Masuk月曜の朝。病院にて。「母体の状態からして、中絶手術は不可能です」医師からそう告げられた瞬間、琴葉は雷に打たれたように呆然とした。「どうしてですか!?」琴葉はガタッと椅子から立ち上がった。「佐藤先生、この前中絶の相談に来た時は、駄目だなんて一言も言わなかったじゃないですか!」「あの時はまだ、精密な身体検査を行っていませんでしたからね」佐藤敬介(さとう けいすけ)は、今朝琴葉が受けたばかりの検査報告書に目を落としながら言った。「新しい検査結果を見る限り、もし無理に中絶を行えば、母体にかなりの負担がかかります。今後の妊娠が難しくなるばかりか、別の合併症を引き起こすリスクも高くて……」……診察室の外で待機していた帆夏は、扉が開き、魂が抜けたように項垂れて出てきた琴葉の姿に気づいた。てっきり手術に怯えているのだと思った帆夏は、慌てて駆け寄り、彼女の手を握って慰めた。「怖がらないで、琴葉。麻酔を打てば痛くないって聞くし、目を閉じていればあっという間に終わるからね」琴葉はゆっくりと顔を上げ、帆夏を見た。「……先生が、身体的な理由で中絶はできないって」「はあ?できない?」帆夏は完全に呆気にとられた。「身体的な理由って……中絶できない体質なんてあるの?」「よく分からないわ」琴葉の目にも、まだ困惑の色が色濃く残っていた。「専門用語をたくさん並べられて全然頭に入ってこなかったけど、要するに……この子を堕ろすという選択肢は、私にはないってことよ」帆夏は急いで彼女をそばの長椅子に座らせると、自分も焦ったように問いかけた。「じゃあ、これからどうするの?」琴葉が途方に暮れた顔で口を開きかけたその時、スマートフォンがピコンと短い通知音を鳴らした。画面を開くと、碧斗からメッセージが届いていた。返信は、ただ一言。【分かった】その一つ前にあるのは、今朝病院に着いた時に彼女自身が送ったメッセージだ。【今、病院で中絶手術の準備をしてる。午後2時半、時間通りに役所に来てね】「堕ろせないってことは、神様のお告げよ。あなたがこの子と縁があるって証拠じゃない」帆夏が言った。「こうなった以上、腹を括って産むしかないわよ」「でも……」琴葉はスマートフォンに映る碧斗とのトーク画面を見つめた。「彼、子供がお腹にいる限り、絶対に離婚に同意しないって言
怒りのせいか、琴葉の目尻はうっすらと赤みを帯びていた。「これで、文句ないわね?」碧斗はふいと視線を逸らし、唇を引き結んだまま無言を貫いた。それはつまり、暗黙の了解を意味していた。それを見た琴葉はもう二の句を継ぐことはせず、彼をすり抜けて歩き出した。だが2歩も歩かないうちに、ぐっと手首を掴み留められる。振り返り、自分を引き留めた男を眉をひそめて睨みつけた。「まだ何か用?」碧斗の眼差しがわずかに和らいだ。「お前は身重だ。家まで送る」「結構よ」琴葉は彼の手を乱暴に振り払い、背を向けて足早にその場を立ち去った。……外来棟を出て、駐車場へと続く道を歩いていると、背後から名前を呼ぶ声がした。「琴葉!」振り返ると、帆夏がこちらへ向かって駆け寄ってくるところだった。琴葉は驚いて目を丸くする。「帆夏?どうしてここに?」「あなたが病院で検査を受けるなんて言うから、心配で見に来たに決まってるじゃない」帆夏は息を切らしたまま、矢継ぎ早に尋ねた。「で、どうだったの?先生はなんて?やっぱり胃が悪かったの?」琴葉はふっと伏し目がちになり、ぽつりとこぼした。「……病気じゃなかった。妊娠してたの」「はっ?」帆夏の声が上ずり、その視線が琴葉の腹部へと注がれる。「あ、あなたが……妊娠!?そ、それって喜ぶべきなの?悲しむべきなの?だって明日には碧斗と離婚するんでしょ?このこと、彼に言うわけ?それとも離婚はやめるの?」碧斗の名前が出た途端、琴葉の表情がスッと冷たくなった。「彼にはもう知られたわ。来週の月曜日に子供を堕ろして、そのまま離婚する」帆夏はあんぐりと目を見開いた。「もう言ったの!?まさか、彼が堕ろせって言ったわけ!?」琴葉は首を横に振り、先ほど偶然碧斗に出くわし、妊娠を知られてしまった経緯を説明した。「じゃあ……あなた自身が、この子を産まないって決めたのね?」帆夏は彼女の手をそっと握りしめた。「琴葉……本当に、それでいいの?」琴葉はまだ平らな下腹部にそっと手を当て、沈んだ声で言った。「この子は元々、望まれてできた命じゃないもの」もしこの子を産んだら、結城家の血筋を重んじる碧斗は、必ず親権を争ってくるはずだ。何の後ろ盾もない自分が彼と争って勝てるわけもなく、最終的には子供を結城家に奪われるのが目に見えている。
琴葉が背後に回した手は、検査結果の用紙をきつく握りしめたまま小刻みに震えていた。妊娠なんてあまりにも突然すぎて、自分でもどう対処すべきかまったく心の準備ができていない。明日には離婚の最終手続きを控えているのだ。こんな決定的なタイミングで碧斗に妊娠を知られでもしたら、どんな事態になるか分かったものではない。「びょ、病気じゃないわよ。ただ頭が痛くて……」言い終わらないうちに、目の前の長身の男がふいっと距離を詰めてきた。琴葉は心臓を跳ね上げ、咄嗟に後ずさってかわそうとしたが、背中に隠していた検査結果の用紙をあっさりと奪い取られてしまった。「あっ……」琴葉は血相を変え、慌てて彼の腕にすがりついた。「碧斗、返してよ!」碧斗は彼女に左腕を引かれるがままにしながらも、右手でひょいと用紙を頭上高く掲げ、そこに目を走らせた。「……妊娠?」男の口からこぼれ落ちたその単語に、背伸びをして用紙を奪い返そうとしていた琴葉の動きがピタリと止まった。碧斗はゆっくりと首を巡らせ、探るように目を細めて彼女を見つめた。「琴葉、お前……妊娠を隠して俺に離婚を突きつけたのか?なんだ、子供を独り占めする気か?」琴葉は絶句した。――はあ!?とんでもない濡れ衣を着せてくれるじゃない。よくもまあ、ぬけぬけと白を黒と言いくるめられたものね。「あなたの目は節穴なの!?」彼女は怒りに任せて用紙を引ったくり、結果の欄を彼の目の前に突きつけた。「妊娠した時期をよく見てよ!私に予知能力でもあるって言うの!?1ヶ月も前から自分が身ごもることを見越せるわけないでしょ!それに、これだって元はと言えばあなたのせいでしょ!」琴葉は用紙を彼の胸ぐらにバンッと叩きつけ、憤然と言い放った。「あの夜、あなたが飢えた獣みたいにいつまでもやめなかったりしなきゃ、妊娠なんてするわけなかったでしょ!」碧斗は胸に当たった用紙を掴み取り、彼女を真っ直ぐに見据えた。「お前には責任がないって言うのか?」「私に何の責任があるって言うのよ!」碧斗は悪びれもせず言い放った。「あの夜の後半、俺にすがりついて『欲しい』とねだったのはお前だろうが」琴葉は大きく目を見張った。あの夜のやり取りを思い出して、たちまち怒りが湧き上がる。「あの時私が言ったのは『離婚してほしい』ってことよ!誰があんなことしてっ
離婚が成立するまでのこの数日間は、本来なら予定がぎっしり詰まっているはずだった。だが、八雲への出発がなくなったことで、急にぽっかりと時間が空いてしまった。目指すものも楽しみにしていた予定も失ってしまったせいだろうか。琴葉はふいにどっと心身の疲れを覚え、ソファに身を沈めたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。再び目を覚ました時には、すっかり夜の帳が下りていた。その後の2日間、琴葉は一歩も外に出なかった。1日中部屋にこもり、眠くなれば眠り、お腹が空けばデリバリーを頼むという生活を送っていた。そうして最後の手続きまでの3日間を、ただ無為にやり過ごすつもりだった。だが、最後の手続きを明日に控えた前夜。シャワーを浴びていた琴葉を、唐突に胃の痛みが襲った。目眩がするほどの痛みに耐え、震える手で服を着て浴室を出た頃には、なぜか嘘のように痛みが引いていた。思い返せば、ここ数日ほど胃に鈍い痛みを感じることはあった。だが、今日ほどひどくはなかったため、大して気に留めていなかった。何の前触れもなく、どうして急に胃が?今までこんなことは一度もなかったのに。もしかして、胃のどこか悪い病気じゃないかしら……ベッドに横になっても、考えれば考えるほど不安が募る。彼女はたまらず起き上がり、スマートフォンを手に取って検索窓に打ち込んだ。【全身の倦怠感 胃の痛み 時々吐き気 病気】検索ボタンをタップすると、画面にはすぐさま無数の検索結果がずらりと並んだ。見れば見るほど、深刻な病名ばかりが目に飛び込んでくる。慢性胃炎。胃潰瘍。逆流性食道炎。極めつけは、胃がんの中期・末期というものまであった。琴葉はページを一つひとつ開き、自分の症状と照らし合わせていった。どの病気の説明を読んでも、自分の状態に当てはまっているような気がしてくる。読み進めるほどに心拍数が跳ね上がる。――まさか私……本当に不治の病なんじゃ……そう想像して緊張した途端、また胃のあたりがズキズキと痛み出した気がした。琴葉はお腹を押さえ、ぐっと歯を食いしばる。駄目だ。病気にせよそうでないにせよ、明日は絶対に病院へ行ってきちんと検査してもらおう。こんな風にひとりで怯えていても仕方ない。結局その夜はろくに眠れず、琴葉は翌朝一番で病院へと向かった。専門医の
1ヶ月以上も準備してきた計画が、こんなにあっけなく頓挫してしまうなんて。琴葉はソファに座り込んだまま、まだ頭が真っ白だった。しばらくして、再びスマートフォンが鳴る。今度は帆夏からのビデオ通話だった。琴葉が応答するなり、画面いっぱいに帆夏の顔が映し出された。「琴葉!明日の送別会だけど、どんな料理にする?定番の伝統料理か、お洒落な創作料理、それとも気取ったフルコース?私としてはやっぱり本場の帝都料理がいいと思うんだよね。八雲に行っちゃったら、しばらく食べられなくなるし」琴葉はすっかり気落ちした顔で言った。「……やらなくていいわ」「やらなくていい?」帆夏は目を丸くした。「どうしてよ?琉馬の奢りって決まってるんだから、彼の財布の心配なんてしなくていいのよ」彼女が言い終わるや否や、画面の端から一人の男が顔を覗かせた。「そうだよ。琴葉が仕事で遠出するなんて初めてだし、しかも1、2年は帰ってこないんだろ?何がなんでも盛大に送り出してやらないとな」声の主は琉馬だった。琴葉と帆夏、琉馬の3人は中学校の同級生で、その頃からの親友同士だ。最初は3人で一生の親友でいようと誓い合っていたはずが、いつの間にかこの2人がちゃっかりくっついてカップルになっていた。琴葉は画面越しの親友たちを見つめて言った。「あなたたちのお金を節約してあげたいわけじゃないの。私、八雲へは行けなくなったから」「行けなくなった?」画面の向こうの2人は驚いて声を揃え、顔を見合わせた。帆夏が尋ねた。「どういうこと?」琴葉はため息をつき、先ほどの電話の顛末を2人に話した。帆夏は憤慨した。「何それ、順調に進んでたプロジェクトをいきなり中止にするなんてありえないでしょ」琴葉は唇を尖らせた。「さあね……」帆夏は痛ましそうに彼女を見つめた。「もう、うちの琴葉が不憫すぎる!でも大丈夫だよ。行けないなら行けないでいいじゃない。帝都にだって、あなたの専門を活かせる仕事はいくらでもあるし」琉馬も同調した。「そうだよ。お前の腕なら、どこにいたって十分にやっていけるって」帆夏が続ける。「いざとなったら、私たちで工房を立ち上げてもいいしね」口々に慰めてくれる2人を見て、琴葉は思わず吹き出した。「心配しないで。私、そんなにヤワじゃないから。八雲に行けなくなったくらいで泣きべそなん
電話を切ると、琴葉は少し気まずそうに姿勢を正した。「いつ着いたの?どうして起こしてくれなかったのよ」「今着いたところだ」車内の狭い空間のせいか、それとも光の加減のせいか、琴葉はなぜか、自分を見る碧斗の眼差しがどこか妙だと感じた。「あの……あなたの運転手はもう来てるの?」「ああ」「そう」琴葉は頷いた。「じゃあ、早く帰って休んで。この2日間、色々迷惑をかけたわね」言い終えるが早いか、彼女は自ら車のドアを押し開けた。碧斗も無言のまま後に続いて車を降りる。そばで30分以上待機していた運転手は、ようやく車から人が降りてきたのを見て、慌てて駆け寄ってきた。琴葉は運転手に声をかけた。「碧斗のスーツケースがトランクにあるから、出してもらえる?」「かしこまりました」運転手がトランクへ荷物を取りに向かった隙に、琴葉はようやく目の前の男に向き直り、車のキーを返すよう手を差し出した。碧斗は彼女の手のひらにキーを落とした。「あと4日で、最終的な手続きに進めるわね」琴葉はキーをぎゅっと握りしめ、尋ねた。「その翌朝の8時半、役所に最後の離婚手続きを済ませに行きたいんだけど、あなたの都合はつく?」夜の闇の中、碧斗の底知れぬ漆黒の瞳が彼女をじっと見据えた。彼はふと、微かに口角を上げる。「……そんなに急いでいるのか?」「ええ、かなりね」琴葉はあっけらかんと頷いてみせた。光莉とはとうに約束ができているのだ。離婚が成立した翌日には、櫂と一緒に八雲へ発つことになっている。碧斗の口元に浮かんでいたかすかな笑みが、すっと消え失せた。運転手が彼女のスーツケースも一緒に降ろし、傍らで待機している。「じゃあ、また5日後に」琴葉は碧斗へ事務的に軽く会釈をすると、手元のキーで車のロックをかけ、運転手からスーツケースを受け取ってマンションのエントランスへと踵を返した。もう一度碧斗を振り返ることはなかった。碧斗はその場に佇み、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、何を考えているのか読めない眼差しで見つめていた。……翌日。琴葉は、宗正と光莉に買って帰る手土産をひとつにまとめ、写真を撮って光莉に送信した。【先輩と師匠にこれだけ買ってみたんですけど、他に何か持ってきてほしいものはありますか?また後で買いに行きますね】先輩は今







