるドライヤーを遼介に手渡した。黒澤はドライヤーを手に取り、電源を入れて真奈の髪を乾かし始めた。黒澤の動作はとても手慣れていた。彼は真奈の髪を持ち上げ、丁寧に風を当てていき、完全に乾いたのを確かめてから、ようやくドライヤーを片付けた。「黒澤様の髪を乾かす腕前は、私よりも上手だね」急な出来事だったので、彼女はさっと済ませようとして、しっかり乾かさずにいたのだった。「昔、美容室でしばらく働いてたから、手慣れてるんだよ」黒澤は冗談のように言ったが、真奈は気に留めなかった。「熱が下がったばかりなんだから、こういうことにはちゃんと気をつけなきゃ。適当に済ませたらだめだよ。風に当たったら、一日中頭が痛くなる」理路整然とした口調でそう言われ、真奈は尋ねた。「でも、あんなに傲慢で何でも思い通りにしてるって噂の黒澤様が、美容室で働いてたなんて?」「ずっと昔の話だよ。異国の地で生きるために、何でもやらなければならなかった」黒澤は簡潔にそう答え、それ以上真奈も追及しなかった。 瀬川家の外では、運転手がすでに長い時間待っており、二人が病院に到着する
貴史は一瞬呆然とし、黒澤が何をしようとしているのかまだ理解していないうちに、数人に囲まれてしまった。黒澤はこうした場面に興味がなく、外へ向かって歩きながら、淡々と言った。「ここは任せた。坊ちゃんに、人としての礼儀ってやつを、しっかり教えてやれ」「了解です!」黒澤が廃工場を出ると、中から次々と悲鳴が聞こえてきた。夜がすっかり明けたころ。真奈がぼんやりと目を覚ますと、目の前に青あざだらけで腫れ上がった顔の男が、ベッドのそばに跪いていた。思わず目をこすってよく見ると、それはなんと貴史だった。彼は両手を縛られ、まるで豚のように腫れている顔になっていて、今にも泣き出しそうな顔でひざまずくその姿は、どこか捨てられた嫁のような情けなさを漂わせていた。「……貴史?」真奈は思わず声を上げた。最初は誰なのか分からなかったほどだった。貴史は幼い頃から甘やかされて育ち、かつて一度だけ収監された以外は、苦労を味わったことがない。そんな整った顔がここまで腫れ上がるのは、生まれて初めてのことだった。「連れてきた。どうするかは、君に任せる」黒澤は真奈のベッドの脇に座った。貴史は黒澤の姿を見た途端、完全に戦意を喪失した。一晩で貴史をここまで怯えさせることができる男は、間違いなく黒澤ただ一人だろう。「俺が悪かった!姉さん、本当にごめん……!許してくれ、もう二度としないから!」「へぇ?今になって姉さんと呼ぶのか?」真奈は片眉を上げたが、貴史は顔を上げることもできず、ただ俯いたままだった。「瀬川会長は今朝目を覚ました。きっと、自分の息子に会いたがってるだろうな」黒澤の口調には笑みが含まれていたが、その声を聞いた貴史の背筋には冷たいものが走った。 オヤジに会う?それはつまり、自分を地獄に突き落とすってことじゃないか。死んだ方がましだ!「姉さん、俺が悪かった!お願いだから父さんに頼んでくれ!父さん、本当に俺を殺すよ!」貴史は恐怖で声が震えていた。だが、真奈の表情は微動だにしなかった。「私が許しても意味ないわ。あなたが重傷を負わせたのはおじさんよ。もしおじさんが許すって言うなら、私もこれ以上は追及しない」「姉さん!お姉さま!真奈!どうしてそんな冷たいことを……」貴史は再び感情を爆発させかけたが、黒澤の鋭い視線を受
冬城は向かいに腰を下ろしていた。工場の薄暗い照明がちらちらと点滅し、不穏で異様な空気を漂わせている。「んっ!うっ!」貴史は声を上げようとしたが、口に貼られたテープのせいでうまく話せなかった。冬城は黙って中井に目配せをし、それを受けて中井が前に出て、貴史の口元のテープを勢いよく剥がした。「助けて!誰か助けてくれ!」貴史は喉を張り上げて叫んだが、周囲から返ってくる声は一切なかった。そんな貴史に向かって、中井が冷たく言い放つ。「ここは郊外で、今は真夜中だ。誰も来やしないし、その声なんて誰にも届かない」「何が目的だよ!冬城、俺はお前に協力してやったんだぞ!それなのに裏切るなんて、ひどすぎるだろ!」だが、冬城はそんな青臭い若造の叫びに構うつもりもなく、視線すら投げなかった。代わりに中井が無言で貴史のポケットに手を突っ込み、スマホを取り出すと顔認証でロックを解除し、それを司に渡した。冬城は無言でスマホのアルバムを開き、数枚の写真を見つめた。その目はどんどん冷えきっていき、やがて無言のまま脇にあるシュレッダーのスイッチを入れ、スマホをその中に投げ込んだ。シュレッダーはゴロゴロと不気味な音を立てながら動き出し、中には真っ黒なディーゼル油がたっぷり溜まっていた。その光景だけで背筋が凍るような恐怖を呼び起こす。冬城はもはや言葉を交わす気もなく、冷ややかに命じた。「やつを投げ込め」「かしこまりました」冬城の言葉を聞いた瀬川貴史は、恐怖で顔を青ざめさせた。「冬城!正気なのか!これは殺人だぞ!冬城グループの総裁が、殺人罪を犯すなんて!」冬城の眼差しは人を殺せそうなほど冷たかった。彼が直接手を下すのは、もうずいぶんと久しぶりのことだった。この海城では、裏も表も争いが渦巻いている。その泥沼を、貴史のような青二才が知るはずもない。中井は無駄のない動きで貴史を高く吊り上げ、そのまま冬城を振り返って尋ねた。「総裁、今やりますか?」「今だ」肯定的な答えを得ると、中井はすぐにロープを下ろす準備をした。次の瞬間、拍手の音が響いた。冬城が振り返ると、黒澤が堂々と歩いてきた。その背後には、かつての古参の部下たちがぞろぞろと続いており、風を切るような足取りからは、明らかに鍛え抜かれた動きがうかがえた。まさか、黒澤がこんなにも早