ログイン不老技術が完成してから千年。人類は死を克服し、永遠を手に入れた。しかし皮肉なことに、「終焉士」という職業が生まれたのもその後だった。 終焉士アキラは、500年間で一万人以上の死を見届けてきた。彼らは皆、永遠に疲れ果てた者たちだ。 ある雨の日、3247歳の老女ユキコが訪れる。彼女が語ったのは、3000年の壮大な人生ではなく、たった5分間の記憶。雨の竹林で、夫と分け合った傘の下の、永遠よりも重い瞬間——。 永遠に生きることの虚無。有限だからこそ輝く一瞬。そして、答えのない問いを抱え続けることの意味。 なぜ人は生まれ、生き、そして死ぬのか——。
もっと見る終焉士アキラの事務所は、都市の最上層、雲の間を縫うように建つ塔の一室にあった。窓からは永遠都市の光景が見渡せる。透明な管状の交通路が幾重にも重なり、その中を無数の人々が流れていく。地上から三千メートル。ここから見下ろせば、かつて地表と呼ばれた場所は霧の向こうに霞んでいる。
不老技術が完成してから千年以上が経ち、人類は死を克服した。病も老いもない。事故で肉体が損傷しても、記憶をバックアップから復元すれば、新しい身体で目覚めることができる。量子レベルで記録された意識は、理論上、宇宙が終わるまで存続可能だ。
人間は、ついに永遠を手に入れたのだ。
しかし皮肉なことに、終焉士という職業が生まれたのもその後だった。永遠を生きることに疲れた者たち、意味を見失った者たち、ただ終わりを求める者たち。彼らのために、この職業は存在する。
アキラは窓際の椅子に座り、雨を眺めていた。人工気象制御システムによって降る雨は、かつての自然な雨とは異なる。分子構造まで最適化され、建物を傷めず、大気を浄化し、心理的効果まで計算されている。それでも、雨は雨だった。窓を打つ音は、千年前と変わらない。
扉がノックされた。
「どうぞ」
扉が開き、一人の老女が入ってきた。外見年齢は80歳ほど。深く刻まれた皺、白髪、わずかに曲がった背中。不老技術を受ければ誰もが20代の肉体を保てる時代に、彼女はあえて老いた姿を選んでいた。
「失礼いたします」
老女の声は静かで、しかし明瞭だった。アキラは立ち上がり、深く一礼した。
「ようこそ。お名前をお聞かせ願えますか」
「ユキコです。ユキコ・タナカ。3247歳になります」
アキラは静かに頷いた。3000年以上生きた人間。彼らは「最初の世代」と呼ばれる。不老技術が実用化された初期に、それを受けた人々だ。人類史上最も長い記憶を持つ生き証人たち。
「こちらへどうぞ。楽な椅子をお選びください」
事務所には様々な椅子が置かれていた。硬いもの、柔らかいもの、背もたれの高いもの、低いもの。来訪者は無意識のうちに、自分の人生を象徴する椅子を選ぶ。ユキコは迷わず、窓際の古風な木製の椅子に座った。
「お茶は?」
「ありがとう。緑茶を」
アキラは丁寧に茶を淹れた。湯温、抽出時間、すべてが計算されている。しかしそれは機械的な正確さではなく、茶道の精神に基づいた「一期一会」の心だった。この所作もまた、儀式の一部だった。
終焉士の仕事は、死を選んだ人々の最期の物語を聞き取ること。そして、その記録を永久保存庫に納めること。
人は死ななくなったが、死ぬ権利は残された。ただし一つだけ条件があった。自分の人生を物語として語り、それを記録に残すこと。これは「最終物語法」と呼ばれる法律によって定められている。永遠を生きる社会において、死は最も重大な選択だ。その選択の理由を、後世に残さなければならない。
アキラは湯呑みをユキコの前に置いた。立ち上る湯気が、窓からの光を受けて輝く。
「準備はできていらっしゃいますか?」
アキラは静かに尋ねた。この問いは単なる確認ではない。心の準備、覚悟の確認、そして最後の迷いを吐露する機会でもある。
ユキコは微笑んだ。皺の刻まれた顔に、穏やかな光が宿る。
「ええ。3000年間、この日のために生きてきたようなものですから」
アキラは記録装置を起動した。量子記録システムが静かに作動を始める。これから語られるすべての言葉、表情、息遣い、間、感情の微細な変化まで、すべてが記録される。
「それでは、始めましょう」
さらに1000年後。 人類は、再び転換点を迎えていた。 新しい技術が開発された。意識を完全にデジタル化し、仮想空間で永遠に生きる技術。肉体を捨て、純粋な情報として存在する。 多くの人が、その技術を選んだ。 しかし、ある割合の人々は、拒否した。 なぜか。 彼らは言った。「私たちは、有限でありたい」と。 その運動の中心にいたのが、一人の哲学者だった。彼の名前はケンジ。 ケンジは、古い記録を引用しながら、人々に訴えた。「3000年前、アキラ・サトウという終焉士がいた。彼は1500年生きて、11,079人の死を見届けた。そして、彼は最後まで問い続けた。『なぜ人は生きるのか』と」 ケンジは続けた。「彼の記録の中に、こんな言葉がある。『雨が止んだら、どこへ行こうか』。この問いの意味を、私たちは考えなければならない」 聴衆は静かに聞いていた。「雨はいつか止む。それが有限性だ。そして、止んだ後にどこへ行くかを選べる。それが自由だ。しかし、雨が永遠に降り続けたら? あるいは、雨という概念そのものがなくなったら?」 ケンジは間を置いた。「永遠に生きることは、その問いを奪う。すべてが可能になる世界では、選択は意味を失う。どこへ行こうと、同じだからだ」 彼は聴衆を見渡した。「私たちは、有限でなければならない。終わりがあるからこそ、始まりがある。死があるからこそ、生がある」 ケンジの演説は、多くの人々の心を
それから1000年後。 人類は、ついに不老技術を放棄した。 それは突然の決断ではなかった。数百年かけて、徐々に、社会的コンセンサスが形成されていった。 永遠に生きることの虚しさに、多くの人が気づいたからだ。 終わりのない人生は、始まりも持たない。意味も、価値も、美しさも、すべて有限性の中にこそある。 人間は、再び死すべき存在となった。 平均寿命は150年に設定された。十分に長く、しかし永遠ではない。人生を二度、三度生き直せるほどの長さ。しかし、いつかは終わりが来る。 そして、終焉士という職業も、消えた。 もはや必要なくなったのだ。誰もが、自然に死を受け入れるようになったから。 しかし、記録は残った。 永久保存庫には、数百万の物語が眠っている。永遠を生きた者たちの、有限だった頃の記憶。 その中に、一つの記録がある。「アキラ・サトウの物語」 彼は結局、死を選ばなかった。 1500年生きて、自然に消えていった。不老技術が放棄された後も、彼は記憶を保持し続け、すべての痛みと喜びを抱えて、最後まで生きた。 彼の最後の言葉は、記録に残っている。 それは、彼が最期を迎える数時間前、窓辺で呟いた言葉だった。「雨が止んだら、どこへ行こうか」 その言葉の意味を、当時の人々は誰も理解できなかった。 でも、記録は残った。
それから10年が経った。 アキラは、終焉士を続けていた。記憶を消すことはやめた。すべてを覚えている。痛みも、喜びも、10,247人の死も、アヤの笑顔も。 重い。とてつもなく重い。朝起きるたびに、その重さに押しつぶされそうになる。 でも、生きている。 そして、不思議なことに、その重さが、彼を生かしていた。 記憶の重みが、一瞬一瞬に意味を与える。今日という日は、二度と来ない。だから、大切にしなければならない。 アキラは、10年間で832人の死を見届けた。合計で11,079人。 しかし、数は問題ではなかった。一人一人の物語が、彼の中に生きている。 ある雨の日、新しい訪問者が事務所を訪れた。 若い女性だった。外見年齢は25歳ほど。長い黒髪、大きな目、どこか不安そうな表情。「失礼します」「どうぞ」 アキラは立ち上がり、彼女を迎えた。「お名前は?」「ミサキです。ミサキ・ヤマダ。125歳です」 125歳。若い。とても若い。「終焉士の予約をしたいのですが」「椅子をお選びください。お茶は?」「コーヒーを」 アキラは丁寧にコーヒーを淹れながら、彼女を観察した。 彼女の目には、深い疲労があった。125年という時間は、彼女にとって十分すぎるほど長かったようだ。「おいくつで不老
ユキコが去った後、アキラは長い時間、窓辺に立っていた。 虹は既に消えていた。でも、その余韻が空気の中に残っている気がした。 彼は、ふと思い出した。アヤと一緒に見た虹のことを。 それは結婚して2年目の夏だった。二人で海辺を歩いていたとき、突然の雨に降られた。近くの東屋に逃げ込んで、雨が止むのを待った。 雨が上がったとき、空に大きな虹がかかっていた。 アヤは言った。「ねえ、虹って不思議よね。雨と太陽がないと、生まれない」 アキラは頷いた。「そうだね」「悲しみと喜びが一緒にあるから、美しいのかもしれない」 アヤはそう言って、アキラの手を握った。「私たちの人生も、きっとそうよ。楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。でも、両方があるから、美しいんだと思う」 その時、アキラはアヤの言葉の意味を完全には理解していなかった。 でも、今ならわかる。 人生は、喜びと悲しみの両方で成り立っている。どちらか一方だけでは、完全ではない。 永遠に生きることは、その喜びと悲しみのバランスを壊す。すべてが平坦になり、すべてが当たり前になり、すべてが色褪せる。 でも、有限な時間の中では、一瞬一瞬が輝く。 アキラは記録端末を開いた。そして、新しいファイルを作成した。 タイトルは「未来の私へ」。 彼は書き始めた。「未来の私へ これは6回目の手紙です。あなたは、また記憶を消