『瑛斗とまだ婚姻関係にある』
その事実は、私を惑わせた。
私が家を出てから、すぐに瑛斗と玲は婚約した。
居場所が見つかり、実家に帰った私に母が「離婚前の妊娠だから戸籍上は瑛斗の子どもになる」と言っていたこと。 そして「瑛斗さんと血の繋がった子は私が産むから。今いる子も産まなくてもいいんだよ?」という玲の言葉。
(あの時の玲の目は殺意すら宿っていた…。玲は、慶と碧の存在を恐れていたの?だから、慌てて婚約をし、夫を守るという口実のためDNA鑑定を拒否した?もしそうなら、私や子どもたちの命を狙っていたのは瑛人ではなく、玲の仕業?)
しかし、なぜ瑛斗は離婚届を出さなかったのかは分からなかった。瑛斗は、玲の言葉を信じ、私との関係を解消したかったはずだ。彼の胸に、微かでも私への情が残っていたのだろうか。妊娠を知って跡継ぎだけでも早く欲しいがために婚姻関係だけは維持をして、形だけでも留めておきたかったのか……。
今まで命を狙うのは私との関係をすべて清算させたい瑛斗の策だと思っていたが、婚姻関係が続いているということは、瑛斗が仕向けたわけではなく別の人物の仕業と裏付ける一筋の希望にも見えた。
瑛斗の真意は分からないが、私との婚姻関係が続いているということは玲にとって最大の誤算だろう。玲の性格を考えると、瑛斗のことを独占したいはずだ。
分からないことも
華side父との電話を切った後、私の心の中で疑惑の渦が少し大きくなったのを感じた。(玲は、平日の昼間に実家に顔を出している?玲も仕事があるのに、平日の昼間に実家に行っているというの?護さんは、玲とは会っていないと話していたけれど、もし護さんが、玲が来る曜日に合わせて実家に出入りしていたら……。)護さんが以前、私に「玲とはもう何年も会っていない」と話していた言葉が頭の中で反芻される。しかし、玲は平日の昼間に実家へ行っているらしい。護さんは毎日、神宮寺家を訪れているわけではないので、必ずしも居合わせるとは限らない。この情報だけでは、護さんが嘘をついていると断定することはできなかった。そして、父から聞かされた話も私の心に重くのしかかる。『三上くんが、私が別荘を訪問した次の日に電話をくれたんだ。華と付き合っていることを本来ならすぐに報告すべきところを黙っていて申し訳なかったと言っていたよ。』護さんの真面目な性格につい笑みが零れたが、次の言葉で表情は硬直した。『真剣に付き合っていて、結婚も考えていて既に華にも伝えたと聞いた。それで、今までの事や、色々と問題もあるから、結婚を機に家族四人で暮らしたいと伝えられたんだ。場所も長野ではなく全然違う場所がいいとね。今の場所に何かトラブルでもあったのか?』結婚の返事をまだしていないことにしびれを切らした
華side月曜日、昼休みの時間帯を見計らって父に電話を掛けた。この時間なら仕事で会社にいるため、継母や神宮寺家の人間に会話を聞かれることはないと思ったからだ。「この前は、子どもたちにお祝いをありがとうございました。ランドセルや入学準備などに使わせてもらいますね。ご迷惑でなければ写真を送ってもよろしいでしょうか?」「ありがとう。楽しみにしているよ。あの子たちは、私の孫には変わりないからな……」少し戸惑いながらも受け入れようと言い聞かせているようにも聞こえる口調で、父は答えた。父としては複雑な心境だが、それでも子どもたちのことを認めてくれたことがとても嬉しかった。「みなさん、お元気ですか?おじいさまの体調はいかがですか?」「大丈夫だ。薬は飲んでようだが、元気にやっているよ」父の言葉は、以前護さんが話してくれた時と一致している。私は、わずかな手の震えを抑え、小さく深呼吸をして呼吸を整えてから、一番聞きたかったことを尋ねた。「それなら良かったです。あの、玲とはよく会っていますか?家に来ることはあるのですか?」父は、一瞬だけ沈黙した。その沈黙が私の心臓を強く締めつけた。
華side「華、この近くに湖があるそうなんだ。少し散歩してから帰らないか」店を出た後、護さんはそう言って湖へと車を走らせた。車の中はいつもよりも静かで、少しだけ重苦しい空気が流れている。護さんの口数は少なく、私は窓の外を流れる景色をただ眺めていた。「足元、少し歩きにくいから気を付けて」湖畔に到着し車を降りると、護さんがドアを開けて手を差し伸べてくれる。その手に重ねて、私たちはゆっくりと湖畔を歩き始めた。「さっきの華からの質問にはビックリしたよ。まさか、あのタイミングで変なメールを見られるなんてさ。でも、嬉しかったな」さきほどの表情とは打って変わって、陽気におどけた様子で言ってくることが信じられない。そして、どこに嬉しいと思う場面があったのか、私にはさっぱり分からなかった。「え……?」「だって女性かどうか聞くのも、僕が他の女性と浮気とか親しい関係にあるんじゃないかと心配したということだろう?華が嫉妬してくれるなんて、なんだか嬉しいよ」(嫉妬……?)『浮気を疑われることは、相手の嫉妬心からくるもの』という解釈に、私の頭は追い
華side「ああ、これは産科の先生からのメールだよ」「産科の先生?先生とこんなメールをやり取りするの?それに、護さんは神宮寺家の専属医じゃないの?」「もちろん神宮寺家の専属医が本職だ。しかし、今は診る人も少ないからね。僕は、産科の医師でもあるから、知り合いの個人病院で臨時医として契約しているんだ。学会とか予定が入った時は代わりに診察したりするんだ。華のお父さんも知っているよ」「先生とのやり取りにしては、親しい間柄に見えたけど」「昔からの付き合いだからね。火曜日、研修で代理を頼むかもしれないって言っていたから、その返事だよ。行けることになったって」「そうなの。それなら、なんでイニシャルで登録しているの?私も他の人もフルネームで登録していたじゃない」私の問いに、護さんの目が泳いだ。「それは……登録する時に先生が自分で入れたんだ。イニシャルの方が誰か分からなくて面白いって。まあ、そんな登録しているのは一人だけだから、すぐに分かるんだけどね」護さんの話を聞いても、腑に落ちなかった。(イニシャルでわざわざ登録する?護さんは几帳面だから、もし相手が好き勝手に登
華side「うん、前菜もスープも美味しいね!……華、どうした?さっきから元気がないみたいだけれど」さきほどのメールが気になり、目の前の料理に集中できずにいたのに気がついたのか、護さんは、私のことを心配して顔を覗き込んできた。「あ、ううん。何でもない。スープが美味しくて、どうしたらこんな味が出せるか考えていたの。護さんは前菜のソース、どちらの方が好き?」私は慌てて誤魔化したけれど、このままじゃいけない気がした。(……このままでは駄目だわ。何も聞かずに疑惑を抱えたまま護さんと結婚は出来ない。もう親の都合なんてないんだから、私の意思で結婚も決める!)目の前にある温かいスープをじっと眺めていた。この温かさが、嘘によって冷めてしまうかもしれない。そう思うと胸が苦しかった。しかし、もう後悔はしたくない。私は意を決して、護さんにメッセージの件を尋ねた。「護さん、さっき車の中で店のホームページを見ていたらメッセージが届いて。見るつもりはなかったんだけど、通知画面に本文が表示されて見てしまったの。Rって誰?」「え、華?待って。メッセージってなんのことだい?」私の言葉に、護さんの笑顔が消えた。
華side『R:火曜日、そっちに行けるわ』護さんのスマホに表示されたそのメッセージを見て、私の心臓は一瞬で凍りついた。そして、私の頭によぎったのは玲(Rei)だった。もちろん、私が知らない人の可能性もある。しかし、わざわざローマ字一文字だけで登録するのは、名前を知られたくないからではないかと勘ぐってしまう。そして、文面も仕事関係の人から送られてきたものとは思いにくかった。瑛斗が、「三上と玲が会っているかもしれない」と言っていた言葉を思い出す。私は、全身の血の気が引くのを感じた。(もしかして、護さんは玲と会おうとしているの?瑛斗の言ったことは、本当だったの……?玲じゃなかったとしても、Rって誰?)メールに動揺して、スライドする指を止めてしまった私を、護さんが不思議そうに見て尋ねてきた。「華?どうかしたのか?」「ううん、なんでもない。写真が美味しそうで、思わず見入っていたの」私は、声が震えないように、表情が固まらないように必死で平静を装った。「そうか、楽しみにしてくれているならよかった」