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第946話 猫を飼い始めた

Author: 栗田不甘(くりた ふかん)
三井鈴が目を覚ました頃、窓の外の街はすでに夜の帳に包まれていた。ぼんやりと目を開けると、全身に痛みが走る。

長らく飢えていたかのように、田中仁は容赦なかった。ソファ、キッチン、主寝室、浴室まで。すべてを経て、彼女の身体はまるで轢かれたかのように動かすのもつらく、指を一本動かすのにも力が要った。

部屋にはアロマの香りが漂い、柔らかな間接照明が灯っていた。空気中からは昨夜の熱も匂いもすっかり消え、男の姿もすでになかった。

仰向けに寝ながら、三井鈴はふと天井を見上げて気づく。そこにあるのは天井ではなく、威厳に満ちた神々の彫刻。まるで闇夜のなか、天から彼女を見下ろしているかのようだった。

胸の奥がきゅっと締め付けられる。ほんの少し前、彼女が絶頂に達した瞬間、田中仁がその手を取ってこの神々を指さしたのを思い出す。

あれは、ある種の狂気だった。身体だけじゃない、心まで抗えないほどの。

シャワーを浴び直す必要はなかった。浴室で彼が丁寧に洗ってくれたのだ。三井鈴は身体を起こし、床に足をつける。だが、ドアがロックされていることに気づいた。

特に気にも留めず、バルコニーの方へと歩く。そこには外部とつながるもうひとつの扉がある。扉に近づくと、かすかな声が聞こえてきた。

「父さんのこと、調べたの?」

菅原麗の声だ。

三井鈴は思わず足を止めた。

菅原麗は突然訪れ、田中仁は三井鈴と交わった後、乱れたシャツを羽織ったまま外に出ていた。襟元の皺を気にしながら、眉間に皺を寄せる。「調べた。安野彰人の娘は事故だ。父さんとは関係ない」

「安野の汚職、どこまで掴んだの?表に出てる数字だけじゃ納得できないわ。裏金や利権の中抜き、ちゃんと洗ったの?」

「豊勢グループは父の会社だ。そんな愚かなことはしない」

菅原麗は窓際まで歩み寄る。波乱をくぐってきた女の声は、落ち着いていたが鋭かった。「もう、誰か一人が支配できる時代じゃないのよ」

「父が私の取締役ポストを戻した。明け方には書面が届くはずだ」

田中仁がふとバルコニーの方に目をやると、そこに女性の影が揺れていた。

それは確かに良い報せだった。菅原麗は満足げに言った。「田中葵、家に入り込んだところで田中家の人間にはなれない。彼女もその息子も、陽の当たらないネズミ同然。商工会だって彼を認めるわけがない」

これまで築いてきた地盤は、
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