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第5話

作者: 空木林
音瀬はよろめき、危うく倒れそうになった。

医師はちょうど伸一の診察を終え、湊斗を見ると口を開いた。

「湊斗様、いらっしゃいましたね。伸一様の状態は安定していますが、まだ少し弱っています。しばらく安静が必要です。食事と休息に気をつけてください。それと、何よりも大事なのは気持ちを明るく保つことです。刺激は避け、楽しいことを増やしてあげてください」

そう言って、医師は病室を後にした。

病室のベッドに半身を預けていた伸一は、手を軽く振った。

「湊斗、音瀬ちゃん。今日は籍を入れた日だろう?湊斗には、二人の時間を大切にしろと言っておいたのに、わざわざ俺のところへ来なくてもよかったのに」

「桐生様」音瀬は緊張し、手のひらに汗をかいた。「すみません……」

伸一は不思議そうに首を傾げた。「まだ呼び方を変えないのか?それに、謝ることなんて何もないだろう?」

「私……」

その瞬間、手首がきつく握られた。湊斗が彼女の言葉を遮ったのだ。

「音瀬が言いたいのは、じいさんがまだ入院中なのに、俺たちが二人の時間を楽しむ気になれるわけがないってこと。だから、じいさんの言いつけを破ることになってしまった」

音瀬は驚いた。彼はもう彼女の正体を暴くつもりはないのか?

「ははは、やっぱり音瀬ちゃんはいい子だな」

伸一は満足そうに笑った。

「顔を見せてくれただけで十分だよ。医者も言っていた通り、俺はもう大丈夫だし、ここには医者も看護師もいる。君らが幸せなのが、俺にとって一番の喜びだ。今日は君らの大事な日なんだから、デートでもしてこい。湊斗、君からちゃんとリードするんだぞ」

「わかってる、じいさん。ゆっくり休んでください」

湊斗は音瀬の手を握り、二人は連れ立って病室を後にした。

しかし、温かさは一瞬だった。

病室を出るやいなや、湊斗は音瀬の手を乱暴に振り払い、指先でネクタイの結び目を緩めた。

「じいさんに刺激を与えるわけにはいかない。だから、しばらくはこのことを黙っておく」

祖父が自分の強い希望で結婚させた相手が、こんな女だったと知ったら、ショックで病状が悪化するに決まっている。

何も言われなくても、音瀬には分かっていた。

湊斗の目は冷酷で、毒を含んだように言い放つ。「お前の名前が桐生家の戸籍に載っていること自体が汚らわしい」

たとえ形だけの結婚だとしても、彼女にはその資格すらない!

「!」音瀬の背筋が凍り、両手を握りしめると、掌に冷たい汗が滲んだ。

まるで全てを剥ぎ取られ、人前で晒し者にされたような気分だった。

しかし、反論する言葉はなかった——彼の言う通りだった。彼女は自らを売り、しかも売る相手を間違えたのだ。彼女は人前に出られるような存在じゃない!彼女は汚れている!

湊斗は彼女から目を逸らし、まるで見るのも嫌だというように顔を背けた。

「まずは離婚の手続きを進める。俺から連絡するから、指定した時間に役所に来い。それまではじいさんの前で、大人しく孫嫁の役を演じておけ。分かったな?」

「はい」音瀬はぼんやりと頷いた。

湊斗は踵を返し、誇り高く傲然とした背中を見せながら去っていった。

音瀬はその場に立ち尽くし、苦笑した。

彼がこんなにも怒るのは、仕方がないことだと思う。

でも、それでもやっぱり、悔しさと理不尽さが胸を締め付けた。

どんな女でも、愛する人と結ばれたいと願うものだ。かつての彼女にも、自分を大切に思ってくれる人がいた。

だけど、もう二度とそんな日は来ないのだろう……

病院を出た音瀬は、そのまま江大の寮へ戻った。白波町へは行かなかった。湊斗の彼女に対する嫌悪を考えれば、わざわざ一緒に暮らす必要もないだろう。

夜、音瀬の携帯が鳴った。電話の相手は大塚だった。

「湊斗兄さんは来週の水曜日に空いてます。離婚の手続き、問題ないですか?」

「大丈夫です」

音瀬は落ち着いた声で答え、少しだけ笑みを浮かべた。「時間通りに行きますね」

電話を切ると、音瀬の表情は変わらなかった。

これは最初から取引でしかなかった結婚だ。悲しむ理由なんてない。ただ、こんなにもあっさりと終わるとは思わなかっただけ。

数日間の疲労と精神的な緊張が続いていたせいか、その夜、音瀬は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

翌朝、彼女はすっかり元気を取り戻していた。

身支度を整え、音瀬は附属病院へ向かった。

彼女は江大で臨床医学を学び、現在は附属病院の外科で実習をしている。

今日は日勤で、珍しく外来の患者が少なく、定時で上がることができた。

仕事を終えた後、山海城へ向かった。

すでに小山陽介(こやま ようすけ)と林梨香(はやし りか)が先に到着していた。

彼ら三人は、小学校から大学までずっと一緒だった幼馴染だ。

梨香と音瀬は医学部へ、陽介は商学部へ進み、一年早く卒業した。

お互い忙しく、しばらく集まれていなかった。

少し前に陽介が海外へ行っていたが、帰国した途端、すぐに彼女たちを食事に誘った。

「音ちゃん、来たね!」

音瀬が席に着くと、テーブルにはすでに料理がぎっしり並んでいた。

「こんなに頼んで、どうするの?」

梨香がすかさず答えた。「陽介くんが食いしん坊だからね。でも、一人じゃ食べきれないでしょ?だから、あたしたちを巻き込んだのよ。最悪でしょ?」

「じゃあ、あんたにはやらん」

陽介はニヤッと笑い、音瀬に向かっていたずらっぽくウインクした。

「音ちゃんだけに食べさせるからな。梨香にはやらん!」

「ほんとムカつく!」

ふざけ合いながら、音瀬の心は少しずつ軽くなっていった。

「音ちゃん」陽介がふと、彼女の表情をうかがいながら口を開いた。

「知ってるか?」

音瀬は、ご飯を口に運びながら聞き返した。「何のこと?」

梨香と陽介は視線を交わし、梨香が彼女の器にスペアリブを入れた。「牧野、帰国するんだって」

音瀬の手が止まり、顔色が少し変わった。

彼女はゆっくり首を振った。「知らなかった」

「彼、グルチャでみんなに連絡してたよ。帰国したら、同窓会を開きたいって」

陽介が言うグループチャット、音瀬もかつては入っていた。

しかし、牧野祐樹(まきの ゆうき)と別れた日、彼女は彼をブロックし、そのグループも退会していたのだ。

陽介は再び問いかけた。「音ちゃん、じゃあその日は、あんたは行くのか?」

音瀬は口元に微かな笑みを浮かべたが、その笑みにはほとんど感情がなかった。「私が行って、何になるの?」

「でも、同窓会よ?せっかくの機会だし……」梨香がためらいがちに言った。

音瀬は首を振った。「元カレに会いに行くため?彼と別れたその日から、私はもう一生、彼に会うつもりはないの」

そう言いながら、彼女の手は無意識にぎゅっと握りしめられた。

「音ちゃん、怒るなよ」

梨香はすぐに陽介を睨みつけた。「だから言わないでって言ったでしょ!行かなくていいよ、あんなやつに会う必要なんてない!」

「僕のミスだ」

陽介は悪びれもせず、軽く肩をすくめたあと、ふと目を細めてニヤリと笑った。

「けどな、昔を思い出せよ。もし祐樹が横入りしなかったら、音ちゃんはとっくに僕と付き合ってたはずだぜ?うちの音ちゃんを大事にしないなんて!」

「ぷっ……」梨香は思わず水を吹き出しそうになった。「陽介坊ちゃま、あなた本当に恥知らずよね」

「僕は自分の顔に誇りを持ってるからな」

陽介は気にする様子もなく、にやりと笑いながら聞いた。「音ちゃん、あのばばあ、またいじめたりしてないか?」

「ばばあ」というのは祥子のことだった。

幼馴染として長年一緒に過ごしてきた彼らは、音瀬の家庭事情をよく知っていた。

今回の件も、彼女は何も話していなかったが、彼らに話すつもりもなかった。

音瀬は穏やかに微笑みながら、首を振った。「大丈夫、私は元気よ」

「見た感じは平気そうだな」

陽介はしばらく彼女を見つめたあと、軽く息をついた。「でも、何かあったらすぐに言えよ。僕がいるんだからな」

「あたしも!」梨香も手を挙げた。

「うん、ありがとう」

音瀬は微笑んで頷いた。

でも、彼らに甘えるつもりはなかった。彼らもまた、彼女と同じくらいの年齢で、家の援助を受けながら生活している。彼らは親友だけれど、だからこそ、必要以上に頼りたくなかった。

それに、もう問題は解決したのだから。

食事を終えると、陽介は次の予定があると言って先に帰った。音瀬は梨香と一緒に、彼女の借りているアパートへ向かった。

その夜、音瀬はなかなか寝付けなかった。

布団の中で何度も寝返りを打ち、目を閉じるたびに、ある顔が浮かんでくる……

ゆうたんが、帰ってくる?

彼とはもう、どれくらい会っていないのだろう?

気がつけば、もう三年も経っていた。

週末、音瀬は休みを利用して、青山療養院へ向かった。

彼女はほぼ毎週、誠に会いに行っていた。彼と一緒に時間を過ごすために。たとえ彼がほとんど反応を示さなかったとしても。

バスに乗っていると、スマホに通知が来た。「友達追加」のリクエスト。

音瀬がちらっと見たが、見覚えのない名前だった。特に気にせず、そのまま無視した。

療養院に着くと、音瀬は誠のために買ってきた荷物を抱え、部屋の扉を開けた。

「泣けよ!ほら、泣けって言ってんだよ!」

「なんて役立たずなんだ!」

鋭い女の声が部屋に響き渡った。

「パァン!」と乾いた音が鳴り響く。そして、女の甲高い笑い声。

「バカが!殴られても泣きもしねぇ!こんな出来損ない、生きてる価値なんてないんじゃない?ははは……」

音瀬の血が一気に沸騰する。

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