エレベーターに乗りながら三上は今日の一連の出来事を振り返っていた。
(……もしかして華ちゃんは妊娠のことを誰にも話をしていない?)
夫の瑛斗と共に会社を経営している空という男性が私の元へ来て、華の様子を聞いてきた。
「この書類は本当か?華さんは妊娠しているのか?」
探偵でも雇ったのか、見せられた写真には盗撮でもしたような距離感でお腹の大きくなった華が映っていた。そして、コピーだろうが妊娠が分かった時に華に渡した妊娠報告書も持っている。その只ならぬ様子に驚き、空がどこまで把握しているか確かめることにした。
「この書類や写真はなんですか?本人が知らないところで撮ったように見えますが。」
「そんなこと今は関係ない。この書類が事実かどうかだけ答えてくれればいい。」
妊娠が分かった翌日に華から電話が来たときの事を思い出した。
(双子を一人で育てることは可能か?そう言っていたが、あの時既に夫婦関係は破綻していたのでは……そして妊娠を告げずに去ったのか?)
「……患者のプライバシーに関することなのでお答えできません。そのような書類も誤解を与えるといけませんので返してください。」
「
「これって華さんと神宮寺家の専属医だよね?なんかこの二人……」空が言おうとしていた言葉を俺は必死で制した。彼の口からその言葉が出れば、俺の中に残っていたわずかな希望が完全に打ち砕かれてしまいそうだったからだ。「言うな、それ以上言うな……!」俺の剣幕に、空は何も言わずに俺の顔をまじまじと見つめた。沈黙が数秒流れ、ふっとため息をついた。「だから瑛斗は元気がないんだ。華さんが、まさか瑛斗の迎えを待っているとでも思っていたの?」鋭い指摘に俺は思わず動揺した。図星を突かれたように感じ、慌てて否定する。「そ、そんなわけないだろう」だが、声は上ずっていた。空は俺の狼狽を見ても表情を変えず、再び写真に目を落とした。「でも、この写真でよく分からなくなったね。華さんは、実家とは絶縁して誰も行方を知らなかったはずだ。なのに、専属医が彼女の居場所を知っているって不自然だと思わないか?」俺が華の幸せそうな笑顔と、その隣にいる三上の存在に混乱している中、空は冷静に状況を分析していた。空は常に論理的で、感情に流されることはない。その冷静さが、今の俺には眩しくもあり、同時に胸を抉るようでもあった。
「華さんが見つかったかも、って喜んでいたのに、なんで瑛斗はそんなに元気をなくしているの?もしかして別人だったとか?」探偵からの報告を聞いてすぐに俺は抑えきれない興奮のまま空に連絡をした。空は、仕事の合間を縫って俺の元へ駆けつけてくれたが、俺の意気消沈した姿を見て戸惑いを浮かべていた。「これ……」俺は力なく、ただ黙ってスマホの画面を渡した。空は、ゆっくりとスクロールし画像一枚一枚を丁寧に確認しているようだった。俺の視線は、空の指の動きに合わせて、再び写真へと引き寄せられる。華と子どもたちの穏やかな日常。遠目からでもわかるあの幸福そうな雰囲気。「これ、どう見ても華さんだよね?」空の声に、かすかな驚きと確信の色が混じっていた。「ああ、華で間違いないと思う。住所も分かった」俺がそう答えると、空は「え……」と小さく声を漏らした。三枚目、そして四枚目の写真を見たところで、全てを察したようだった。空の顔には眉間に深い皺が刻まれ、その表情は一瞬にして硬くなる。四枚目に送られてきた写真は、カフェらしき場
探偵から興奮気味に電話がかかってきたのは、あの長野での出張から二か月が経過した頃のことだった。「社長!調査対象の条件に非常によく似た人物と、双子のお子さんがいるご家庭を見つけました!現在、ご自宅を特定し写真数枚と場所をデータでお送りします!」探偵の声は、喜びと達成感に満ちており、その興奮が受話器越しにひしひしと伝わってくる。「分かった、ありがとう。すぐに頼む」俺は震える声でそう伝え、電話を切った。もしかしたら華にまた会えるかもしれない。今度こそ、華とちゃんと話ができるかもしれない。数年間、探し続けても見つからなかった華の姿を捉えたかもしれない、そう思うと、胸が高鳴り心臓が波打つように高揚して落ち着かなかった。ピコンーー数分後、メールの受信を告げる着信音が鳴り響き、急いで写真を確認する。盗撮のため画像は少し荒かったが、そこに写っている女性は、紛れもなく俺がずっと会いたかった相手――華だった。柔らかな横顔や目元のホクロは、間違いなく華だ。次の写真には庭で無邪気に遊ぶ小さな子どもたちと、それを見守り優しい眼差しで微笑みあう姿があった。華が住む家は、都会の喧騒から離れた人里離れた山奥にある別荘だった。周囲は豊かな自然に囲まれ、穏やかな空気が流れているのが写真からも伝わってきた
「そっか!パパ、お空にいるんだ!」「パパー、見えてる?けいくんとあおちゃんだよー」子どもたちは護さんの言葉を素直に受け入れたようで、無邪気に空を見上げ手を振っていた。その姿を見て、私は胸が締め付けられた。子どもたちが寝て護さんと二人になった後、昼間のことを尋ねてみた。「護さん、どうしてあの子たちに、パパは『お空にいる』って言ったの?本当は、瑛斗はまだ生きてるのに……」護さんは悲しそうな瞳をしながら真っ直ぐに私の目を見つめている。「華ちゃん、嫌な思いをさせたならごめんね。でも、僕は、慶くんと碧ちゃんが真実を知って悲しむようなことはさせたくなかったんだ。それに、もう二度とあの男と会うことはないのだから、問題ないだろう?」護さんが言うように瑛斗と子どもたちが会う可能性は限りなくゼロに近い。しかし、それでも生きている人間を死んだことにすることには抵抗と違和感を覚えた。戸惑っている私の手を取り、護さんは隣に座るように優しく手を差し伸べる。導かれて隣に座ると力強く抱きしめられた。髪を優しく撫でながら切なそうに言葉を絞り出した。「それにね、子どもたちだけじゃなくて華ちゃんも悲しかっただろう。華ちゃんにも悲しい過去を思い出させる
「ねえ、ママ。どうしてパパがいないの?」ある日の夕食時、慶が素朴な疑問を投げかけるように澄んだ瞳で私を見上げた。隣で食事をしていた碧も、フォークを止めて私に視線を向けた。「けーくんとあおちゃんのパパはどこ?」私は一瞬言葉に詰まった。子どもたちにどこまで話すべきか。まだ幼い彼らに残酷な真実を伝えるには早すぎる。だが、嘘をつくこともしたくなかった。私はゆっくりと言葉を選びながら説明しようとした。「パパね、ママとはちょっとお話し合いをして今は別々に暮らしているの。でも、慶も碧もパパにとって大切な子どもたちだよ」私がそう言いかけたその時、横に座っていた護さんが明るい声で話題を変えた。「慶くん、碧ちゃん、今日は幼稚園で何が一番楽しかった?護さんに教えてくれるかな?」子どもたちは護さんの問いかけにすぐに飛びつき、先ほどの質問を忘れたかのように楽しかった出来事を話し始めた。護さんはにこやかに二人の話を聞き、相槌を打ちながら、ちらりと私を見た。その目には「それでいいんだ」というメッセージが込められているように感じた。しかし、その場は収まったものの、数日後、同じような質問が再び投げかけられた。今度は、私と護さんがリビングでくつろいでいる時だった。「ねえ、ママ?パパはいつ帰ってくるの?」碧が、純粋な好奇心から尋ねた。私が再びどう説明しようかと考えていると、護さんがすぐに口を挟んだ。彼の声は絵本を読み聞かせるように穏やかで優しい。「慶くんと碧ちゃんのパパはね、今はお空にいるんだよ。お空から慶くんと碧ちゃんのこと、いつも見守ってくれてるんだ」その言葉を聞いた瞬間、私の心にごくわずかな引っかかりが生まれた。(……瑛斗は、生きている。 それなのに護さんは「お空にいる」と説明するなんて。)瑛斗の存在を、子どもたちに記憶させないように、そして私の人生から完全に排除しようとしているかのように感じられた。
長野での生活も4年が経過して、子どもたちはこの春から近くの私立幼稚園に通い始めた。朝、小さな手を引いて幼稚園バスを見送るたびに胸いっぱいの喜びが込み上げてくる。瑛斗との結婚生活での苦悩は、遠い過去の出来事のようだった。別荘の大きな窓からは、朝日に輝く新緑が目に飛び込んでくる。澄み切った空気の中で、鳥のさえずりが心地よく響いた。毎朝、私は慶と碧を起こすことから一日が始まる。護さんは休みの前夜から別荘を訪れるようになり、休みの日の朝は、私たちと食卓を囲むようになっていた。「華ちゃん、慶くん、碧ちゃん、おはよう!」護さんが優しく声をかけると子どもたちは笑顔で護さんに駆け寄る。彼は二人の頭を撫で、温かい笑顔を向ける。その姿はまるで本当の父親のようだった。「今日は幼稚園で何するの?」護さんが慶に尋ねると、慶は目を輝かせながら「ねんど!」と答える。碧はまだ眠そうな顔をしながらも、護さんの膝の上にちょこんと座り黙ってパンをかじっていた。護さんはそんな碧の頭を優しく撫でながらコーヒーを一口飲む。この何気ない朝の時間が、私にとって何よりも大切な宝物だった。朝食後、護さんは子どもたちの幼稚園の準備を手伝ってくれてる。上着を着せたり、靴を履こうとする二人を辛抱強く見守る。「行ってくるねー」