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第3話

作者: 空木林
「桐生様」

杉村は急に足を止めた。ビジネスの世界でそれなりの地位があるなら、湊斗を知らない者などいない。

「どうしてここに?」

湊斗は杉村に一瞥もくれず、涙で顔を濡らした菜月だけを見つめていた。

昨夜、彼の腕の中で甘えながら泣いていたのはこの子か……

突然、彼は手を振り上げ、杉村の頬を力いっぱい叩きつけた。その衝撃で、杉村は地面に吹き飛ばされた!

「ぐっ…!」杉村は血まみれの歯を吐き出した。

一家三人は息をひそめ、恐怖で動けなくなった。

湊斗の薄い唇が嘲るように歪んだ。淡々とした口調だったが、その言葉は鋭利な刃のように突き刺さる。

「俺の女に、手を出すとはな?!」

杉村は無様に地面に倒れ込み、口を押さえながら、まともに言葉も発せなかった。

ガタガタと震える。

「桐生様、知りませんでした!彼女があなたの人だなんて、誓って何もしていません!お願いです、どうかお許しを!」

湊斗はその言葉を信じず、菜月を見た。「本当か?」

菜月は呆然と首を振る。「う、うん……」

「失せろ!」

「ありがとうございます!桐生様!」

杉村は慌てて逃げ出した。

池田家の人達は顔を見合わせるばかりだった。

湊斗は身を屈め、菜月をそっと抱き起こす。

指先が優しく彼女の頬をなぞり、涙を拭った。

「何を泣いてる?怖がるな。俺がいる限り、もう誰もお前に触れさせない」

低く掠れた声。まさに理想的なバリトンボイス。

菜月は頬を赤らめた。「私を知ってるんですか?」

「昨夜……」

その言葉を口にすると、湊斗の声は一層優しくなった。「王朝ホテル7203号室。俺とお前、わかるな?」

昨夜?

王朝ホテル?

彼女と彼が?

一家三人はあまりの衝撃に言葉を失った。

心の中で同じ考えがよぎる。

音瀬は嘘をついていなかった。彼女は確かに昨夜ホテルへ行った。だが、どういうわけか彼のベッドに入ってしまった!

そして彼は、音瀬の顔を見ていなかった。

彼は、昨夜の女が菜月だと勘違いしている!

菜月は胸元を押さえ、戸惑いながら尋ねた。「あの、あなたは?」

湊斗の薄い唇が動く。「桐生湊斗だ」

桐生!湊!斗!

江城市でこの名を知らない者はいるのか?

桐生グループの社長。江城市でも屈指の権力者。滅多にメディアには姿を見せず、常に低姿勢を貫いている。だがこんなにも若く、こんなにも端正な顔立ちをしているなんて。

菜月の顔はさらに赤くなり、心臓が早鐘のように打ち始める。

これは彼女にとってチャンスだ!

湊斗が勘違いしているなら、彼にとっての「昨夜の女」は彼女になる。

菜月は静かに頷いた。「昨日部屋を間違えてしまって……それで、今日は?」

湊斗はじっと彼女を見つめ、昨夜の記憶を探る。だが、何も思い出せなかった。

まぁ、些細なことだ。どうでもいい。

「お前はもう俺の女だ。ちょうどいい。俺には妻が必要だ。結婚しよう」

结婚!

三人はこの思いがけない幸運に打ちのめされ、喜びのあまり言葉を失った。

返事がないのを見て、湊斗は眉をひそめた。「どうした?まさか嫌なのか?」

「喜んで!」

菜月は我に返り、恥じらいながら視線を落とした。「私でよければ」

湊斗は満足げに頷く。「結婚の準備は俺がする。お前は大人しく待ってろ、新婦としてな」

「全部お任せします」菜月の声は柔らかく、幸福感が滲んでいた。

彼女だけでなく、俊夫と祥子も大きな喜びに浸っていた。

菜月は湊斗と結婚することになった。これから待ち受けているのは、計り知れないほどの栄華と富だ!

……

桐生家の邸宅。

伸一は翡翠のブレスレットを箱に戻し、それを音瀬に押しやった。「大切にしなさい。本来、君のものだ」

「はい、桐生様」

「まだ桐生様と呼ぶのか?」

伸一はため息をついた。

「昔、君の母さんに命を救われた俺は、この腕輪を渡し、君と湊斗の婚約を約束したんだ。それから長い間、俺たちは連絡を取れずにいたが、まさか君の母さんがもう亡くなっていたとはな」

「こうして君が訪ねてきてくれて、本当によかった。もうこんなに大きくなって、そろそろ嫁ぐ年頃だろう。まだじいちゃんとは呼んでくれないのか?」

「……」

音瀬は声が出なかった。

母が亡くなる前、この婚約のことを教えてくれた。だが同時に、決して本気にしてはいけない、恩を盾にして報いを求めるようなことはするなとも。

彼女が今日ここへ来たのは、婚約のためではない。弟の治療費を借りるためだった。

母がかつて伸一の命を救ったのだから、きっと貸してくれるはず。もちろん、後で必ず返すつもりだ。

本当にどうしようもなくなったからこそ、桐生家に頼るしかなかった。

音瀬は慎重に言葉を選びながら口を開いた。「桐生様、今日私が来たのは、婚約のことではなく……」

廊下から足音が聞こえてきた。

伸一が顔を上げる。「湊斗が戻ってきたぞ!」

ちょうどその時、湊斗が現れた。

祖父との約束があったため、池田家では長居せず、結婚の話を伝えた後すぐに戻ってきたのだ。

せっかくならこの喜ばしい報告を祖父に伝え、喜ばせようと思っていた。

湊斗が長い脚を軽やかに運びながら邸宅の奥へと進む。暖かい照明が彼の端正な顔立ちを照らし、その姿は洗練された気品にあふれていた。

歩きながら口を開く。「じいさん、帰ったよ。一緒に飯でも食って、将棋でも……」

しかし、彼の言葉は途中で止まった。

視線の先、そこには音瀬がいた。

華奢でありながらも品のある佇まい。透き通るような白い肌に、非の打ちどころのない整った顔立ち。

伸一は満面の笑みを浮かべ、孫を手招きする。

「湊斗、ちょうどいい。紹介しよう。これがお前の許嫁の音瀬だ。準備を進めて、すぐに迎え入れるんだ」

「はじめまして」音瀬は緊張した面持ちで立ち上がり、軽く湊斗に会釈をした。

湊斗の表情が一変する。さっきまでの穏やかな空気は、跡形もなく消え失せた。

この女が、祖父が言っていた、長年行方不明だった許嫁?

もし彼女があと二日早く現れていたなら、祖父のために結婚してもよかった。

だが今、彼には菜月がいる。彼が彼女を女にし、結婚の約束もした。

彼は決して彼女を見捨てない。

彼の目には、もう他の誰も映らなかった。

湊斗は音瀬に冷たい視線を投げかけ、はっきりと言い放つ。「じいさん、俺はこの子と結婚できない」

「何を言っている?」伸一は驚き、眉をひそめる。

「じいさん、俺にはすでに結婚を決めた相手がいる……」

「馬鹿を言うな!」伸一は怒鳴りつけた。いつもは素直な孫が、なぜこんなにも逆らうのか理解できなかった。

「でたらめを言うな!」

湊斗の声はさらに低くなった。「でたらめなんかじゃない。俺は彼女と結婚するつもりはない」

視線を音瀬に向ける。その瞳は氷のように冷たかった。「こんな子供じみた婚約話、本気にしていたのか?」

「黙れ!俺を怒り殺す気か!」

伸一は胸を押さえ、荒い息をついた。

「小さい頃から何度も教えてきたはずだ!恩を忘れず、約束を守る人間になれと!君は俺の顔に泥を塗る気か!あぁ……」

突然、伸一の目が閉じ、そのまま真っ直ぐ崩れ落ちた。

「じいさん!」

「桐生様!」

そのまま伸一は緊急搬送され、必死の救命措置を受けた後、病室へと移された。

祖父の容態を落ち着かせた後、湊斗はロビーで音瀬を見つけた。

音瀬は落ち着かない様子で立ち尽くし、不安と罪悪感に包まれながら口を開いた。「桐生様は、大丈夫ですか?」

「ああ」湊斗の顔色はひどく悪かった。

「それなら安心しました」

彼が自分を疎ましく思っているのは分かっていた。音瀬は言った。「桐生様に伝えてください。私は婚約のために来たわけではない、と」

まさか伸一が婚約を守ることにこだわりすぎて、怒りのあまり倒れてしまうなんて思いもしなかった。

こんなことになってしまっては、とてもお金を貸してほしいなんて言えなくなった。

「桐生様が無事なら、私は……」

言い終える前に、湊斗に遮られた。その目は暗く沈み、氷のような冷たさを帯びていた。

「もうお前の意思は関係ない。自分の引き起こした事態に、責任を取らないつもりか?」

もしこいつが来なければ、祖父が倒れることもなかった。

祖父は生涯、人との情と信義を何よりも大切にしてきた。その信念は命より重い。彼には、祖父の命を賭ける選択肢などなかった。

湊斗の瞳には、冷ややかな笑みが浮かんでいた。

「俺に祖父を怒り殺すような不孝者になれっていうのか?この結婚は避けられない」

音瀬は呆然とした。彼が今、結婚と言ったのか?

反射的に拒絶しようとしたが、口を開いたものの、どう反論すればいいのか分からなかった。

伸一が倒れたのは、自分にも責任がある。もし自分が桐生家を訪れなければ……

湊斗は冷ややかな視線を向け、淡々と言い放った。「取引をしよう。形式だけの結婚だ。じいさんに見せるためのものにすぎない。名ばかりの夫婦で、お互い干渉しない。じいさんが回復したら、すぐに離婚する」

契約結婚。

そういうことか。

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