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第5話

Author: 九条舞
「分かっているわ」

琴葉はそう言って、ひとつ訂正を加えた。「私たちは、愛情の土台すらない政略結婚だもの」

碧斗は重い溜息をついた。「お前が離婚するとして、実家が同意するのか?」

「私は自分の意志を持った大人よ」琴葉は一字一句をはっきりと口にした。「私の結婚は、私自身が決めるわ」

碧斗は唇を引き結んだまま無言になり、普段とは打って変わった態度の妻を、探るような目で見つめた。

「安心して、結城家の財産を当てにするつもりなんてないから」琴葉はさらに続けた。「財産分与についてはあなたの言う通りにするわ。異議は一切申し立てない」

「……結婚は遊びじゃないということを、分かっておいてほしいな」

碧斗は彼女を見据え、警告するか、あるいは釘を刺すように少し語気を強めた。「一度離婚したら、後戻りはきかないぞ」

――離婚した後に、私が未練がましくすがりつくとでも思っているのかしら?

琴葉が「絶対に後悔なんてしないわ」と言い返そうとした瞬間、碧斗はふいっと立ち上がった。

「1晩時間をやる。よく考えろ」

碧斗は彼女を一瞥して言った。「もし明日になっても離婚の意志が変わらないなら、その時はお前の望み通りにしてやる」

琴葉が口を開くより早く、彼はすでに大股でドアの方へ歩き出しており、ただ一言だけを言い残した。

「まだ片付ける仕事がある。今夜は書斎で寝る」

琴葉は絶句した。

ほら、これだ。彼はいつもこの調子。話だってまだ終わっていないのに、また仕事に戻ってしまう。

もっとも、こんな夜更けに役所へ行けるわけでもないので、琴葉もわざわざ彼を引き留めはしなかった。

愛しい人と数日間も遊び惚けていたのだ。その分、残業して仕事を片付けなければならないに決まっている。

いっそ、仕事に忙殺されて倒れてしまえばいいのよ。

今夜寝室に戻ってこないなんて、むしろ願ったり叶ったりだった。

翌朝7時。琴葉が1階へ降りると、彼女の早起きを見た家政婦の鈴木幸子(すずき さちこ)が少し驚いた様子で声をかけた。

「奥様、おはようございます」

「おはよう、鈴木さん」

琴葉は微笑んで頷きながら、ダイニングの方へ視線を向けたが、そこにいるはずの人物の姿はなかった。

「彼はまだ書斎?」

幸子は答えた。「旦那様なら、今朝6時にはお出かけになりましたよ。今頃はもう会社かと」

「えっ?」

琴葉は呆然として目を丸くした。「普段は7時半頃に家を出るんじゃなかった?」

彼が出かける前に離婚の話をつけるため、わざわざ早起きしたというのに。

それが……6時に出かけただって?

本当に、そこまで忙しいというの?

……

結城グループ、社長室。

一睡もしていない碧斗は、デスクの前で静かに目を閉じて休んでいたが、不意に鳴り響いた着信音に邪魔された。

けだるげに目を開け、デスクの上のスマートフォンを横目で見た彼は、画面に「琴葉」の文字が光っているのを見て、途端に頭痛を覚えた。

仕方なく電話に出ると、すぐさま琴葉の声が聞こえてきた。「碧斗。1晩よく考えたわ。私の答えはやっぱり変わらない――離婚よ」

碧斗の端正な顔が険しく沈む。「今から会議だ。今日は立て込んでいる。その件は夜、帰宅してから話そう」

「……わかったわ。じゃあ、今夜は絶対に帰ってきてよね」

そう念を押して、彼女はようやく電話を切った。

スマートフォンを置き、碧斗は溜息をついて、指でこめかみを揉んだ。

しばらくして、特別補佐の高橋潤也(たかはし じゅんや)が、豪奢なギフトボックスを手に社長室へと入ってきた。

「社長。奥様へのプレゼントですが、オークションの主催者側から専属の配達員が届けてまいりました」

彼は碧斗を見て尋ねた。「今すぐ誰かに奥様のもとへ届けさせますか?それとも、ご自身でお持ち帰りになりますか?」

碧斗の視線がわずかに動いた。「そこに置いておけ。俺が自分で持ち帰る」

「承知いたしました」

潤也はギフトボックスを慎重にデスクの上へ置いた。

「ああ、それともう一件」彼は続けて報告した。「秘書室からの報告なのですが、社長の出張中、桑原グループの桑原社長が何度かこちらへお見えになっていたそうです」

それを聞いて、碧斗はふっと顔を上げた。「新エネルギー開発プロジェクトの件か?」

「その通りです」

社長の義父であるこの人物について、潤也は内心、心底呆れ返っていた。

桑原グループにはもともと大した実力などなく、この2年間、社長が裏で援助をしてきたからこそトントン拍子に業績を伸ばし、中堅以上の立ち位置にまで這い上がれたのだ。

社長が甘い汁を吸わせすぎたせいだろうか。そのせいで、彼はますます自分の身の程を忘れてしまっている。

新エネルギー開発のような、企業の資質や実力が厳格に問われる一大プロジェクトなど、それなりの実力を持つ上場企業でさえ候補にすら挙がらない状態だというのに、よくもまああんな男が自分も一枚噛めるなどと思い上がれたものだ。

全く、底なしの強欲としか言いようがない。

幸いなことに、社長は自分の原則を貫き、身内へのひいきなど絶対にしない人だ。

潤也が内心で毒づいていることなど知る由もなく、碧斗は徹夜で考え込んでも腑に落ちなかった問題の「根本的な原因」にようやく思い至っていた。

――離婚を言い出したのは、これが原因だったというわけか。

しばらく考えを巡らせた後、彼は潤也に命じた。「南岬開発プロジェクトだが、桑原グループに提携の企画書を送ってやれ」

潤也は驚愕して彼を見返した。「社長、桑原グループを南岬開発プロジェクトに参加させるおつもりですか!?」

これは新エネルギープロジェクトと並んで、今年の結城グループにおける最大の目玉プロジェクトなのだ。

以前、竜也もこのプロジェクトに食い込もうと画策したが、桑原グループは一次審査の段階であっさり足切りされていた。

「ああ」碧斗は潤也を一瞥し、その心を読んだように付け加えた。「俺の個人出資枠を、そのまま桑原グループに回せ」

潤也は驚きのあまり思わず声を上げた。「それだと、社長が身銭を切って桑原グループに株を持たせるのと同じじゃないですか!

社長、ただでさえ桑原家には十分に便宜を図ってこられました。回せる案件はすべて回してあげているのに、どうしてそこまでされるんですか?」

彼は社長の懐具合を本気で心配していた。

碧斗は淡々と答えた。「桑原グループには、俺の妻も株を所有している」

潤也はそれでも納得がいかず、小声でぼやいた。「それならいっそ、そのお金を直接奥様にお渡しした方がよろしいのでは……」

桑原グループに投資したところで、いくら奥様が株主だからといって、一体どれほどの配当が回ってくるというのか。

当然、碧斗もそんな理屈は百も承知だった。

だが、妻が自ら彼に何かを要求してきたのは、これが初めてのことだった。やり方自体には到底賛同できないが、彼女の顔を潰す気はなかった。

「俺の言う通りに手配しろ」彼は潤也に命じた。「今すぐだ」

「……承知いたしました」

潤也が退室した後、碧斗は疲れたように眉間を揉みほぐし、しばし息を整えてから再び仕事に没頭した。

彼は一度仕事に入り込むと時間を忘れるタチだったが、今日ばかりは違った。

碧斗は5時半きっかりに仕事を切り上げ、プレゼントを手にして御庭苑の自宅へと帰宅した。

……

家に着くと、幸子が出迎えてきた。「旦那様、お帰りなさいませ」

「ああ」

碧斗はリビングへ向かい、手にしていたギフトボックスをテーブルに置いた。「琴葉は?」

幸子は答えた。「奥様は午後にお出かけになられてから、まだ戻っていらっしゃいません」

――あいつの方から帰ってこいと言ったくせに、本人は出かけているだと?

「いつ帰ると言っていた?」

幸子は口ごもった。「……いえ、何も」

碧斗はソファに腰を下ろすと、幸子に顎でしゃくった。「電話して聞いてみろ」

幸子は目の前に座る気位の高い主人をまじまじと見つめた。

……え?ご自分でおかけになればよろしいのでは?

いつまでも動こうとしない幸子に碧斗が鋭い視線を向けると、彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、琴葉に電話をかけた。

「あ、もしもし奥様。いつ頃お戻りになられますか……えっ?外でお食事を済ませてからお戻りになるのですか?」

幸子は険しい顔で黙り込む主人の顔色をちらりと窺い、慌てて付け加えた。「奥様……旦那様はもうお帰りになっておりますよ。ご一緒に夕食をと、お待ちです」

後半の一言は、幸子自身の機転によるものだった。

碧斗は彼女をちらりと一瞥したが、咎めることもなく黙っていた。

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