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第1077話

Author: 似水
舞子はその姿を見た瞬間、息を呑んだ。二階の手すりに手を置いたまま、しばらく呆然と立ち尽くした。

彼女の視線に気づいたのだろう。階下にいた男が、ふと視線を上げた。

咄嗟に身を引こうとした舞子だったが、二階には身を隠す場所などない。その動作はむしろ滑稽で、余計に目立ってしまった。

「何を隠れてるんだ?」

階下から届いたのは、よく通る低く艶のある声。静かだが、どこかぞくりとするほど無機質だった。

舞子は唇を噛み、ひとつ深く息を吸ってから、無理に微笑んだ。

「冗談でしょう?隠れてなんかいないよ。ただ、部屋に忘れ物をしたのを思い出して……取りに戻ろうとしただけ」

そう言って舞子はくるりと背を向け、部屋へと足を進めた。

もう、今日は部屋から出ない。彼がこの別荘にずっといるはずがない。すぐ帰るに決まってる。

でも、どうして彼がここに?かおるに会いに来たのか?

そう思った瞬間、舞子の表情はひどく冷えたものになった。

姉が好きな男と、こんな風に顔を合わせるなんて……最低。

一刻も早く、あの「残り九回」を終わらせたい。こんな煩わしくて複雑な関係、長引かせるほど自分が壊れていく気がした。

舞子は部屋の中で時間を潰し、やがて夕食の時刻が近づいたのを確認した。

コン、コン。

その時、ドアをノックする音が響いた。

「どなた?」

少し訝しげに尋ねながら舞子はドアに向かい、ゆっくりと取っ手に手をかけた。

目の前に現れたのは、黒いスーツに身を包んだ背の高い男だった。

賢司。

冷ややかな気配をまとい、無言のまま、漆黒の瞳で舞子を見下ろしていた。

「賢司さん?」

舞子の指先に力がこもった。思わずドアノブを強く握りしめた。

なぜ彼が突然、部屋まで来たのか分からなかった。わざと自分を追い詰めに来たの?

だったら、本当に性格が悪い。

避けられてるのが分からないの?察しがいいくせに、そういうところだけ鈍いなんて。

けれど、賢司はその瞳に映る舞子の複雑な感情を見抜いていながらも、以前のように指摘することはなかった。

ただ、静かに言った。

「夕食の時間だ」

舞子は思わず肩の力を抜いた。ただの呼び出しか。ならよかった。

「ええ、すぐ行くよ」

そう微笑んで応じ、ドアを閉めかけたその瞬間、男の腕が彼女の腰にまわり、強引にドアの内側へと押し戻された。

「っ、賢
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