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第6話

作者: 九条舞
琴葉は午後、マンションへ日用品の準備に行っていた。幸子から電話を受けたのは、ちょうど1階に下りて、近くの店で腹ごしらえをしようとしていた矢先だった。

あの早朝から夜遅くまで働き詰めの仕事人間が、今日に限って家で夕食をとるなんて思いもしなかった。

電話を切るなり、彼女はすぐに御庭苑へ引き返した。

家に着くと、ダイニングテーブルについている碧斗の姿が真っ先に目に飛び込んできた。

今日わざわざ早く帰宅したのは、向こうも早く離婚の話を進めたくてたまらないからだろう。

そう見当をつけ、琴葉は歩み寄って彼の向かいに腰を下ろした。料理を運んでこようとする幸子を見て、彼女は声をかけた。「鈴木さん、少し話があるから、食事は後にしてちょうだい」

幸子は琴葉の好物のおかずを手に持ったまま立ち尽くし、戸惑ったように碧斗へ視線を向けた。

碧斗は琴葉をちらりと見やり、幸子にコクリと頷いて、下がるように合図した。

ダイニングに2人きりになると、琴葉は単刀直入に切り出した。「明日の朝一番で、役所に行くわよね?」

碧斗の顔に明らかな戸惑いが走り、彼は眉をひそめた。「桑原グループに南岬のプロジェクトを回したというのに、まだ不満なのか?」

琴葉は怪訝な顔で彼を見つめた。「何の話?」

離婚の話をしているのに、どうしてプロジェクトの話が出てくるの?

「新エネルギーの件は桑原グループには回せない。だが、南岬のプロジェクトなら桑原グループも十分に儲かるはずだ。それは保証する」

「……どういう意味よ?」

琴葉は数秒ほど呆気にとられ、ようやく合点がいった。「つまり……私が離婚を盾にして、桑原グループに新エネルギーのプロジェクトを回すようあなたを脅しているとでも?」

碧斗は黙って彼女を見つめるだけだった。

否定はしない。

琴葉は怒りを通り越して笑いがこみ上げた。

「碧斗、結婚した当初にはっきり言ったはずよ。桑原グループを特別扱いする必要はない、ビジネスは私情を挟まず、仕事として処理してくれればいいって。桑原グループがプロジェクトを取ろうが取るまいが、私にはどうでもいいことなの」

琴葉は深呼吸をし、改めて言った。「私が離婚するのは、これ以上あなたに時間と感情を浪費したくないから。ただそれだけよ」

碧斗は彼女の顔をじっと見据えた。「離婚すれば、桑原グループは二度と結城グループの援助を受けられなくなる。それでも離婚すると?」

「ええ」

琴葉は彼の視線を真っ向から受け止め、断固たる口調で言った。「絶対に離婚するわ」

桑原グループがどうなろうと、彼女の考慮には一切入っていない。

彼女が彼に嫁いだのは、桑原家のためなどでは断じてなかった。

滑稽なことに、彼女はこの結婚に愛情を求めていたのに、彼はこの結婚を単なる利益の交換としか見なしていなかった。

感情と冷徹な理性がすれ違い続ける以上、この関係が結実することなど最初からあり得なかったのだ。

碧斗は彼女を見つめ返した。その漆黒の瞳の奥では何かの感情が渦巻いているようにも見えたが、相変わらずその顔にはなんの表情も浮かばない。

「お前がそう決めたのなら、望み通りにしてやる」

そう言い捨てると、彼は立ち上がってその場を離れた。

彼が横を通り過ぎようとしたその瞬間、琴葉は念を押した。「じゃあ、明日の朝一番で役所に行くわよね」

碧斗は彼女の真横で一瞬だけ足を止め、「分かった」と答えた。

それだけ言うと、彼は振り返ることもなく2階へと上がっていった。

テーブルに1人残された琴葉も、彼を振り返ることはなく、遠ざかっていく足音を身動きひとつせずにじっと聞いていた。

しばらくして、幸子がゆっくりと歩み寄り、おずおずと尋ねた。「奥様……旦那様はお食事をなさらないのですか?」

琴葉は素早く気持ちを切り替え、振り向いて彼女に微笑みかけた。「みたいね、忙しい人だから」

今頃また書斎にこもって仕事の続きでもしているのだろう。

「では、先に奥様のお食事をお持ちいたしますね。旦那様にはまた後ほど……」

「私はまだお腹が空いてないの」琴葉は首を横に振り、穏やかな声で言った。「鈴木さんももう休んで」

そう言い残し、彼女も席を立って2階へと上がっていった。

幸子はその場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿を見送ってから、やるせなくため息をついた。

せっかくご夫婦揃って夕食をとれる珍しい機会だったのに、どうして急にぎくしゃくして揉めてしまったのだろうか。

キッチンの後片付けを終えてリビングへ戻った幸子は、碧斗が帰宅した際に置いていったあのギフトボックスに目を留めた。

彼女は慌ててそれを手に取り、2階へ上がって書斎のドアをノックした。

「入れ」

返事を聞いて幸子がドアを押し開けると、デスクの前に座る碧斗が、ちょうど灰皿にタバコを揉み消しているところだった。

灰皿の中の吸い殻が目に入り、幸子は思わず驚いて、沈鬱な表情を浮かべる男の顔を窺った。

琴葉がタバコの匂いを苦手としているため、碧斗は家の中の他の場所では一切タバコを吸わない。深夜まで書斎で仕事をしているときなど、よほどプレッシャーがかかって気分転換が必要なときにだけ吸うようで、幸子もごくたまに書斎で1、2本の吸い殻を見かける程度だったのだ。

――それなのに今は……

ほんの短い間に、もう何本も吸ったというのだろうか?

先ほどダイニングで、奥様は一体旦那様に何を言われたのだろう。旦那様がここまで思い悩まれるなんて。

「どうかしたか、鈴木さん」

幸子はハッと我に返った。「あ、いえ、旦那様。リビングにお忘れ物がありましたので、お持ちいたしました」

碧斗はそこでようやく彼女の持つ箱に目を向け、その瞳に複雑な色をよぎらせながら言った。「机の上に置いておいてくれ」

「はい、かしこまりました」

幸子は箱を置くと、再びこっそりと碧斗の様子を窺った。

彼女が何か言いたげにしているのに気づき、碧斗は尋ねた。「まだ何かあるのか?」

幸子は声をひそめて彼に告げた。「旦那様、奥様は寝室にお戻りになられましたよ」

碧斗は訝しげに彼女を見返した。「だから?」

幸子は気を利かせて提案した。「これは奥様へのプレゼントでしょう?今お渡しに行かれるのに、ちょうどいいタイミングかと存じますが」

夫婦喧嘩は犬も食わないと言うように、旦那様がプレゼントを持って部屋へ戻り奥様をなだめれば、今夜のうちに仲直りできるに違いない。

碧斗のこめかみがピクリと引きつった。

ちょうどいいタイミングだと?

明日は離婚するというのに、今さらプレゼントを渡しに行ってどうするというのだ?離婚を祝ってでもいるつもりか?

彼が黙り込んでしまったため、幸子もこれ以上は口を挟めず、「旦那様、では私はこれで失礼いたします」と言って身を引いた。

「ああ」

幸子が出て行くと、碧斗の視線は再びギフトボックスに向けられた。しばらくの後、彼は手を伸ばしてそれをデスクの引き出しにしまった。

この夜、碧斗は書斎から一歩も出なかった。

そして、寝室を独占した琴葉もまた、寝付けない夜を過ごした。

……

翌日、琴葉はわざわざ早起きをして薄化粧を施し、お気に入りのワンピースを選んだ。新しい生活を迎えるために、すっきりと品のある装いに整える。

8時前に1階へ下りると、碧斗はすでにダイニングにいた。

気配に気づいて碧斗が振り返り、彼女の姿を捉えたところで、その視線がわずかに止まった。

だが琴葉は、歩み寄りながら手にした離婚手続きに必要な書類を入念にチェックしていたため、彼の視線には微塵も気がつかなかった。

必要な書類がすべて揃っているのを確認し、琴葉はようやく顔を上げて碧斗に告げた。「行きましょう」

今出発すれば、役所の窓口が開く時間にちょうど間に合うはずだ。

碧斗は彼女から視線を外し、「まずは朝食だ」と短く言った。

琴葉が何か言い返そうとした矢先、幸子が朝食を運んでくるのが見えた。

少し考えてから、彼女は大人しく席についた。

彼と食べる、最後の別れの朝食――そう割り切ればいい。

立つ鳥跡を濁さず、綺麗に終わらせるために。

幸子は朝食を並べ終えると、そそくさとその場を離れた。

ダイニングテーブルには2人きりになり、琴葉はふと顔を上げ、向かいで優雅に、そして静かに朝食をとる男を見つめた。

彼の顔立ちは本当に非の打ち所がない。

凛々しい眉に澄んだ瞳。うつむいて食事をする横顔からは、すっと通った高い鼻梁が見て取れる。

彼は普段から無口で無表情だが、顔の造形そのものがあまりに圧倒的、さらに内に秘めた重厚な気品が相まって、いとも簡単に女性の心を惹きつける。

日中は常に隙のない身なりで、シャツのボタンも決まって一番上まできっちりと留められている。その気高く禁欲的な佇まいの中に、なぜかどうしようもない色気を漂わせているのだ。

常に冷静沈着で、淡々とした態度を崩さない。

たとえこれから離婚しに行くというのに、彼は一片の動揺も見せず、どこまでも落ち着き払っていた。

まるでそれが単なる仕事のスケジュールの一つであるかのように、彼にとっては取るに足らないことなのだ。

琴葉はふと好奇心を抱いた。碧斗のような性格の男が、心から愛する人の前では一体どんな顔を見せるのだろうか?

だが次の瞬間、彼女は強引に思考を打ち切り、無意味な想像を巡らせるのをやめた。

彼が愛する人とどうなろうと、自分には何の関係もないことだ。

離婚すれば、2人はただの赤の他人になるのだから。

彼女の計画では、この先の人生で彼と二度と顔を合わせることはなく、関わりを持つことも一切ないはずだ。

別れてそれぞれの道を歩み、互いに別の幸せを見つける。それが彼らの結婚の結末なのだ。

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