逆立つかおるを見つめながら、雅之の表情はさらに暗くなった。「出て行け」薄い唇が少しだけ動き、たった一言を吐き出す。全身から冷たい殺気が漂っていた。かおるは身体を震わせ、内心ではすっかり気おされていた。一般人に過ぎない自分は雅之に太刀打ちできるわけがない。雅之が本気で自分の首を絞めようと思えば、蟻をつぶすのと同じくらい簡単にできるだろう。でも、ここで引き下がるわけにはいかない!自分には里香を守る責任があるからだ!かおるは深く息を吸い込み、こう言った。「これまで里香ちゃんにしたひどいことは置いといて、この離婚の件についてだって、なんで彼女をだますの?あんた、本当に里香ちゃんを愛してるの?」雅之の表情はさらに暗くなり、その瞳には冷たい憤怒が宿る。冷たい視線を彼女に向けて言い放つ。「それはお前と何の関係がある?」「あるに決まってるでしょ!」かおるは彼をにらみつけた。「あんたのせいで、里香ちゃんは不幸になり、以前のような明るい性格じゃなくなった。里香ちゃんを一体どんなふうに変えたつもりなの?最初に里香ちゃんと出会ったときの彼女の姿を覚えてる?明るく元気で、笑顔いっぱいの里香ちゃんを台無しにしたのはあんただ!」「かおる……」里香が彼女の袖を引っ張り、雅之と正面切って対立しないようにと合図を送った。雅之にはこういう話は通じない。そもそも、彼は愛って何かなんて分かってないんだから。かおるは振り向いて彼女を一瞥し、ほんのりと笑った。「こんなこと、ずっと言ってやりたかったの。今日言えて、少しは胸がスッとしたわ」里香の心はじんわりと温かくなった。家族のいない自分にとって、かおるは家族以上の存在だった。どんな時でも、かおるは必ず自分の味方でいてくれる。雅之は冷ややかな目でかおるをじっと見つめ、部屋中の空気がひんやりした。かおるは言った。「里香ちゃんを解放してあげて。正直、彼女に何かあったらって思うと怖いの。あんたが後悔するかどうかなんて、私には関係ない。ただ、里香ちゃんが無事でいてほしいだけ」「もう満足した?」雅之の低く抑えた声には、何の感情の色もなかった。かおるは眉間にしわを寄せた。「あんた……」雅之は冷淡に彼女を見つめ、「もう言い終わったなら、出てけるか?」と口を開いた。「この……!」かおるは彼に驚きの目を向け
里香の身体はすぐに緊張し、警戒の眼差しで雅之を見つめた。雅之はじっと彼女を見つめながら、静かに言った。「里香、本当に気にしなくなったのか?」里香は可笑しく感じた。「雅之、あなたは一体何をしてるの?」雅之が彼女の手を握り、自分の胸の上に置いた。その端正な顔には少し混乱の色が滲んでいた。「お前の言葉を聞いて、なんでこんなに辛いんだろう?特にここが……」里香の指が少し縮み、自分の手を力強く引き抜いた。「そんなこと言っても意味ないよ。もうどうでもいいの……」「違う」雅之は彼女の言葉を遮った。「どうでもいいなんかじゃない。お前は僕を愛してくれてた。お前は……」「昔の話でしょう」里香は冷静に彼を見つめ、その目には微塵の感情もなかった。かつて、その顔を見るだけで胸がドキドキしたり、触れたり口づけしたいと思った。けれど、いつからか、彼を見つめても冷たさしか感じなくなった。もうあの心を掴むときめきは消え去った。愛は消え失せ、気にすることもなくなり、どうでもよくなった。雅之も気づいたんだろう。里香は本当に自分を愛していないのだ、と。愛というものは、取り戻すことができるものなのかな?雅之は軽く唇を結び、色気溢れた喉仏が上下に動いた。その瞳には暗く狂おしい感情が渦巻いていたが、それもすぐに消え去った。「僕が悪かったのか?けど、里香、僕は本当に君と離婚したくないんだ」その声はとても穏やかだった。普段の冷たくて傲慢な態度はなく、まるで友人のように心の中の本音を語っていた。これまで言わなかったこと。だが、雅之は突然気づいた。今言わなくては、二度と伝える機会が来ないかもしれないと。里香の長いまつ毛が微かに震え、少しの間沈黙した後にようやく口を開いた。「離婚しましょう。私たち、もう……」「僕は許さない」雅之の声は少し冷たくなり、かつての冷酷さや傲慢さが戻って来たかのようだった。「離婚なんて、許さない。僕が同意しない限り、たとえ僕が死んでも、僕たちは離婚しない」その目には偏執した狂気が浮かんでいた。雅之は里香をじっと見つめて言った。「分かってるよ。お前が祐介に頼んだこと。彼を巻き込んだ以上、何が起きても知らないぞ」里香は眉をひそめた。「それはどういう意味?」雅之は彼女の手を握り、その抗う感触を感じる
瀬名の顔に浮かんでいた笑みが、ふっと薄れた。雅之を見つめるその目には、明らかな苛立ちが滲んでいる。「二宮さん、あまりにも気まぐれすぎませんか?そんな無責任な態度で本当にいいんですか?離婚の噂が立ったとき、どうして離婚しなかったんです?今度は二宮家と江口家の縁談の話が広まって、うちの瀬名家まで巻き込まれてるんですよ。一体、何を考えてるんですか?」「はっ!」雅之は冷笑を浮かべた。「僕が離婚したって言ったら、あんたら信じるのか?じゃあ、神様だって名乗ったら、それも信じるというのか?」瀬名の顔色がさらに険しくなった。里香が首をかしげ、不思議そうに口を挟んだ。「瀬名家まで巻き込まれてるって、どういうこと?」雅之は肩をすくめながら、淡々と答える。「僕が独身だからって、みんな僕と結婚したがるらしいんだよ。江口家も、瀬名家も。まるで世の中の男が絶滅したみたいにさ。笑えるだろ?」里香:「……」翠のことは聞いていたけど、瀬名家まで?まさか、瀬名家のお嬢様までそんな話が?「言葉に気をつけなさい!」瀬名が低い声で制した。「今のあんたは内憂外患状態でしょう?これ以上敵を作ってどうするつもりですか?」雅之は冷ややかな目で瀬名を一瞥し、さらりと言い放った。「あんた相手くらいなら、余裕だろ」「よく言うよ!」瀬名は冷笑を浮かべた。「どうなるか見ものですね。やれるもんならやってみなさいよ!」いつの間にか、病室内に張り詰めた緊張感が漂い始めていた。里香はその場の空気に息苦しさを感じ、戦場にでもいるような気分になった。しばらくして、堪えきれなくなった里香が口を開いた。「あの……喧嘩するなら、外でやってくれない?私は休みたいんだけど」雅之はすぐに反応し、冷笑しながら瀬名を睨んだ。「聞いたか?彼女は休みたいんだとさ。この事故の責任者が、どの面下げてここで文句言ってるんだ?」「お前……!」瀬名は雅之の辛辣な言葉に思わず顔をしかめた。そんな様子を見た里香が、ため息をつきながら雅之に注意した。「雅之、少しは礼儀を考えられないの?事故の原因を全部瀬名さんに押しつけるのはおかしいでしょ?」雅之は淡々と反論する。「お前には何の関係もないだろ」瀬名は二人の微妙なやりとりを感じ取りながらも、里香に向き直って言った。「小松さん、もし何か困ったことがあったら
病室内、里香は雅之に何も言わず、そのままベッドに横になり、目を閉じた。雅之はしばらく彼女をじっと見つめ、ようやく口を開いた。「離婚しようって言い出したのはお前だろ。でもな、もし僕に何かあったら、その責任は全部お前だからな」里香は彼を睨みながら、ため息交じりに答えた。「道理って分かってる?今離婚すれば、静かに手続きできるのよ。どんな失敗をするっていうの?」雅之は無表情で言い放った。「嫌なもんは嫌なんだよ」里香は呆れ果て、心の中で叫んだ。またこれか!離婚を言い出したのが私だから、何かあったら全部私のせい?相変わらず無茶苦茶な論理!その後の数日間、星野は毎日のように病室に来て、スナックやフルーツを差し入れてくれた。1週間が経った頃、里香はニュースで、DKグループが資金不足に陥り、社員が大量退職しているという報道を目にした。破産寸前の状況だ。二宮グループがDKグループに加えた圧力は尋常ではなく、破産するまで追い詰めるつもりなのだろう。親子の関係って、普通こういうもんじゃないよね?「小松さん」星野の声と共に、手作りのヨーグルトとフルーツのデザートを持った彼が病室に入ってきた。「これ、食べてみてください。けっこう自信作なんですよ」里香は苦笑いを浮かべながら言った。「こんなに食べ続けてたら、退院する頃には本当に太っちゃうかもね」星野はにこやかに返した。「太った方がいいんじゃないですか?」里香は全力で拒否した。「嫌よ、絶対太りたくない!」星野は目を細めて笑いながら、軽く肩をすくめた。「まあまあ、フルーツだし、そんなに太りませんって」結局、里香は断りきれず、それを受け取った。星野は、里香がニュースを見ているのに気づき、尋ねた。「DKグループのこと、気にしてるんですか?」「いや、たまたまテレビつけたら流れてただけよ」「最近、この件けっこう話題ですよね。二宮さん、ここ数日来てないんじゃないですか?」「うん」里香は頷いた。「来ない方が清々するわ」そのおかげで、ここ数日は穏やかに過ごせて、久しぶりにリラックスできていた。星野は里香をじっと見つめた後、静かに言った。「彼がこんな状況でも、本当に心配になったりしないんですか?」里香は少しだけ視線をそらしてから、淡々と答えた。「心配なんて、しない
「里香、ずいぶん回復したみたいね。顔色も前よりだいぶ良くなったじゃない」由紀子が病室に入ってきた。いつもより柔らかい笑みを浮かべながら、肩にかけた高級ブランドのスーツが一層その豪華さを際立たせている。突然の訪問に、里香は少し驚いた顔を見せたが、すぐに表情を整えて口を開いた。「何のご用でしょうか?」由紀子は椅子を引き寄せると、ベッドの端に腰掛けた。その仕草には妙な親しみや余裕が漂っていた。「雅之の件、もう耳に入ってるわよね?」里香は感情を表に出さず、軽く頷いた。「ええ、聞いてます」由紀子はため息をつきながら、どこか芝居がかった口調で続けた。「正直、父親と息子がここまで対立するなんて、思いもしなかったわ。でも、これも全部雅之が離婚に応じないから。あの人が素直に言うことを聞いてくれていれば、こんな事態にはならなかったのにね」里香は冷めた表情のまま、淡々と返した。「それで、私に何をおっしゃりたいんですか?」もう分かっているはずよね、自分と雅之の関係がどういうものか。離婚に執着しているのは自分じゃない。むしろ最後まで未練がましいのは雅之の方だ。もしもこの話がそれに関係するなら、完全に筋違いだわ。自分に決定権なんて何もないのだから。由紀子はそんな里香をじっと見つめ、さらに優しい笑みを浮かべた。「分かってるわよ。あなたがもうとっくに雅之に愛情なんて持ってないことも、早く離婚したいと思ってることも。でもね、ちょうどいい方法を考えてきたの。あなたがこの状況を抜け出せる方法をね」里香は疑いの色を隠さずに由紀子を見た。「どんな方法ですか?」由紀子は傍らにいたかおるをちらりと見ると、一瞬言葉を飲み込むような素振りを見せた。それを察したかおるが立ち上がった。「あ、ちょっとフルーツ買ってくるね」「うん、お願い」かおるが病室を出て行くのを確認すると、由紀子はようやく本題に入った。「冷徹になれるなら、雅之が二度とあなたに執着しなくなる方法があるの。少し過激だけど、成功する確率は五分五分ってところかしら」里香は微動だにせず、静かに言った。「聞かせてください」由紀子はしばらく里香をじっと見つめると、ふと問いかけた。「ねえ、里香。あなたの生活って本来もっと平穏だったわよね?でも雅之と出会ったせいで、こんな
「どうやって復讐するの?」里香は由紀子をじっと見つめた。その表情には、どこか呆気にとられたような気配が漂っていた。由紀子は薄く微笑むと、バッグの中から親指ほどの大きさのビニール袋を取り出し、その中に入った一粒の錠剤を里香に差し出した。「これを彼に飲ませるだけでいいの。そしたら、彼は終わりを迎える。今君が受けている苦しみも全部終わるし、君は自由になれる」里香の視線は袋に釘付けになったままだった。しばらく沈黙していたが、やがて手を伸ばしてそれを受け取ると、じっと見つめながら尋ねた。「雅之がこれを飲んだら、どうなるの?」由紀子はまた微笑みながら答えた。「ただ昏睡するだけ。命に別状はないから心配しないで。君が罪を問われることも絶対にないから」里香は何も言わず、その錠剤をぎゅっと握りしめた。由紀子はそんな彼女をじっと見つめ、小さくため息をつくと、慈しむような目を向けながら言った。「本当に君はいい子なのにね。もし雅之が君をこんなふうに縛りつけていなかったら、きっともっと幸せだったのに」里香は目を閉じた。それを見た由紀子は立ち上がり、「ゆっくり休んでね。私はこれで失礼するわ」と言い残して部屋を出て行った。病室のドアが閉まる音が響いた。里香は目を開け、手の中の錠剤をじっと見つめた。そして、ふっと口元に冷たい笑みが浮かんだ。思ったのだ。やっとわかった、と。裏でずっと糸を引いていたのが誰なのか。里香はスマホを取り出して雅之に電話をかけた。「もしもし?」すぐに繋がり、低く穏やかな男性の声が聞こえてきた。「離婚、する?」里香は淡々と問いかけた。電話の向こうで少し間が空き、雅之の声が低く響いた。「里香、僕は何度も言ったよな。離婚はしないって」里香は手の中の錠剤をじっと見つめながら、そっとつぶやいた。「たとえ、いつか私があなたを殺すことになったとしても?それでも、離婚しないの?」雅之はすぐに応じた。その声はどこか諦めのような響きを帯びていた。「ああ、そうだ。僕の命はお前のものだ。殺したければ、好きにすればいい」里香のまつげがかすかに震えた。突然電話を切り、立ち上がった。洗面所に向かい、手に持っていた錠剤を便器に投げ入れる。そして、水がそれを流していくのを無表情で見つめたあと、再び病室に戻った
「いいよ」里香が頷いて、スマホを取り出し、瀬名と友達登録をした。介護士が大体荷物を片付け終わった頃に、かおるが退院手続きを済ませて戻ってきた。「瀬名さんも来てたんですね」かおるが彼を見て少し微笑みながら言った。「一緒にどこか散歩でもどうですか?」瀬名は里香に視線を向けた。「いいかな?」里香は笑いながら言った。「もちろん、うちはいつでも歓迎するよ」瀬名の顔にさらに深い笑みが浮かんだ。「じゃあ、遠慮なくお邪魔するね」一行は病院を出た。カエデビルに到着すると、瀬名は我慢できずに感嘆した。「ここは環境がいいよね。確かに病院よりずっといい」里香は軽く頷いた。「そうなの」家に戻り、介護士が環境に慣れる間に、かおるは里香を手伝ってソファに座らせた。瀬名がしばらくバルコニーで外を眺めてから、振り向いて言った。「介護士一人じゃ足りないかもしれないね。俺が家政婦を雇うよ。そうすれば安心して療養できる」里香は少し考えて言った。「自分で雇うからいいよ、瀬名さんにはそこまで気を使わなくても」瀬名はそれでも譲らなかった。「ダメだよ、それは私がするべきことだ。あなたが怪我をしたのは私のせいなんだから」少し間をおいて彼は苦笑した。「普通、事故を起こされれば、衣食住全て加害者にまかせたいと思うものでしょう?それをあなたは断るんだから」かおるはそばで笑いながら言った。「だって、里香ちゃんは面倒くさいことが嫌いなんです。そんなことをされると余計に面倒だと思うタイプだから」瀬名は意外そうに笑った。「なるほど、そういうことか」里香は肩をすくめた。「シンプルな人やことが好きだからね」瀬名はじっと彼女を見つめてから言った。「でもあなたはシンプルを求めるほど、かえって複雑なことに巻き込まれていくみたいだ」里香の笑顔が少し薄れた。「だからこれが人生ってやつよね。なんだか無情だわ」妙に場の雰囲気が重くなった。かおるは明るく言った。「退院って祝うべきことじゃない?なんでそんな悲しい話をするのよ?里香、今日の晩ご飯、何が食べたい?私が直接作ろっか?」里香は彼女を見て言った。「うん、自分で作るなら、豚骨ラーメンが食べたいな」かおるはすぐに言い返した。「冗談言わないでよ、私がそんなの作るわけないじゃん?作るとしたら、味噌ラーメンね!」
祐介が里香に目を向けて、「何食べたい?」と聞いた。すると、かおるが横から口を挟む。「もう聞いたってば。里香ちゃん、何でもいいって言うのよ。じゃあ具体的に何か挙げてみてって言ったら、また何でもいいって。ムカつかない?」祐介は苦笑いしながら軽く頷く。「確かに、それはちょっとムカつくかもな」里香は無邪気に目をぱちくりさせながら、「本当に何でもいいんだもん。好き嫌いとか特にないし」と平然と答えた。かおるは冷めた目を向け、「じゃあ、褒めればいいってこと?」里香はにっこり笑いながら頷いた。「うん、褒めて褒めて!」かおるは呆れたように彼女をじろりと見た。祐介は少し考え込んでから提案した。「じゃあ、料理を届けてもらおうか」里香は戸惑いながら聞き返した。「え、それって迷惑じゃない?」祐介は首を振り、「全然迷惑じゃないよ。ホテルで作って直接届けてもらえばいい。それに、家の片付けもいらないし、ちょうどいいだろ?」里香は感心したように頷き、「おお、なるほどね」と納得した。その時、不意に瀬名が話に加わり、「喜多野さん、お噂はかねがね」と挨拶をした。祐介は瀬名を見て微笑んだ。「瀬名さん、錦山の瀬名家のレジェンド。一度お会いしたいと思ってたんですが、なかなか機会がなくて。今日やっとお会いできて光栄です」瀬名も軽く笑い返し、「いやいや、そんな過大評価を。ところで、最近海外の事業に取り組まれてるとか。私もちょっと関わりがあるので、少しお話しませんか?」「いいですね」二人は早速ベランダの椅子に腰掛け、ビジネスの話を始めた。里香はしばらく彼らを眺めていたが、ぽつりとつぶやいた。「私も入りたいけど、ただのデザイナーだからなぁ」かおるは呆れたように言った。「今は怪我してるからいいけど、怪我してなかったら、この時間でも工事現場にいたんじゃない?」里香は一瞬言葉に詰まり、「うん、たぶんね」と小さく答えた。本当なら、雅之の新居で工事の様子を見ているはずだった。ふと、頭がぼんやりしてきた。雅之はあの時、「新婚生活のための家」だと言ってた。でも今、彼はどうしても離婚しようとしない。じゃあ、あの家は何のために準備したの……?そんなことを考えていた時、またインターフォンの音が響いた。かおるが不思議そうに、「どういうこと?今
もういい。帰ってきてくれただけで十分。帰ってきてくれた、それだけでいい。少なくとも、今こうして二人が同じ場所にいれば——雅之が目を覚ました時に、ちゃんと説明できるはずだから。里香は帰らず、そのまま病院に泊まり込むことにした。雅之が目を覚ますのを、ここで待つつもりだった。かおるも仕方なく一緒に残ることにした。やっぱり心配だったのだ。何と言っても、里香は今、妊娠中なのだから。翌日。景司が病室にやってきた時、里香は丁寧に雅之の身体を拭いているところだった。優しい眼差しで、根気よく、ひとつひとつ心を込めて世話をしていた。「里香、家に電話しとけよ。今日は大晦日だし」「うん、わかった」頷いた里香は、身体を拭き終わるとスマートフォンを取り出してソファに腰掛け、グループチャットを開いてビデオ通話をかけた。すぐに繋がり、画面には眼鏡をかけた秀樹の姿が映った。「お父さん、大晦日おめでとう!」にこっと笑いかけると、秀樹もにこやかに頷いた。「おめでとう。お前もな。それで、雅之はどうだ?」「危険な状態は脱したよ。あとは、目を覚ましてくれれば大丈夫」秀樹は安心したように頷いて、「里香ちゃん、無理すんなよ。ちゃんと休めよ、いいな?」と声をかけた。「うん、わかってるよ、お父さん」そのあと賢司も少しアドバイスをくれて、瀬名家のほかの家族たちも次々に顔を出して声をかけてきた。今の里香は、瀬名家にとっていちばん大切な存在。みんなが自然と彼女に気を配っていた。里香は一人ひとりに丁寧に応じ、ほぼ一時間ほど通話してから、ようやくスマートフォンを置いた。外はすっかり車通りが少なくなり、街は静けさに包まれていた。みんな、家で年越しをしているのだろう。昼頃、かおると月宮がやって来た。「特別においしい料理、用意してきたのよ。場所が病院でも、お正月はお正月!おいしいものたくさん食べて、元気つけなきゃ!」かおるはにこにこしながら声を弾ませた。「うん。彼が退院したら、今度は私がご飯作ってあげるね」その言葉に、かおるはぱっと顔を輝かせた。「わあ、いいね!どんな腕のいいシェフが作っても、あなたのご飯には敵わないわよ!」月宮も穏やかに頷いた。「うん、確かに」里香の視線は自然と、病室のベッドの上に向かった。雅之はまだ昏睡状態
里香はなんとか感情を抑えながら、月宮に尋ねた。「中に入ってもいい?」ここまで来て、断れるはずがなかった。月宮はすぐに人を手配してくれた。里香は防護服を身に着け、病室へと入った。マスク越しでもわかるほど、消毒液のきつい匂いが鼻をついた。そんな中、彼のもとへ一歩一歩近づいていく。雅之の周囲には数々の医療機器が並び、顔には酸素マスク。整った顔立ちは青白く、やせ細っていた。里香はそっと歩み寄り、触れようと手を伸ばしかけたが、ふと自分の手袋に気づき、手を止めた。これじゃ、何の感触も伝わらない。「雅之……」手を下ろし、ベッドのそばに立ったまま名前を呼んだ。その声は鼻が詰まっているような、こもった声だった。瞬きを繰り返しながら、必死で感情を抑えようとした。「なんで……なんで何の連絡もなしに消えたの?メッセージのひとつもなくて、私がどれだけ怒ってたか、わかってる?それに……聡があなたの人間なら、なんでもっと早く教えてくれなかったの?ちゃんと説明してくれてたら、私、あんなに怒らなかったのに……」ねぇ、わざとでしょ?わざと目を覚まさないで、わざと私に会わなかったんでしょ?私が焦ってるの見たかったんでしょ?私に折れてほしかったんでしょ?」だんだんと声が震え、最後には嗚咽混じりになっていた。けれど、涙を拭くこともできなかった。ただ、頬を伝う涙が視界を曇らせるのを、なすがままにするしかなかった。「雅之……お願いだから目を覚まして。それだけでいい。それだけで……全部、許すから」その言葉が終わった直後だった。突然、荒い呼吸音が響き、すぐそばの医療機器が警報を鳴らし始めた。医者と看護師が飛び込んできて、里香は外へと押し出された。「どうしたの!?彼、どうなったの!?」里香が必死に問いかけると、医者は手短に告げた。「今すぐ検査をしますので、外でお待ちください!」廊下へ押し出された里香のもとに、かおるが駆け寄って支えた。「どうしたの!?何があったの!?」里香は混乱したまま首を振り、まつ毛にはまだ涙が残っていた。「わたしにも……わからないの……今、彼と話してたのに、急に外に出されて……」かおるはそっと彼女を抱きしめた。「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫だから。たぶんね、雅之が里香ちゃんの
里香が突然帰ると言い出したことで、瀬名家の人々は驚きを隠せなかった。賢司と秀樹が慌てて里香の部屋に駆けつけると、彼女はすでに荷物をまとめ終えており、二人とも不安げな表情を浮かべていた。「里香、一体どうしたんだ?なんでそんなに急いでるんだ?」秀樹が一歩前に出て問いかけると、里香は深く息を吸い込み、落ち着いた声で答えた。「雅之がケガをしたんです。どうしても会いに行かなきゃって思って……」「な……」秀樹は一瞬言葉を失った。つい最近まで、彼女は雅之のことをひどく嫌っていたはずだ。顔も見たくないって言っていたのに……どうして突然、気持ちが変わったんだ?秀樹をまっすぐ見つめながら、里香は目を潤ませて言った。「お父さん、ごめんなさい。一緒に年越しできなくて……でも、行かなきゃ。行かなかったら、きっと後悔する。きっと一生悔やむと思うの」その様子は、あまりにも切実だった。秀樹は「年越してからにしろ」と言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。代わりに賢司が口を開いた。「まず、こっちでも状況を調べてみるよ」もはや、二人にも彼女を引き止めることはできなかった。なにしろ、雅之は里香のお腹の子の父親なのだから。秀樹は小さく息を吐いて言った。「せっかく帰ってきてくれたし、みんなで久しぶりに団らんの年越しかと思ってたんだが……来年までお預けになりそうだな」「彼が無事なら、すぐ戻ってきます」里香がきっぱりとそう答えると、「うん、無理するなよ。子どもの父親でもあるし……」と、秀樹もそれ以上は何も言えなかった。景司はすぐにプライベートジェットの運航ルートを手配し、里香はスーツケースを持って飛行機へと乗り込んだ。景司も同乗していた。「一人で帰らせるのは心配だしな。俺も一緒に行くよ」「そうだ、それがいい」秀樹も頷いた。「何かあったら、景司に全部任せておけ」賢司も一言添えた。「里香のこと、頼んだぞ」ここまで言われて、里香もさすがに断れなかった。「できるだけ早く戻ります」家族の顔を見つめながら、涙ぐんでそう言った。飛行機は滑走路を離れ、夜の空へと飛び立っていった。冬木。二宮グループ傘下の病院内。集中治療室の明かりは、いつもどおり、こうこうと灯っていた。桜井はいつものように様子を見に
里香はまだ少し半信半疑だったが、景司の落ち着いた表情を見て、彼が否定しないことに気づいた。……本当なの?もしこれがかおるの耳に入ったら、喜びすぎて気絶するんじゃないか?そう思いながら、里香は鼻を軽くこすってから視線をそらした。夕方。秀樹が帰ってきた。明日は大晦日。瀬名家の人たちも次々と集まり始めていて、リビングはいつも以上ににぎやかだった。里香はかなり疲れていて、二階で少し眠ったあともそのままベッドで横になっていた。ときどき、階下から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。外では子どもたちが雪遊びをしているらしく、にぎやかな声が混じっていた。でも、里香の心はぽっかりと穴が空いたようで、どこか現実感がなかった。ふいに月宮に言われた言葉を思い出し、唇をきゅっと引き結んだ。スマホを手に取り、ロックを解除して、スクリーンセーバーの写真を見つめながら、お腹にそっと手を添えた。そのとき、スマホが震えた。かおるからのメッセージだった。【大変!!】【里香ちゃん、雅之が銃で撃たれて、ずっと昏睡状態なんだよ!】【ねえ、見た!?メッセージ見た!?】立て続けに三通。尋常じゃない内容に、里香は思わず体を起こした。顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきり分かった。文字は読めるのに、意味が頭に入ってこない。銃で撃たれた?長い間昏睡状態って、どういうこと?そんなはずない。雅之が撃たれただなんて……なんで……!?震える指で、かおるの番号をタップした。なんとか発信できたものの、声を出そうとしても、うまく出なかった。「……もしもし、かおる?さっきの……どういうことなの……?」なるべく冷静に話そうとしたけど、声の震えは止められなかった。電話の向こうのかおるも、明らかに動揺していた。「私も、さっき聞いたばっかりなの!あのね、瀬名家であなたの歓迎会が終わった後、雅之、何も言わずに帰ったでしょ?それで、その夜に冬木に戻って、いきなり撃たれたんだって!しかも心臓をかすめたって言うから、本当に危なかったらしくて……今も集中治療室にいて、まだ意識が戻ってないの!」「どうしてそんなことに……」里香の顔は信じられないというより、恐怖に染まっていた。かおるは焦りながら、なおも言葉を重ねた。「詳しいことは全然わか
月宮の目を見つめながら、かおるはしばらく黙っていた。――月宮と縁を切る?無理に決まってる。月宮家は冬木じゃいろんな人脈が絡んでて、普通の集まりでも顔を合わせることなんてざらにある。だから、唯一の方法は距離を取ること。あとは冷たくするしかない。それに、こんなことで月宮と揉めたくもなかった。「じゃあ、それで決まりね。あの人からまた連絡きたら、すぐ教えて」かおるは、本気でこれ以上この話を引きずる気はなかった。月宮は口元に微かに笑みを浮かべ、「もちろん」と答えた。そして、かおるのそばに腰を下ろし、じっと見つめながら聞いた。「一緒に帰るか?」明日は大晦日。結婚してから初めての年越しで、年が明けたらすぐに式も控えている。かおるは「うん」と頷き、立ち上がりながら言った。「ちょっと、里香に声かけてくるね」月宮も頷いた。「一緒に降りようか」玄関に向かって歩きながら、かおるはふと思い出したように聞いた。「そういえばさ、雅之って今何してるか知ってる?全然連絡ないし、音沙汰なしじゃん」月宮はどこか意味ありげな目でかおるを一瞥し、「さっき里香と話したけど、彼女、雅之には全然興味なさそうだったよ」と言った。かおるはその言葉に少し違和感を覚えた。でも、里香の最近の様子を思えば、あながち間違いとも言えず、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、その話は置いとこっか」階段を降りたかおるは、里香に冬木へ帰ることを伝えた。「ほんと、あんたって根性ないんだから」里香は笑ってからかうと、それを聞いた月宮は眉をひそめた。「かおる、やっと機嫌取れたばっかなんだから、邪魔しないでくれる?小松さん」里香はそれを無視して、かおるに持たせる荷物を用意させた。かおるは遠慮なく、それらを全部受け取った。玄関まで来て、かおるは里香をぎゅっと抱きしめた。「じゃ、数日後に戻ってくるから。外寒いし、見送りはいいよ」「うん」里香は頷き、二人の背を見送った。ふと振り返ると、賢司が階段から降りてきた。黒のタートルネックニットがよく似合っていて、姿勢もしゃんとしていた。「お兄ちゃん」里香が声をかけると、賢司はそれに応えて尋ねた。「もう帰ったのか?」「うん」里香が頷いた。「誰が?」ちょうどそのとき、景司
かおるは思わず目を見開いた。賢司は立ち上がり、彼女のほうへ歩いてきながら尋ねた。「離婚するのか?」かおるは首を横に振った。「別にケンカしたわけでもないのに、なんで離婚しなきゃいけないのよ」賢司はすでにかおるの目の前に立っていて、その言葉を聞くなり、ふいに手を伸ばした。かおるはとっさに身構えて二歩後ろに下がり、背中がドアにぶつかった。そのまま彼を警戒するように睨みつけた。「なにするつもり?」賢司はじっとかおるの目を見つめ、その緊張感を察すると、さらに冷たい表情になってドアノブに手をかけ、そのままドアを開けて彼女を外へ押し出した。「人妻が俺の部屋にいるとか、どう考えてもアウトだろ」そう言い残して、さっさとドアを閉めた。「ちょ、ちょっと、あんた……!」かおるはその場で呆然と立ち尽くした。閉まったドアを見つめながら、何も言い返せなかった。こ、こんな人……どうしてこうなのよ。でも、まぁ、言ってることは正しい、かも。「かおる」そんなことを考える間もなく、月宮の声が聞こえてきた。振り返ると、彼が階下のリビングに立ち、上を見上げてかおるを見ていた。今さら隠れても無意味だし、逃げるタイミングも失っていた。かおるはそのまま階段を下りて、「なによ」と声をかけた。月宮は、どこか冷めた表情をしたかおるを見つめながら近づいてきて、手を取り、真剣な眼差しで言った。「話をしよう」かおるは手を振り払おうとしたが、月宮の力は強くて引き抜けなかった。「手を放して」にらみつけながらそう言うと、月宮はきっぱり言った。「無理だ。一生、放さない」その言葉は強引で、少し傲慢だった。そして、その瞳には、はっきりとした独占欲がにじんでいた。ずるい。こんなふうにされるの、なんか……嫌いじゃないかも。「何を話すのよ?」「どの部屋に泊まってる?」月宮が尋ねた。その言葉を聞いたかおるは、一気に目を見開いて彼をにらんだ。「はぁ!?どういう意味よ?まだ話す前から、もうそういうこと考えてんの?つまり、あたしに会いに来た理由って、それ!?」月宮はすかさず、かおるの口を手でふさいだ。目を閉じると、リビングにいた里香を見て「彼女の部屋はどこだ?」と尋ねた。里香はぽかんとしながらも、指で部屋の
一言で、その場に火薬の匂いが立ち込めたような緊張が走った。月宮はほんの少し眉を上げ、凛とした表情の里香を見つめながら、ぽつりと聞いた。「……俺、巻き込まれてる感じ?」「えっ?」里香は一瞬、その意味がつかめず、きょとんとした。けれど、月宮の笑みはすぐに消え、声にも冷えた色が混じりはじめる。「おかしいと思わなかったか?なんで雅之が急に錦山を離れて、しかもずっと連絡してこないのかって」その言葉に、里香の表情もさらに冷たくなった。「それは彼の問題よ。私には関係ないわ」「はっ」月宮は小さく冷笑した。「関係ない、ねぇ……よく言うよ。俺はずっと、あんたら二人が揉めたり、傷つけあったりしてるのを黙って見てきた。口出しは一切しなかった。でも、雅之には何度も言ってきたんだ。本心から目をそらすなって。後悔するようなことはするなって。アイツもちゃんと変わろうとしてた。それくらい、あんたもわかってたろ?でも……お前、もう雅之のこと、愛してないんだろ?」月宮の視線が鋭く突き刺さった。その言葉に、リビングは一瞬、重い沈黙に包まれた。里香は何も答えなかった。「……そうか。もう本当に気持ちはないんだな」それ以上は追及せず、月宮は話を続けた。「だったら、雅之のこれからがどうなろうと、お前には関係ない。俺もこれからは、雅之のことでお前を巻き込むようなことはしない。今日ここに来たのは、かおるを連れて帰るためだ。戻るかどうかは、本人とちゃんと話して決めたいと思ってる」「彼女、会いたくないって言ってたわ」「それでも構わない。ここで待たせてもらうさ。恋愛ってやつはな、結局、腹割って話さなきゃ始まらない。誰も何も言わなかったら、口なんてあっても意味ねぇからな」その言葉に、里香の胸がわずかに揺れた。腹を割って話す――……そうだ、自分も雅之に、ちゃんと聞くべきなのかもしれない。少なくとも、彼に説明の機会くらいは与えるべきだ。その頃、二階の部屋では、かおるは、浴室から出てきた大柄な男を目にして、思わず目を見開いた。広い肩幅に引き締まった腰、はっきりと浮き出た筋肉のライン。短髪をタオルで拭うたびに、その腕の筋肉がぐっと浮かび上がり、ただ立っているだけでも圧を感じる。濡れて乱れた髪。額の下からのぞくその瞳は、どこか冷たく、じっとこち
かおるは彼をじっと見つめながら言った。「お兄ちゃん、それってどういう意味?私みたいに元気で可愛くて綺麗な妹が増えるのが嫌なの?」そう言いながら両手で頬を押さえて、ぱちぱちと瞬きをした。景司は淡々と笑いながら答えた。「俺は別に構わないけど、ある人はそう思わないかもしれないな」「え?」かおるはきょとんとした顔をしてから、すぐに里香の方を見た。すると、里香は両手を広げて「私は何も言ってないよ」と無言でアピール。となれば、「ある人」っていうのは……賢司しかいない。かおるは少し不満げに唇を尖らせた。だめだ、やっぱりちゃんと賢司に直接聞かなきゃ。どうしてそんなに私のことが嫌なの?その頃、秀樹と賢司の話し合いは、もう2時間近く続いていた。ふたりがリビングから出てきた時、階段の下で腕を組んで立っていたかおるの姿が目に入った。「おじさん、もう遅いですから、お休みになってください」かおるが声をかけると、秀樹は軽くうなずいて、「うむ、お前たちも早く休め」と言い、自室へと戻っていった。かおるはすぐに賢司の方へ向き直った。「賢司さん、ちょっとお話いいですか?」賢司は片手で袖を整えながら、ゆっくりと階段を降りてきた。すらりとした長身に整った顔立ち。気品と冷たさを醸し出しながら、無表情のままかおるを見下ろした。「用件は?」かおるはずばり聞いた。「私のこと、何か不満でもあるの?」「別にない」賢司はそう言って、かおるの横をすっと通り過ぎ、バーカウンターで水を汲んだ。かおるはその後を追いかけ、身を乗り出すようにして尋ねた。「じゃあ、私のことどう思ってるの?」「特に何も思っていない」かおるは内心、答えに戸惑いながらも、真正面からは聞けなくて、自分の指を軽く噛んだ。「それって……」「言いたいことがあるなら、はっきり言え」賢司の言葉にかおるは真剣な眼差しを向けた。「おじさんが私を養女にしたいって話してるのに、なんであなたは反対するの?」賢司は水を一口飲み、喉仏を上下させてから静かに答えた。「瀬名家には、娘はひとりで充分だ」はっきりそう言われてしまうと、さすがに言い返せなかった。かおるは悔しそうに賢司を睨みつけた。「……やっぱり、私のこと嫌いなんでしょ?」そう言い捨てて、そのまま踵を返し行っ
「えっ!?」かおるは彼女の話を聞いて、目を見開いた。聡が雅之の手下だったなんて……「ちょっと待って」手を上げて考え込みながらつぶやく。「東雲凛、東雲新、東雲徹、東雲聡……なるほど、全部繋がってたのね!」里香:「……」かおるはじっと里香を見つめ、「こんなに共通点があったのに、全然疑わなかったの?本当に?」里香は素直に首を横に振った。「うん」「はあ……」かおるは深いため息をついた。何て言ったらいいんだろう。雅之は答えを目の前に差し出していたのに、彼女は気づかなかった。聡を信じてたから?それとも、そもそも雅之のことを意識してなかったのかな?たぶん、両方なんだろう。かおるはそっと彼女を見つめ、「じゃあ今、雅之に怒ってるの?」里香は答えた。「怒っちゃダメなの?」かおるは顎に手を当てて考え込んだ。「もちろん怒っていいと思うよ。でもね、聡がそばにいたから、万が一のときすぐに見つけてもらえたんだし、前の一件も、結局は雅之が聡を通して助けてくれたんでしょ?ちゃんと考えてみたら、正しいとも間違ってるとも言いきれない気がするんだよね」里香は無言になった。かおるはそんな彼女の様子をうかがいながら、静かに言った。「里香ちゃん、一番つらいのは、彼が何も言わずにいなくなったことなんじゃない?何の説明もなく」里香は唇をぎゅっと噛んだ。「別に気にしてない」そう言って、立ち上がり、階段を上がっていった。「あっ!」かおるは慌てて後を追い、里香の顔を覗き込みながら言った。「ねえ、月宮に話してみよう?」「やめて!」里香はかおるを睨みつけ、「聞かないで。月宮にも言わないで。今は彼に会いたくないし、何も聞きたくないの」「わかった、わかった、話さないし聞かない。他のこと話そう!」かおるは彼女の感情が不安定な様子に気づいて、急いでそう言った。妊娠中の里香は気分の起伏が激しく、さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣き出すこともあった。だから、まわりの誰もが彼女の気持ちを気遣っていた。夜。秀樹、賢司、そして景司が帰ってきて、かおるの姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。かおるの明るく飾らない性格はみんなに好かれていて、家族も彼女のことを気に入っていた。賢司は彼女の薬指に光る指輪をちらりと見て、表情を