オフィスに自分の席に着いたとたん、同僚が近づいてきた。「ねえ、聞いた?うちが買収されるって話だよ。買収するのは失踪していた二宮家の三代目若旦那で、名前は二宮雅之っていうらしいよ」里香は固まった。「何だって?」「二宮雅之さんだよ。写真を見たわよ、超イケメンだったわ。一年くらい姿を消していて、最近になって二宮家に戻ってきたみたい。戻ってきてからは、すぐに支店の大規模な改革に取り掛かっているの。それで、うちの会社も買収されたわけよ。あら、こんなイケメンの上司が現れるなんて、まるで夢みたい」里香はスマホを取り出すと、トップニュースで一年間行方不明だった二宮家の三男、二宮雅之が帰ってきたと報じられていた。写真に写っている男性は黒いスーツを着こなし、短く切りそろえた髪型、ハンサムな顔立ち、鋭い目つき、そして冷たさと凛々しさを兼ね備えた気質が溢れ出ている。まさか、雅之が冬木市の大富豪、二宮家の御曹司だったなんて。里香は一瞬、言葉にできないほどの感情で胸が満たされた。皮肉しか思えなかった。夫が大きな部屋を買える御曹司なのだから、喜ぶべきだったのに、夫から離婚を切り出されたばかりの彼女には、喜ぶ余裕などなかった。他の女のために、責任を取るなんて。冗談じゃない!里香はスマホを強く握り締め、目には涙が溢れた。「会議だ。全員、大会議室で集合しろ」マネージャーが姿を現し、大きな声で指示した後、全員が手帳を持って大会議室へ向かった。500人を収容できる巨大な会議室は少し騒がしかったが、誰かが手を叩く音と共に、徐々に静けさが訪れた。「二宮社長のご登場です。皆さん、社長を大いに歓迎しましょう!」マネジャーが興奮気味に言葉を投げかけたその時、会議室のドアが開き、黒いスーツを身にまとった上品な男性が颯爽と入室した。後ろの席に座っていた里香は、まるで生まれ変わったかのように変貌したあの男を見て、まったく知らない誰かを眺めているような気がした。男は冷たい目つきで、温度を感じさせないほどの低い声で話した。入社したばかりなのに、早速頭がくらくらするほどの様々な命令を出した。三時間以上続いた会議が終わり、社員たちが次々と会議室から出ると、里香も立ち上がって会議室を出ようとした。男を無視することにした。「ちょっと待った」そ
雅之は自分のことを何だと思っているの?心臓が引き裂かれるように痛くなり、息も苦しくなった。里香の目に涙が浮かんでいるのを見て、雅之は目が暗くなったが、表情が一層冷たくなった。「僕には事情があるんだ。君を守るために、あえて言わないようにしただけ」「ふう」里香は冷たく笑い、涙を我慢しながら、口調も冷たくなった。「言っとくけど、私、離婚なんて絶対しないから、諦めろ」里香は振り返ってそのまま立ち去った。「クビになりたくはないだろう?」後ろから、男の冷たい声が伝わってきた。「家族もいなし、ようやくこの町で暮らせるようになった君にとっては、この仕事はかなり重要なはずだ」里香はムカッとして彼に視線を向けた。「何をするつもり?」「離婚届にサインしてくれたら、前回の約束をきちんと守るから」これは、れっきとした脅しだ。里香は怒りで手が震えていた。もし二人の距離が近かったら、彼の顔を殴りたかっただろう。「二宮雅之、恥を知れ!」どうしてあっという間にこうなったのか?それとも、雅之がもともとそんなに冷たい人で、これまではただの偽りだったのだろうか?雅之はさりげなくハンカチを取り出し、彼女のそばへ近寄り、優しく彼女の目尻の涙を拭き取った。里香はぱっと彼の手を叩き落し、悔しさが満ちていた目で雅之を睨んだ。「できるものならやってみろ!」離婚だと?そんなのありえない!里香は踵を返して立ち去り、オフィスを出る頃にはもう落ち着きを取り戻した。雅之は上げた手を凍りつかせ、ハンサムな顔を引き締めた。そして手を伸ばし、デスクのインターホンを押した。「人事部に繋がって…」言葉の途中で、里香が辛抱強く彼に手話と識字を教えてくれた光景が頭に浮かんだ。すると話が詰まった。「社長、何でございましょう?」秘書の用心深い声がインターホンから聞こえた。「何でもない」雅之は少しイライラした様子で電話を切った。…社長に呼び出されてどうしたのと同僚に聞かれたが、里香は笑顔でごまかした。席に戻ると、次に何をすべきかとじっくり考え始めた。もし雅之に離婚を迫られたら、二人の関係を公表し、雅之が自分の夫であることをみんなに知らせて大騒ぎするつもりだ。そうすれば、離婚は成立しないはずだ。里香は呆然としたまま、何を考
その女の子は、あの日、クラブの個室で雅之にいつ離婚するのかと聞いた子だった。あの子は親しく雅之の腕を組んでいた。雅之は潔癖のたちだった。拾われた当初の彼はほとんど記憶を失っていたが、本能的な記憶の一部は残っていた。周囲に慣れた後、雅之は里香の家を隅から隅まできれいに片付けるようになった。雅之は人からのものをほとんど受け取らず、屋台のものも食べず、時折普通の人間にはない気質も示した。しかし今、彼は親しい姿で少女に腕を組まれていた。つまり、離婚せずにその子との関係を続けたいと言いたいのか?里香は服を強く握り締め、心臓がきりきり痛み、涙がこぼれそうになった。どうしてそんなひどいことができるの?自分が選んだネックレスを他の女にあげるなんて!里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけたが、かけた瞬間に切られてしまった。ムッとした里香は、再び電話をかけ直した。里香は繋がるまでかけ続けた。「何の用だ?」雅之の口調はとても冷たかった。里香はスマホをしっかりと握りしめていた。電話はつながったものの、何から問いかけたらいいのかわからなかった。雅之の気持ちはすでに行動に表れていたし、質問する必要はなかったのだろう。「気分が悪い…」魔が差したようにかすれた声を発した後、電話を切った。里香はスマホを握りしめ、時計を見つめた。昔であれば、里香が体調を崩していると聞けば、すぐに駆けつけていたことだろう。言葉を話せないため、里香に伝える手話さえも乱れが生じてしまう。里香を心配する姿は、決して偽りのないものだった。時間はゆっくりと過ぎていた。一時間経っても、ニ時間経っても、玄関には人影が見えなかった。里香は胸が痛くなり、目を閉じた。もう本当に自分のことを気にかけてくれなくなったんだね。里香はソファで丸くなり、まるで傷を舐めている獣のように自分の体を強く抱きしめた。そうすれば心の痛みも和らぐかもしれないと思ったからだ。うとうととしていたら、誰かに抱き上げられたような感じがした。里香はぽかんとして、はっと目を開けた。雅之の端正な顔が視界に入ると、涙があふれてきた。「まさくん、お帰り」雅之は里香を抱きしめたまま寝室へ戻り、ベッドに寝かせた後、涙で濡れた里香の顔をじっと見つめていた。雅之はその涙を拭
パシッ里香は雅之の顔を平手打ちした。「潔く別れよって?浮気したクズ男に言われたくないよね」殴られたとは思わなかったのだろ、雅之の瞳孔が一瞬収縮した。大切に育てられてきた彼はこのような扱いを受けたことが一度もなかった。雅之は舌先を動きながら里香の手首をつかみ、そのまま彼女をベッドに押し付けた。「甘やかしすぎた僕が悪かった」雅之の目には温度が感じられず、重苦しい圧迫感が体を包み込み、里香を強く圧倒した。里香は凍りつくような恐怖を心から感じた。雅之は二宮家の御曹司であり、幼い頃から栄華を極めた生活を送ってきたのに。自分はその事実を忘れかけていたところだった。こんな扱いを受けたことがない彼は怒ったに違いない。しかし、雅之は自分の夫でもあった!浮気したのは彼だったのに。里香は恐怖を抑え、平然とした顔で、赤く染まった目で彼をにらんでいた。「まさくんには確かに甘やかされていた。でも、二宮家のお坊ちゃんであるあなたが私を甘やかすなんて、その話、変だと思わない?」雅之の目には冷たいものが隠されていた。「そんな姿、全くかわいくないけど」雅之は里香から手を離し、立ち上がった。見下したような視線を落とし、すぐ背を向けた。里香怒りで激しく胸を上下した。かわいくないって?笑わせるな!昨夜までこのベッドで愛し合っていたのに、今日は「かわいくない」と言われるなんて。あの子に会ったせいか?悔しさが心の中で溢れ、里香は立ち上がり駆け寄って雅之を抱きしめた。「行かないで、雅之!私たちはまだ離婚していないんだから、この家を出るなんて許さないわ!」「頭のおかしい女がいるこの家に?」雅之は冷たく鼻を鳴らした。二人が結婚して半年が経つので、里香はもちろん雅之を惹きつける方法を心得ていた。彼女の柔らかな指は、すぐに雅之の服の中に滑り込み、鍛えられた腹筋をなでた。雅之は息をのみ、里香の手首を握りしめた。「何してる」里香は雅之の目の前に歩み寄った。「かわいくないって言っただろう?雅之、立場をわきまえてから発言した方がいいよ」男の陰鬱な顔色を見て、里香は挑発的に微笑んだ。「その子のために貞操を守りたいとでも言いたいの?でも、私たちはまだ離婚していないわ。だから、あなたには妻の欲望を満たす義務があるのよ」里香はそう
里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。桜井はそれを止めたくても止められなかった。里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。「じゃ、これで」雅之はそう言って電話を切った。「勝手に入るな」雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。怒りが湧き上がってきた。このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!昨夜殴られた仕返しだ!だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。「出て行って、次にノックを忘れずに」それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。雅之は絶句した。こいつは何バカなことを言ったんだ。誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。…里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされまし
里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。里香はわかったと答えた。電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。「もしもし?」雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」「分かった」雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」里香は微笑んで何も言わなかった。ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。二宮雅之!何で彼はここにいたか?「なぜここに?」雅之は里香を見て眉をひそめた。里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」二宮雅之「…」このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。二人の
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?「痛い!」手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。雅之の瞳の色が少し暗くなった。「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」「それで?何するつもりなの?」里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。「雅之」その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の
雅之が話すより先に、二宮おばあさんが怒り出した。「離婚?いやいや、それは絶対にダメ!こんなに可愛い孫嫁を離婚なんてさせるわけにはいかないわ。おばあちゃんが許さないからな!」二宮おばあさんは雅之の手を握り、老いた顔には不満が満ちていました。「もしこの子と離婚するなら、おばあちゃんは泣くわよ、本気で泣くわよ…」そう言いながら、二宮おばあさんは本当に泣き出した。突然すぎる出来事に、誰一人として反応できなかった。雅之の目に驚きがちらつき、おばあさんが一層激しく泣き出すのを見て、このままでは体調を崩してしまうのではないかと心配になり、慌てて慰めの言葉をかけた。「おばあさん、その話はなかったことにしよう」泣き声は一瞬で止まった。「本当?」「本当だよ」「それでは、夜にこの子を家に連れてきて、家族に孫の嫁さんを紹介しないとね!」二宮雅之は絶句した。二宮おばあさんは甘えん坊みたいに、「約束してくれなきゃ、泣いちゃうわよ!」と脅してきた。紀子は思わず微笑んだ。「おばあさんはこの子のことをとても気に入っていらっしゃるわね。雅之、結婚ってとても大切なことだから、よく考えておくといいわよ」雅之は薄い唇を真っ直ぐに引き締めた。さっきからずっとそばで見守っていた里香は、思わず胸がきゅんと締まった。面識もないおばあさんにこんなに可愛がられているのに、雅之は自分との離婚を考えているのだ。あの女の子は一体何者なんだろう。記憶を取り戻したばかりの雅之が、そこまで魅了されるなんて。雅之とあの女の子との間には、一体どんな過去があったのだろうと気になってしまう。二宮おばあさんを落ち着かせると、雅之は里香に向かって言葉を発した。「行こう」里香はまつ毛をぱちくりとさせ、二宮おばあさんに別れを告げた。「おばあさん、ゆっくりお休みください。時間ができたら、またお見舞いに伺いますね」二宮おばあさんは里香を見つめて頷いた。「必ず来てね」「はい」里香の心はいつの間にか柔らかくなっていた。こんなおばあさん、本当に可愛い!病院を出た後、雅之は先に切り出した。「まだ用事があるだろ、ついてくんな」里香はぽかんとした表情を浮かべていた。雅之は自分を家に連れて行きたがらない。そんなに家族に会わせたくないのだろうか。「どうしても行かなくて
「えっ!?」かおるは彼女の話を聞いて、目を見開いた。聡が雅之の手下だったなんて……「ちょっと待って」手を上げて考え込みながらつぶやく。「東雲凛、東雲新、東雲徹、東雲聡……なるほど、全部繋がってたのね!」里香:「……」かおるはじっと里香を見つめ、「こんなに共通点があったのに、全然疑わなかったの?本当に?」里香は素直に首を横に振った。「うん」「はあ……」かおるは深いため息をついた。何て言ったらいいんだろう。雅之は答えを目の前に差し出していたのに、彼女は気づかなかった。聡を信じてたから?それとも、そもそも雅之のことを意識してなかったのかな?たぶん、両方なんだろう。かおるはそっと彼女を見つめ、「じゃあ今、雅之に怒ってるの?」里香は答えた。「怒っちゃダメなの?」かおるは顎に手を当てて考え込んだ。「もちろん怒っていいと思うよ。でもね、聡がそばにいたから、万が一のときすぐに見つけてもらえたんだし、前の一件も、結局は雅之が聡を通して助けてくれたんでしょ?ちゃんと考えてみたら、正しいとも間違ってるとも言いきれない気がするんだよね」里香は無言になった。かおるはそんな彼女の様子をうかがいながら、静かに言った。「里香ちゃん、一番つらいのは、彼が何も言わずにいなくなったことなんじゃない?何の説明もなく」里香は唇をぎゅっと噛んだ。「別に気にしてない」そう言って、立ち上がり、階段を上がっていった。「あっ!」かおるは慌てて後を追い、里香の顔を覗き込みながら言った。「ねえ、月宮に話してみよう?」「やめて!」里香はかおるを睨みつけ、「聞かないで。月宮にも言わないで。今は彼に会いたくないし、何も聞きたくないの」「わかった、わかった、話さないし聞かない。他のこと話そう!」かおるは彼女の感情が不安定な様子に気づいて、急いでそう言った。妊娠中の里香は気分の起伏が激しく、さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣き出すこともあった。だから、まわりの誰もが彼女の気持ちを気遣っていた。夜。秀樹、賢司、そして景司が帰ってきて、かおるの姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。かおるの明るく飾らない性格はみんなに好かれていて、家族も彼女のことを気に入っていた。賢司は彼女の薬指に光る指輪をちらりと見て、表情を
彼らの様子を見つめていると、自然と里香の胸があたたかくなる。これが「家族」というものなのかもしれない――そう思える、その感覚がとても心地よかった。でも、夜中にふと目を覚ますたび、どうしても雅之のことを思い出してしまう。前触れもなく姿を消し、嘘をつき、それきりずっと何の音沙汰もない……一体、どういうつもりなんだろう?こっそりいなくなっておきながら、今は消息すら分からない。あのとき交わした約束って、全部嘘だったの?年末も近づいたある日、かおるがスーツケースを引っ張って突然やって来た。ドアを開けるなり、ソファにドカッと腰を下ろし、腕を組んで不機嫌そうな顔をしている。使用人からの知らせを受けて里香が階下に降りていくと、そんなかおるの姿が目に入った。「どうしたの? 何かあった?」すると開口一番――「月宮と離婚する!」と、かおるが声を荒げた。「え?」里香は驚いて彼女を見つめた。「どうしてそんなことに?」かおるは使用人が運んできたジュースを受け取って一気に飲み干すと、怒りを込めた口調で言った。「あいつ、初恋の相手がいたなんて一度も言わなかったのよ!その子が帰国してきてるっていうのに、まだ黙ってたの。たまたま食事してるところを見かけなかったら、完全に騙されてたわ!」「えっ?」里香はしばらく考えてから、「でも、それって本当に初恋の相手だったの?」と慎重に尋ねた。かおるは力強くうなずいた。「間違いないわ!」「じゃあ、その子とどういう経緯で食事することになったのか聞いた?ただの友達同士の集まりとか、そういうのじゃなくて?」「そういうパターン、もう知ってるって!」かおるはむっとして言った。「初恋の子がいきなり帰国して、元カレを取り返そうとするって話。私と月宮の周囲にちょくちょく顔を出して、あきらかに月宮のことまだ好きなんだと思う。月宮はただの友達だって思ってるかもしれないけど、男ってさ、そういうのに簡単に引っかかるんだから。それで、向こうはあの手この手で仕掛けてきて、私は我慢するしかなくて、結局月宮はその子をかばってばかり……まるでラブコメのドロドロ展開みたいになるのよ。で、最後にはバッドエンド!」かおるは両手を広げて、すべてお見通し、と言わんばかりの表情を浮かべた。それを見て、里香は思わず苦笑して
里香はそのまま退職のメールを聡に送った。すると、すぐに聡から直接電話がかかってきた。「里香、親のこと見つけたんでしょ?これからは錦山に残るつもりなの?」聡の口調は相変わらず軽く、まるで友達同士のようだった。里香は淡々と答えた。「うん、もう離れるつもりはない」家族がここにいる限り、離れるわけにはいかない。聡は少し残念そうに言った。「はぁ……あなたって本当に優秀だし、私もあなたのこと好きだった。ずっと私のところに残ってくれてたらよかったのに」里香は冷静に尋ねた。「それ、本心?それとも雅之からの任務?」「な、何……?」聡は一瞬言葉を失ったが、すぐに気づいたようで、慎重な口調になった。「もう知ってたの?」里香は声もなく、少し笑みを浮かべた。「それで、いつまで私に黙ってるつもりだったの?」聡は少し気まずそうに、「ごめん、本当に全部、あの人の指示だった。でもね、出発点は悪くないの。あの人、あなたを守りたかったんだ……」と言った。里香の声は冷たかった。「目的は監視であって、保護じゃない。そのことはもう全部分かってる。騒ぐつもりはないけど、お願いだから友達のふりして話しかけないで。まるでピエロみたいな気分になるから」聡はしばらく黙っていたが、やがて「分かった、もう連絡しない」と言った。電話を切った後、里香の心は非常に複雑だった。信頼していた友達が、実は自分を監視していたなんて。こんなこと、どうやって受け入れればいいのか。里香はバルコニーに座り、外の景色を見ながら、言い表せない寂しさを感じていた。大晦日まであと一週間。かおるの帰還により、瀬名家の家の中は華やかに飾られ、今年の正月はとても盛大に行う予定だった。さらに、いくつかの分家の親戚も呼んで、みんなで集まることになっていた。里香はすでに妊娠して二ヶ月近い。お腹はまだ平らだが、体調はあまりよくなかった。顔色は青白く、吐き気も強く、よく眠り、精神的にも元気がなかった。その様子はすぐに瀬名家の人たちに気づかれてしまった。秀樹は心配そうに彼女を見つめ、「里香ちゃん、体調悪いのか?」と尋ねた。彼女はクッションを抱えて一人用のソファに縮こまるように座っていた。虚ろな目でその言葉に返事をした。少ししてからようやく、「ああ……悪いんじゃなくて、妊娠して
「わかんない……」里香は戸惑いを隠せなかった。どうして祐介がそんなことをしたのか、自分にもさっぱりわからなかった。かおるが彼女を見つめて問いかける。「もう知っちゃった以上、これからどうするつもり?」里香はそっと目を閉じた。「私に何ができるの?祐介兄ちゃんには、今まで何度も助けられてきたのに。こんなことされて、気持ちまで知らされちゃって……でも、どうにもできないよ」かおるは静かに手を伸ばし、彼女の肩に触れる。ため息をついて、優しく語りかけた。「じゃあ、何もしないでいようよ。まるで最初から祐介のことなんて知らなかったみたいにさ」里香は何も言わなかった。ただ、その顔には深い苦しさがにじみ出ていて、顔色もひどく青ざめていた。そんな彼女の姿に、かおるの胸もぎゅっと締めつけられる。でも、何と言えばいいのか、わからなかった。「ていうかさ、本当に里香のことが好きだったんなら、ちゃんと告白して、正々堂々勝負すればよかったんだよ。それなのに、なんで蘭と結婚なんかしたの? 意味がわかんない」かおるは困ったような顔で首をかしげた。そのとき、里香の脳裏にふと月宮の言葉がよみがえった。祐介は喜多野家を完全に掌握するために、蘭と結婚した。「もういいよ、考えたって無駄だし。あなたの言う通り、最初から知らなかったことにしよう」かおるは黙ってうなずいた。冬木。雅之は長時間に及ぶ手術を終え、ようやく手術室から出てきた。だが、弾丸は心臓のすぐそばまで達しており、手術が無事に済んでも予断を許さない状況だった。しばらくはICUでの経過観察が必要だという。桜井が深刻な面持ちで月宮を見つめながら言った。「月宮さん、奥様にご連絡を?」月宮は病室の扉をじっと見据えたまま、硬い表情で答えた。「知らせてくれ。雅之が怪我をしたことは、彼女にも知ってもらわないといけない」桜井はうなずいてスマホを取り出し、里香へ電話をかけた。ちょうどその頃、里香のもとに一通のメッセージが届いていた。それは匿名のメールで、雅之の配下の名前と勢力範囲がずらりと記されていた。里香は戸惑った。誰が、何の目的でこんな情報を自分に送ってきたのか、見当もつかなかった。けれど、すぐに見覚えのある名前を見つけた。東雲聡。その下には、東雲凛、東雲新、東
「違うよ!里香ちゃん、それは君の考えすぎだって。俺は君を責めたりなんかしてないよ。それに、君は知らないかもしれないけど、前に何度か会ったとき、なんだか妙な気持ちになったんだ。理由もなく、無性に君に近づきたくなるような……そのときは不思議だなって思ってたけど、今になってよく考えてみると、それってきっと、血の繋がりからくる家族の絆だったんだと思う。ただ、当時はそこまで考えが至らなかっただけなんだよ」景司は真剣な口調でそう言いながら、まっすぐに里香を見つめた。その瞳はとても誠実で、嘘のないものだった。「君が妹だって分かったとき、本当に嬉しかったんだ。だから、そんなこと言わないでよ。これ以上は……聞いたら本当に悲しくなる」里香は彼を見て、ふっと微笑んだ。「だから、ちゃんと話しておきたかったの。そうすれば、無駄な誤解もなくなるでしょ?」「うん、君の言うとおりだね」景司は満足そうにうなずいてから、小さな綺麗な箱に目をやりながら言った。「さあ、開けてみて」「うん」里香は頷いて、箱を開けた。中には翡翠のブレスレットが入っていた。透き通るような美しい翡翠で、思わず目を奪われるほどだった。彼女の目が輝く。「このブレスレット……すっごく素敵。すごく気に入った!」景司は嬉しそうに微笑んだ。「気に入ってもらえてよかったよ」すると、少し表情を引き締めて、静かに言った。「実は……ずっと君に話してなかったことがあるんだ」景司は少し複雑な顔をして、じっと里香を見つめた。「ん?」ブレスレットを手の中で転がしながら、里香は不思議そうに彼の顔を見つめて聞いた。「なに?」「前に君が誘拐されたこと、あったよね。あの件……誰がやったか、知ってる?」景司の視線は真剣そのものだった。里香はゆっくり首を横に振った。「知らない」景司は小さくため息をつきながら、言った。「祐介だったんだ」「えっ? そんな、まさか!?」その言葉を聞いた瞬間、里香の顔色が一変した。反射的に否定の言葉が口をついて出た。まさか祐介が……?どうして、そんなことを……?でも、ふと思い出す。あの時、監禁されてから目が見えなかった。だから相手の顔はわからなかった。でも、もし知ってる相手だったなら、その時の違和感も説明がつく。今、景司
何日も雅之から連絡がなく、里香の不安は日を追うごとに膨らんでいった。「コンコン」部屋のドアがノックされる。スマホから目を離した里香は、そちらに顔を向けた。「どうぞ」ドアが開き、景司が入ってきた。彼の顔には柔らかな笑みが浮かび、手には精巧な小箱が握られていた。「里香、これ、出張で京坂市に行ったときに見つけたんだけどね。君にすごく似合うと思ったんだ。よかったら試してみて、気に入るかどうか教えてくれない?」小箱をそっとテーブルに置きながら、景司はどこか緊張した面持ちで彼女を見つめている。里香が瀬名家に戻って、ちょうど一か月。家族は彼女への愛情を取り戻そうと懸命で、与えられるものは惜しみなく与えてきた。里香が少しでも笑顔を見せれば、瀬名家の男たちはそれだけで胸が満たされる思いだった。中でも景司は、かつての出来事への罪悪感が強く、最初の頃は顔を合わせることすらできなかったほど。その様子に気づいた賢司が理由を尋ねたが、とても打ち明けられるようなことではなかった。もし、かつて何度も里香に離婚を勧めていたことを正直に話そうものなら、賢司や秀樹からどんな叱責を受けるかわからない。いや、それだけでは済まされないだろう。だから彼にできることといえば、せめて今は精一杯、里香に優しく接することだけだった。緊張と期待が混じった景司の表情を見て、里香はふっと笑みを浮かべた。「景司兄さん、そこまでしなくてもいいのに。前のことなんて、私は全然気にしてないよ」その穏やかな笑顔を見つめながら、景司の脳裏にかつての、わがままで自己中心的だったゆかりの姿がよぎる。全然違う。何もかもが違う。今の里香からは、落ち着きと品の良さが自然と感じられて、それがとても心地よかった。彼女が「景司兄さん」と優しく呼ぶだけで、胸の奥がふわっと温かくなる。景司は静かに口を開いた。「わかってる。でも、ゆかりを甘やかしてたのは事実だし、あの子がしたことにも気づけなかった。もっと早く気づいていれば……」「景司兄さん」真剣な眼差しで彼を見つめながら、里香が言った。「あなたとゆかりはすごく仲が良かったよね。私が戻ってきて、彼女は刑務所に入った。心の中では、やっぱり辛いんじゃない?」思わぬ言葉に景司は目を見開き、少し慌てた様子で返す。「いや、そん
月宮家の人々がこの知らせを聞いたとき、皆が怒り狂いそうになった。だが、月宮家には綾人という一人息子しかおらず、本当に彼を見捨てるわけにもいかないため、仕方なくかおるを受け入れることになった。そして今、月宮家では婚礼の準備が進められている。月宮はすべてを管理し、少しでも気に入らないところがあればすぐに修正させていた。かおるへの想いは日増しに強くなり、夢中になっているようだった。そのかおるの顔に浮かぶ甘い笑顔を無視して、里香は聞いた。「雅之を見かけた?」かおるは首を振った。「いないよ、会場にはいなかったの?でもさ、最近、雅之の存在感めっちゃ薄くない?里香のお父さんもお兄さんたちも毎日ずっとあんたの周りにいるし、雅之は入る隙ないんじゃない?」毎回、疎外されるような雅之の姿を思い出し、かおるはつい笑った。里香も笑いながら言った。「たぶん今は自分のことで忙しいんだろうね。落ち着いたらきっと会いに来てくれるよ」冬木。二宮系列の病院の病室内。正光が緊急処置を受けていた。雅之が駆けつけ、状況を尋ねた。付き添いの看護師が答えた。「先ほど若い男性が訪ねてきて、先生がその人と会ってから情緒が激しく不安定になったんです」雅之は眉をひそめた。「若い男性?顔は見たのか?」看護師は頷いた。「監視カメラに映っているはずです。いま映像を確認します」雅之は処置中の正光の様子を見つめた。全身がけいれんし、骨と皮だけのようにやせ細っており、どう見ても長くは持ちそうになかった。すぐに監視映像が再生された。画面に映った人物を見て、雅之の表情が次第に冷たくなっていった。まさか、彼だったとは。二宮みなみ!本当に死んでいなかったのか!雅之はすぐさま人を使って彼の行方を探させた。が、それはさほど時間もかからずに見つかった。みなみはちょうど療養所から出たばかりで、二宮おばあさんのところに顔を出していた。夜の帳が降りた頃、雅之は外に現れた高身長の人影を見つめた。十数年ぶりの対面、お互いにまるで別人のようになっていた。雅之は手にもっていたタバコをもみ消し、そのまま歩み寄った。二人の男が向き合い、じっと見つめ合う。みなみは不意にくすっと笑い、言った。「兄さんを見たら挨拶くらいしろよ、まさくん」雅之は冷たい目で彼を見た。
そう言って手を振ると、沙知子はそのまま中へと押し込まれた。リビングにいた人たちの視線が、一斉に彼女の方へ向いた。沙知子の顔色はみるみるうちに青くなり、次第に真っ白に。何とも形容しがたい、みっともない表情を浮かべていた。秀樹は鋭い視線で彼女を睨みつけ、「どこへ行くつもりだったんだ?」と問いかける。沙知子の隣にはスーツケースがひとつ、ぽつんと置かれていた。彼女は答えず、顔色はさらに悪くなっていく。そんな緊張感の中、桜井が口を開いた。「瀬名様、こちらで調べた結果、当時のホームで起きたゆかりによるなりすまし事件の全容が明らかになりました。こちらをご覧ください」そう言って一枚の資料を差し出し、秀樹の前に置いた。中身に目を通した秀樹は、沙知子が当時、安江のホームを最初に見つけた人物だったことを初めて知った。彼女はずっと前から、里香――つまり本当の娘が誰なのかを知っていた。それにもかかわらず、幸子と手を組んで、ゆかりを娘としてすり替えたのだ。「バン!」資料を読み終えた秀樹は、怒りに満ちた表情で沙知子を睨みつけた。「前から知ってたんだな?なぜそんなことをした?」沙知子は視線を彼に向け、ポツリと言った。「私は長年あなたのそばにいて、自分の子どもを授かることもできなかった。それなのに、あなたはいつも娘のことばかり。私の気持ちなんて、どうでもよかったんでしょ?」そう言って、沙知子はどこか虚しげに笑った。「亡くなった奥さんのことを忘れられないっていうなら、なんで私と結婚したの?最初から私なんか巻き込むべきじゃなかったのよ!」秀樹の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。沙知子が長年、瀬名家で抱えてきた想いを思うと、多少は気の毒にも感じた。けれど、彼女がしたことは、決して許されることではない。静かに、しかしはっきりとした口調で彼は言った。「離婚しよう。まとまった金は渡す。どこへでも行けばいい。過去のことも追及しない」沙知子は冷たく笑い、「その方がいいわね」と吐き捨てるように言った。その後、瀬名家は正式に里香の身元を公表し、錦山の上流階級を招いて盛大な宴を開いた。里香は特注のドレスに身を包み、秀樹と腕を組んで優雅に登場した。その美しさに、場にいた誰もが息をのんだ。ふと里香が秀樹を振り返り、その顔に刻
里香は彼の様子を見て少し戸惑いながらも、「それでは、親子鑑定をなさいますか?」と控えめに提案した。「いや、そんな必要はない。君こそが、私の娘だ。見てごらん……お母さんにそっくりじゃないか!」秀樹はすぐさま首を振ると、足早に一枚の写真の前へと歩み寄り、その中の女性を指さした。里香も近づき、じっと写真を見つめる。見覚えのない顔だったが、確かに自分とよく似ているとわかる。特に目元の優しく穏やかな雰囲気が、自分とそっくりだった。里香は軽く唇を噛み、秀樹の方に向き直ると、静かに口を開いた。「やはり一度、きちんと確認しておきましょう。あとで揉め事にならないようにするためにも」するとそのタイミングで、賢司が口を挟んだ。「父さん、やっておいたほうがいいよ。これで今後、誰にも何も言われなくなるんだから」景司は何も言わず、ただ複雑な表情のまま、じっと里香を見ていた。里香とまっすぐ向き合う勇気がなかったのだ。あれほど、何度も雅之との離婚を勧めたのは、自分だった。しかも、その理由は、ゆかりを守るためだった。どれほど愚かだったのか……今になって痛いほど思い知らされる。そんな景司をよそに、里香が賢司の方を見やると、賢司はにこりと笑って言った。「初めまして。賢司だ。俺のことは『お兄さん』って呼んでくれればいいよ」里香は少し戸惑いながらも、小さく唇を動かして「お兄さん」と呼んだ。その瞬間、いつもは厳しい表情の賢司の顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだ。「うん」不思議な感覚だった。ゆかりから十年以上「兄さん」と呼ばれてきたのに、心が動くことは一度もなかった。むしろ、どこかで疎ましく感じていた。けれど、今。里香に「兄さん」と呼ばれた瞬間、煩わしさなんて一切なく、むしろ心地よささえ感じた。これが、血のつながりってやつなんだろう。とはいえ、手続きはやはり必要だった。すでに瀬名家のみんなが里香を家族として受け入れていたとしても。鑑定結果が出るまでには3日かかるということで、里香はその間、瀬名家に滞在することになった。秀樹は里香をひときわ大事にし、細やかな気配りで接してきた。彼女の好みを一つひとつ聞き出して、特別に部屋まで用意したほどだ。賢司も、里香の好きそうな物をたくさん買い揃えて帰ってきた。景司は最後