佳苗はしばらくのあいだ席を立たず、静かにこれまでの出来事を頭の中で整理していた。そして、深く息をついてから弁護士に連絡を取り、財産分与に向けた準備を始めた。ちょうどそのとき、スマートフォンが震え、一通のメールが届いた。画面を開くと、そこには夫の不正を裏付ける決定的な証拠が、整理された状態で添付されていた。もはや、あれこれ調べる必要などなかった。佳苗は拳を握りしめた。この証拠さえあれば、あのクズ男を一文なしで追い出せる、今すぐにでも。一方、かおるは目の前の二つの問題を片づけ、胸のつかえが下りたような晴れやかな気分になっていた。車に乗り込み、スマホを取り出して聡にメッセージを送った。【聡さん、お昼、時間ある?一緒にご飯どう?】【あるよ。何食べる?】【美味しい寿司屋見つけたの。場所送るね】【OK】スマホをバッグにしまい、かおるはハンドルを握って寿司屋へと車を走らせた。しかし、出発から三十分ほど経ったころ、突如エンジンが停止した。車はまるで命を失ったかのように沈黙し、人里離れた寂しい場所に取り残された。周囲には人影も車も見当たらない。かおるは困惑しながらも車を降り、エンジンの様子を見ようとする。しかし、何を確認していいのかさえ分からない。無駄だった。機械のことなんて、さっぱりだもの。「かおるさん」不意に、背後から冷たい声が響いた。驚いて振り返ると、冷ややかな表情を浮かべた男が、少し離れた場所に立っていた。「どこから現れたの?」かおるは警戒心を抱きながらも、すぐにその男が徹であることに気づいた。徹は簡潔に言った。「車を見せて」説明を省き、彼はまっすぐ車へと向かい、エンジンのチェックを始めた。かおるは小さくうなずきつつ、好奇心を隠さず言葉を続けた。「まだ質問に答えてないよ。どこから現れたの?」「それは答えられない」「……」まあ、いいわ。随分とミステリアスね。チェックが終わると、徹は静かに立ち上がり、断言した。「エンストだ。しばらくは動かせないだろう」かおるは肩をすくめ、「じゃあ、あなたの車は?送ってくれる?」と尋ねた。「車は持っていない」「え?」かおるはさらに目を見開いた。「車がない?じゃあ、どうやって私を追って来たの?」「それも答えられない」「……」ほん
かおるはふわりと微笑み、「クビになったわ。あとは家に帰って、賠償金を待つだけよ」と、さらりと言い放った。企業が従業員を解雇する場合、賠償金が発生する。その事実を知っている者は、かおるの一言に言葉を失い、色を変えた。周囲の同僚たちはそれ以上何も言えなくなり、下手に関わって訴訟に巻き込まれることを恐れて、そそくさと距離を取った。だが、かおるは気にも留めず、淡々と荷物をまとめると、アシスタントを呼びつけて自分の持ち物をすべて運ばせた。その光景を、ちょうど昌弘が目にした。思わず眉をひそめた。まさか……この女、何かただ者ではないのか?不安が昌弘の胸をざわつかせた。もしかして、自分はとんでもない相手に手を出してしまったのではないか。財閥の令嬢か、あるいは社長夫人とか……そんな不安をよそに、かおるが社を出たタイミングで、二人の視線が交差した。かおるは軽く手を振り、「じゃあね」と言って、すっとエレベーターに乗り込んでいった。昌弘:「……」胸のざわめきは、ますます大きくなっていった。車に乗り込むなり、かおるはすぐに電話をかけた。「もしもし、佐藤佳苗(さとうかなえ)さんですか?かおると申します。ご主人のことで、お話ししたいことがあるのですが、お時間いただけますか?」短い通話を終えると、かおるはそのままカフェへと向かった。カフェの店内は落ち着いた雰囲気で、濃厚なコーヒーの香りが空間をやわらかく包んでいた。ハイヒールの音が近づいてきたのに気づき、かおるが顔を上げると、洗練された雰囲気の女性がゆっくりと歩いてくるのが見えた。「佳苗さん?」かおるは立ち上がることなく、静かに尋ねた。「はい」佐藤部長の妻・佳苗はうなずきながらも、かおるの顔を見るなり、その瞳に警戒の色を浮かべた。かおるはその様子に気づき、口元に笑みを浮かべた。「そんなに身構えないで。私は佐藤部長の愛人じゃないし、勝ち誇りに来たわけでもない。ただ、伝えたいことがあって……それだけよ」佳苗はそれでも構えを崩さず、「話って、何のこと?」と、なおも探るように言った。かおるはスマートフォンを取り出し、ある画像をスクリーンに表示して、テーブル越しに差し出した。「まずはこれをご覧になって。見ればすべてがわかるはずよ」そう言うと、かおるは手元のコーヒーをひ
昌弘は一瞬呆然としたのち、ふいに吹き出した。「おいおい、どうしたんだ、かおる。まさかお前、身分を隠した令嬢で、生活体験とやらをしに来てるんじゃないだろうな?それとも社長夫人か?冗談はよしてくれよ。お前がどんな人間か、俺が一番よく知ってるはずだろ?今まで何社を渡り歩いてきたんだよ?俺が採用したのはな、慈悲深いからだぞ。それなのに、ここで偉そうにして……!」皮肉をこれでもかと込め、嘲笑を交えながら、かおるをまるで取るに足らない存在とでも言うように侮蔑した。その横柄で無知な態度を前に、かおるはふと、あの結婚式がすべて夢だったのではないかと錯覚した。あのとき、大勢の記者がいた。それなのに、どうして自分の正体が明るみに出なかったのだろう?いや、たぶん、出ていなかったのだろう。もし暴露されていたなら、この愚かな社長が、こんなふうに口をきくはずがない。彼の軽蔑に満ちた態度とは対照的に、かおるは冷ややかな表情を崩さずに口を開いた。「あなたと佐藤部長が手を組んで、私を陥れようとした理由について、考えたことはありますか?あなたの言うように、私がただの平社員でしかないのなら、どうしてそこまで手間をかけて、私を標的にする必要があるのでしょう?」昌弘はその問いを聞くや否や、すぐに吐き捨てるように言った。「誰がお前を陥れようとしたって?お前が無能で、佐藤部長の期待に応えられなかっただけだろ。それを人のせいにするのか?お前、ほんとに笑わせてくれるよ!」一度は否定したものの、昌弘の胸中には、にわかに不安が広がっていた。今回の件は、紛れもなく自分と佐藤部長が結託し、かおるを嵌めるために仕組んだものだった。そして、その計画を最初に持ちかけてきたのは、佐藤部長の方だ。「かおるを潰して、淫らな写真を手に入れられれば、今後はうちの会社と長期的な取引関係を続けてやる」――そう佐藤は言った。昌弘の役目は、かおるを佐藤の前へ連れて行くだけ。なんて簡単な仕事だ、と即座に彼は飛びついた。まさか、かおるがまったく応じないとは、思ってもみなかった。それどころか今では、二人の共謀関係までもが彼女に見抜かれてしまっていた。絶対に認めてはならない。認めたら最後、この女に弱みを握られることになる。「構いませんよ」かおるは唇の端をわずかに緩めて微笑んだ
直美はすぐに直樹からのメッセージを受け取った。【計画は失敗しました】その瞬間、直美の顔色がさっと曇り、「本当に、使えない奴ね……!」と吐き捨てるように呟いた。そこへ果物の皿を持った流歌がやって来た。「お母さん、どうしたの?そんなに怒らないで。これ、私が切った果物だよ。食べて」流歌の姿を見ると、直美の表情は一変し、怒りの色がすっと引いて、やわらかく微笑むと、手渡された果物を一口かじった。「流歌ちゃんは、本当にお母さんの心の支えだわ」流歌はそっと直美の胸元に顔を寄せた。「お母さん、ごめんなさい。これまでのこと、全部私が悪かった。ずっと海外にいて、お母さんのそばにいてあげられなかった。その間に、つけこまれる隙を与えてしまったのかもしれない」直美は優しく彼女の髪を撫でながら、静かに言った。「ばかね、何を言ってるの。あなたの身体が一番大切なのよ。今は体調も落ち着いてきたんだし、これからはずっと私のそばにいられるじゃない」「でも……私が結婚したら、どうなるの?」「結婚したって、ちょくちょく帰ってくればいいのよ。それか、婿養子を迎えれば、私たちから離れる必要なんてないわ」流歌の小さな顔がふっと赤らみ、「お母さん、私は結婚なんてしたくない。ずっと、お母さんのそばにいたいの」直美はその言葉に目を細め、うれしそうに頷いた。だが、流歌の表情にふと陰りが差した。「でも……お義姉さん、私のことが嫌いみたい。きっと『早く嫁に行け』って、そう思ってるんじゃないかな……」直美はそれを聞くや否や、冷笑を漏らした。「は、あの女が何様のつもり?この家で彼女が決められることなんて何ひとつないわよ。流歌ちゃん、心配しなくていいわ。あの女を月宮家の女主人にするつもりなんて、さらさらないから」流歌はわずかに俯き、暗い表情を浮かべた。「でも……お兄ちゃん、あの人のこと好きみたいなの」「ふん、あの女なんて顔が少し整ってるだけよ。世の中には、あの女よりもずっときれいな人なんていくらでもいる。綾人が、いつまでもあの女に夢中でいるなんて、そんなわけないわ」流歌は不安げなまなざしを直美に向けた。「お母さん、お願い。私のためにお兄ちゃんと喧嘩しないで。そんなことになったら……私、悲しくなっちゃう」直美は慌てて彼女を抱きしめた。
「からかっただけだよ!」綾人は慌てて弁明した。かおるは必死にもがきながらも、なかなかその腕から逃れられず、荒い息を吐きつつ彼を睨みつけた。「こんなことして、何が面白いの?」綾人はぐっと力を込めて、かおるを胸元に引き寄せ、強く抱きしめながら答えた。「ごめん。ただ、あの女が何を企んでいるのか見極めたかっただけだ。誓って言うけど、彼女には何一つ触れさせてない」「じゃあ……机の下に潜って何してたの?」「ペンを拾ってたんだ」かおるが机の下に目をやると、確かにペンが落ちていた。どうやら、かおるが入ってきたのは絶妙なタイミングだったようで、典子が潜り込んだばかりでまだ何も起きていなかったらしい。怒りが完全には収まらぬまま、かおるは抵抗しながら声を荒げた。「離して」「嫌だ、離さない」綾人はさらに強く彼女を抱き締めた。「ちょっと落ち着いてくれ。そういえば、どうしてここに?」綾人は誰にも聞こえないように、低く、静かに囁いた。かおるは彼の問いに答えず、じっとドアの方を見据えた。「先に出てて」ドアの前にはまだ直樹と典子が立っていた。「はい」直樹は頷き、静かにドアを閉めて立ち去った。かおるはしばし思案し、ぽつりと尋ねた。「……先に帰る?」綾人はその言葉の裏にある不安を感じ取り、「そうだね」と静かに答えた。そして二人はすぐにオフィスを後にした。車に乗り込むと、かおるが口を開いた。「直樹が、社長室に直接来いって言ったの。エレベーターを出たとき、あなたがまだ会議中だって言われて、オフィスで待ってろって……」「ふん……」綾人は冷たく笑った。「身近に裏切り者がいたってわけか」すべては仕組まれていた。そう確信した。もし、かおるの到着がほんの少しでも遅れていたら、典子は何かを仕掛けていたかもしれないし、綾人が拒もうとしても間に合わなかったかもしれない。そうなれば、かおるはきっと誤解し、二人は争い、深い溝が生まれていただろう。それはやがて心に棘となり、決して癒えない傷となる。月宮家の計画は、かおる一人を標的にしたものではなく、綾人の側近にまで魔の手を伸ばしていた。「これからどうするつもり?」かおるは静かに問いかけると、綾人の瞳に冷ややかな光が宿った。「しばらく泳がせてみよう。次に何
【了解!】メッセージを送ると、かおるはあたりを見回した。しかし、それらしい人物の姿は見当たらなかった。もしかして、暗がりに身を潜めているのだろうか?ならば、やたらと周囲をうかがうのはやめておこう。そう判断したかおるは、車を静かに発進させ、綾人が現在滞在している芸能事務所へと向かった。綾人はここ数年でいくつかの芸能事務所を立ち上げており、今や彼の傘下には多くの人気芸能人が所属している。その中には、かつてかおるが憧れていたスターもいて、サインをもらえたこともあるのだ。やっぱり、芸能事務所の社長夫人になる以上の特権はないわね。スターを追いかける手段としては。駐車場に車を停めたかおるは、エレベーターへ向かって歩き出した。直樹はすでにかおるからの連絡を受けており、建物の入り口で待っていた。「奥様、こちらへどうぞ」直樹の口調はきわめて丁寧だった。かおるは笑みを浮かべながら尋ねた。「彼、まだ会議中なの?」直樹は頷いた。「はい」「じゃあ、どうしてあなたはそばでサポートしてないの?」「奥様がいらっしゃると社長に伝えたところ、私にお迎えするよう仰せつかりました」「なるほどね」かおるは軽く頷いた。エレベーターがゆっくりと上昇を始める。鏡のように磨かれた扉には、並んで立つ二人の姿がはっきりと映っていた。直樹は彼女の少し後ろに立ち、その横顔に視線を向けていた。ふと目を上げたかおるの視界に、それが映った。かおるはほんのわずかに唇の端を上げ、意味深な微笑みを浮かべた。直樹は慌てて目をそらし、それ以上見るのをやめた。やがてエレベーターは最上階に到着し、音もなく扉が開いた。広々としたオフィスエリアは一面真っ白に統一され、凛とした静けさと緊張感が漂っていた。思わず息を呑むような空気がそこにはあった。「奥様、まずは社長室でお待ちください。間もなく会議も終わるはずです」「わかったわ」かおるは静かに頷き、社長室へと足を進めた。ドアを開けたその瞬間、思いがけない声が響いた。「あっ!」女の声だった。甘く、そして短く途切れた声。同時に、かおるの目にもその室内の光景が飛び込んできた。若い女性が慌てて机の下から這い出してくる。大きく開いた襟元からは白く柔らかな肌が覗き、谷間がはっきりと見えていた。頬には不自然な紅潮