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第2話

Author: いくの夏花
「ありがとう、修矢さん。修矢さんもだよ、修矢さんほどいい人はいないよ」

遥香は痛みを必死にこらえ、キャリーケースを引きながらその場を後にした。

修矢は遥香の去っていく背中を見つめていた。指にはタバコを挟み、その煙がぼんやりとゆらめいている。

修矢はタバコの灰を軽く払ったが、その眉間には重く沈んだ影が漂っていた。

遥香は車に乗り込んだ。

もう川崎家に戻るつもりはなかった。

これまで、実の両親とはさほど親しくもなかったし、昔、柚香が海外に送られたのは自分のせいでもあることを考えると、

川崎家に対しても自然と抵抗感が生まれていた。少し考えた後、以前住んでいたアパートの住所を運転手に告げた。

車内で、遥香は涙を流しながら、うとうとと眠りに落ちた。

夢の中、遥香の思いは過去へと沈んでいく――

川崎家に戻った当初、川崎の母親は田舎育ちの遥香を快く思っていなかった。

当時の遥香には名家の娘らしさなど微塵もなく、社交パーティーに出席するためのダンスも、いくら練習しても上達しなかった。

その時、修矢が根気よく手取り足取り教えてくれたのだ。

そして彼は「遥香は本当に賢いよね」と励ましてくれた。

遥香は修矢が自分に好意を持っているのだと思い込んだ。

だから修矢の妻になることも断らなかった。

けれど、結局この3年間は、遥香のただの妄想でしかなかった。

涙で車のシートを濡らし続け、運転手に呼びかけられてようやく目を覚ました。

車を降りると、曽根江里子(そね えりこ)が迎えに来ていた。

二人はアパートに戻った後、

江里子は一連の経緯を聞き終え、しばし呆然としてから言った。「つまり……柚香が戻ってきて、遥香は修矢と離婚したってこと?」

遥香は苦々しく笑い、こくりと頷いた。

離婚届はお互いサインしたもの、まだ役所には出していない。

けれど実質的には、離婚したと同じだった。

江里子はタバコをもみ消すと、遥香を抱きしめて言わずにはいられなかった。「あんた……なんでそんなに馬鹿なの?あんな男に遥香が離婚される理由なんてないのに!尾田のおばあさまの命を救ったのも、あの火事で修矢を助けたのも、全部あんたなのに!

修矢の婚約者のことだってそうよ。元々はあんたが婚約者だったのに、柚香が急にふっとわいてきて……あいつ何者って感じよ!あなたの身分を乗っ取った偽物よ!あんたの身代わりとして育てられた、いわば偽物じゃないの!アレルギーの件だって濡れ衣を着せられてさ……もし尾田のおばあさまの口添えがなければ、海外に送られたのはあなたの方だったのよ!

なのに、修矢はそんな柚香のために遥香と離婚するなんて、頭おかしいんじゃないの!」

江里子はどんどん怒りを募らせていった。「ダメよ、こんなの絶対許せない!私が直接文句言ってやる。遥香、簡単に引き下がっちゃダメ!」

だが、遥香はもう過去の話を蒸し返したくはなかった。ただ皮肉めいて微笑んだ。「……感情は理屈じゃ語れないから。それに、お金は受け取ったわ。私も損はしてない」

――6億円。

修矢と共に過ごした3年間は、十分な金額に換算された。

「お金の問題じゃないでしょ!」江里子は半ば呆れて笑った。「あんたの青春がたったそれだけの価値で済むと思ってるの?」

ましてや、遥香にとってお金を稼ぐことはそう難しいことではないのだ。

「少なくとも彼は私に嘘はつかなかったし、夫としての責任も果たしてくれたわ。キレイに別れられたんだから、まだマシでしょ。

結婚生活の末に泥沼になる人なんて山ほどいるんだし」

遥香はそう思った――自分たちは、まだ十分に体面を保てたのだと。

江里子は心苦しそうにため息をついた。彼女は目の前で遥香が修矢に全身全霊を捧げてきた姿をずっと見てきた。それなのにこんな結末になるとは思いもよらなかった。

「それなら、ちょうどいい機会だし、尾田グループの仕事はきっぱり辞めたら?ハレ・アンティークの方で人手が足りないから、そっちを手伝ったらどう?」

気晴らしもかねて……

何しろ、遥香が尾田家に嫁いでから、アンティークショップ「ハレ・アンティーク」の経営にほとんど関わっていなかったのだ。

だが、ハレ・アンティークは遥香も株主の一人なのだ。

遥香はぼんやりと頷いた。

心も体も疲れ切っていた遥香は、

その夜はほとんど食事も取らずに部屋に戻り、ぐったりと眠りに落ちた。

その眠りも浅かった。泣きすぎたせいで頭痛がひどく、全身がだるく重たかった。

翌朝、遥香は目を覚ますと、ぼんやりと天井を見つめたまま、

無意識的に、朝食の支度をしようとベッドを抜け出した。

だが、そこでようやく思い出した――自分は修矢と別れたのだと。

苦笑いを浮かべながら、適当に食事を済ませると、職場に退職届を提出した。

修矢と結婚した時、彼を支えるために尾田グループに転職していた。

けれどもう、離婚した今となっては……

ここを離れる時だと悟った。

退職届を出した直後、川崎の父から電話がかかってきた。「お前、修矢君と離婚したのか?」

「ええ」遥香は淡々と答えた。

父は慰めるように続けた。「お前と修矢君はやはり合わなかったんだよ。修矢君は昔から教養のあるお嬢さんが好みだった。田舎で育ったお前じゃ釣り合わないのも仕方ない。だが、今回の件は柚香とは無関係だぞ、柚香を恨むなよ」

言葉の端々に透けて見えたのは、相変わらずの柚香びいきだった。

川崎家の実の娘である遥香は、結局養女である柚香よりも後回しにされるのだ。

「お父さん、他になにかある?」遥香は静かに話を遮った。

父はしばらく沈黙の後、こう言った。「妹が帰ってきたことだし、今夜は家族団らんということで食事でもしよう、お前も家に戻ってきなさい」

――家族団らん?

これまでの川崎家の冷遇と疎遠な日々を思い出し、遥香は冷めた気持ちで断った。「また今度」

通話を切ると、

気晴らしもかねてハレ・アンティークへ向かうことにした。

ハレ・アンティークは江里子や他の出資者がオープンした店で、遥香も株主の一人だ。

彼女は技術提供という形で出資していた。

ハレ・アンティークの看板とも言える彫刻像――太陽を抱く――も、実は遥香の手によるものだった。

ただ修矢と結婚してからの3年間、ハレ・アンティークの経営からは一切手を引いていた。

その間に、スタッフもすっかり入れ替わっていた。

多くの従業員は、遥香の存在すら知らなかった。

そんな中、唯一遥香のことを知る管理責任者の坂下のぞみ(さかした のぞみ)が、笑顔でスタッフに紹介した。「こちらは私たちハレ・アンティークのトップアーティストの遥香さんです。これからは遥香さんからしっかり学んでください」

場が一瞬ざわめいた。

驚きと戸惑いが入り混じった視線が遥香に集中する。

「この人が?」

誰かが鼻で笑った。「坂下マネージャー、冗談はやめてください。この業界は何より経験がものを言うんです。こんな二十歳そこそこの若造で本当に大丈夫なんですか?ハレ・アンティークの看板を汚すことにならなきゃいいですがね」

ハレ・アンティークは骨董品の鑑定、売買だけでなく、精鋭の現代アート作家による一点物の作品も売りになっている。

目利きも重要だが、それ以上にアーティストとしての技術が問われるのだ。

ここ数年、ハレ・アンティークには優れたアート作家が集まり、その名声を着実に高めてきた。

結果、「ハレ・アンティーク所属のアート作家」への門戸はますます狭くなっていた。

それが、今になって突然現れた若者に頭を下げろと言われても、当然ながら素直に納得できない者が多かった。

のぞみは困ったように遥香を横目で伺いながら、額の汗をぬぐって口を開こうとした――

その時、ずっと黙って様子を見ていた男が、ふと嘲笑うように話し出した。「ちょうどいいじゃないか。今一つ依頼がある。他の作家たちが口をそろえて難しすぎて無理だと言っていた仕事だ。この人にやってもらいましょうよ?」

のぞみは顔を引きつらせた。「た、保さん、お願いですからご冗談はおやめください……」

遥香はふと驚き、声の主を探して顔を向けた。

男はどこか中性的な整った顔立ちをしており、危うさをはらんだ美しさを持っていた。

その佇まいは気だるく無造作だが、人ごみの中でもひときわ目を引く存在感を放っていた。視線が交わった瞬間、彼の唇には皮肉とも取れる笑みが浮かぶ。

――保さん?

遥香は相手の素性が読めず、戸惑った。

のぞみは遥香の困惑した表情を見て、小声でそっと耳打ちした。「鴨下保(かもした たもつ)、鴨下グループの問題児だよ」

鴨下グループは九州を本拠地とする巨大グループで、資産規模は計り知れないという。

保は鴨下家のただ一人の男、つまり後継者である。

彼の桁外れに美しい容姿に匹敵するくらい、彼の悪名高い性格も

この業界では誰もが知るところであった――掴みどころがなくてヤバい奴、だと。

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