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第899話

Author: 似水
その夜、星野は何通もの履歴書を送った。彼には確かな実力があり、手がけた図面はどれも新しいアイデアにあふれていた。聡のスタジオにいた頃は、里香と一つのプロジェクトを仕上げただけで、その後はすべて一人でやり遂げてきた。

自信もあった。きっといい会社が見つかると思っていた。

でも、履歴書を送ってから三日経っても、まったく返事が来なかった。

七日目になって、ようやく一社から連絡が来て、午後に面接に来てほしいと言われた。ところが、実際に行ってみると、「もう採用が決まった」と告げられてしまった。

バス停に立つ星野は、白いシャツに黒のスラックス姿。清潔感があり、どこか凛とした雰囲気が目を引く。スマホに表示された冷たい文字列をじっと見つめ、その瞳にはどこか冷ややかな光が宿っていた。

大体の事情は察しがついた。

頭の中に、あのときの聡の意味ありげな笑みが浮かんだ。深く息を吸い、一言だけこぼす。

「……まあ、いいさ」

ひとまずは別の仕事をしながら、少し時間をおいてまた考えよう――そう思った。

気がつけば、半月が経っていた。

聡はその間ずっと、星野が自分に助けを求めてくるのを待っていた。でも、彼は一度も姿を現さなかった。

「ふん……」

星野はプライドが高い。自分で決めたことを、そう簡単に後悔するような男じゃない。

でも、そんなの信じていない。聡の目的は、そのプライドをへし折って、自分にひざまずかせることだった。端正で清潔な顔に、悔しさや苦しさ、挫折の色が滲むのを見たら、たまらなく興奮するに違いない。

「まだ、遊び足りないわ」

簡単に許してあげる気なんて、さらさらない。

聡はパソコンを開き、スラリとした指でキーボードを打ち続けた。すぐに星野の現在地が画面に表示された。

「へぇ、レストランでウェイターしてるんだ」

夕方、聡はクライアントとの食事場所に、そのレストランを選んだ。シャツにベスト姿で忙しくホールを動き回る星野の姿を見て、口元に満足げな笑みを浮かべる。

手を上げて指を鳴らし、もう片方の手で顎を支えながら、こちらに向かってくる星野をじっと見つめた。

「このレストラン、何かおすすめとかある?」

星野は表情一つ変えずに、店の看板メニューを淡々と紹介した。

聡はうなずき、「じゃあ、まずそのおすすめをいくつかお願い」と言いながら、ポケットから何枚か紙
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