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第4話

作者: 空木林
音瀬は理解した。だが、結婚は遊びではない。彼女は躊躇いながら首を振った。

「必要ないでしょ?ちゃんと桐生様を説得すれば……」

しかし、その言葉は最後まで言えなかった。途中で遮られたのだ。

湊斗の顔色は変わらず、波風一つ立たない声で言った。「条件として、金銭的補償をする」

金銭的補償?音瀬は一瞬呆気に取られ、拒絶の言葉が喉の奥で詰まった。

弟は治療費を待っている。

彼女が桐生家を訪ねたのは、そもそも金のためだった。

彼女の動揺を見て取ると、湊斗はさらに言葉を続けた。「お前が承諾するなら、いくらでもくれてやる」

音瀬は数秒間沈黙し、その後、小さく頷いた。「わかりました、承諾します」

湊斗は視線を落とし、目の奥に潜む冷笑を隠した。

金のために結婚を売り渡す女など、安っぽいものだ。

まあいい。後々、始末するのも簡単だ。

「契約書は用意する。明日の朝、身分証明書を持って、役所で待て」

「はい」

翌朝、音瀬は役所の前で待っていた。

昨夜は一睡もできず、頭がずっとぼんやりしていた。そんな状態のまま、湊斗が現れる。

彼がゆっくりと近づいてくるのを見て、音瀬は必死に微笑んだ。「桐生さん」

しかし、湊斗は彼女に一瞥もくれず、ただ真っ直ぐ中へ進んだ。

「さっさと来い」

「ええ、今行きます」

手続きはすぐに終わった。音瀬は、自分の手に握られた結婚証明書を見つめながら、複雑な心境だった。

生きるために、身体を売り、そして今度は結婚まで売った。

役所の前には二台の車が停まっていた。

湊斗は後ろの車を指し示した。「乗れ。運転手が住居まで送る」

そして、彼自身は前の車に向かった。

「義姉さん」

大塚が音瀬の前に立ち、彼女に一枚のカードを差し出した。「湊斗兄さんからです」

約束はあまりにも早く果たされた。音瀬は拒まず、カードを握りしめた。

心から感謝して、湊斗に向かって言った。「ありがとうございます」

湊斗は振り向くこともなく、取引に過ぎないと言わんばかりだった。

「拓海、こいつには義姉さんなんて呼ばれる資格はない。行くぞ」

しかし、音瀬は運転手と一緒には行かず、住所だけ聞くと彼を帰らせた。

そして彼女が向かったのは青山療養院——自閉症専門の治療施設だった。

ベンテイガの車内で、湊斗は大塚に指示を出した。「菜月のところへ行って、結婚の話は取り消しになったと伝えろ。機嫌を損ねないようにな。欲しいものがあれば全部用意しろ」

「わかった、兄さん」

湊斗のスマートフォンが振動した。消費通知のメッセージだった。

——末尾番号XXXXのクレジットカードで、400万円が支払われました。

カードを渡したばかりで、もうこんな大金を使ったのか!

フン。

……

青山療養院を出た音瀬は、領収書を持っていた。

帳簿を開き、一筆記す。

——XX年X月X日、湊斗さんから400万円の借金。

彼女は最初から彼の金をもらうつもりはなかった。今は返す力がなくても、いつか必ず返すつもりだった。

一つの懸念が解消され、音瀬は深く息をついた。

二日間緊張しっぱなしだったせいか、急に力が抜けて足元がふらついた。背中と額には冷たい汗が滲んでいた。

彼女は実習医として、これが何の症状かよく分かっていた。

あの夜が激しすぎたせいで、ずっと身体のある部分が痛み、まだ出血も続いている。放っておくのはまずいかもしれない。

彼女はすぐに病院へ向かい、婦人科の診察を受けることにした。

……

湊斗は会議中だったが、大塚から電話が入った。

「兄さん!」大塚の声が焦っていた。「菜月さんが倒れた!婚約破棄を伝えた直後、急に気を失ったんだ。今、病院に運んでる!」

「すぐ行く!」

病院にて。

祥子が大げさに泣き喚いていた。「うちの可哀想な娘よ!婚約が破棄されるなんて、こんなの死ぬようなものじゃない!」

「ママ、そんなこと言わないで。桐生社長はもう別の人と結婚したよ」

菜月は涙目で、悲しげに言った。

「私はただ……運がなかったんですよ。桐生社長、見舞いに来てくださってありがとうございます」

湊斗は女の泣き顔が嫌いだった。だが、菜月は彼の最初の女だった。

少しは気を遣う必要があった。

「突然のことだった。彼女と結婚したのは、ただの一時的な措置にすぎない。俺と彼女の間に感情はない。離婚するのは時間の問題だ。お前に約束したことは変わらない。ただ、少し待ってほしい」

「本当ですか?」祥子は泣き止み、目を輝かせた。「桐生様、まさか菜月を騙しているわけじゃないでしょうね?」

湊斗は疑われることを好まなかった。たとえそれが菜月の母親であっても。

「俺を疑うのか?」

「信じます!」

菜月は湊斗の袖をぎゅっと掴み、涙を拭った。「私は信じています」

その言葉に、湊斗の表情が和らいだ。

彼の大切な女が、傷ついてしまった。

すべて、音瀬のせいだ。彼女のせいで、菜月が悲しむことになったのだ。

「ゆっくり休め。余計なことは考えるな」

「うん、言う通りにしますね」

菜月を落ち着かせると、湊斗はすぐに会社へ戻ろうとした。

だが、病院のロビーを通り過ぎた時、ふと見覚えのある姿が目に入った。

あれは、池田音瀬?

彼女が白波町に行かず、ここに来た理由は何だ?湊斗は無意識に彼女の後を追った。

音瀬が入ったのは、一つの診察室だった。湊斗が上を見上げると、扉に掛かっているプレートが目に入る——婦人科!

湊斗の顔色が一瞬で暗くなった。彼女を待つことにした。

半時間後、音瀬は顔色を悪くしながら、壁に手をつき、ゆっくりと診察室から出てきた。

音瀬は驚いた。「なんでここに?」

湊斗は答えず、代わりに問い返した。「お前、婦人科になんの用だ?」

「私のことですよ」音瀬は目をそらして、「あなたと関係ないでしょ」

その瞬間、診察室の扉が開いた。中から看護師がカルテを手に持って、彼女を呼んだ。

「池田さん、診察記録を忘れてますよ!」

「あ、ありがとうございます!」

音瀬が手を伸ばした、その時。湊斗の手が、彼女よりも早くカルテを奪い取った。

音瀬は驚いて跳び上がるように彼の手を掴んだ。「返して!見ないで!」

「お前の思い通りになるとでも?」

身長差を活かして、湊斗は軽々とカルテを開いた。音瀬は、泣きそうな顔でそれを取り返そうとした。

「あなたに何の権利があるの?見ないでよ!」

しかし、湊斗はすでに目を通していた。

彼の顔は一瞬にして暗くなり、まるで鍋底のように黒く沈んだ。信じられないという表情で、低く冷ややかな声を発した。「お前、これは何の傷だ?」

音瀬は羞恥で目を閉じ、顔から血の気が引いていった。

看護師が呆れたように口を挟んだ。「あなた、彼氏なのに知らないんですか?ひどいですよねぇ。自分だけ気持ちよくなって、彼女は三度の裂傷ですよ?何針も縫ったんですよ。もう少し労わってあげなさいよ」

看護師は背を向けながら、ぼそっと呟いた。「経験ないなら、高難度のプレイなんてやるもんじゃないわよ……」

湊斗は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。三度の裂傷?縫合?高難度のプレイ?

どれだけ激しくやったって言うんだ!

彼はこんな女と結婚したのか!

結婚したばかりなのに、もうこんなに堂々と浮気するとは!

彼女のせいで、菜月が悲しんだというのに!

「池田、お前の厚顔無恥ぶりは想像を超えてるな!呆れたぞ!」

湊斗は彼女の手を強く掴み、そのまま引きずるように歩き出した。

力が強すぎて、音瀬は痛みに顔をしかめた。「どこへ連れて行くんです?」

「じいさんのところだ!」

湊斗の頭の中は、怒りで真っ赤だった。

「お前の本性をじいさんに見せてやる!こんな尻軽な女が、どうやって桐生家に入り込んだのか、じいさんに説明してもらおうじゃないか!」

音瀬は申し訳なさと、言いようのない無力感でいっぱいだった。

彼に伝えたかった。結婚を望んだのは私じゃない。彼の方でしょう?

しかも、形だけの契約結婚だったはず。お互い干渉しない、すぐに離婚する、そういう約束だったのに。

でも、湊斗には大きな恩がある。もういい、彼がどうしようと勝手にさせればいい。

病室に着くと、湊斗は勢いよく扉を開け、音瀬を中へと突き飛ばした。

「さあ、自分の口でじいさんに言え。お前がどんな女なのか!」

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