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第2話

作者: 空木林
音瀬は急いで家へと戻った。

リビングのソファには、肥満気味で半分ハゲかかった中年男が座っており、怒りの表情で池田菜月(いけだ なつき)をにらみつけていた。

「たかがアイドルの分際で、俺が結婚してやるって言ったんだぞ?それなのに、偉そうに俺を待たせやがって、一晩も!」

菜月は屈辱を噛み締めた。そもそも、このハゲオヤジはいつもこの手を使って女を弄ぶ。仮に本気で結婚するとしても、その先には地獄が待っているに違いない。そんな地獄に飛び込む奴がどこにいる?

運が悪かった。目をつけられたのは、彼女だった。

だが、両親は彼女を可愛がっていた。だから代わりに音瀬を行かせた。

まさか、音瀬が逃げ出すなんて!

祥子は顔色をうかがいながら、ぺこぺこと頭を下げた。「杉村社長、本当に申し訳ありません。まだ子供で、何も分かっていないんです。どうか大目に見てやってください」

俊夫も卑屈にうなずく。「どうか、お怒りをお鎮めください」

「怒りを鎮めろだと?」

杉村武(すぎむら たけし)は怒りを抑えられずに叫ぶ。「ふざけるな!菜月さんが嫌なら、無理にとは言わん!その代わり、お前らの破産と刑務所行き、覚悟しとけよ!」

彼は立ち上がり、怒りを露わにしながら出口へ向かった。

ちょうど音瀬と鉢合わせた。

杉村は呆然とした。どこから現れた女だ?しかも、こんなに綺麗な……

飾り気のない素顔は、端正で際立つ美しさを持ち、弾けるようなコラーゲンに満ちている。まさに典型的な濃い顔立ちの美女だった。

「お嬢ちゃん、君は?」

音瀬はすぐに悟った。この男こそが、本物の杉村社長——

昨夜、何も見えなかったとはいえ、抱きしめられた感覚は残っている。あの男は長身で引き締まった体つき、筋肉は硬く、確かに力強かった。目の前のこの男とは、まるで違う!

弟のために、彼女は尊厳も純潔も捨てた。なのに相手を間違えたっていうのか?

よく考えれば、昨夜の「杉村社長」は、どこか違和感があった……

だが、もう遅い……

祥子は素早く前へ出た。まるで女を売る仲介人のようだった。

「杉村社長、こちらは私の次女、音瀬です。自慢するわけじゃありませんが、江城市で探しても、これほどの美人はいませんよ!」

菜月も美人ではある。だが、音瀬と並ぶと見劣りする。

だからこそ、杉村が目をつけたのが菜月であったにもかかわらず、彼らは音瀬を代役に立てることができたのだ。

「いいねぇ、なかなかのもんだ!」杉村は満足げにうなずいた。

祥子はここぞとばかりに畳みかけた。「杉村社長、音瀬には彼氏がおりません。彼女に、杉村夫人の座に就く幸運があるかどうか、いかがでしょう?」

「見た目は申し分ない。そうだな……」

杉村は遠慮もなく音瀬を舐めるように見回し、ますます気に入った様子だった。

「今夜、俺が直接迎えに来る。まずは試してみようじゃないか。二度としくじるなよ!」

「ご安心を、今度こそ間違いなく!」

杉村が去ると、音瀬は蒼白な顔で俊夫を見つめた。「また私を売るつもり?」

俊夫が口を開こうとした瞬間、祥子が遮った。

「売るって何よ?ここまで育ててやったんだから、それくらい貢献するのが当然でしょ?杉村社長がまだあんたを欲しがってくれてるんだから、感謝しなさい!」

そして菜月に命じた。「彼女を部屋に閉じ込めときな!逃げられないように!」

「分かった、ママ」

「お父さん!」奥歯を食いしばり、音瀬は俊夫を睨みつけた。「何か言ってよ!」

祥子は彼女の継母だ。だけど、俊夫は紛れもなく彼女の実の父親!

彼に情がないことは分かっている。それでも、彼女にとっては唯一の頼みの綱だった!

一度でいい、彼に救ってもらうことはできないのか?

しかし、俊夫は何も言わずに背を向けた。またしても、彼女を無視した。

「パパを困らせないで。破産して刑務所に行かせるつもり?」

菜月は音瀬の腕を掴んだ。「行くよ!」

「離して!」音瀬は怒りで目を血走らせながら、菜月の手を振り払った。「自分で歩けるわ!」

菜月はそのまま彼女の後を追い、二階へと上がった。部屋のドアを開けると、勢いよく彼女を中へ押し込んだ。

彼女を見下ろし、冷たく言い放つ。「大人しくしてた方がいいわよ。誠のこと、放ってくことができる?治療を長く中断するのは、良くないんじゃない?」

そう言い残し、ドアを閉めて鍵をかけた。

音瀬は怒りに震えたが、どうすることもできなかった。

彼女は弟の池田誠(いけだ まこと)を見捨てることなんてできない。誠には父も母もいない。唯一残された家族は、姉である自分だけ!

まさか、また自分を売るしかないの?

目元を押さえ、涙を堪えながら呟く。「お母さん、どうすればいいの?」

彼女が八歳の時、母は亡くなった。その時、弟はまだ一歳だった。

母の死から七日も経たないうちに、父は継母の祥子と菜月を連れて現れ、「再婚する」と告げた。

もっと滑稽なのは菜月が父の実の娘だったこと。しかも、自分より二ヶ月も早く生まれていたのだ!

つまり、父はずっと前から母を裏切っていた。

その瞬間、音瀬は悟った。彼女は同時に母も、そして父も失ったのだと。

「お母さん、もしまだ生きてたら、どうしてた?」

その時、身体がビクリと震えた。

音瀬は勢いよく立ち上がり、部屋中をひっくり返すように探し回った。そしてついに、小さな箱を見つけた。

箱を抱きしめ、胸の奥からこみ上げる不安と迷いに震えながら、そっと呟く。

「お母さん、もうどうしようもないの。責めないでね」

箱を開けると、中には翡翠のブレスレットが入っていた。その下には、一枚の紙が添えられており、そこには数字の列が書かれていた。

「こんなに年月は経ってるけど、この番号……まだ繋がるかな」

数字を一つずつ押していくと、なんと繋がった!

音瀬は少し緊張した。長年連絡を取っていない上に、母親も亡くなっている。相手は自分を受け入れてくれるだろうか?

「もしもし?どちら様?」

音瀬は深く息を吸い、静かに口を開いた。

「すみませんが、桐生伸一(きりゅう しんいち)さんでしょうか?古角遥(こかど はるか)のこと、覚えていらっしゃいますか?私は彼女の娘です……」

「……わかりました。すぐに伺います」

よかった!認めてくれた!

通話を切る。

音瀬はブレスレットを丁寧にしまい、バッグに入れた。

クローゼットを開け、シーツを何枚か取り出し、しっかりと結び合わせる。そして窓を開け、外へと垂らした。

幸いにも、ここは二階。そこまで高くはない。

シーツの端をしっかりと固定し、バッグを背負うと、それを頼りに慎重に降りる。無事に地面に着地した。

息を潜め、足音を立てないように慎重に動き、素早く門の外へと駆け出した。

電話で聞いた住所を頼りに、桐生家へ向かった。

……

大塚が社長室のドアを開ける。「湊斗兄さん。佐藤から連絡があった。今夜帰るのかって」

湊斗は一瞬考え、軽く頷いた。「帰る」

元々彼は湾岸のマンションで一人暮らしをしていたが、最近は祖父の体調が優れないため、実家に戻ることが増えていた。

湊斗は何かを思い出し、問いかけた。「調査はどうなった?」

「君に薬を盛った奴はまだ特定できてない」

大塚が答える。

「女の身元は判明した。芸能人だ。監視カメラには顔が映ってなかったが、ホテルの出入り記録に名前があった。本来は宏盛商事の杉村武の部屋に行く予定だったみたい。間違いなく、彼女はこの件とは無関係だ」

「ああ」

湊斗は軽く頷いた。昨夜の女は明らかにぎこちなかった。無理やり押しつけられたのだろう。

だが、今後は誰にも手を出させない。

「名前は?」

「池田菜月」

大塚がスマホを開き、湊斗に見せる——池田菜月の写真だった。

昨夜は薬の影響で意識が朦朧としていた。しかも、部屋は真っ暗で顔を確認する余裕もなかった——だが、悪くない顔だ。

祖父の体調は以前ほどではなく、結婚のことを何かと気にしていた。最近は特に、そればかり口にしている。

湊斗にとって、祖父は唯一の家族だ。祖父さえ喜ぶなら、何だってしてやる。

だが、誰と結婚する?

元々、許嫁がいたはずだが、もう何年も消息が途絶えている……

そんな時に、池田菜月が現れた。

家柄は平凡だが、汚れのない女。そして、彼の最初の女。

城司は唇を歪ませた。祖父が望む嫁を、ようやく見つけた。

「拓海、手配しろ。池田家に行くぞ」

池田家。

今、屋敷の中は大騒ぎだった。

杉村が迎えに来たが、音瀬が逃げたことに気づいた。

彼は激昂し、怒鳴りつける。「俺を舐めてんのか?」

「と、とんでもない!杉村社長、誤解です……」

「くだらねぇこと言ってんじゃねぇ!俺がここまで来て、手ぶらで帰るわけねえだろ!」

杉村の視線が、菜月に向けられる。

「妹ほど綺麗じゃねえが、まあ我慢してやるか!今夜は、お前を連れて行く!」

手首を掴み、そのまま引きずるように歩き出した。

「や、やだ!パパ!ママ!」

菜月は恐怖で顔面蒼白になり、崩れ落ちるように泣き叫んだ。

「助けて!」

「杉村社長、この子はまだ若くて、お望みのように仕えられません!音瀬を捕まえ直しますから……ぎゃっ!」

「ふざけんな!どけ!」

祥子が縋りつこうとした瞬間、杉村に蹴り飛ばされた。

「ママ、ママ!」

杉村は泣き叫ぶ菜月を引きずるように外へ連れ出した。

門の前、黒のベントレーが静かに停まる。

大塚が言った。「湊斗兄さん、ここだ」

湊斗は車を降り、ゆったりとした足取りで中へ向かった。その全身には、重厚な紳士の気配が漂っていた。

杉村が菜月を引きずる姿を目にした瞬間、湊斗の奥底に潜む冷酷な狂気が弾けた。

彼の女に手を出すとはな!

ふん。

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