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第129話

Author: いくの夏花
「俺だ」低く、聞き覚えのある声がした。

遥香は背中を木の扉に押し当て、冷たさに身を震わせた。やはり……あの工事現場で、彼は自分の正体に気づいていたのだろうか。

「用事があるの?」遥香は平静を装い、声を返した。

「ドアを開けろ。薬を持ってきた」男の口調は強硬だった。

考古チームのメンバーたちは皆このホテルに泊まっている。もし修矢が彼女の部屋の前にいるところを誰かに見られれば、評判は良くない。

遥香はドアを開け、素早く彼を中へ招き入れた。

彼女はキャミソール姿で、白い肌は淡い灯りの下でほのかな桃色に染まっていた。胸は上下し、くびれた腰は細く、まっすぐに伸びた脚が空気にさらされていた。

ホテルの部屋には、どこか曖昧な空気が漂い始めていた。

遥香は胸の奥に違和感を覚え、ソファに置かれていた毛布を手に取って体を包み込んだ。

「何か用?」

温度のない問いかけに、修矢の心はひやりとした。彼は袋から薬を取り出し、短く告げた。「これを。君のために買ってきた」彼のスーツも雨でぐっしょりと濡れ、着替える暇すらなかったのが一目でわかった。

遥香は断りたかったが、わざわざ買ってきてくれたものを無下にできず、袋を受け取った。

「ありがとう」

「怪我はひどいのか?歩いて戻るのを見て気づいた。

腰を痛めたんだろ」そう言いながら、修矢が無意識にその箇所へ手を伸ばすと、遥香は身をかわして避けた。

「自分で塗るわ」

「自分で届くのか?」修矢の声には、甘やかすような響きと諦めが入り混じっていた。「役所に行くまでは、俺たちはまだ夫婦だ。それに……自分の怪我で地下宮殿の発掘が遅れるなんて、望まないだろう?」

確かに、その言葉には一理あった。

遥香はソファに腰を下ろし、背を向けたまま寝間着をそっと少しだけまくり上げた。

冷たい軟膏を指先につけた修矢の手が彼女の肌に触れる。反応するより早く、緊張でこわばったのは修矢の方だった。

肩甲骨の曲線、細い腰、そのさらに下へ……かつて三年の結婚生活で、余すところなく自分のものだった部分。

だが今や、それは別の男のものになろうとしている。

その事実を思うだけで胸がかき乱され、狂いそうになった。抑えきれぬ衝動が指先に力を込めさせる。

「いっ……痛い……」遥香は弱々しく声をもらした。「修矢さん、私に仕返ししてるの?」

薬を塗り終える
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